予章(1)
3月11日
東京都新宿区
暑いくらいに暖房がきいている。
窓が全てカーテンで閉め切られているせいで、会議室の中はどこか薄暗かった。青島真二の脳裏には、いまだについさっき目にしていた曇り空の様子がはっきりと浮かんでいた。どうしてそんなものを覚えているのか自分でも分からなかった。
黒とシルバーに統一され、必要なもの以外は何一つない殺伐とした部屋は、7人が居座るのには少し広すぎるくらいの場所だった。巨大な円卓テーブルを囲う7人のスーツ姿の男達の手元の資料をめくる音だけがゆっくり時を刻み、口をきこうとする者はいなかった。
資料から目を離してペットボトルを口に運んだとき、真二は自分の首筋を汗が伝っているに気づいた。それが冷や汗ではなくてただの脂汗だったならどんなにいいだろうか。青島真二は祈る思いで顔をあげた。ちょうどその時、壁にかけられた時計の長針が2時10分を知らせてカチリと震えた。
時間になってしまった。体中から体温が引いてゆくのが分かった。体が動かない。それは同じ場所に居合わせた残りの男達も同様だった。同じ時間に、彼らほど時の流れが止まってくれればと願った人はいないかもしれない。そして彼らほど、目の前の現実から目を背けたいと望んでいる人もいないかもしれなかった。ただ、田中正志一人を除いたならば。
全員の視線が田中正志に向けられた。
彼は椅子から立ち上がり、そして口を開いた。
「ご覧のとおりです。この資料には私が四ヶ月かけて調べたことの全てが載っています。われわれの会社が犯してきた、証券取引法違反やそのほか諸々の犯罪の事実は、すでに警察にばれているんです。はっきり言って、強制捜査に踏み込まれるのも時間の問題でしょう」
「それで?」横須商券の副社長である橋元義介が、口を挟んだ。「それで我々にどうしろというんだ?」
「私は・・・・・自首することが今この状況における最善の方法だと思っています」
挑戦を仕掛けてくるような、固い口調で田中は言いきった。いや、文字通り今この男は俺たち横須証券取締役の5人に向かって挑戦を仕掛けているのだ。横須証券の一社員として、共に責任を背負う者の立場から。同時に事件の当事者達を周りから見る外野の位置に立って。そう、あくまで外野に立って。
「本気で言っているのか」
小暮が低く唸るような声で言った。敵意をむき出しに、田中のことをにらみつけていた。
「無論です。それ以外にあなたたち・・・・いや、私を含めて、今のこの会社にできることなど無いではありませんか?」
真二は、田中正志という男のことを何度か人伝てで聞いていた。体力があり、仕事も特別できるという訳ではないけれどきちんとこなし、マイペースな所はあるが人付き合いはいいらしい。たしか人事課長の宗谷が昇進させるべきかどうか悩んでいたのを聞いたのだ。
『ただ、彼はマイペースなところが強くって。人に使われるのも使うのも苦手だからどうしようか迷ってるんですよ』
酒の席で聞いた時には、そんな奴がいるんだなという程度にしか思っていなかった。
その男が今、自分達の目の前にたって、俺たちに破産の宣告をしようとしているのだ。真二は自分が悪夢を見ているような気がしてきた。いやに現実味があって、残酷で無慈悲な悪夢だった。
「仮に今動かなくたってたって同じことです。幾日か経てばあなた達は逮捕されてしまうだろうし、今回のことに関わってきた橘組の連中も、おそらく捕まることでしょう。むやみに延命の手立てを講じているよりも、今自首してしまったほうがいいと思いませんか?」
小暮がいきり立って言い返した。
「万が一警察が何の動きも見せないようだったらどうする。むざむざこの身を引き渡すようなことになったら、むやみに逮捕などされたら、出所してどうやって生きてゆけというんだ」
「それはご自分でお考えになることでしょう」