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変わる自分と変われない少女(仮)

作者: 雪缶

タイトルは考えてなかったから、(仮)





 夏のグラウンドに日差しを遮るものはない。脇には木陰なんて気の利いたものなど一切なく、あるのは水撒き用の蛇口が二か所あるだけだ。外で部活をする生徒のことを全く考えていないグラウンド、そこで俺は今日も走っていた。

 陽光は薄い雲などでは全く濾過されることもなく全身に、地面に降り注ぎどこからか聞こえる蝉の合唱がその暑さを助長する。。毛穴まで焼きつくすかのように思えるその日差しのおかげで体内の水分は余すことなく蒸発したかのようにすら思えた。視界は揺らぎ、脚の感覚などとうに失い、自分が今どんな姿勢で走っているかもわからなくなる。それでも自然と脚は一歩を積み重ね前へと進む。

「鶴巻、今日の課題忘れんと走れ!」

 ぼんやりしていた意識が監督の声に呼び戻される。言われたのは自分の名前と今日の課題という言葉。今日の課題とは何だっただろうかと監督の言葉を頭で反芻し、思い出した。確か無駄をなくすこと、だった気がする。ついでに無駄をなくすといっても何の無駄なのかは教えられず後は自分で考えろと言わんばかりの目つきだったので聞くこともできなかったのも思い出す。

 自分から今日の課題を忘れるなと言った今なら教えてもらえるのだろうか。というか教えてほしい。一度思い出してしまった疑問はなかなか頭から離れてくれないもので、奥歯に何か挟まっているようなもどかしい感覚で走るのはどうにも気持ち悪いから。多少は教えてもらっている間は走らず休憩できる、そう思った自分が居ないこともないけれど。

 思うが早いや俺はすぐにいつもの監督の定位置である昇降口の庇へと顔を向けた。迷彩色のハーフパンツに白メッシュの半袖を着ている監督と目が合う。ひどく不機嫌そうだ。監督が不機嫌そうなときには近づかない、話しかけない、目合わさないという部内の暗黙の了解三カ条が頭をよぎりその表情を確認すると同時に顔をまわれ右で前を向けた。この陸上部に入って一年と少し、その間に身についてしまった悲しい条件反射だ。

 さてどうしようか、計画はあっさりと破綻してしまったわけだが。休憩できるかもしれないと思っていただけに落胆具合はかなりのものでそれまで無視していた疲労がどっと押し寄せてくる。ひとたびそれを認めると連動して脚の感覚までもが明確になり、地面を蹴るたびに舞い上がる砂埃が汗の水分によって脹脛に付着するのがうっとおしくて堪らなくなる。

 結局、俺はそれを意識しないようにするために答えのわからない無駄について考えるのだった。

 無駄、ムダ、むだ。別に見方読み方を変えるだけで突破口が開けるとも思えなかったけれど思いついたことはやっておく。それこそまさに今考えている無駄そのものなのだけれど。

 どの陸上競技においても重要視されるのは体幹だ。特に自分のやっている中距離の千五百メートル走では最も重要なものでこれを鍛えておかないと前傾姿勢になってしまったり、ラストスパートのキレが全く違ったりしてしまう。その体幹の強化を夏休みに入ってからというもの、殆どしていないことに思い当った。

もしかして体幹の衰えからフォームにズレが出ていたりするんじゃないだろうか。それなら監督の言う無駄にも当てはまる。が、頭はすぐさまそれを否定した。いくらなんでもしばらく体幹トレーニングをしなかったぐらいでフォームが崩れるようなことはないだろう。だいたい昔からフォームのことでおかしいと指導を受けたことはないし、自分でもズレがあれば気付く。

 いくらでも否定の言葉は湧いてくる。けれど一方でそうじゃないのかと食い下がる自分もいる。少しだけ自分の中で葛藤があってから、フォームに崩れはないと結論付けた。客観的に見ての判断だ。他意はない、断じて。

