第八話 憧憬と恋慕の乖離率 27.70 %
今回で一つの転機を迎えます。
偶々、会社を早く上がったその日、私は駅へと向かう道の途中で、意外な人物を見かけた。
帰り道に本屋に立ち寄った後、人通りの多い道を流れに沿って歩いて行く。
ふと道を渡ろうと斜向かいの通りへ視線を投げた時だった。
夕方特有の気だるげで緩慢とした流れの中、人混みに混じるその横顔を見つけた。
すらりと伸びた背中は、濃紺のブレザーで覆われている。
毎朝、同じ駅を利用しているのだから、それはある意味予想の範囲内の出来事ではあったのであろうが、朝とは違う時間風景の中にその姿を見るのは、何故か、私の中では新鮮に映っていた。
その隣には、同じ紺色のブレザーに身を包んだ友人らしき人物が二人いた。
私は、まるで探偵になったような気分でその背中を眺めた。
朝とは違いゆったりとした歩調で歩くその集団を私が追い越すのに大して時間は掛からなかった。
そのまま気が付かない振りをして、颯爽とした足さばきで脚を進める。
カツン、カツンとパンプスのヒールがアスファルトにぶつかって小さく音を立てる。
私は、そのまま、何気ない振りをしてその集団を追い越そうとした。
「あれ、……真帆櫓さん?」
だが、密かな計画は―――――――耳を掠めた小さな呟きによって簡単にも覆されてしまった。
気が付けば、私の隣には、その紺色のブレザーが並んでいた。
朝とは逆のパターンだ。
乗車する駅が同じであるならば、当然のことに降車する駅も同じで。
少し不思議な気持ちで、私は電車に揺られ、自分の家がある最寄り駅に降り立った。
「真帆櫓さんさ、今……彼氏……いないんだよね」
道すがら不意に掛けられた問いに、釣られるようにして私は隣を歩く人物を見上げた。
「……いないけど。どうしたの。急に」
話題が急に飛躍するのは今に始まったことではないが、いささか突拍子がなかった。
意図を測りかねて、曖昧な苦笑を返しながら、その真意を探る。
「好みのタイプって……どんな感じ?」
女同士で普通に世間話をするように話題を振られて、
「なぁに?」
その裏には何があるのか。反射的に答えを出すには、相手が少し奇妙であった。
「どの辺までが許容範囲?」
だが、こちらの意図を介さずに問いは進んで行く。
「どこまで?」
噛み合わない問答でも、いつかは辿りつく場所があるのだろう。
「年とかさ」
「さぁ、どうかしらね」
行間に含まれることを探り当てながら、私は益々首を傾げた。
「実際にそういう状況になってみないと……解らないかなぁ」
そして、不意に思い当たったことに小さく笑いを零す。
「どうしたのよ。キミがそんなことを気にするなんて。何か相談事でもあるの?」
議題は明らかに恋愛関係。珍しい話題を振ると思ったら、口慣らしの前振りの積りであったのだろうか。
信思君は、チラリとこちらに視線を流したかと思うと、ゆっくりと息を吐きだした。
まるで躊躇いを払拭しようとするかのようだ。
暫し、意味不明の沈黙が落ちる。
暫くして、意を決したのか徐に切り出した。
「あのさ。俺、……立候補、したいなって思って」
軽さの中にも、どこか真剣さを帯びた声だ。
「立候補?」
学校で選挙か何かがあるのだろうか。益々混迷を深める話の糸口。その根底にある共通土台が見つからなくて、私は、まじまじと少し上にある切れ長の瞳を見つめ返した。
揺らぐ黒い瞳が、私の眼前に捉えられる。
「そう。ガキは…範囲外?」
「ええと…。つまり?」
「だから、俺じゃダメかなって話」
そう言うと目を細めて、口の端をくいと上げた。
「許容範囲……年齢……キミが……立候補……」
鸚鵡返しに会話をリフレインする。
何度か、頭の中で繰り返して、導き出された答えに私は目を見開いた。
