第六話 激情と感情の乖離率 47.90%
今回は少し、趣向を変えて。お詫びの接待との名目で、映画を見に行ったお話です。かなり長くなりますが、お付き合いください。
2011/7/27 修正
次の日の土曜日。私は待ち合わせの時間より少し早めに到着した。約束の時間、十五分前行動。身についている癖は、中々抜けはしない。
携帯を鞄から取り出してフリップを開いた。
あの後、待ち合わせの場所決めやら時間決めやらの連絡は携帯のメールで行った。私自身、社会人生活が長い所為か携帯を使用している期間は長いのだが、お世辞にも余り使いこなせているとは言えなかった。
時折、思い出したように電話を掛けたり、メールをしたりするのに利用するぐらい。便利ではあることは認めるが、必要不可欠という訳でもなく、無くても別に困らないのが実情だ。最近、新しく買い換えたばかりで、基本操作は変わりなくとも、これでもかと付加されている機能に戸惑いを隠せない。本当に高機能・多機能の"Gadget"となった。
覚束ない手つきでメールの文字を入力する。キーボード入力に慣れている身には、片手で行う文字入力はもどかしくて仕方がない。
やっとのことで一通り簡単な連絡を送ったと思ったら、メール着信のバイブが振動する。返ってくる返事が、異様に早くて吃驚した。流石、携帯を身近に置いて使いこなしている現役高校生である。あの子も最新の電子機器を器用に使っているのだと改めて思った。
観たいと言っていた映画の時間は二時を過ぎたあたりとのことで、信思君は午前中、学校があって、先にお昼を一緒に食べようということになった。
休日に会社のある近辺まで出かける。少し妙な感じだ。
昼食を外で食べることも多いので、それなりに自分の行きつけのお店がこの界隈にはあった。あそこは美味しいとか、あそこはいまいちだったとか、会社の同僚から教えてもらった口コミ情報も活用できる。 こんな所で役に立つとは思いもよらなかった。
―――何が食べたいですか? 好き嫌いはありますか?
事前に確認をしておく。情報は多い方が選択肢の幅が広がる。
それに対する返事は、実に簡潔だった。
―――パスタ、イタリアン? 基本的に何でもOKです。
―――了解。駅付近で何件か心当たりがあるので、その中から選んでもいいかしら?
―――はい。楽しみにしてます。
駅前のロータリーで、いつも自分が通う会社とは反対方向の道を透かし見る。向こう側の道路から、学校帰りの紺色のブレザーを着た高校生と思しき男女がぽつぽつと見え始めていた。
男の子は、いつも目にする制服と同じで、女の子の方はグレーのグレンチェックの入ったプリーツスカートだった。それを見て男女共学であることを知った。土曜日に授業があるということは、やはり私立なのだろう。そう言えば学校の名前を聞いていなかった。まぁ、聞いたところで、地元民ではない私はこの辺りの土地勘がないので、取り立てて意味もなさないのだが。
そうこうするうちに紺色の集団の中に、見覚えのある人物を見つけた。向こうもこちら側に気が付いたようで、小走りにやって来た。
小さい人影が見る見るうちに拡大してゆく。そして、いつもの大きさ、見上げる位の形になった。
「ひょっとして大分待ちました?」
「そうでもないわよ」
急いたように尋ねられて、まだ時間はあると微笑んだ。
待ち合わせの時間まであと十分はある。早めに着いたのは私の方なのだ。その子に落ち度はない。
「なら、いいんですけど」
同じような制服姿が幾つも脇を通り過ぎて行った。
「なんか、いつもと感じが違いますね」
「そう?」
唐突に指摘されて、私はくすぐったさに身を竦めた。
この子と顔を遇わせるのは平日の朝で、仕事モードの服装ばかりだ。シャープで清潔な印象を与えるジャケットにタイトスカート。パンツスーツ。色も黒やグレー、ベージュのいわゆる基本色で落ち着いたものだ。良く言えばシンプル、悪く言えば地味で堅苦しいイメージだろう。
反対に今日は私にとっては休日で。平日の反動が来るのかオフの日は、普段着られないような服が着たくなる。柔らかなシフォンのスカート。パステルカラーのニット。ジャケットもカーキのミリタリー風で、力の抜けた随分とカジュアルな風合いのものを選んで、首にリネンのストールを巻きつける。辛口の中にもどこか甘さのあるニュアンスだ。デニムやジーンズといったもっとカジュアルなものにしようかとも迷ったが、久々に優しくて春らしい明るい色を身につけたくなった。
