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楼閣  作者:
5/5

5:楼閣

夏川理人


やはり九条翡翠は死んでいた、畜生!ここまで来て!

あの小箱、翡翠はあの中を見たに違いない、屋根裏で発見し、そしてあの真鋳製の鍵で九条家に関する秘密に触れたに違いない!

だと言うのに、俺は今ここで何をしている?

翡翠の死を知った琥珀が狂ってしまうのではないかと思った、が、琥珀は泣きもしなかった。そして、そして閉じ込めた、俺も翡翠も!

九条翡翠は、いや琥珀が作り出した翡翠は川辺で夕涼みを楽しんでいる。くしゃくしゃの髪の毛、着流しでぼんやり佇む姿は写真の少年に間違いないだろう。

彼は答えるのか?

俺の疑問に?


「無駄でしょうよ。」

「曜子・・・。」

「うふふ、嬉しいわ、僕のことを調べてくれたのね。」

「いや、琥珀に聞いたんだ。曜子・・・。」


まるで見透かしたように俺の前で艶やかに笑う少女、緋色の着物が夏の陽射しに反射して頭がくらくらする。

こんな陽射しの中で、汗をかくことも知らず曜子は笑い続ける。


「ここはいったい何処なんだ?」

「琥珀の眼の中よ」


意外にもあっさり答えが返ってきた。目の中?

どう言う事だ?

琥珀の中に閉じ込められる蟲・・・。俺達は、蟲?


「玄関も出入口も階段もみんなみんな琥珀の中に閉じ込められたわ、不思議な子ね・・・いえ、そうでも無いのかしら?今はここが最上階だけれど、昔々の先祖達はここに閉じ込められてるから。」

「うそだろう?」

「何が?」

「何もかもがだ、琥珀にそんな力があるなら、なぜ始めから閉じ込めなかった?なぜあんな光景を見た?琥珀はそんな子じゃない、狂ってなんているものか、琥珀は、琥珀は普通の・・・」

「そう、ねぇ普通かしら、ちょっと寂しがり屋の普通の子供・・・・。」

「そうだ、その通りだ、どうして?」

「瀬美の所為かしら・・・そうね、僕は今、瀬美に負けているのね。」


曜子はまた怪しく微笑む。不思議だが怖いと言う感覚は無かった。その顔は無邪気な子供のようで・・・。妖艶な微笑みとアンバランスなそれは不思議と美しい、黒い瞳、その眼・・・・。


「せみ、とは・・・。」

「もう会ってるでしょう。」


やっと俺がつむいだ言葉に簡単に返事を返すと、曜子は又俺に口付けた。額に、頬に、唇に、冷たいはずのその口付けは暖かく、俺は夢中で貪る。これが夢で、いや夢でなく本当に琥珀の目の中に閉じ込められたのだとしても・・・。あの空ろで淫靡な目の中で、この少女を抱けると言うのは最高の贅沢だ。


「ねえここから出たい?」


腕の中で息を弾ませる曜子が尋ねる。出たくない、この肌を永遠に味わっていたい。白い雪のような肌に俺だけの刻印を刻み込みたい。しかしそれでも・・・・もう少しで届くのだ、琥珀に誓ったのだ。『信じる』と。


「琥珀は俺を信じてくれている、俺も信じる。」

「無粋な男だこと、まあ、いいわ似てるから仕方ないわね。」

「誰と誰が?」


温かい腕が首に絡まり、もう一度熱い口付けが俺を襲う。白い肌、女性特有の柔らかさを帯びた体・・・・。


「お兄ちゃんと。」

「翡翠か?」

『琥珀よ。』


曜子の声が遠い、目を開けるとぽつんと俺は部屋の中で立っていた。まとわりつく湿気、月明かりさえ見えない夜、俺の直ぐ隣には琥珀が座り込んで涙を流していた。


「琥珀、おい、琥珀!!」

「・・・・・・。」


目から零れ落ちる、雫ではなく流れ出ると言う表現がぴったりの涙は両手で拭ってやる、何度も何度も。

琥珀を怒る気にはなれない。琥珀はただ言葉も発さず涙を流し続けている。その目は空ろであの美しい琥珀色の輝きは無い。空洞のようなそれは蝉、いや瀬美の目を連想させた。


「九条の一族が作り出した楼閣に住まうなら、曜子も親戚筋に当たるのか?」


琥珀はまだ空ろに座り込んだままだ、彼の胸ポケットから引き出した写真には夏の日、魚取りをして帰った兄弟・・・。心配するなと残された翡翠の言葉、それに、そう・・・あの小箱・・・。