立ち止まって、本意を確かめるように顔を覗き込む。咄嗟のことに相手の額に手を伸ばしていた。
「なんだよ?」
「熱は……ないようね」
手のひらからは別段、緊急を知らせるシグナルは感じ取れなかった。
それでは原因はなんだろうか。
「あるわけないし」
「じゃぁ、何か変なものでも口にした?」
「どうしてそうなるんだよ」
訳が分からないと言う様に片方の眉が上がる。
確かに、自分でも妙なことをしているという自覚はあった。
だが、それ以上に、目の前に提示された事柄の方が私の理解を超えていた。
「だって、キミ。自分が何を言っているのか分かってるの?」
畳みかけるように問いを発していた。
俄かには信じ難かった。思いもよらない方からの矢文に慌てふためくといった具合か。気分は狐に抓まれたようなものだった。
「もちろん。コーコーセーは無理?」
答えが核心に辿り着いてゆく様が、放物線で描かれていた。
「からかってるの? 冗談も休み休みに…」
「まさか。んな訳ないじゃん」
見下ろす瞳は穏やかで、少しだけ不服そうに小さく笑う。
「俺は、至って真面目だけれど?」
「……………」
私は何と答えたらいいのか分からなかった。
それだけ、衝撃が大きすぎて、思考が一時停止する。
「ごめん」
「何で謝るのよ?」
「困らせてるみたいだから」
「ええと。あのね。ちゃんと理解しているか、確認したいんだけど……」
「何?」
「つまりですね……その……キミは……私に対して……その…何か特別な感情を抱いているってことかしら?」
「そう。恋愛的な意味で、ね」
大きな肯定にもう一歩踏み出してみる。
「ようするに………恋人として付き合いたいってこと?」
「正解」
信思君は、満面の笑みで振り返った。
眩しすぎる程真っ直ぐで。
私は、自分の意志とは裏腹に鼓動が跳ねたのを認めざるを得なかった。
「随分といい趣味をしてるじゃないの」
「御褒めに与りまして」
「キミからしたら、私なんかオバサンじゃないの?」
本音と冗談が7対3の割合だ。
すると、今度は信思君の方が、こちらをまじまじと見下ろした。
「真帆櫓さん、それ本気で言ってる?」
「勿論」
「俺からしたら、真帆櫓さんは、とても……その…いい感じだけど? きれいで、優しくて、しっかりしてそうなのに、ちょっと抜けてるみたいな所があって……」
何を思い出したのか、クスリと小さな笑いを漏らした。
私は顔が熱くなる気がした。
それを誤魔化すように微笑んでみた。
「私は………キミより大分年上よ?」
「んなの気にしないけど? 今更じゃねぇ?」
横からついと手が伸びてきて、腰を攫う様に引き寄せられた。
突如として縮まった距離に息が詰まりそうになる。
「考えといて。返事は、今すぐじゃなくていいから」
耳元で、威力のある低音がそっと囁く。
「でも、その間も口説くから。覚悟しておいて。俺、こう見えて諦めが悪いから」
そして、自信たっぷりに口角が上がる。
余裕とも取れる挑戦的な態度に目眩がしそうだった。
だが、次の瞬間、私は堪え切れずに噴き出していた。
呆れると言うよりは、思ってもみなかった展開が何だか滑稽に思えて。
「……キミねぇ」
好意を寄せられて悪い気はしない。そうでなくとも、嫌な相手であれば始めから誘いに乗ったりはしないものだ。
これまで幾度となく繰り返された邂逅。だが、そこに感情の温度差があるのは明らかで。私としては意外な方向性にただただ目を瞬かせるのが精一杯だった。
誤解を与えるような態度をとってしまったのか。
いや、それでも自分の気持ちは、どうなのだろう。
突き付けられた無言の問いに、私は初めてぶち当たった。