「それじゃぁ、先にご飯、食べに行きましょうか」
美味しいパスタが食べられるというお店を幾つかピックアップしていて、その候補の中から、ランチを取る店を決めることにした。気負わずに入れるカフェに似たカジュアルレストランが良いかもしれない。 リクエスト者の希望も考慮して、余り騒がしくない落ち着いた所に決めた。
そのお店は、駅前の通りを一本中に入った路地にあった。店構えはさほど大きくはないが、中に入るとそれなりに広さがある。落ち着いたジャズやクラシックが掛かっていて、飴色のテーブルや椅子が置かれた店内は、何処となくレトロな雰囲気だ。壁に掛かっている複製画は、アヴァンギャルドの抽象画が殆どで、私の好みと一致していた。
勿論、ここで出されるパスタの味も折り紙つきだ。味には煩い職場の女性陣も皆が一致して認めている。長年通っている所為か、この店を切り盛りしているマスターとも顔見知りになっていた。
「こんにちは」
鈴やかなベルが鳴る硝子戸を開けると、若いウエイターが笑顔でやって来た。
白いシャツに黒いネクタイ、黒のスラックス。黒のダブリエを颯爽とした足さばきで見事に穿きこなす。平日の昼間では見たことがないギャルソンだった。
「いらっしゃいませ」
ここも平日とは違った緩やかな時間が流れている。
「何名様でございますか」
「二人です」
「では、こちらへどうぞ」
カウンターにいるマスターがこちらに気が付いて、珍しいとばかりに片方の眉をくいと上げた。
それに軽く微笑みを返す。
これは私なりの言うなれば接待だ。お詫びの印という。当然相手は上座。信思君を奥に座らせて、私たちは差し出されたメニューを開いた。
「なんでも好きなもの頼んで構わないですからね」
気分は年の離れた親戚の子をご飯に連れてゆくみたいな感じだろうか。
この位の年の子がどれだけ食欲旺盛なのかは実際のところよく知らない。折角だから、遠慮などして欲しくはなかった。
「いらっしゃい。休日出勤か?」
お冷とおしぼりの乗ったお盆を手にマスターがやって来た。
無精髭がやけに様になっている。山男のような豪快さは、いつ来ても変わりがない。客商売なのだから、もっとこざっぱりしたらどうなのかと思わないでもないのだが、それは既に彼のデフォルトになっていて、竹を割ったようなさっぱりとした性格と相まってか、違和感を覚えさせない程になっていた。
まぁ、その分、ウエイターで入る子達は、綺麗さっぱり爽やか系の感じが多い。それで全体の印象としては、プラマイゼロというところかもしれない。
「違いますよ。今日はプライベート」
会社の同僚以外とここで食事をするのは、考えてみれば初めてだった。
氷の入ったコップをテーブルに置きながら、マスターは私の正面に座る顔を見て、意味深な流し目をくれた。
「デートか?……っていうには若すぎるか。なんだなんだ、途中で引っかけたのか?」
確かに相手は制服を着た、どこからどう見ても高校生だ。同じように制服を着た女の子が傍にいるならともかく、傍目から見ても私との釣り合いは取れてないのかもしれない。
親にしては若すぎるし、姉弟にしては、成立しなくもないだろうが、微妙だ。自覚があるからこそ、敢えて他人から指摘されると面白くない。
だが、まぁ、マスターはそんなことをいちいち気にする様な人ではない。口は少々悪いが、他意はないのだ。
こんなやり取りは日常茶飯事で。
だから、私の方も、
「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ。誤解してしまうでしょう?」
冗談を軽く笑っていなす。
それ位の軽口は叩ける間柄ではあった。
「マスター、今日のお勧めは何ですか?」
これ以上弄られては敵わないと話の流れを変える。
「旨いアスパラが入ったからな。アスパラとイベリコ豚のハムのリングィネはどうだ?」
やはり本職の料理人。話題がメニューになれば途端に顔つきが真剣になる。アスパラはこれからが季節の旬の食材だ。想像するだけで、唾液がじわりと滲んで出てくる。
「じゃぁ、私はそれにしますね」
顔を正面に戻して、メニューを眺めている姿に声を掛ける。
「キミは何にする?」
「カルボナーラ」
メニューから顔を上げてその子が言った。
「了解。アスパラのリングィネとカルボナーラな。まぁ、今日は平日と違ってバタバタしていないし。ゆっくりしていってくれ」