小箱には古い冊子が一冊だけ入っていた。三年間で新たに積もった埃の感触、古びた墨のにおい、縦書きで左から書かれたそれはずいぶん古臭い日記だった。


『瀬美がまた曜子にちょっかいをかける、いい加減にして欲しい、しかしあれでも一応、私の許婚だ。』

『瀬美はどうやら私たちの仲間に入れないのが悔しいらしい、そして狂言のように自殺未遂を繰り返す、いい加減にしてくれ。』

『まったく、あの女は・・・曜子の方がよほど聞き分けが良く、可愛らしい、良家の子女が聞いて呆れる。』

『結婚前からこんな女に憑かれてしまって、正直気が滅入る、曜子だけが救いだ。』


どうやら瀬美はよほどこの日記の主に疎まれていたらしい。いつの頃の日記か判らないが、筆書きの日記は紙自体がボロボロになっており、力を入れれば崩れてしまいそうだ。ずいぶん昔、そう曜子と瀬美が生きていた頃のものだろうか?

しかし瀬美はこの日記の主の許婚であったなら、ここまで疎まれるのも我慢ができなかっただろう、この人物の興味はもっぱら妹の曜子に向いていた。

日記のほかの部分も『曜子』『曜子』『曜子』『曜子』『曜子』『曜子』異常なまでに曜子に執着する彼・・・・そういえば曜子が言っていた。

『お兄ちゃんと琥珀は良く似てる。』

そう、琥珀も異常なまでに兄に執着いている。

しかし、今の問題は其処ではない、その執着している兄は『死んでいる』のだから。

急いで次のページを捲る。冊子は古く力を入れすぎると直ぐにでも破れそうだ。そしてページを捲った瞬間、俺の手に、背中に顔にじわじわ汗の嫌な感覚が這い登ってきた。


『最近、瀬美は大人しい、いい傾向だ。』

『おかしい、瀬美があまりにも大人しい、逆に不安になる。』

『瀬美の名前を呼んでも無反応だ、おかしい・・・。』


瀬美がある一時期を境に大人しい少女へ変貌してしまったというのか?

少しだけの変化であれば、彼女も夜行の心を自分の方へ向けるために努力したと言うのだろうが、声をかけても反応しないのは、明らかにおかしい。

さらにページを捲る、そして・・・・。


『奇妙なことが起こった。近隣の犬猫、それに豚達の眼球が抜かれると言うのだ、始めは死んだ家畜だけだったのが、段々段々生きている家畜の眼も引き抜かれる事件になっているらしい、曜子にも気をつけるように言わないと。』


家畜の目玉?

瀬美の仕業か?

しかし瀬美は確かに目玉を取られていた。そして日記の心配事はまた曜子のことだ。異常なまでの執着、夏の日、たらいに足を浸して戯れる兄妹、琥珀だけが感じていた、足の裏で何かを踏み潰す感触、赤い赤い赤い、赤い水。


『瀬美が最近妙な鞠つきをしている、小さい鞠に紐のようなものをつけて、真っ黒の鞠だ、あんなものどこから・・・?まあいい、あの女は近々実家の方へ帰らせるのだから、気にしても仕方が無い、私には曜子さえ居ればいいのだから。』

『痛い、痛いイタイイタイ!助けてくれ、瀬美がとうとう狂ってしまった!幸いにも改造された釣り竿は小さく・・・左目は死守したが右目が、いたいい、いあああああ、助けくれ、助けてくれ!私がここで死んでしまったら誰がようこをまもるとい・・・。』


「何てことだ、瀬美が、瀬美がこの男を!あの少女が眼を奪ったんだ!嫉妬に狂って・・・。」


『お前の目をおくれ。』

『琥珀だけが狙われている。』

『お兄ちゃんと、琥珀。』


「瀬美が欲しがったのは翡翠じゃない、琥珀、正確には許婚だ、そう夜光!夜光が欲しい!夜光の目を奪ってしまい、まてよ、瀬美の目も無かったはずだな?」

『欲しいの、貴方が。』


誰だ?誰が俺に声をかける?琥珀の目は相変わらず空ろと現実を行き来しているようだ。頬に伝わる涙の後も生々しいが、どこか・・・・そう、空ろな時の瞳は瀬美に似ている。あの瀬美の空っぽの瞳に・・・。琥珀は喋っていない、何処も見ていない、では今それに話しかけたのは誰だ?!