 しかしそうなるともう心当たりはない。日陰で熟考できたらまた違ってくるかも知れないけれど。

 さっきからどうしても休憩する方へともっていこうとする自分に少しだけ嫌気が差した。けれど答えが見つかりそうにないのは確かだ。走りながらだから、というのもあるがそれ以上に頭に篭った熱が思考の邪魔をして集中できない。こんなことなら風通しがいいように髪を短くしておくんだったと、平均よりも若干長めであろう自分の髪を恨めしく感じた。

 下がり気味になっていた視線を上げるとついさっきと同じ風景が視界に広がっていた。

 一周したのも気付かないほど集中していたのかと少しの驚きを覚える。頭を使うことはとてもエネルギーを使うことだと言っていたテレビ番組を思い出して、少し苦笑した。

「……ああ、これか」

 無駄なこと。

 エネルギーを使うこと。

 余計なことを考えてしまうことこそ、まさに無駄そのものじゃないか。考えること自体が無駄なんだから。

 じゃあ監督の言葉はなんだったんだよ、と頭の片隅で叫ぶ自分がいたがそんなのは聞こえない。なんとか導き出したそれらしき答えを手放せばまた思考迷路に迷い込みそうだったから。悩みながら走るよりもコレだと出した答えを飲み込んで走る方が精神的に良いだろうし。

 これを補強する意見だったら一流のスポーツ選手のコメントなんかがそうだろう。彼らは結果を出した時に何を考えていたかと聞かれれば口をそろえて『無心で』と答える。ほら、やっぱり考えてないじゃないか。

 それは彼らには積み重ねてきたものがあるからで、始めて一年そこそこの俺とは前提が違うだろう。そんな意見には蓋をしておいた。

 一旦答えが出てしまえばなんてことはないもので、咽に小骨が刺さったようなもどかしい感覚はいつの間にか消え去っていた。

 答えは出たんだ、もう頭を使う必要はない。

 俺はそれでもウジウジと別の解を探しだしそうな自分の迷いを振り払おうと、少しだけ足に力を入れて踏み出した。その足が地面に着こうかという、その瞬間――

「あ、……れ?」

 着地したはずの足の感覚がなくなる。同時に、鈍器で殴られたかのように視界がぐわんと大きく揺さ振られる。

 違う。殴られたんじゃない、膝が崩れたんだ。認識するのにそう時間はかからなかった。

 身体が重力に支配される。倒れると脳が叫んでも足が前に出てこない。

 一瞬の出来事のはずなのに、とてもゆっくり自分が倒れていくのがわかる。ドッヂボールなんかでボールが顔面にぶつかる寸前のような感覚。経験したことはないけれど、きっとそんな感覚だと断言できる。

 白く染まった視界の中心に、わずかに色の違う白が混ざっている。ゆっくり、とてもゆっくりそれが近づいてくる。よく見えないけれど、直感的に地面だとわかった。

 どうなっているのか、理解はできない。

 どうなっているのか、現象は知っている。

 これが噂の――

 声に出そうとしたが、咽に発声を拒否された。だから、頭の中でもう一度。

 これが噂の熱中症か。

 遠くから蝉の声に混じって監督の声が聞こえる。返事をしようとは思わなかった。

 皮膚が何かにぶつかる感触。きっと地面だ。

 その地面の土臭さを鼻の奥にかすかに感じつつ、視界が白一色に染まる。

 俺はその白に飛び込んで、ゆるやかに意識を手離した。





 起きているような、眠っているような、まどろんだ気分のまま目を開いた。

 視界が俺を中心にして回り、やがてゆっくりと収まっていく。

 ぼんやりするピントが徐々に合ってきて視界から濁りが消えると、自分がどこにいるのかがなんとなく理解できた。クリーム色の天井に鼻を突く薬品の臭い、そして今寝かされているベッド。保健室だった。