豪快な笑みを浮かべて、マスターが厨房へ入って行った。野太いバリトンがやけに軽快に響く。それを見送ってから、私はちょっとした秘密を打ち明けるように目くばせした。
「味は保証しますよ」
「ここ、よく来るんですか」
物珍しそうに辺りを見渡しながらその子が聞いた。
「そうね。そんなにちょくちょくという程ではないですけれど、通い始めてからは長いかしらね」
社会人を何年も続けていると、必然的にお昼はこの界隈で探すことになる。
私は概して保守的なのだが、その日の気分に合わせて何種類かのお気に入りのお店を持っている。偶には自分でお弁当を作ったり、社内のカフェテリアで食べたりはするが、デスクワークが大半の所為か、会社の外に出るという気分転換が必要だった。
この場所にもなんだかんだ言って通い始めて四年。大した浮気もせずに細々とした通いは続いている。客観的に見れば、確かに長いかもしれない。
「常連さん?」
「ある意味、そうかもしれないですね」
「だから仲が良いんですね」
「ああ、マスターのこと?」
「さっきの人がマスター?」
意外だったのか少し驚いたような声がした。カウンターの向こうが少し気になるようでチラリと視線を向けた。
「そう。あんな見かけでも、基本的に気さくでいい人なんですよ?」
戻ってきた視線に目くばせをして苦笑を返す。
「ふーん。でも、何か納得」
「そう?」
「あの、真帆櫓さん」
テーブルの上にあるお冷を一口飲んでから、その子が徐に切り出した。
「なんか今までタイミング逃してたんですけど、俺に対して敬語じゃなくていいですよ。こっちの方が下なのは明らかだし、気を使わないで下さい」
「そう? キミはこういうの、苦手かしら?」
「なんか堅苦しいっていうか。自分に使われるのは変な感じです」
「確かに慣れないうちは妙なものかもしれないですね。でも、そのうち社会に出れば嫌でも使わざるを得ないんですから、今のうちから練習しておくというのはどうですか?」
冗談半分に提案をすれば、眦が下がった。
「うーん、出来れば……それは遠慮したいです」
相手が年下であることは明らかであったが、未だ距離感を測りあぐねていた。
一応、社会人として丁寧な言葉使いはそれなりに身についている。余り親しくない相手に対しては、踏み込むことはできないのだから、一律に一歩引いた話し方を心がけている。それは年が離れていようとも同じ事であった。
「キミも相手によって話し方を変えているでしょう? 例えば、学校の先生とか」
「あー、まぁ、先生によりますかね。中には口の汚い教師もいますし。担任とかは普通に話してますけど……」
「それは気心が知れている証拠ですね」
大人になれば、余程親しい関係を築かない限り、砕けた言葉遣いにはならない。言葉の調子はそれこそその相手との親しさの度合いを測るバロメーターでもあるのだ。
「真帆櫓さんの話し方、凄い綺麗ですけど、俺としてはなんか距離を置かれてる感じがするんですよね」
それは当然だ。
だが、面と向って正直に指摘されるのは初めてかもしれない。
「ふふふ、だって、キミとはまだ知りあって間もないでしょう?」
私としては、そんな相手にいきなり砕けた調子で語りかけることは性格上、無理だった。
「それを言われたらそうですけれど……」
暫し、沈黙が落ちた。
「そうね。キミがそう言うのなら。この話し方、少し癖になってしまっていて、慣れるまで切り替えがスムーズに行くかは分かりませんが、努力してみましょうか。まぁ、追々ということで目を瞑っていただけると有り難いですけれど」
私は気持ちの整理を付ける為に一口、水を口に含んだ。
「その代わり、キミも無理して敬語を使わないこと。それなら、いいわよ」
「じゃ、そういうことで」
ぎこちなさは残るものの目を見交わせて小さく笑った。
暫くして、ホカホカと湯気の立ち上るプレートを手に、颯爽とした足捌きでギャルソンがやって来た。
「お待たせいたしました」
慣れた手つきで皿を並べると、来た時と同じような優雅さで踵を返した。
「……ウマい」
一口目にして、目を見開きつつ漏れた一言に、私は内心ほくそ笑んだ。
自分が美味しいと思う味を共有できるのは、やはり嬉しい。マスターの腕が特別であることは確かなのだが、自分が褒められたような気分になる。
そして、私もその喜びを共有すべく一口。
「うん。こっちも美味しい」