曜子か?いや、曜子ではない、瀬美か!


『欲しいの。』


これは瀬美の声だ、隣の部屋から聞こえる・・・空かなかった部屋から聞こえる。あの部屋に何があるんだ?もう、俺には手に負えないものか?

いや、考えていても仕方ない、出るんだ、ここから!

気づけば俺は小箱を思い切り壁に打ち付けていた。脆くなった土壁ははがれ、中に竹の補強が見える。それを素手でへし折り、目を凝らす。其処には翡翠がいた、琥珀が翡翠のひざに甘えるようにしな垂れ、その背で少女が琥珀の髪を梳かしていた。少女の瞳はにごった茶色、おかっぱの髪と緑色の着物・・・。瀬美だ!


「おい琥珀!何をやってるんだ琥珀!」

『理人、理人・・・。』


甘えた顔は喜びに満ちているのに、何故だか俺を呼ぶ琥珀の声は、悲しく悲痛に満ちている。搾り出すような声の先で・・・。瀬美が笑っている、微笑でも儚げなあの笑みでもなく、間違いなく俺達を嘲笑っている。


『そうね、僕は今、瀬美に負けているのね。』


曜子はそう言った。瀬美は夜光ではないが琥珀と言う変わりを手に入れたのだ!

翡翠は琥珀を繋ぎ止める為の付録に過ぎない、翡翠は判っていたのではないか?いや、家族全員が分かっていたのだ、似過ぎている琥珀が、夜光の年になるまでこの家に居てはいけないと、だから幼い内に逃げるように引っ越してしまった。琥珀は理解できなかったが、翡翠はそれに疑問を持った、その結果が・・・・。


「琥珀、気づけ琥珀!」

『夜光、貴方の眼をおくれ。貴方の眼はあたし以外映してはいけないの。

曜子など映してはいけないよ、あんな売女、死んでしまえばいい!』

「やめろ、瀬美、やめろ!」

『理人、助けて、理人。』

『怖がることは無いよ、あたしの眼も夜光にあげる、二人永遠に夫婦になりましょう。』


瀬美は狂っていた、そうだ、琥珀が夜光と曜子を見ていた時、琥珀は第三者・・・・瀬美になってあの二人を見ていたのだ!

今頃気づくなんて、瀬美があの腕が琥珀に渡していたのは、目だ、自分の目だ!

女性特有の手、瀬美は幼い、幼さ故に暴走した少女・・・・。

夜光が曜子だけを見るのが気に食わなくて、そして日記の最後でさえ洋子を気にしていた彼が、愛しくも憎かったのだ。


「おい!おい、やめろ!琥珀は生きてるんだ!止めてくれ、あんたと同じところにはいけない!」

『夜光、愛してるわ・・・喩え貴方の子を孕んだんのが曜子であっても!』

「琥珀は関係ない!やめろ、やめろ!」

『やめて、俺は、生きていたい、あなたの楼閣なんてごめんだ!』

『まだ、そんな事を・・・。』

「琥珀、今行くからな!」


穿つ穴がどんどん大きくなっても瀬美は一向に気にかけない、こちら側に体はあるというのに琥珀は髪を梳かれ、段々瞳に口付けされている間も動かない、いや動けないのだ。琥珀の空ろな瞳、もうずいぶん昔から・・・瀬美に支配されかかっていたのだろう。

現実と非現実を行き来する時々、その中でまるで表情が違う。現実に居る時に俺に出会ったのが救いだ、じゃなければ琥珀はここへ独りできていた。そう、抗う術も無いまま瀬美に取り込まれていたに違いない。

ここは琥珀の楼閣ではない、瀬美の楼閣だ!


「琥珀!」


九条琥珀


痛い、苦しい、誰か助けて、目が痛い!

兄さん、兄さん・・・理人!理人!!!