 熱中症で倒れたんだろうな、という予想は自分の足が高くしてあることと頭の下の氷枕から確信に変わる。

 上体を起こして足を降ろし、接していた壁にもたれ掛かる。ガラガラと耳障りな音を立てて入口の引き戸が開けられた。

 養護担当の先生が来たのだと思って目を向けると、予想に反して入ってきたのはサイドテールの女子生徒だった。軽い驚きを覚えて思わず凝視してしまう。入り口横に設置してある身長計から推測するに身長は百五十センチ程だろうか。小柄な身長と紺色のスカートから覗く日焼けした形跡すら窺わせない脚から、彼女は運動部には入っていないだろう。最後に視線を下から上へ、顔を確認しようとしたところで、後ろ手に引き戸を閉めてちょうどこちらを向いた彼女と目が合った。

 大きく開かれたツリ目がちの目に怯えの色はない。お互いに相手の出方を窺おうと黙ったまま動かない。気まずい沈黙が続く。

 遠目に見てもまつ毛長いなー、なんてことしか考えてない俺の頭は状況を打破するための言葉を紡ぎだす気配はない。目を逸らせばいい話だけれど、なぜだかそれは憚られた。

 このどうしようもない沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「……先輩、体調はもう大丈夫ですか?」

「えっ、ああうん。もう何ともないかな」

 アピールのために肩をくるくる回してみる。彼女はそれを目に留めることはなく一言「そうですか」と言うだけだった。

 なんとも無愛想なものだ。というか彼女は誰だっただろう。様子からして向こうは俺のことを知っている風だったけれど。

 その彼女は医薬品類が入っている棚から何かを取り出しているようだった。そのついでに横に置いてあった丸椅子を余った手に持ってこちらに向かってくる。

 ベッドの脇までたどり着くと丸椅子を置き、腰を下ろす。無表情に俺に向き直ると、呼吸するような自然な動作で、取り出した何かを俺の口に突っ込んだ。

「ふぐっ……! あの、これ」

「喋らないでください。ただの体温計です」

 どうも口内に入れて使うタイプの体温計だったらしい。

 それにしたって一言言ってから突っ込むとか、渡すとかあるだろ。そのツッコミは喋るなと言われたので心の中に留めておく。

「三分ぐらいで測り終わりますから」

 そう言ってまた沈黙。彼女はじっと俺の顔を見たままで、どうも据わりが悪くて落ち着かない。対する彼女は落ち着いたもので、軽く膝を揃えてそのうえに手をちょこんと置いている。どう見ても自然体そのものだった。

 こっちは名前すらわからないのに。せめて学年だけでも、と制服の袖に縫い付けられている刺しゅうを確認すると緑色だった。昨年度の卒業生の学年カラーが緑だったから、今年の新入生が緑を受け継いだはず。つまり目の前に座る彼女は一年生ということで、年下に謎の重圧を感じていた自分が情けなくなる。というか、二年生の俺に対して先輩と言っていたんだから一年生以外あり得ないことに今更気がついて二重に凹んだ。

 ちらりと彼女を見やるとまたしても目が合う。やっぱり気まずくて今度は目を逸らした。早く測り終わってほしい。

「そろそろですね」

 そう聞こえると同時に口の体温計が引き抜かれる。

「三十六度七分……平熱ですね」

 俺の平熱は平均よりもだいぶ低めなので微熱と言えなくもなかったが特にだるかったりするわけではないので黙っておく。口が自由になったので、また静寂に包まれる前に今度は自分から話を切り出した。