流石である。パスタは手軽な感覚で家でも作ったりするのだが、中々にコツがいる。茹でる時間とか絡めるソースの配分とか。当たり前だが、自分ではどうひっくり返っても外で食べるような味にはならないのだ。素人が真似ようとして見ても上手くはいかないのが落ちなのだが、レシピの参考には多いになる。食材の組み合わせや調味料の配合。思いも付かないようなことが沢山あって、マンネリ化しがちなご飯作りには程良いスパイスとなるのだ。
チラリと流し見たカウンターの向こう側、マスターが得意げに口の端を吊り上げていた。こちらの反応など筒抜けなのだ。確かな腕による自信が、豪快さの中に覗いている。
『どうだ。旨いだろ』
その目に、親指を突き出した拳を掲げて見せる。
やけに破顔したと思ったら、正面の信思君も同じように合図を送っていた。
ここにも同志がいた。いや、将来的な同志予備軍か。
そして自分の皿の味を確認した後、必然的に気になるのは目の前のもう一つのお皿。一人では味わえない食事の醍醐味がそこにはある。
「食べてみる?」
ついと皿を前に滑らせる。お行儀が悪いには違いないが、目を瞑ってもらおう。
「じゃぁ、こっちもどうぞ」
交渉成立。
フォークに絡めて、互いにそれぞれの味を噛みしめるように味わう。
美味しい物を食べると人は幸せな気持ちになる。ささやかなことだが、とても大事なことだ。
その後、マスターがサービスだと言って小さなピッツアを持ってきた。私が大好きなマルゲリータだ。酸味のあるトマトソースに熱々のモッツアレラチーズ、そしてバジルが乗っている。イタリアの国旗を彩ったトリコロール。実にシンプルで素材の味が際立つ逸品だ。
やけにサービスがいい。
「うわぁ、美味しそう。マスター、いつもありがとうございます」
鼻腔を擽るいい匂いに私の口は緩々になっている。食べ物で簡単に釣られる、か。だが、この魅力にはなかなか抗えまいに。
「こちらこそ、今後とも御贔屓に」
賂の積りなのだろうか。そんな勘ぐりをついしてしまうのも仕方がないだろう。少し含みのあるような色をその目に浮かべて、向けられた信号を解読する。
―――今度、じっくり話でも訊かせてもらおうか。
―――さて、なんのことでしょう?
私はその暗号に気が付かない振りをして、焼き立てのピッツアを前のテーブルに勧めた。
「どうぞ。熱いうちに」
カウンターに戻ってゆくマスターが、小さく肩を竦めたのが視界の隅に入った。
映画館は休日の昼間とあってか、かなり込み合っていた。駅前にあるシネコンは老若男女で凄い熱気だ。
チケット販売のブースに並んだ。
「一般…」
「一枚と学生一枚で」
注文を入れようとした矢先、長い腕が伸びて窓口に生徒手帳が差し出されていた。
学生には割引料金が適用されるのだった。今となっては懐かしい。私も学生時代はお小遣いを遣り繰りして映画を観に行ったものだ。
しっかりしている。
「そうか。キミには学生料金が適用されるのね。ありがと」
「いえ」
係りの人が案内するプレートから座席を選ぶ。上映時間二十分前だと言うのに、今の時間帯は余り人気がないのか、席は結構いい場所が取れた。後方でやや真ん中寄り。申し分ない。
「飲み物は何にする?」
「あー、じゃぁ、ジンジャーエール」
「サイズは?」
「レギュラー。つーか、真帆櫓さん、俺、自分で払うよ」
カウンターへ向かう私の後に付いて、ポケットから財布を出そうとする手を笑って押しとどめさせる。
「いいの、いいの。さっきのチケットが浮いた分と思えばいいでしょ。キミはまだ学生なんだから」
社会人としては稼ぎのない学生にお金を支払わせるわけにはいかない。というよりもこちら負担でなくては今日の趣旨から外れてしまう。今日のコースは汚してしまったシャツのお詫びを兼ねているのだから。
「今日は素直に奢られておきなさい。ね」
そう言うと、暫く思案していた風だったが、やがて渋々と頷いた。
「それじゃぁ、ごちそうさまです」
「はい。素直でよろしい」
その子が観たいと言っていた映画は、イギリスの現代ものだった。一人では入りにくいと言うものだから、一体どんなマイナー映画かとミニシアター系の作品を予想していたのだが、意外にも大きな映画館で掛かっている作品だった。
だが、まぁ、確かに。大衆受けするようなハリウッドのアクションでもSFでも、ファンタジーでもなく。かといって若者受けするような熱い青春映画や邦画でもなく。ジャンルとしてはコメディー寄りの恋愛ものか。
