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十戒

作者:
掲載日:2014/03/07

「じっかいみたい」と彼女はつぶやいた。

 彼女の声はよく通るので、帰宅ラッシュで賑わう駅のホームでも、しっかりと僕に届いた。

「じっかい?」

「ほら、モーセの」

 彼女はなんでそんなこともわからないのか、という目で僕のことを見る。ああ、「十戒」か。

「わかってるよ。モーセとノックス、どっちかなと思ったんだよ」

 茶化して返したつもりだったが、彼女の視線の温度は変わらず、「あんなの今じゃジョークみたいなものでしょ」と言い放った。

「ノックス自身もユーモアのつもりで書いたらしいからね。彼自身、十戒を破っているし。ところで、『ワトスン役は一般読者よりごくわずか智力のにぶい人物がよろしい』ってのはワトスン医師に失礼じゃないかい。僕は、友人としてならシャーロックよりジョンと付き合いたいと思うんだけれど」

 いささかぺらぺらと喋り続けてしまったようで、彼女はうんざりしているように見えた。彼女は会話の脱線をあまり好まない。

僕は慌てて、

「それで、モーセの十戒がなんだって?」

「今の状況が、よ」

 彼女は再び、なんでわからないの? という顔をする。

 僕らは知り合いが演出をしている芝居を観てきた帰りで、駅のホームで電車が来るのを待っている。いや、待っていた、というのが正しいか。すでに電車は到着し、乗客をホームに吐き出している。今の僕たちは、乗客が降り終えるのを待っている。

「ああ、そういうこと」

 僕たちを含め、これから電車に乗る客たちは、降りる客のために二手に分かれて道をあけている。彼女はこの場景から、ファラオの軍勢に追い詰められた末に、民を逃がすために海を割ったモーセを連想したのだろう。

「なるほど、確かに。……十戒と言うよりは、出エジプト記って言った方がすぐにピンと来たかも――」

 彼女は、苦虫を奥歯ですり潰しているような顔をしていた。

「――しれないし、来なかったかもしれない」

 駅の放送が電車の遅延を告げている。雪の影響で、前の電車が足止めを食っているらしい。

 僕は手元のパンフレットをわざとらしく開く。

「さっきの芝居、どうだった?」

 彼女は少し顔をしかめて考え込む様子を見せる。まあ、さっきまでで充分顔をしかめていたので、実際はだいぶ顔をしかめている。

「斜め前に座っていた男の人が、変なところで笑っていたのが気になった」

「それは僕もだ。きっと友達が芝居に出ているのが可笑しかったんだろうね。学生劇団だからそういうのは仕方ないけれど、シリアスなシーンで声を出して笑っていたのはいただけなかった」

 チケットのノルマ制という、制度自体にも問題の一端があるかもしれない。

「あと、俳優がずっと怒鳴っていたように感じた。発声法の問題かしら」

 確かに、客席に唾が飛んできそうな声の出し方だった。最前列にいた客には、実際にかかっていたのかも。

「そうだね。君の方がよっぽど舞台向きの話し方だと思うよ」

 僕としては褒めたつもりだったけれど、彼女は皮肉に受け取ったようで、表情は不機嫌なままだ。「……それで、肝心の内容は?」

 電車に乗っていた客は降り終えたらしく、列の前の方が少しずつ進み始めた。二手に別れていた客たちが、どんどん合流していく。

 彼女はさっきまでより一層、眉間にしわを寄せている。僕は、せっかくの美人が台無しだ、と思った。ああ、でも、そういう顔が好きになったんだっけか。

「お話のつくり方が丁寧でよかったと思う。盛り上げるところとか笑わせるところ、泣かせるところもきちんとおさえていて、とても好感が持てたし、いい意味で教科書的という感じだった。お芝居を観たことがない人を誘って、一緒に『お芝居を観た』っていう感覚を味わうにはちょうどいいものだったんじゃないかしら。あとは、大道具の使い方がシンプルだけど工夫されていた、と私は思う」

 僕は彼女の話した内容を、脳内で反芻する。

「そうだね、僕も同感だ」

 彼女は本当に? という視線を向けてくる。まあ、付け加えるならBGMのセンスがよかった、というくらいか。

 それにしても、さっきから列が進んでいないような気がする。

僕が背伸びをして前の様子を窺っていると、彼女も「進まないね、どうしたのかな」と電車の乗降口の方を見る。

「もしかしたら何かあったのかも――ってちょっと」

 僕が言い終える前に、彼女は僕の手をとるとずんずんと列の方に進んでいく。押しのけられた人たちが、割り込むな、という目で見てくる。いや、その、違うんです。

「ふーん、なるほど」

 そう言う彼女の視線の先には、一人の老婦人の姿があった。困ったような顔で、乗ろうとする人の流れに逆らって進もうとしている。

どうやら、降りそびれた客がいたらしい。前の方にいる人たちは、なんとか老婦人のために道をあけようとしているが、状況がわかっていない後ろの人たちがどんどん押してくるので、思うように動けないようだ。

 あれはまずい、かも。

 僕が近くに駅員がいないか探していると、彼女はすうっと息を吸い込み、背筋をぴんと伸ばした。

 そして、

「道をあけてください。まだ降りる人がいます」

 彼女のよく通る声がホームに響き渡った。

 無秩序な人の固まりが、再び二手に分かれ始める。やがて、整然とした一つの道が現れた。

 十戒みたいだ、と僕は思った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 彼女の表情の描写がとても良かったです。一人称ではありますが、「僕」の彼女の表情の読みとり方に歪んだものはなく、正しいのだと思います。 そう考えると「十戒みたい」に、混雑を二分した彼女はもちろ…
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