「えっと、君がここまで運んでくれたの?」

「そんな訳ないじゃないですか、身体の大きさ考えてくださいよ」

 何を言っているんだよ、そんな目で見られた。仕方ないだろう、どう切り出せば分からなかったんだから。

 彼女がポケットから取り出したウェットティッシュで体温計を拭きながらぽつりと呟く。

「先輩は、変わりましたね」

 俯いているので表情はわからなかったが、やはり俺とは面識があるらしかった。

「変わったって、いつの俺と?」

「中学のときですよ」

 どうも中学の後輩らしい。しかし俺の記憶からはいくら検索しても彼女の名前は出てこない。悪いとは思ったが、思い出せないものは思い出せない。俺は素直に名前を尋ねることにした。

「話の腰を折るようで悪いんだけどさ、君は俺と面識があるんだよね?」

「ええ、それは先輩も同じでしょう」

「ごめん、全く思い出せないんだよ。接点も、名前も」

「……呆れました」

 表情のない目から一転、汚物を見るような目に切り替わる。本当にこの子は年下なのに勝てる気がしない。

 ため息を一つついてから彼女は話してくれた。

「はぁ……月見里です」

 月見里、つきみざと。申し訳ないけれど全く記憶になかった。

「ちなみに部活も一緒でしたよ」

「部活?」

 はい、と月見里が応えた。

 でもそれはあり得ない。なぜなら俺は中学時代は部活には所属していなかったから。正確には一年時だけ囲碁部に所属していたが、一つ下の月見里とは一緒のはずがないことから除外した。

「俺は部活には入っていなかったと思うんだけれど」

「はい、私もそうですよ」

 当り前じゃないですか、そんな言い方だった。

 ますますをもって訳が分からなくなる。部活に入っていないなら一緒になるはずはないのに一緒だった?