大元の原作はイギリスの有名な古典的文学作品で、それをベースに現代向けにパロディー化された小説が下敷きにされている。原作本は何年か前に日本でもベストセラーとして持て囃された。『働く女性たちの間』で、という注釈は付くが。まぁ、やはり男の子が一人で観に来るという感じではないだろう。ターゲットは現代の働く二十代から三十代の女性。恋に仕事に、女の赤裸々な本音が覗いて。えげつないと言えばえげつない。ロマンとはかけ離れているものだ。確かに独りで来るには勇気がいるかもしれない。
それにしても、その選択はやはりかなり意外だった。
私は随分と前に原作を読んでいた。続編と併せてペーパーバッグで二冊。主人公の日記形式をとった独白スタイルで快活な文章。その大元にもなった古典作品も読了済みだ。現代版単体だけでも面白いが、原作を知っていて、尚且つBBCが作成したドラマを見ていると可笑しさは倍増しになる。小憎らしいリンクを張っていて、知っているものからすれば思わずにやりとしてしまう様な粋な演出だ。
原作も面白いと思ったが、映像化された作品も可笑しかった。大口を開けて笑うのではなく、小さな笑いを思わず漏らしてしまう様な、イギリス作品らしい展開だ。
「ねぇ、この映画を選んだ理由、聞いてもいいかしら。あ、勿論、差し支えなかったら…でいいんだけれどね」
上映終了後、どこか映画の余韻を引き摺りながら薄暗いカーペットの上を出口へ向かって歩いた。
隣を歩く信思君は白いワイシャツに覆われた手をぼんの窪にやって、視線を少し彷徨わせた。
「……聞いても、笑わない?」
チラリと横目でこちらの様子を窺う。
「それは、話の内容に因るわね」
少し意地悪な気がしないでもなかったが、正直なところはそうだ。
「その言い方、ずりぃ」
ぶすりと不服そうに漏れた声に思わず噴き出した。
「ふふふ。じゃぁ、例え可笑しかったとしても、極力笑わないよう努力します?」
「何で疑問形?」
「そこは、余地を残し置かないとね」
もしもの時の逃げ道を確保しておくことは重要だ。たとえそれが言葉遊びであったとしても。
だが、少し真面目な顔つきを作ってから言葉を継いだ。
「でも、莫迦にしたりはしないわよ。いいじゃない。イギリス映画。今日のは、とても面白かったし、別に可笑しなことではないと思うわよ?」
久しぶりに笑った。そして、映画のヒロインが少し羨ましくなった。色々な意味で。あれは現実の舞台装置を借りた妄想だから成立するのだということが分かってはいても。夢を見るぐらいはいいだろう。
「真帆櫓さんは、ああいうの有りだと思った?」
「筋書きのこと?」
「んー、それも含めて。共感するところとかあった?」
私は質問の意図が掴めずに頭上に疑問符を並べていた。
こちらの当惑が分かったのか、隣から、やや自虐的というか、観念したような溜息が洩れた。
わしわしと髪を掻き上げる。
暫しの沈黙の後、躊躇いがちにその子が口を開いた。
「あああ、なんつうかさ。……女心を、理解したいなら観てみろって、勧められた」
女心とな。
とても意外な言葉を耳にした気がして、斜め四十五度からの変化球に私は目を瞬かせた。
先程見た映画のシーンに二つの質問とその話を重ね合わせてみる。
その云わんとするところは何か。随分と含みのありそうな展開ではないか。
それは、私の好奇心を刺激するには十分だった。
「付き合ってる女の子にそう言われたの?」
からかい混じりに事情聴取のような気分で問いを発する。
「いや。そんなんじゃないけど……」
問いの出てくる背景が分からなくては、こちらとしても返答に困る。そう思って聞いてみたのだが、あっさりと否定された。
一体、どういう話の展開でそんな方向になったのやら。
私には解りかねるが、人に勧められて実際に映画館へ足を運んでいる位だから、信思君にとってはそれなりに重要な事なのだろう。随分と健気なことではないか。気真面目で堅物そうな見かけからは想像もつかない話だ。
微笑ましくて、つい口元が緩んでいた。
「そんなことを言うのは女の子よね」
気になる相手なのだろうか。その子の考えていることが知りたくて。普段なら絶対に選択しないような映画を観に来た。
「女の子…つうか、女の人?……クラスの奴らと先生が話してて」
その中に意中の子が紛れていたとか。
「女性陣が集まって、恋の話で盛り上がっていた訳?」
「さぁ、どうだろ」
年頃の女の子達。恋の話に心を躍らせるのは想像に難くない。そこにこの男子高校生がどう絡んだのかがいまいち分からないが。
「そこでキミも話に加わったんじゃないの?」
「いや、何で?」
