第五話 本能と感性の乖離率 55.60%
翌日、いつもと同じ時間、3番線のプラットホーム、7両目の車両。
その長身を認めるなり、挨拶もそこそこに開口一番、気になっていたことを聞いた。
「シャツの汚れ落ちました?」
いつものように軽く目礼をして、落ち着いた穏やかな低い声が耳に入って来た。
「ああ、クリーニングに出したんで。多分、大丈夫だと思いますよ」
「それならクリーニング代出しますね。御幾らだったかしら」
「いいですよ。その位」
「そういう訳にはいきませんよ。私の不注意の所為なんですから」
「それを言ったら、俺も同じです。というよりも不可抗力って感じですけど」
それはそうなのだが、悪いと思ってしまうのはいた仕方無いだろう。
「でも……」
穏やかであるのにお互い一歩も引かない攻防が続いた。当方もそうだが相手方も中々に頑固であるらしい。このままでは埒が明かない。そう思ったのか、その学生は暫し考えた後、全く別の提案をしてきた。
「じゃぁ、その代わりに明日、俺に付き合って貰えませんか?」
「……はい? 明日?」
突然の話の展開に鸚鵡返しに聞き返していた。
「はい。空いてます?」
「ええ、…まぁ。大丈夫ですけれど」
明日は土曜日。普通の会社員である私には休日だ。
「なら、決まり。ちょうど見たい映画があったんですよ。でも、一人で入るにはちょっと抵抗があって」
言いたいことは理解できた。
だが、私には突拍子もないことに思えて仕方がなかった。
「私で………いいんですか?」
「勿論」
当然だとばかりに肯定されて、私は半信半疑ながらも頷いていた。
「それなら」
よろしくお願いしますと微笑んでみる。
「午前中は学校があるんで、午後からでもいいですか?」
「ええ。キミの都合に合わせてもらって構わないですよ」
なんとなく相手のペースに乗せられた気がする。
妙なことになったと思いながらも、せめてもの償いに期待に応えられることはしようという気持ちになっていた。それに映画を見るのも久しぶりだ。偶にはこういうのもいいかもしれない。
幸いにして余り深く考えない性質だった。
「そう言えば、名前知らないですね」
不意に真面目な声がした。
「確かに」
今更ながらのことを言われて私は苦笑した。これまでは別段、名乗りあう必要性を感じなかった。挨拶を交わす顔見知りとしての立ち位置。それで十分だったからだ。
鞄の中から名刺入れを取り出すとカードを一枚抜き取った。手帳の上に乗せて携帯の番号とメールアドレスを念の為に走り書きする。
「はいどうぞ。連絡先です。何かあったらここにお願いしますね」
「保内…まほろ…さん、ですか」
「ええ」
漢字表記の表と英語表記の裏を交互に見交わしながら、その学生が確認するように言った。
「珍しい名前ですね」
「そうね」
苗字も名前も少し変わっていると自分でも思う。学校でも職場でも今まで同じ姓名に出くわしたことはなかった。名字は兎も角、名前の方は父親の趣味らしい。
「あの、名前の方で呼んでもいいですか。名字だとなんだが噛んでしまいそうで」
口の中で、ごもごもと繰り返してから、その学生が決まり悪そうに口にした。
「いいですよ」
「じゃぁ、真帆櫓さん、で」
下の名前で呼ばれるのはなんだかくすぐったいが、別段、抵抗は感じなかった。
反対にその学生は制服のポケットを探ると私に生徒手帳を開いて見せた。
顔写真と姓名が記載されている。提示されたものを眺めてみる。
小さな四角い写真に写ったその子は、今よりも少し幼い感じに見えた。
「さかい……のぶもと君?」
読み方を確かめる為にチラリと上を見上げると、その子が目を細めたのが分かった。
どうやら正解のようだ。ほっと胸を撫で下ろす。とかく日本人の名前は難しい読み方が多い。
「よく読めましたね。初対面でちゃんと読んでくれる人って中々いないんですよ」
その声音はどこか嬉しそうだった。
「偶々ですけどね」
確かに漢字では余り目にしない表記だ。
だが、私は偶々その表記の名前を知っていた。
私が子供時代を過ごした場所は城下町で、以前、郷土史に興味を持った時に代々の藩主を調べた時があった。その時にとある一族の名前の中に同じ名があり、その時は字面を見ても読み方が分からなかった。珍しかったからだろう。強く印象に残っていたのだ。
武家らしい名前は、その子が持つ凛とした雰囲気によく似合っていた。
「素敵な名前ね」
微笑んで見上げれば、
「あ…りがとうございます」
少し照れたような色を目の端に浮かべていた。
「改めて宜しくね。坂井君」
「名前でいいですよ。堅苦しいのは苦手なんで」
「じゃぁ、信思くん?」
「はい。こちらこそ」
ついつい習慣で差し出した私の手を、その子はつと見下ろした。
「あ、ごめんなさい。つい癖で」
高校生相手に何をやっているのだろう。
だが、苦笑いをして引き戻そうとした手は、次の瞬間、温かいものに包まれた。
大きな手だ。長い骨ばった指の感触が伝わる。
ビジネスシーンでするようにほんの少しだけ力を加えて、繋いだ手を放した。
漸く、登場人物の名前が出てきました。