 そうなると月見里は俺のことを誰か別人と勘違いしているのではないか。

「月見里、俺の名前は?」

「はい? 鶴巻先輩ですよね」

 別人ではないようだった。

「何を考えているのかはわかりませんが、私と先輩は帰宅部で一緒でした。これは確かです」

「知ってるはずないだろそれ」

 月見里が俺のことを一方的に知ってただけで、俺が月見里のことを知るような出来事は一切ないじゃないか。

むしろ彼女が自分のことを知っているという事実にこいつはストーカーなんだろうかと、まずありえない疑惑が生まれる。

「なんですかその顔は。話を戻して続けますよ」

 心情が顔に出ていたらしい。意識して顔を引き締める。

 月見里はわずかに目を細めて、回顧するように話し始めた。

「私の記憶の中の先輩はとにかく無気力な人です。他にも似たような人はいましたが、みんな中学生ならではのポーズでした」

 けれど先輩だけは本物でした、そこで一旦言葉を切った。

 本物ってなんだよと思いつつあのころの自分が朧げに脳裏に浮かんだ。

「行事ごとは適当にこなして、定期試験は平均少し下、授業が終われば真っ先に学校を出る。それが私の知っている先輩です」

 人の記憶はうまくできているもので楽しい記憶は忘れずに、辛い記憶は消去するようにできていると聞いたことがある。そうしなければ感情がパンクしてしまうからだそうだ。

 だとしたら俺の記憶から中学時代の記憶が消去されないのはなぜなのか。

 よりハッキリと、昔のことが思い出される。

「俺は、無気力だったんじゃないよ」

 月見里の顔に疑問の色が浮かぶ。気にせずに俺は続けた。

「やる気がなかったわけじゃない。できないと諦めたわけでもない。俺はただ、逃げていただけだよ」

 そう、逃げ続けたんだ。

 何もしなくても周りに同調して過ごせば前に進めた小学校とは違った。

 中学生になってからは同調するだけではダメだった。人並の成績ではもっと頑張れと怒られた。人並以下の成績ではお前は何がしたいんだと殊更怒鳴られた。

 どうすればいいのかわからなくなった。

 きっと、正解は努力することなんだろうと今ならわかる。けれどその当時の俺は努力の方法を知らなかった。

 極めつけは先生の一言だった。

『お前は、高校には行かないんだよな?』

 それは俺の成績から発せられたものだった。

 一瞬にも満たない刹那。俺の中でめまぐるしい感情がうごめいて、訳が分からなくなった。

 頑是のない子供のように、目の前の現実を認められずに逃げ出した。

 心配してくれる友人もいた。実の親以上に親身になってくれた先生だっていた。

 それを振り捨てて、俺は逃げた。脇目も振らず周りの声のすべてに蓋をして、ただ逃げ続けた。

 正直な話、それ以外に中学校でのことはまともに記憶がない。いや、記憶することがなかったという方が正しいのかもしれない。

 気がつくともう高校生で、受験をしたことも、受かったときのことも覚えていなかった。

 思わず思い出してしまい押し黙る。沈黙は長くは続かなかった。

「それでも先輩は、変われたじゃないですか」

 伏せていた顔を上げると、月見里は無表情ではなく微かに微笑んでいるように見えた。

「私も先輩と同じです、逃げてたんです。けれど私は変われない。今も、逃げ続けてます」

 ギュっとスカートの裾を握る。

 違う。微笑んでいるんじゃない。あれは自嘲の笑みだ。

 どうすれば変われるんだろう。

 月見里が小さく呟いたそれは確かに俺の耳に届いた。

 今しがたまで逆らえないほど強く感じた彼女が、とても小さく見える。その姿に昔の自分が重なった。

 この子は俺と同じだ、直感的にそう感じ取る。

「今日、先輩が運ばれてきた時凄くビックリしました。さっきも言いましたが私の知っている先輩と違ったからです」

 ほんの一瞬の間をおいて、彼女は絞り出すように吐きだした。

「どうすれば、変われますか?」

 どうすれば。それはたぶん俺では答えを出せないものだ。

 人が変わるきっかけなんてものは誰にもわからない。たまたまテストで高得点が取れたとき、実生活に思いがけない変化があったとき、テレビで何かを見たとき。それこそどんなことだって人は変われるんだということをこの一年で俺は学んだ。

 だからこの場でそのうちきっかけがあるよ、なんてアドバイスすることもできる。

 でも俺は、昔の自分にそんな無責任なことは言えなかった。

「俺が変われたのはさ、きっと学校のおかげなんだと思う」

 今まで逃げていた場所から変われた、というのは我ながらなかなかに皮肉なものだと思った。

「この学校ってさ、部活か委員会に入ってないといけないだろ?」

「……はい。無理やり保健委員に入れられました」

 無理やり、というところを強調して言ったあたりが月見里らしいなと感じる。知り合って間もないけれど昔の自分と変わらない彼女のことは理解しやすかった。

 ついでに今更ながらなぜ月見里が保健室にいたのかを理解する。大方夏休みの当番ローテの日だったんだろう。

「だから俺は陸上部に入った。……まぁすぐに辞めてそのあとは何に入ろうか考えてて、とか言い訳して過ごすつもりだったんだけど」

 思いのほか監督が厳しくて退部届を受け取ってくれなかったことは情けないので伝えなかった。

「その後はなあなあで過ごして、なんでか秋の新人戦にエントリーされてたんだ」

 それは部活終了後に唐突に教えられたことで、しかも監督からではなく同級生から。大会の三日前のことだったのは明確に覚えている。

 当然出場する気など微塵も持っていなかった俺は呆気にとられて、取り消そうにも一部員の判断だけではできなかった。結局どうすることもできなくて俺は学校が所持しているバスで競技場への道を揺られていた。