「だって、そうでもなきゃ、キミにこの作品を観るようになんて勧めないんじゃない?」
「ああ、それは……なんか偶々、成り行きで……」
随分と歯切れの悪い答えだ。信思君は、それ以上は言いたくないようで、軽く肩をすくめてみせただけだった。
それならば、こちらがこれ以上突いても詮方ない。
「成程ね」
私は話の流れを元に戻すことにした。
「で、キミとしては、何か得心するところはあったのかしら?」
「……どうだろ」
その子は、片方の手をポケットに突っ込んで、どこか遠くを見遣った。
「訳分かんねぇってことは確かだけど……」
勧めた相手が何を言いたかったのか。そんなことを考えているのだろうか。
青年よ。多いに悩み給え。
これはきっと期間限定の悩みだろう。
私は、もう随分前に失われてしまった青臭さをどこか懐かしむ思いで口を開いた。
「映画の話云々は抜きにして、男の人は概してロマンチストな所があるからね。こんなこと言うとがっかりするかもしれないけれど、女は結構、打算的よ。論理的な思考回路を持つ男に対して、女は感情的だなんて言われることが多いけれど、いざとなったら実に冷酷で、薄情な程に現実を見て、感情を切り捨てることができる。不要な物をばっさりと切り捨てることができると思うの」
それは、つい漏れてしまった本音だった。
「何か………実感、籠ってない?」
突然、変わった空気に相手の戸惑いが伝わってきて、慌てて軌道修正する。
「ふふふ。私もそれなりに歳を取ってるからね。まぁ、色々あるわけよ」
こんな年端のゆかない子供相手にする話ではないだろう。突然こんなことを聞かされても困るだけだ。 引かれただろうか。我に返って、チラリと横を見上げる。
だが、その表情からは特別、これと言った感情の機微を読み取ることは出来なかった。
展開が余りにも唐突過ぎたかも知れない。自嘲気味な苦笑が漏れた。
小さな咳払いを一つ。
軌道を元に戻して、順を追っていくことにした。
「この映画の原作、知ってる?」
その子は緩く首を横に振った。
話はそこからなのだ。この映画を何の事前情報もなしに、ただ見ただけでは、単なる現代恋愛コメディーということになってしまう。本来の面白さの三分の一ぐらいしか残らないだろう。
そこで、私は補足的な説明を加えることにした。
「今回見た作品はね。全面的にパロディーというか、お遊びなのよ。この作品自体は何年か前にベストセラーになった小説を基に作られているんだけれども、その小説自体がすでにパロディーで二次的作品なの。大元はイギリスの古典的文学作品。名作と言われているもの。18世紀末から19世紀初頭のイギリス、時代としてはナポレオンの頃の作品なの。ここまでは、いい?」
「二百年前?……」
声に驚きが混じっていた。
チラリと隣を見上げる。幸いにも此方の話に興味を持ったようだった。
「そう。その位にはなるわね。小説のタイトルは、"Pride and Prejudice"、邦訳だとなんだかしっくりこないんだけれど、『高慢と偏見』っていうのが多いかしら。作者はJane Austin。女性よ。聞いたことある?」
「うーん。あるような……無いような」
相手は高校生の男の子、無理もない話だ。
知っていたら、かなりの文学少年ということになるだろう。
「ふふふ。まぁ、知らなくても仕方がないわね。今時、女の子でも中々手が出ないだろうし。それはいいとして。話の舞台設定は、1800年代の初頭。イギリスの貴族社会のお話なの。外に目を向ければナポレオンが台頭し、男たちが戦争に明け暮れている時代。そんな時にジェーン・オースティンは専ら、イギリス貴族社会の生活、中でも女の幸せのあり方みたいなことをせっせと小説にしていた訳。勿論、戦争の影響はお話の中にもあって、海軍の将校は登場人物の中にも結構出てくるのだけれどね。遠く掠る程度かしら。女性側の認識だから、当然と言えば当然なのだけれど。
だから、偶にトルストイと比較されたりするわ。同じナポレオン時代の話を描いているからね。同じ貴族社会でもトルストイの超大作『戦争と平和』は戦争を全面に取り上げて、そこに巻き込まれてゆくロシア貴族の将校を一つの軸に取り上げているけれども、ジェーン・オースティンの方は戦争とは切り離されて、小さな家庭というかこじんまりとした家族の内輪の話に纏まっているってね。同じ時代を取り上げているのに、こんなにも作品が違うという例かしら。でも、どちらが優れているとか、劣っているとか、そういう優劣をつける話ではないのよ。どちらとも素晴らしい作品で。現代に至るまで、名作として語り継がれているのだから」