『琥珀。』

「・・・だ・・・れ・・・。」

『言葉を出すのも辛い?』

「よ・・・こ・・・。」

『また瀬美の戯れね。』

「なに・・・を。」

『夜光に似た男の目を引きちぎり、夜光の変わりに。』

「あなたが・・・わるい、んじゃぁ・・・。」

『僕が?そうかもね、でも私だって夜光の愛が欲しかったわけじゃないわ。』

「よ・・・こ、・・っ、だ・・・」

『ああ、もうすぐ引き抜かれてしまうのね、貴方も駄目、か。』

「ふざける・・な・・・。」

『ふざけていると?』

「貴方が、追い詰めたんだ・・・・。」


曜子、瀬美

せみせみせみせみ

みーんみんみんみんみん

仲間が欲しいよ

仲間に入れてよ

聞いてはいけない、聞いてはいけない、そう。

『お母さん、あのね、二階に女の人が居たよ、おかっぱ頭で緑色の着物を着た、女の人』

引越しが決まったのは次の日だった、俺はこの家を離れたくなかったけど、兄さんが一緒に行くならまあいいかと、でもいつか、いつか、俺はこの家に戻ってずっと暮らさなければと思っていた。

たまに冷静な部分が『何故家に其処までこだわる?』と囁きかけ、いつしか、家を離れている時間が長くなれば長くなるほど、俺は家の事など忘れてしまった。

それでよかった筈なのに、子供の頃の約束を守ろうとした兄さんが、俺の所為で兄さんが、兄さんが・・・俺は、兄さんの為にもここに・・・。


『心配性な君へ、君が無事なら何も言いません。だから、早く帰りなさい。

幸せは家族とともに生きる事だけじゃない、それぞれの形があるのです。

君は君の幸せへ進むことを願っています。』


俺は、俺の幸せ・・・・・。


「貴方が、瀬美も夜光も追い詰めたんだ!ただの身勝手な女の癖に!」

『僕だって・・・。』


引きちぎられるような髪の痛み、動けないはずなのに、痛みだけははっきり認識できる。曜子が俺に手を伸ばすと、それだけで痛みが襲い、意識が朦朧としてくる。曜子には見えないのか、瀬美の手も俺の目に食い込んでくる。冷たい指先、瀬美にも曜子は見えていない。彼女達は別々に俺を責め苛む。


「嫌だ!助けて!俺は死にたくなんか無い!」

「琥珀、こっちだ出るぞ!」

『逃がさない、夜光・・・。』

『琥珀、謝りなさい琥珀!』


俺の手をとる人が居る、家族じゃなんかじゃないし、ましてや会ったばかりでろくに知った人でもないけど、けど、信用できる人だと思った。焦燥した顔で無精ひげも伸びきった変わり者が、俺の今一番信用できる相手だ。


「瀬美が、曜子が・・・うわあああああ!」

「落ち着け、良いか逃げるぞ、いざとなったら窓から飛び降りるんだ!」

『夜光、いや、離しなさい!』

「あれは・・・」


必死の形相で追ってくるはずだった瀬美の体を押さえつけているのは、腐り果てぼろぼろになった兄さんだった。

むき出しの骨、瀬美が体をゆするたびに剥げ落ちていく肉。それでも、痛いほど感じる彼の気持ち。

(ごめんなさい、兄さん、父さんも母さんも知ってたんだね、だから、だから俺まで失いたくないから黙ってたんだね。)


「兄さん、ごめんっ。」


無我夢中で走った、階段も玄関もちゃんとある、俺が目の中に、いいや、瀬美が閉じ込めていたそれは、きちんと形を成して俺達の目の前にある。

転げ落ちないように、それでもなるだけ早く。

理人が手を引いて朽ち果てた木戸をくぐる、もう少し、もう少しで車にたどり着く、もう少し・・・・。


『夜光、まって!又あたしを捨てるの?』

「俺は夜光じゃない、琥珀だ!」


瀬美はまだ俺を追いかける、理人の手が遠い・・・。走らなきゃ、背中を追わなきゃ!

自分で走らなきゃ追いつけるわけ無いんだ!


『夜光、貴方は夜光よ、交換したでしょ、ね?』


体が重い、背中に瀬美が・・・俺は、俺は・・・・。


『ずっと持っててくれたじゃない、あたしの『右目』』

「ああああああー!!!!」


胸のポケット、冷たい手が俺の頬をなで、其処に落ちる、ああ、そうだ、目の中の、小さな石、透明で、綺麗な『水晶体』!