 競技場の中に入るとグラウンドがとても大きく見えた。実際にそれはいつも練習している学校の校庭とは比べ物にならないほどに大きいが、それを差し引いてもに広大に思える。

「会場に着いたらもう調整してる選手とかもいて、ますますなんで自分がここにいるのか理解できなかったな」

 一応焦りを感じたので俺もすぐに調整を始める。

 けれど違う。

 新人戦だから周りは一、二年生だけのはず。二年生は明らかに自分たち一年生より実力が上なので練習を見ていれば何となくそうだと気付くことができる。

 従ってそのほかの選手が自分と同学年の筈なのに、実力という面では嫌々ながらも練習してきた俺と大差は無い筈なのに、確かな壁を感じる。

 ストレッチが一通り終わって、フィールドを軽くジョギング程度に走りながら横目に観察する。答えは結局、大会が始まり自分の種目が回ってきても出ることはなかった。

「大会が始まってから一時間ぐらいで俺の種目の千五百まで回ってきたんだ」

 ピッチに立つとさっきまでは何ともなかったのに急に緊張感が襲ってくる。どくんと胸の中で激しい鼓動が鳴る。

 足が震える。平衡感覚が無くなる。呼吸が浅くなり、肺が酸素を身体への供給を止める。

 逃げ出してしまえ。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。心の中で逃げ出せと叫ぶ。足は、震えて動かなかった。

 係員の「用意」という言葉でハッと我に返る。もう逃げ出すことはできなくなっていた。

「スターターピストルが鳴って走り出したんだ」

 その音が脳に伝わった途端に足の震えは消えて、俺は自分の意思に関係なく機械的にスタートしていた。意外にも足は軽快に回転数を増やしてく。一周を走り終わった時点で前を走っていたのは二人だけ。しかも体つきからして二年生だ。

 いけるんじゃないか。心の中で逃げ出せと叫んでいた自分はどこへやら、そんな自信に満ち溢れた言葉が脳内を支配する。

 直前に見たリストではこの組に割り振られた二年生は八人中前の二人だけだったはず。残りは全員一年、同学年だ。

 その中でトップに立っている。このまま走れば上位に入り込める。根拠のない確証が心に生まれた。

 異変が起こったのは最終、四週目に入ってからだった。

 息が苦しい。吸っても吸っても身体に酸素が行き渡る感覚が得られない。たった一キロ弱走っただけなのに足までも震え始めて、うまく回転しない。

 どうして? 練習ではこんなことはありえなかった。焦燥感が更なる焦りを生む。後一周なのに走りきれる気がしない。たった今まであった自信も、余裕も、もうどこにもなかった。

 いつの間にか前を走る二人とだいぶ水をあけられてしまっていた。追いつこうと回転を上げようとしたが足はいうことを聞いてくれない。

 ダメだ、追いつかれる。諦めにも似た考えが浮かんだ瞬間に足が軽くなる感覚。同時に、後ろの選手が俺に並ぶ。そして、理解した。

 足が軽くなったんじゃない。俺が、スピードを落としたんだ。並んだ選手は、俺を追い抜いた。それに続くように次々と俺は抜かれてゆく。

 どうして、どうして、どうして。調子は悪くなかった、それなりの練習はしてきた、そしてなにより俺は逃げなかった。だからこんなのはおかしい。練習量は変わらないはずなのにこんなに差が出るなんて認めない。

 前に見える背中は、二つから七つになっていた。

 まだだ、今からなら一人ぐらい抜ける。どこかで諦めていない自分がそう言った。前との差はあまり無い。けれど抜くことはできない。会場に入ったときに感じた壁が、邪魔をする。それでも必死にその壁を抜こうとして、俺は最後まで抜けなかった。

「途中までは良かった。けどゴールしたのは結局最後だった」

 ゴールした瞬間に膝をつく。大した距離でもないのに、そう言わんばかりの奇怪な視線を感じるが今はそんなことどうだって良かった。

 どうなった?