それならば。実験をしてみようか。何処までなら大丈夫なのか。線引きは何処にあるのか。自分の気持ちを試してみるためにも。
それにしても、何故、よりによって私なのだろうか。周りにはいないタイプで物珍しかったからか。それとも、何か幻想のようなものを知らない間に重ねられているのか。例えば、未知のものに対する憧れのような。
―――綺麗なおねぇさんは好きですか。
その頃の年頃の子にとっては、垂涎ものの永遠のテーマではなかろうか。夢を見る年頃。
だが、残念ながら、自分は随分と違いすぎる。
私は慎重に言葉を選んだ。自分の考えをまとめるように。
「キミのことは嫌いじゃないわよ。どちらかと言えば、好ましく思ってる。うん、そうね。好きか嫌いかって問われたら、素直に好きって言えるわ。でもね。それは多分、もっと……一般的な広い意味合いで、キミが言うのとは感情の種類が違う気がするのよね」
私は困惑した感情をそのままに直ぐ傍にある顔を仰ぎ見た。
「自分でもよく分からないけれど。正直に話せば、吃驚してる。だって、キミからそんな風に見られているなんて思いもよらなかったから」
私は真逆、自分がその子の許容範囲内に入っているとは思っても見なかった。そういう話は、フィクションの題材としてなら、それこそ沢山存在するのだろうけれど。これは私にとっての現実世界で。妄想や想像では片付けられない所だ。
「じゃぁ、これからは意識してくれるってこと?」
どこか期待に満ちた眼差しに当たって、私は苦笑するしかなかった。
「そうね。少なくとも平静ではいられないかも」
そう。その通り。意味合いを知ってしまったら、その後、その子の全ての言動や行動は、ある一定のフィルターが掛かることになってしまうだろう。それが全てある一つの感情に起因するのだ。
とても原始的で、表裏のない、隠しようのない感情。
気持ちを正直に吐露すれば、信思君は、どこか嬉しそうに目を細めた。
「今はそれで十分。気長に行くから」
「一時の気の迷いかも知れないのに?」
そう、何かに当てられて。
「それって酷くない?」
「だって、信じられないんだもの。キミ、変わってるって言われない?」
自虐的過ぎるか。いや、しかし、幾ら人の好みは千差万別と頭では分かっていても、それは客観的見解に基づいた理論で、いざ自分がその位置に当て填められてしまうのとは、訳が違うのだ。
“Put yourself in their shoes.”(その人の立場になって考えてみる)
そこに落ちてみて初めて分かる感情。まだ、私には未知の領域だ。
それでも、いずれ、時間が回答を導き出してくれるだろう。
「益々、聞き捨てならないな。俺は自分の趣味には自信があるけど?」
「じゃぁ、そういうことにしておこうかしら」
どこか軽口に似た応酬を交わしながら、いつの間にか固く腰に回っていた腕を軽く叩く。
やがて、そっと離れていったもう一つの体温を何故か名残惜しく感じる自分がいることには、敢えて気が付かない振りをした。
これから何が変わるのか。そして、変わらないのか。
曖昧な揺らぎの中に芽生え始めたささやかな『カンジョウ』が、どんな意味合いを持つのか。
隣を付かず離れず歩いて行く、ゆったりとした歩幅に、私は自分の影を重ねるようにして脚を動かし続けた。
無自覚、無意識は恐ろしい。主人公は随分と鈍いかもしれません。
今朝の新聞で、厚労省の調査によるとセックスに無関心だったり、嫌悪感を持つ16~19歳の男性の割合が2年前から倍増し、35% 弱にまでなったとの記事が載っていました。ポーズなのか本心なのかは分かりませんが、かなり高い数値にびっくり。草食化を裏付けるなんてコピーが踊ってました。
さて、現実世界はともかく、このお話のもう片方の主人公はそうでないことを祈るばかりです。