第九話 平静と情動の乖離率 15.80%
そしてまた、新しい朝が始まる。
三番線のプラットホーム。
午前八時七分発、○○線、△△行き、普通列車。十両編成。七番目の車両。
乗り込んだ車内には、大体同じような顔ぶれが揃っている。その空間をざっと見渡して、私は所定の位置に着き、吊革を掴む。そして、隣には、いつの間にか同じように吊革を掴む紺色のブレザーの腕。すらりと伸びた長い紺色の先には、シルバーの丸い無機質な文字盤が鈍い光を放っていて、レザーのコンビが、しなやかな手首に回っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
ごく個人的な衝撃の事実発覚から一夜明けて、定型通りの挨拶を交わしてみる。そんな私を迎えてくれたのは、機械的な頷きが一つ。
だが、此方に向けられる落ち着いた穏やかな眼差しは、ごく自然に見る者の口元を綻ばせた。
ズレを生じ始めた境界線。
揺らいだ線引きは、確実に自分の中の出来事であって。図らずして向こうの思い通りになっているだろうボーダーラインの弛緩が、昨日までの自分と齟齬を生じ始めていて、妙な気まずさというか、居たたまれなさを私の中に生み出していた。
一度、知らされてしまった事実に対しては、もはや目を瞑ることなど出来ない。きっと、これで、私は同じフィールドの上に立ったことになるのだろう。
段違い平行棒が普通の平行棒になる。経緯は半強制的であったが、それは恐らく時間の問題で。遅かれ、早かれ、突き付けられるであろう事実には違いないのだから。
それに対して、別段、憤りなどは感じていなかった。いや、そんな訳はあるはずがない。元々、私の中でもプラスで派生していた気持ちだ。その色付けが、まだ曖昧であっただけで。水面下では無意識の行動として、向こうにはその欠片が反射して見えていたとは思う。
停車駅を一つ追う毎に車内は混み合って来た。さり気なく背後に回された腕が、躊躇いがちに腰のあたりを彷徨っている。それは多分、彼なりに許容範囲の踏み込み度合いを文字通り、『手探り』で図っていることの表れなのだろう。とても原始的な欲求に基づく試行錯誤。外的世界に対して果敢に挑戦状を突き付ける赤子のようだ。
躊躇いで生じる間が、今の距離。電車の振動から半呼吸遅れたリズムで繰り返されるささやかな強弱の波は、心電図に描かれるパルスの山折れ線を想起させた。
緩やかなカーブに差し掛かり、車両が軋みを立てて左に傾ぐ。一際大きな揺れが、それまでの距離を一気に縮める契機となった。
それが合図となったのか、左側から力強く引き寄せられる。
「あ、りがとう」
「いや、別に」
当たり障りのない言葉の交換の筈であるのに、行間に潜むフィルターが此方の思考にまで侵食してゆくのが分かる。
鼻先を掠めるのは、ここ数週間で嗅ぎ慣れた、柚子に似た柑橘系の香りだ。それは、まるで罠に仕掛けられた疑似餌のようで、遠巻きに無意識レベルから私の脳内に働きかける。
これは非常に危険だ。頭の隅でセンサーが反応する。チカチカと点滅するランプは、それでも緑色を保っている。擬態された信号。それは、正にも負にも成り得るのだろう。多分、私次第で。
私は、この状態の打開策を得るべく、そっと隣を見上げてみた。
そこにあるのは、いつもと変わりのない、相変わらずの涼しい顔。意識をしている此方側が余りにも滑稽に見える程だ。精神と肉体のアンバランス。傾いだ天秤が、再び均衡を得ようとして大きく揺れる。
ならば、私はどうしたいのだろう。
駅を幾つか通り越して、いつの間にか、並んで立っていた筈の体勢は、後ろから抱き込まれるような形に変化していた。
これは果たして不可抗力だろうか。それとも………。
「もう大丈夫よ」
ガラス越しに反射する人物に、私は微笑んで、一時開放の合図を送った。
表面上は何ともないような顔を装って。密かに跳ねそうになる鼓動音の突出を気付かれないように。
やがて、この自分とは違う、もう一つの色が付いた体温は、幾ばくかの名残を残して離れてゆくのだろう。それは、ちょっとした感傷に似ている。
それなのに………。
そんな勝手で他愛ない想像とは裏腹に、背後に回った拘束は一向に緩む事が無かった。それよりも、寧ろ、より強固なものになった気がする。
背中が暖かい。季節は春の終わりで、もうすぐ初夏の風が吹く頃合いだった。
『どうしたの?』
そんな気持ちを込めて、反射するガラスの顔を見れば、視線が絡まって、相手の口元がゆっくりと弧を描いたのが分かった。透ける胴体に灰色のコンクリートや疎らになった緑が映り込んでは抜けてゆく。
と同時に、耳元に低い微かな囁きが吹きこまれた。
「駅まで、もう少し」
どこか強請るような、甘えたバリトンの響きが耳を擽り、耳郭を認知外のレセプターに変換させてゆく。これが自覚しての行動ならば、なんて性質の悪いことだろう。
この時点で、私は、もう半ば、捕らわれているのかもしれない。
目の前を過ぎる景色は、ちょうど一つ前の駅のプラットホームを映し出していた。
揺られる時間はあと僅かだ。全行程の五分の一弱。