 なにを言っている。結果なんて見なくてもわかるだろう。ビリだよ、ビリ。走ってた俺が一番よく知ってるだろ。

 それでも諦めきれなくて、すべてわかりきっているその目で記録の確認用にホワイトボードに書き出された結果を見る。上からの順位順に自分の名前を探す。名前を見つけたのは、一番下だった。

 認めない、認めたくない。こんなのは認めない。

 それでもホワイトボードに書かれた文字列は覆ることはない。負けだ。負けたんだ。

「初めて経験する、負けだったんだ」

 逃げて逃げて逃げ続けて経験しないように。見えないふりをし続けてきた。

 その『負け』が、目の前に突き付けられた。

 悔しい、他の奴らと俺とでは何が違った? 何も違わないはずだ、それなのに負けた。

 嘘だ。本当は最初から気付いていたはずだ、俺は勝てないと。最初から気付いていたはずだ、アイツらと自分が違う物もの。

 でも、脳が否定する、違いなんてものはないと。俺は、初めてまともに向き合った『負け』を受け止められなかった。

「それがどうしても認められなくて、半ば睨めつけるような感じで他の奴らを見てさ。そしたら、わかった。なんで自分が負けたのか、何が足りなかったのか」

 自分が今どんな顔をしているのかはわからない。けれど自分と同じ走り切った人たちの表情とは一致しないだろう。自分にはできない顔を、彼らはしているから。

 悔しそうに顔を歪める人、やりきったというように清々しい顔をする人、喜びで顔をほころばせている人。いろいろな表情の人がいて、それらはどれも自分には出来ない表情で。

 それを見てようやく『負け』を飲み込めた。彼らと自分が違うところも、しっかりと認められたから。

「足りなかったのは気持ちだった。過程は一緒でも、そこにかける思いが違った。負けたのは当然の結果だったんだ」

 なんとなく練習を積んできた俺と、自分の意思で練習を積み重ねてきた彼ら。例え実力が互角だったとしても気持ちで彼らに負けていた。

 初めて認める負けはとても悔しいもので、とても心地いいもので。

 逃げていた自分が恥ずかしくて、向き合ってきた彼らが眩しくて目がくらみそうになる。

「それに気がついて思えたんだ。次は負けたくない、気持ちでも負けないって」

 彼らと同じ気持ちで同じ場所に立って、同じ景色を見たい。素直にそう思えた。

「だから俺は、逃げるのをやめた]

 ようやく見つけた目標から、やりたいことからもう逃げたりしない。

 負けた時のその記憶は心の中にくさびのように突き刺さって今でも真実の傷跡のように熱をもって疼くこともある。けれど俺はそれと向かい合う。その記憶があって今の自分があるのだと自覚しているから、過去の自分を否定しないで受け入れる。

