第2章(10)/6
昨日、あの後どうやって寝たのか真二は思い出すことができなかった。気づいたらベットの中で横になっていて、目覚ましをかけるのを忘れていて好子に時間だと言って起こされ、急いで朝食をかっ込み、家を出て、3番線の電車に飛び込んでいた。1分1秒が勝負となる職場にいて、遅刻など普段ならありえない話だった。そうして、あせりと苛立ちに挟まれて満員電車の中で苦闘しているうちは良かった。電車から降り、蒸しかえる熱気にあふれた人の海から解放され、同時にすべてのことを鮮明に思い出した真二は、内ポケットの中に入っているはずの手紙を思い出して、頭の真に冷風を吹きかけれたような感覚に襲われ、ホームを流れる人ごみの中で一瞬立ち止まりそうになってしまった。
忘れる以外に、手はない。
乗り換えた電車の中で真二は自ら結論を出し、その結論を自分に言い聞かせていた。いまさらくよくよ後悔してみたってただ単に苦しみを引きずっていくだけだ。手紙を持っていったって美穂ちゃんが戻ってくるわけでもないし、兄貴達は娘がひどい目にあったことを知っても決して喜ぶわけじゃない、むしろ希望が断ち切られているという事実を突きつけられて落胆するだけだ。捨ててしまうに越したことはないのは分かっている。分かっているのなら迷う必要なんてない。駅でも会社でも路上でもいい。さっさとこの手紙を、真二の近くの人間に悟られないような場所に捨ててしまうんだ。
けれど、さっさと処分しようとしてあせっている意思に反して手がポケットの中の手紙へと伸びていかないのは、ぎゅうぎゅう詰めの社内で体を動かせないためだけではなかった。
車窓から、すっかり青く晴れ渡った空が覗いていた。林立するビルの頭越しを雄大に広がっていく空の景色は、この青い壮観な眺めがはるか遠くの場所にまでつながっていることを教えててくれていた。そして同時に、どこかで監禁されているか、それか、既に命を落としている美穂ちゃんの頭上にも、同じように空が広がっているということを真二に見せつけていた。
真二はつり革をつかんでいた手を握り締めた。この手紙を送りつけてきたのが誰か、それさえ教えてくれるんだったらどんなことだってしてやろう。そいつを警察に突き出しさえすれば、全てが解決するのだ。
行くしかないのかもしれない、と真二は口中につぶやいた。相手は真二と合おうと要求している。なら、手紙に記載されている待ち合わせ場所、『ブルボン』に行ってこちらに相手と交渉をする意図を示しさえすれば、もしかしたらもう一度コンタクトを取ってくるかもしれない。相手が何故こうまでして真二を呼び出そうとしているのか、それだけでも分かれば。
どうして俺はこんなことに巻き込まれているんだろう。いまさらのように、真二は思った。
電車のアナウンスから会社の最寄り駅に着いたという声が流れた。
途中何度も人とぶつかりそうになりながら、足音と電子音か飛び交う駅の中を真二は呆然と歩いていた。昨日までは騒がしいだけ、煩わしいというだけだったはずの場所なのに、今日はそこに自分だけがのけ者にされたような疎外感がある。改札を抜け、『ブルボン』のある角に目を向けながらぼんやりとそんなことを思った。




