第2章(3)/6
小暮はこちらには見向きもせずに、ここに置いておいてくれとつぶやくように言った。真二は言うとおりにしてから「そろそろ次の会議が始まりますが」と知らせて扉の前に引き下がった。小暮が何も答えずに黙々と書類に向かっているので、真二は仕方なしに待って部屋に両脇に飾られた蜀台や陶器やらの骨董品を眺めていた。これらはみんな小暮が趣味で集めて飾っている物で、なかにはそれなりの値が張るものもあると聞いていた。最初のうちは、忙しい中でどうやってこれだけの物を集めたのか不思議でならなかったが、話を聞いてみるとこれらは全て亡くなった事業家の父親から受け継いだ物らしい。仕事場にこんな物を持ち込むなんて普通では考えられなかったが、小暮はこれがないと逆に落着かないらしく、真二にはそれがどうも理解できなかった。
時計はもう4時45分を指している。さすがにそろそろ会議に向かわなければまずいんじゃないか、と思った時に机の上でタイマーが鳴った。
「じゃあ、行くか」
小暮は机の上の書類を調えながら立ち上がった。やれやれ、だ。マイペースなのもいいが少しは急ぐようなそぶりをしてくれないとこっちだって不安になってしまう。
小暮は机の中を覗きながら、突然思い出したように言った。
「ちょっと用意する物があるから先に行っていてくれないか」
「時間は大丈夫ですか?」
小暮は空返事にああ、とつぶやくと机から何かを探そうとしだした。
「分かりました」
不承不承、真二は部屋を後にして先に25階の会議室へと向かった。
疲れていた。一人廊下を歩いていると何かがのしかかったように体が重く感じられ、真二はふとため息をついた。目的の場所があって歩いているはずなのに、自分がどこを歩いているのかが分からなかった。一瞬仕事から離れると、たまっていた疲れや憤りが一気に体へ押し寄せてくるということが時々ある。そういうのはたいてい朝電車に乗り込む前だとか出社する直前ということが多いのだけれど、仕事中にも無いというわけではなかった。
自分が一体何のために働いているのか、分からなくなる。
当然理由はあるのだ。家族を養わなければならないし、金はあるだけあったほうがいい。それにこの仕事に対して感じているやりがいだってあった。それでも、そんなものに価値があるのか、と問いたくなる時があるのだった。
「価値」や「意味」なんて、突き詰めていけばどんな物にも存在しない。特に絶対的な尺度として位置づけられるような物などこの世のどこにもありはしないし、それらはあくまで人間が後付けした物なのだ。そこにあるのは「欲望」だけだ。それが真二の持っている、人生に対する考え方だった。
そもそも物事の価値を探す、意味づけをするという行為こそが、欲望に根ざした人間の行動に過ぎないのだ。だから真二は、人生にはこうこうこういう意味があるのだと人前で恥ずかしげも無く語っている宗教家の連中や、自分はこの世の仕組みを全部理解していると鼻高に言うような人間が大嫌いだった。この世のあらゆる憎悪を込めて憎んでさえもいた。そして、憎しみを感じずにはいられない自分の心の中の欲望に苦しむのだった。
けれどもそう考えた時に、果たして自分が今の生活を本当に望んでいるのかという問いにかち当たるのだった。自分が働くことの「価値」、それは金に対する欲求、達成感を味わいたいという欲求、家族を養いたいという欲求、そして家族をほっぽて周りの人から非難を浴びたくないという欲求、世間体を守りたいという欲求・・・数え上げていけばきりが無いが、これらの欲求を満たすことだった。しかしそれ以上に、休みたいとか、楽をしたいという思いが膨れ上がることがある。二通りの欲望に、板ばさみにあうのだ。どちらかをとればどちらかが苦しみとなって押し寄せてくる。二つをとることはできない。逃げ道も無い。あることはあるが、それはすなわち死ぬということだった。欲望の波に押されて崖から落ちてしまった時に死はやって来るのであり、真二は自分が崖っぷちに立っていることを自覚していた。
いつの間にか真二は会議室の前に立っていた。中からは誰かの話し声が聞こえていた。部屋に入ると、橋元と谷屋が椅子に座ってなにやら議論を交わしていた。