「だから月見里、変わりたいなら向き合うしかないんだよ」

 俺が教えられることなんてこんなことしかない。他人に自分を変えてもらうのは無理だと知っているから。変わりたいなら向き合え、そんなことしか言えない。

 今まで無言でじっと俺の話を聞いていた月見里が口を開いた。

「私は、向き合うものが何なのかまだわかりません。向き合えるかも、わかりません。……それでも、見つかるんでしょうか?」

「それは俺にはわからない。けど、月見里に少しでも見つけようって思いがあるなら絶対に見つかる」

 断言する。俺の場合はたまたま見つかったけれど、必死に抜け出そうとしている彼女が見つけられないなんてことは無いだろうと思えるから。

 月見里は俺の言葉を聞いて、弾かれたように顔を上げた。弱気な目の色は消え、強い力のこもった彼女の目が戻ってくる。

「そんなこと、先輩に言われなくてもわかってます」

「弱気だったくせに?」

「そんなもの演技に決まってるじゃないですか」

 しれっとそんなことを言えるまでに回復したようだった。演技ということに対しては強がりだとわかりきっていることなので突っ込まないでおく。

 わかってるから、というような俺の表情に気付いたのか月見里は悔し恥ずかしそうに目を逸らした。

「まったく……それじゃあ行きますよ先輩」

「行くって、どこに?」

 話を逸らすように月見里が立ち上がる。疑問投げかけると、月見里は大きく伸びをしてから俺に向き直った。

「私のやりたいこと探しです」

「……いや、まだ部活あるんだけど」

 あまりに突飛なその提案に一瞬面食らう。

「ああそのことなら」

 月見里が俺の座っているベットの反対側、窓際に回り込む。閉められていたベージュ色のカーテンをサッと開くと、ねっというような顔で首を傾けた。

「ずいぶん、時間が経ってたんだな」

 窓越しに見える空は、あかね色から藍色に染まり始めていた。日の落ちた校庭に目を向けるともう誰も残っていない。

「部活の活動時間はとっくに過ぎてますから」

「それならやりたいこと探しもできないだろう」

「……それもそうですね」

 悩むような素振りを見せる月見里を横目にベッドから立ち上がる。軽くストレッチをすると背骨がボキボキなって気持ちよかった。外を見たのでだいたいの時間は予測できたが、確認のために壁に掛けられた時計に目を向ける。七時半頃だった。この時間なら室内の部活でもまだ活動しているところは少ないだろう。

 テーブルの上に置いてあった自分のエナメルバッグを肩にかけ、帰ろうかと声を出そうとする。それよりも早く、後ろから月見里の声がした。

「決めました。今日は明日以降やりたいことを探すための作戦会議をします」

 名案だというような明るい声だった。

「会議って、俺も参加するのか」

「当り前じゃないですか」

 くすくすと笑われる。始めてみる彼女の笑顔が自分をからかうようなものだと思うと、複雑な心境だ。

「もう暗いし今度でいいだろ」

「……先輩は、やりたいことが見つかった時に明日からやればいいやと、そう思いましたか?」

 笑顔から一転、半目というかジト目で見つめられる。

 月見里の言うことはもっともで、ぐっと言葉に詰まってしまう。

 そんな俺の反応に満足したのか月見里は優雅に、勝ち誇るような得意げな感じで保健室の出口に向かう。

「それでは行きましょう」

 ガラリとさっき閉めた扉を開けながら月見里が言う。後ろを向いているので表情こそわからなかったが、その声色からにやついているのが伝わってきた。

 月見里の背中を見つめる。そこにはもう、過去の自分の面影はなかった。

「わかった。わかったから着替えさせてくれ」

 何を言っても彼女の前には無駄だと悟った俺は、運動着だったままの自分の首元をはためかせながらそう言う。

「そんなの帰ってからにしてください。この時間帯のファミレスは混むので席を取るのに一刻の猶予もありませんから」

 観念した俺の望みはばっさり切り捨てられる。でも場所がファミレスならばトイレで着替えればいいか、そう思いため息をつきつつ保健室の出口へ歩き出す。

「言い忘れてましたけど、明日以降も付き合ってもらいますからね」

「俺にだって部活はあるんだぞ」

「部活シフト表で先輩が明日からしばらくは夏休みなことぐらい知ってます」

 後ろで手を結んで月見里が一歩、足を踏み出した。

 俺は休みなしで動き続けられるほどタフじゃない、そう言おうとして、彼女がくるりと振り返って、言えなくなった。

「それでは行きましょう」

 そう言った月見里は柔らかい、今日一番の笑顔を見せていて。そんな彼女に見とれてしまう。

「ほら」

 促すように手を差し出されて、なんでか月見里の顔を直視できなかったけれどその手を取った。

「急ぎますよ」

 ぐいと手を引かれる。

「……よし」

 呟く。小さく。だが、決意を込めて。

 一緒に探そう、彼女が笑っているのがもっと見たいから。そんな決意を込めて、手を握り返す。

 彼女に手を引かれて、俺は長い夏への第一歩を踏み出した。

ここまで読んで下さった方がいらっしゃれば、ありがとうございます。

主人公の行動原理がイミフだったり、心情訳わかんねって自分でも思うぐらい拙く醜い出来です。次に書く事があれば改善したいです。

他にもおかしくね? って思った事があれば感想に書いてもらえると助かります。

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