屋根裏に上る梯子、梯子の奥にあった、水晶体。その向こうにいつも感じていた視線。その壁の向こう、壁の中に瀬美がいた。

『明日で居なくなるから。』その日、目を取られそうになったその日、夜光は決行した。彼は目を取られたしかし瀬美をあの壁の中に追い遣った。それでも、瀬美は諦めてくれない。


「違う!こんなものいらない!!!」


服ごと引き千切って投げつける。要らない、俺には俺の人生がある。


『約束したじゃない、夜光!』

『さびしいの?だったら、一緒にあそぼう。』

『戯れだったと言うの?ねえ、夜光!』


おおきくなったら・・・・。

一緒に遊ぼうって・・・・。

おかっぱ頭のおねえちゃんが・・・・。

俺は・・・・。


「琥珀!」

「ごめん!瀬美!」


瀬美の方はもう振り向かない、車に飛び乗りシートベルトを付けるのもどかしく理人がキーをまわす。瀬美は家の敷地の外へ出てこようとはしない、彼女はあそこだけで生きていくしかない・・・。


「ごめん理人、少し寝る・・・・。」

「ああ、街まで帰ったら宿を取ろう。」

「ごめんね、理人のほうが疲れてるのに・・・。」

「いいや、気にするな。」


夢を見た。

曜子が居る。

しかし曜子は少女ではなく、一人子供を連れて縁側で涼んでいた。着物も派手な緋色ではなく、落ち着いた萌黄色、髪を結い上げ、子供が沐浴するのを愛しそうに見つめてる。


『おかあさん、見て、あそこに鳥がいるよ』

『まあ、本当ね』

『曜子、そろそろ日が暮れる。瑠璃も早くあがるんだぞ』

『はぁい、おとうさん』

『はいはい、あなたも過保護ね』


縁側に出てきた『夫』は俺にも夜光にも似ても似つかぬ男だった。くしゃくしゃの頭で無精ひげを生やした・・・。子煩悩そうな男が其処に居た。

九条曜子、彼女が俺達兄弟の『先祖』だ。そして、その夫は過去にあった惨劇も、これから起こる事も知らず、美しい妻と可愛い子供に囲まれ優しい笑顔を浮かべていた。

そう、普遍的なものが幸せなのではない、彼にとって日々成長する娘と、愛する妻の新しい顔を毎日発見するとこが喜びなのであろう。

なんて、愛しい笑顔。


『さようなら、僕だって平穏な幸せが欲しかっただけよ。』

「え?」

『それじゃあ、本当にさよなら』


曜子は微笑む、最後に子意地悪そうに笑って『少し、似てるでしょ?』と。

瀬美は恐らく楼閣の中でまだ夜光を探し続け、夜光は曜子を探し続ける。永遠に叶う事のない一方通行の思い。

あの楼閣・・・。先祖代々受け継いだ楼閣だというのならば、きっと瀬美も九条家の遠縁だったのだろう。俺の中に眠っているのが楼閣ではなくただの夢であることを、今は切に願う。


『解放は、近い。』

「誰?」


俺が、もう少し大人になったら、こんな表情ができるのだろうか?右眼の無い男がそこに立っていた。呆れるほど俺にそっくりで嫌になる。

嫌になって振り返った先に、瀬美がいる。美しい笑顔だ。俺は曜子のような妖艶な女よりも、慎ましやかな瀬美のようなタイプが好きだ。

子供の頃に出会った、壁の中から語りかける・・・・。

初恋の人。


「瀬美、好きだよ。」



夏川理人


ビジネスホテルの一室で休んでいた時、テレビのニュースが耳に入った。ローカル局からの情報に、俺は耳を疑った。

『今朝方未明、山間にある九条家から火が上がり、全焼しました。この一帯は九条さん所有の山林でありますが、人は住んでおらず放火の可能性が強いとのことです。なお、焼け跡から見つかった遺体が死後2年以上経過しているとのことです。警察では、身元の確認を急いでおります。・・・次のニュースです』

焼けた?あの家が?全て?

