第1章(12)/4
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7月8日
8時35分。ようやく全てのテストが終わった。一輝は気がぬけて大きなため息をついた。窓の外を見ると、外はもうネオンサインでいっぱいになっていた。
昨日、学校の近くで通り魔が現われたらしい。今朝のホームルームで藤村先生がそんなことを言っていた。
「場所は○○駅から少し離れた所の裏道だ。被害に遭ったのは3年生の生徒で、その生徒は自転車通学で家に帰る途中のことだったそうだ。電車を使って通学している人はそっちにいくことはないとおもうが、一応全校生徒に注意を促す必要があるということで、その通り魔の特徴と保護者への説明を書いた手紙を配る」
渡されたプリントには通り魔の格好と、顔の特徴がのっていた。顔は正面ではなく、後ろから見た大体の髪型だった。その通り魔が後ろから襲ってきたので、被害者の生徒は後ろから見た格好しかわからなかったそうだ。
「同じような事件が先月からも何回か起きている。電車通学の人は近くに行かないから、といったが、いつどこでまた通り魔が出るかわからないのでみんな十分に注意すること」
偶然だが、事件の起きた現場は一輝が学校から塾に行く途中にいつも通っている場所だった。もちろん昨日の朝の時点では一輝にはそんな事知る由もなかったのだけど、心当たりのある場所があったので実際に行って確かめてみたら、そこに通り魔事件があったことを告げる看板が立っていたのだのだ。今日塾に来る途中のことだった。
場所はビルと飲食店の間の、幅が2メートルぐらいしかない長さ50メートルほどの暗い裏道だ。普段の人通りはほとんどなく、もっぱらこの道に面する飲食店「水樹亭」が後で捨てるごみや空き瓶などを置いておくスペースに使われていたのだけれど、最近になって市川中学高等学校の生徒が夕方ごろ頻繁に通るようになった。というのも、やはり最近○○駅から1kmの所に昭栄学院という塾の支部ができて、市川中学高等学校の生徒がそこに通うようになり、彼らがここを近道として使うようになったからだった。
昨日吉沢たちは同じところを通って駅に帰ったはずだ。あいつらはいつも塾帰りに近くで遊んでいくのでいつも帰りが遅いし、確かに一輝と最後に別れたときもゲーセンの方向に向かっていた。吉沢たちが事件後の現場を見ていないんだから(SHRの後に聞いてみたら見ていないといっていた)、通り魔が現われたのと襲われた生徒があそこを通ったのは、吉沢たちが帰った時刻よりもっと遅かったということになる。おそらくは10時前ごろだ。
「帰ろうぜ青島」
はっとして後ろを振り向くと、岸田が肩にカバンを提げて立っていた。
「どうだったテストは」
「聞いてくれるな」
岸田はおいおいと言って笑った。
「引越しとかいろいろあって塾の宿題に手つけてなかったのが響いた」ここ1ヶ月は本当にいろいろなことがあったのだ。「お前はどうだったんだよ?」
「まあまあかな。思ってたより難しかったからちょっとてこずったけど」
岸田がこういう反応を見せるということは、かなり良くできたという証拠だ。3年間同じ塾にいて身につけた観察眼からすると間違いなかった。
「原西のやつ、だいぶへこんでるぜ」
荷物をまとめて立ち上がろうとすると、岸田が言った。西原は教室で入り口のすぐそば、一輝のいるのと反対の場所の机に原西が両腕で顔をうずめて座っていた。
一輝と岸田は西原をなだめながら塾を出た。昼の猛暑はどこにいったのやら、外には肌寒い空気が流れて、おまけに空では低い稲妻の音がゴロゴロと轟いていた。今朝のニュースでは台風が来るのは明日の朝だと言っていたが、どうやらそれは外れたみたいだ。
岸田たちは途中の交差点までで別れた。一輝だけが自転車で、二人はそのまま徒歩で駅まで向かう。
千葉のロイヤルマンション坂田を出て、一輝と母さんは東京都内のアパートに引っ越した。マンションでの悪戯や、たびたびかかってくる悪質な電話が絶えずだんだんとエスカレートしてきたので、仕方なしに引っ越したのだ。電話はどれもこれも、横須証券とその役員に向けた、怒りと偏見に満ち、高臨みな位置ちから投げかけられた罵声だった。彼らはみな一様に言った。青島真二は社会のクズだと。強欲な経営者だと。そして、彼らは一輝が反論することを決して許さなかった。
経済的にも問題があった。一家の大黒柱の収入がなくなった以上、青島家にはこれ以上ロイヤルマンション坂田のような億ションに住まうだけの余裕はなかった。4人の祖父母も援助を申し出てきたが、母さんはそれを断ってしまった。母さん側の家族には実際に二人を養っていくだけの余裕がなく、父さん側の家族とはもともと仲が悪くてずっと疎遠だったので、いまさら援助を受けるようなことはできないという訳だ。結局、2人は東京に安く住まえるアパートを見つけてもらい、そこに引っ越すこととなった。
本当に、事件からたった1ヶ月の間に本当にいろいろなことが起きた。信じられないようなことばかりが。一輝には全てが不思議でならなかった。どうして父さんはあんな事件を起こしたのか、何故それが自分の父親に起きたのか、そして、1ヶ月でひと一人の生活がこうも暗転するものなのかと。けれど何より不思議だったのは、いま自分が、その変化に慣れてしまっていることだった。
雷の音が心なしか近づいてきているような気がする。一輝は自転車をこぐ足に力を込めた。