隣を見上げると、その子は何とも言えない顔をしていて、自分が一人だけ熱くなってしまったことを知った。
「ごめんなさい。ちょっと脱線しちゃったわね」
誤魔化すように苦笑をした。
「なんだが、文学の授業を聞いてるみたい」
「ふふふ。そうね。キミには詰らないかも知れないけれど、もう少し我慢してね」
「いや、詰らなくはないよ。真帆櫓さんの話、分かりやすいし。それに、そういう基本前提がないと内容が理解できないんだろ?」
「そうね。折角の面白みも半減しちゃうかもね」
物分かりのよい生徒で結構だ。
「それで、原作の話の内容は、とある中流貴族の姉妹の恋愛というか結婚相手を探すお話なの。
当時、女に生まれたからには、お金持ちでしかるべき家柄の相手と結婚して、家庭を築くというのが至上命題だったわけ。それはもう切実な、ね。イギリス貴族の財産相続権は男のみで女にはなかったのよ。だから親がいれば娘が結婚しなくても大丈夫っていう話にはならないの。娘しかいない家は大変な訳。折角の財産も全て遠い親戚で会ったこともないような男の元へ渡ってしまうのだから。
主人公はとある中流貴族の五人姉妹の上の二人。近所、といっても今みたいな感覚では無くて、何キロも先にある隣のお屋敷という感じだけれど、そこに新しく都会から上流貴族が移り住んできて。小さなコミュニティーが大騒ぎをするの。その中でパーティーが開かれて、姉の方がそこの長男と惹かれ合う傍ら、妹の方は、その友人である身分ある男性と知り合うところから話はスタートすると言えばいいかしら。お互いに第一印象は最悪だったんだけれども、時間が経つにつれてお互いの違う面が見えてきて、まぁ間にはそれぞれの妹達や他の女性たちの思惑だったり、妨害があったり、お互いの誤解があったりするのだけれども、最終的には相思相愛ということが分かってゴールイン。ハッピーエンドとなるの。強引な感じだけれど原作の簡単な粗筋はこんなところね」
そこで一端、区切りを入れた。
「ふーん?」
何とも言えない相槌だ。
だが、全く興味のなかった分野の話を聞かされれば、そんなものだろう。
「なかなかピンとこないかしらね。あともう少しの辛抱だからね」
「いいよ。続けて」
「それで、この小説の話が、映画の原作の下敷きにあるの。プロットと言えばいいかしらね。同じような話の流れを現代に持ってきて、笑いを取る感じって言えばいいかしら」
それから、喉の奥に引っかかる小さな笑いの小骨を取ろうと、咳払いをした。
この可笑しさが少しでも相手に伝わればよいのだが。
「それにね。余計に可笑しいことに、この原作はBBCでも名作古典シリーズでドラマ化されているんだけれども、そこで実際に主人公が恋をすることになる相手、偏屈で堅物な上流貴族の役、Mr. Darcyをやっているのが、今回の映画の主人公の相手役をやっている俳優さんなの。そこでもう、知っている人は可笑しくて仕方がないわけ。人気のドラマシリーズだったから、イギリスでは皆が知っていることで。この作品が単なる恋愛映画というよりも、パロディーのコメディーって色が強いのはその所為ね。勿論、大元の古典作品が愛されていて、それ自体がとても面白いから、現代作品のパロディーになってもその人気に大きな火が付いたって言えるのだけれどね」
「ふーん。そんな仕掛けがあったんだ。じゃぁ、つまり、真帆櫓さん的には、この映画自体はあまり参考にならないって言う感じ?」
「どうかしらね。女心云々については……そうねぇ。これよりも原作の方がいいかしら。でも、それもイギリスの19世紀、貴族の話だし、舞台設定というか時代背景が随分と違うから、今の現代の女性心理には余り参考にはならないかもしれないわね。
ただ、今回の映画も現代のイギリスの働く独身女性の話という風に見れば、それなりに女の本音みたいなものが見えてくるのだろうけれど。それを日本の女の子に置き換えてみるのは、少し乱暴すぎるとも思うわ」
自分なりにそう結論づけて、私はやはり首を傾げる羽目になった。
「そうなると、これを勧めた人が何を思ったのかは、実際に本人に聞いてみないと分からないわね。色々分析してみたけれど、私から言えるのはこんな所かしら」
少なくとも、自分には女心と云々というのは読み取ることが出来なかった。