見つかった遺体は翡翠のものだろう、琥珀の携帯がタイミングよく鳴り出した。


「はい」

『琥珀君、ではありませんね、貴方は?』

「あ、夏川理人と申します、えーっと、琥珀は今ちょっと寝てまして・・・。」

『ではお伝えください。私は九条家を担当しております弁護士です、警察の方から連絡がありまして、遺体の身元確認の件で。』

「そーですか、実は今その事件の現場付近にいるんですよ、ほら、ご先祖の墓参りに行くって言うんで、昨日から・・・。」

『失礼ですが、どのようなご関係で?』

「友達ですよ、友達・・・・。」


そう、それ以外に言いようも無いが友達だ、死線を乗り越えた・・・・。

彼はまだ寝ている・・・。さあ、これからが大変だ。

一つの事件は終わりを告げた、だがそれで直ぐに頭を切り替えて歩き出せるような人間も居ないだろう・・・。

ふと、思う。

あのまま琥珀の目の中に居れば、永遠に一緒に居られたのだろうか?

妖艶に笑う、緋色の着物と真っ黒な目のあの少女と。


「携帯、鳴ってたの?気がつかなかった。」

「弁護士さんからだよ、おはよう、ひどい顔だぞ。」


顔はまだ土気色で、目蓋も腫れぼったいが眼だけはきちんと正常の光をともしていた。ああ、ようやく終わったのだ。


「そう?でも少しすっきりした。」

「なら、いいんだけどな。」

「それとね、曜子がよろしくって。」

「ああ・・・・。」


眼鏡を外して俺を見上げる琥珀の目は、相変わらず美しい琥珀色だったが、その中に空洞や空ろさは感じられなかった。ただ少しだけ、寂しさが見えた・・・・。彼は兄が居なくなったことが寂しいのか、いや、きっと曜子が居なくなった事かも知れない。あれほど狂おしい瞳を見て、すぐに忘れられる男も居ないだろう。


「お兄さん、弔わないとな。」

「・・・うん。」



俺が事務所に帰り着き、琥珀も相続やなにやら小難しい手続きをこなす為に会えなくなって数日後、弁護士から1通の封書が届いた。九条家の当主、つまりは琥珀の両親から依頼されたのものという話だ。

自分達の死後、この封書の中身を琥珀の周りで一番信頼の置ける人物に渡して欲しい、間違っても琥珀本人には渡さないように、そう明記されていた。

中にはノートが1冊だけ、不自然に思いながらも、まるではじめて貰ったラブレターでも見るかのように胸の高鳴りを抑えられなかった。

表紙の隅には、癖のある字で『九条翡翠』と明記してある。

そう、これは翡翠の手記なのだ。

これを読めば、俺の疑問だった事や不可解なものが納得のできる形になるのだろうか?

いや、なったとしても俺達の何かが変わるわけでもない。

散々悩んだ結果、結局俺は終わりからページを捲り、最後の1ページだけを読むことにした。


『旅立つことにしよう、決して後を追わせぬように両親を説き伏せ、琥珀を見張ってもらう。

彼は悪くない、狂ったあの家が、いや、あの家で目覚めてしまったものが悪いのだ。

そう、彼女を説得すれば琥珀も普通の学生に戻ってくれるはずだ。ただ、少し気になるところもある。だから琥珀は連れて行かず、自分だけで解決しようと思う、さようなら』


翡翠の手記はこれで終わり、おそらく失踪前日のものだろう。

しかし、ノートの端に流暢で細かい文字が刻まれていた。線の細い、女性が書いたような字。

新しいインクの香りが鼻にのぼる。


『琥珀が私を好きだと言ってくれました。初恋だと笑いかけてくれました。

でも私は夜光を忘れられません。

私が私でなくなり、翡翠が翡翠でなくなり、そして翡翠が居なくなり、貴方が居なくなったら琥珀も一人・・・。』

『そうすれば、』

『私は琥珀を愛せるかもしれません。』

『九条瀬美』


見 な け れ ば よ かっ た。

部屋の端の暗がりで、少女が笑った気がした。


「琥珀、やっとあたしは幸せを見つけたわ。一緒にいきましょう。」

「ここに居たんだね、俺の初恋の人。」


みーんみんみんみんみんみんみんみんみんみんみん

楼閣の中は永遠に夏、永遠に二人は離れることがない。

九条の家が燃えて瀬美は『解放された』のだ。最初から、最初から全て無駄だったのだろうか?



『本日未明、Y市に住む九条琥珀さんが殺されているのが見つかりました。九条さんは右眼をくり抜かれて殺されました。今のところ目撃者はありません。また部屋が荒らされていない事から・・・・・。また友人である夏川理人さんも同様の手口で・・・・。』


琥珀楼・了

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