第2章(11)/6
カバンの中で携帯電話が鳴り出したのはちょうどそのときだった。
拍子抜けのような、間ができたおかげで救われたようなタイミングだった。画面には番号と名前が出ている。小暮社長だ。真二は通りの脇について通話ボタンを押した。
「青島、今どこにいる」
間違いなく、語調に怒りが込められている。真二は力の抜けた声で、駅の前です、とだけ答えた。会社に遅刻し、さらには小暮の雷を食らおうとしているところなのにもかかわらず、何でこんなに気のない返事が返せるんだ?、と自分でも不思議だった。
「20分の遅刻だぞ。もう会議が始まる。分かってるのか!」
「すいません。今すぐ向かいます」
「ほんとに分かってるのか?急げよ、もうこれ以上予定の延長はできないんだ。あと10分以内に来なければ今日の会議は中止になるぞ」
切れた電話をカバンにしまって、真二は『ブルボン』のあるほうを見た。駅前の通りはいつもどおりたくさんの人であふれていて、次々と行きかう人々の影が真二の視界を奪った。あの人ごみを押しのけて、進まなければならない。真二にはそれがひどく億劫に思えた。できることなら帰ってしまいたかった。家に帰れないなら、どこか遠くの場所に行ってしまいたい。そうすれば全てが嘘だったことになるんじゃないか。
カバンのチャックを締め切り、真二は向うの角へと向けて、1歩ずつ歩き出した。横から追い抜いてくる人や、ぼうっとしているせいだろう、2,3人にぶつかりそうになりながら、おぼつかない足取りで進んだ。目指す喫茶店の輪郭が、5階建てビルの陰から少しずつ覗いてくる。
そのとき、またもや携帯が鳴った。真二は足を止めて、さっきしまったばかりの携帯電話を取り出した。本当に『ブルボン』に向かう覚悟ができているなら電話に出なければいいのにな、とを思いながらも、点滅しているボタンに指を乗せた。
「竹田です。青島さん、今どこにいるんですか?」
真二がよく一緒に飲みに行く部下だった。押し殺したような声で話している。おおかた、大会議室の中にいて、大きな声を出すのをはばかっているのだろう。横須証券本社ビル6階にある大会議室は最大で300人を収容することのできる階段作りになっている。今朝は、本当なら今頃真二が壇上に立ってプレゼンテーションをしているはずの場所だった。会社の経営方針や、経済論について述べるプレゼンテーションで、もちろん小暮や橋本副社長を含めて重役も多く出席している。主役となる当の本人が欠場している会議室の中は、今頃険悪なムードと焦りとで満ち満ちているはずで、竹田が声ををひそめたくなるのもよく分かった。