『仕方が無いわね』
そんな言い訳を自分の中で試みて。
私はそっと右側に回る手に自分の手を乗せた。小さく跳ねるように反応する一回りは大きな手をやんわりと上から押さえる。
ガラス越しに視線が絡んだ。人よりずっと体温の低い箇所に、じんわりと温かい熱が伝動してゆくのが、手に取るように分かった。
流されている。
でもこれは半分、自らが望んだ結果であって。
もう少し、このままで。
「冷てぇ」
思わずという風に漏れた呟きに、ほんの少し、意趣返しが出来たことを悟って、私は一人、ほくそ笑んだ。
電車が目的地のホームに滑り込み、私は他の同志たちと共に吐き出されるようにしてプラットホームに降り立った。
隣には紺色のブレザー。背に軽く置かれた掌は、当然のように私を本流へ誘導する。ホームの上には、すでに大きな流れが出来ていて、流動する生き物のようだ。
少し詰まりがちな、余り健康とは言えない血管の流れが、私の中に思い浮かんだ。そして、開いた電車の車両は、すぐさま放出量と同等の人を飲み込んでいった。
残された共有時間は、あと一分にも満たないだろう。改札を出るまでの短い距離。そんな僅かな時間でさえも、一日、一日が積み重なって行けば、『塵も積もれば』で、それなりの時間を構成することになるのだろう。細切れの時間の重なり。シュレッダーにかけた紙片の山のように、色とりどりの紙吹雪が、吹きすさぶ風に舞い上がる。
私たちも流れに沿って階段を降りようとした矢先、いつもとは違うささやかな変化が訪れた。
「お、坂井じゃん」
「おはよー」
「はよー」
少し先から、同じ制服に身を包んだ学生が此方にやってくる。
紺色のブレザーが三体。同じものを着用している筈であるのに、三者三様。着こなしから醸し出される雰囲気は其々に個性的だった。
三人からの挨拶に隣から反応の声が聞こえる。
もしかしなくとも、どうやら信思君の知り合いのようだ。
親しげな雰囲気から、クラスメイトか友人か、何れにせよ仲の良い友達なのだろう。ならば、私が出る幕は無い。ここまでだ。
折角の雰囲気に水を指す訳にはいかない。その位は弁えている。
ほんの少しばかり早いお暇を願おうと私は隣の様子を窺った。
見上げた先には、どことなく不機嫌そうな顔があった。
要するに色々とタイミングが悪かったらしい。知り合いに舞台裏を覗かれて、戸惑いを覚える感じに似ているだろうか。そんなことを考えて、地味に傷つく自分がいる。
「それじゃ、先に行くわね」
『お友達も来たようだし。また、明日』
言外に含む台詞を交えながら声を掛け、笑顔で数歩、前へ足を踏み出せば、
「あ、待って」
反射的に伸ばされた腕に身体を引かれ、私は振り返った。
階段間際のプラットホーム。立ち位置を瞬時に確認して、同志たちの流れを堰き止めないように脇に一歩逸れた。
『どうしたの?』
視線で問いかけてみる。
「改札まで」
少し焦れたような色を瞳に乗せて、信思君は此方を見ていた。
その反応に、私は少し戸惑った。
改札はもう眼と鼻の先。重なりあった通勤・通学の軌道は、もうすぐ最終地点を迎える。別れを伝える場所が、今日はほんの少し手前になっただけで。そこに大きな差など無いだろうに。
何か言い残したことでもあったのだろうか。
「でも、いいの?」
近づいてくる制服の一団へ、私は遠慮がちに視線を走らせた。
此方の言いたいことが分かったのか、返ってきたのは簡潔な頷きが一つ。
そして腕を掴む手は離れることはなく、そのまま本流へ飲まれるように私は共に階段を下りたのだった。
一瞬、後ろを振り返った信思君は、何か合図のようなものを友人達に送ったらしかった。ふと顔を上げた際に、その内の一人と目があって。私は、申し訳なさを誤魔化すように謝罪の笑みを浮かべていた。
驚きに見開いた顔が網膜に残像として残る。
向こうの反応は、気に止めないことにした。
「良かったの?」
階段を降りながら、ついつい気になってしまったことを訊いていた。
「何が?」
「あのお友達……」
「どうせ、すぐ合流するんだから問題ない」
淡々とした答えが返ってくる。
確かに、それはそうだろう。
改札を抜けた後でも通学路は続いている訳で。そこから先でも彼らには十分時間があるのだ。
「そう」
「それよりも、俺的にはこっちが優先事項だから」
改札を出た去り際、そっと手を握って。
『また、明日』
威力のある微笑みを惜しげもなく曝してから、私にとって少し特別な紺色のブレザーは、同じような格好をした人波の中へ消えていった。
其の背中を視界の隅に拾い上げて。
クラスター爆弾のように弾け飛んだ残像が、幾つもの驚異的な不可逆的欠片となって、私の体内を埋めてゆく。
まるで電子レンジで温めたコップの中の水のようだ。突沸現象。急激に加えられた熱が、行き場を失って多くの水泡を作り出す。
自分の掌に残るその熱を私はそっともう片方の手で握ってみた。在る筈のない余韻を少しでも長引かせようと悪あがきをしているみたいで、思わず自虐的な笑みが零れた。
白旗を上げる日は、そう遠くないのかもしれない。そんな予兆を何処かで歓迎している自分がいた。