「ごめんなさいね。役に立たなくて」
同じ女の端くれとして、他の人の意見が聞きたくて誘ってくれたのだろうけれど、その目論見は結果的には上手くいかなかった訳だ。
「なんで、そこで真帆櫓さんが謝るのさ」
信思君が小さく笑った。
「だって、少なくとも何らかの講釈を期待していた訳でしょ?」
「いや、別に?」
穏やかな瞳が私を見下ろしていた。
「それは…単なるきっかけに過ぎないっていうか。俺としては有意義な話が聞けて良かったと思うけど?」
「有意義?」
「そう。真帆櫓さん、結構、物知りだね。俺的にはそっちの方が吃驚した」
変わった矛先に苦笑を返す。
「ああ。今回は偶々よ?」
偶然知っていた知識が役に立ったということに過ぎないのだから。買被られても困る。
「いや、ほんと」
そう言って少し先を歩いていたかと思うと、急に振り返った。
「あのさ…………手、貸して?」
「手?」
突然過ぎる申し出に戸惑う私を余所に、信思君はゆっくりと私の手を取った。
万年冷え性である私の冷たい手に、熱すぎるほどの他人の体温がじわりじわりと伝わってくるのが分かった。
「なぁに? デートの予行演習でもするつもり?」
お昼ごはんを食べて、映画を見て、手を繋いで。
相手が制服を着ているということを抜きにすれば、客観的に見ても、デートのように見えなくもない。 ただ、そこに介在するはずの感情は、あり得ないはずのもので。
その行動の理由は見えなかったが、だからと言ってそのことを深く考えはしなかった。
なんとなく人肌恋しいと思う時はある。気まぐれで手を取りたくなったのかもしれない。
「真帆櫓さん、手、冷たいね」
前を向いたまま、ぽつりと呟きが漏れた。
柔らかい低めの声は穏やかで、優しさに満ちていた。それだけで勘違いを起こしそうになるのだから、性質が悪いとしか云い様がない。
天の邪鬼なお年頃という所だろうか。そんなささやかな感情の動きに振り回される訳にはいかない。
「そう?」
動揺を隠すように同じように穏やかに微笑んでみた。
「……気持ちいい」
繋がった手に少しだけ力が籠った気がした。
無理に答えを求めることなど必要ない。
そのような曖昧で揺らぐ空間の中に、私たちは身を置いている。
目に見えないものはそのままで良いのだ。あるがまま。私の気持ちは私にしか分からなくて。相手が何を考えているのか、それも向こうにしか分からない。
人は、同じ景色を見て、同じことを思う訳ではない。その差があるからこそ、すれ違い、惹かれ合い、可笑しくて、哀しくて、どうしようもなく愛しくて尊いものなのだ。
繋がった場所から、気持ちが凪いでゆくのが分かった。
ざわめきはやがて止む。
心音が耳に心地よさを運んで来た時には、すっかり空気は元に戻っていた。
「今日はありがと」
「こちらこそ。私も楽しかったわ。久々に映画も見れたし」
繋がれたままの手は意識の外にあった。
そして、いつもの会話が繰り返される。
「でも結構、お金使わせちゃったね」
「気にすること無いわよ」
「そういう訳にはいかないよ」
それにしても意外に義理固い。というよりも借りを作って置くのをよしとしないのだろうか。おまけにしっかりとしている。若いのに大したものだ。
「ありがと。でも、気持ちだけ貰っておくわ」
年上の威厳というものに拘る訳ではないが、自分とその子の間にある立場の違いというものは、その子が考える以上に大きいものなのだ。それはまだ、相手には上手く伝わらないかも知れないが。
先だっての二の舞のように長引くかに思われた議論は、すぐに解決の糸口を見た。
「じゃぁ、何か手伝ってほしいこととか、困ってることとか、あったら言って。力仕事でも何でもするから」
それでも相手のことを慮って譲歩を弾き出すのだから、参ってしまう。
「そうね。なにかあったら、お願いするわ」
そんな何かが現れることなど無いだろう。
社交辞令と本心の線引きは難しいが、それは飽くまでも方便に過ぎない。
私は大人の端くれとして、思ってもみないことをさらりと口にしていた。
作者の趣味に長々とお付き合い下さりありがとうございました。
少し補足をしますと二人が観に行った映画は、”ブリジット・ジョーンズの日記”をモチーフにしました。スミマセン。古いですね。イギリス映画は結構好きです。ジェーン・オースティンも好きな作家です。彼女の作品は恋愛ものですが、中でも個人的には"Persuasion"が一番。邦訳だと”説き伏せられて”辺りの訳が多いでしょうか。