第四話 理性と衝動の乖離率 69.50%
いつもと変わらない朝。いつもと同じ電車。同じ車両…………のはずであるのに、今日は一体どうしたことだろうか。
私は今、瓶詰のアスパラガスの気分を体感している。
そう、輸入食材を扱うお店で目にするようなあれだ。細長いビンの中に、これまた細長いアスパラがぎっしりと隙間なく詰まっている代物である。
ご想像出来ただろうか。
四月も下旬に突入して、新しくなった顔ぶれもそこそこ同志見習としての地位を得んばかりの頃。
軌道を見つけるまでに流動化して増減を繰り返した実験期間も漸く終わりを迎えようとしている時だと踏んでいた。
五月に入れば、揺れを共にする頭数は若干縮小する。それが例年並みというところである。
――――それなのに。
私の体は、ドアと椅子の隙間にぴったりと張り付いていた。
いつもは頼もしい相棒である掴まり棒も今日は背中を圧迫する凶器に早変わり。変わり身の早さを嘆いたとていかんともしがたい。
ああ、むべなるかな。
周囲は林立するスーツの人垣。ヒールが高いパンプスを履いている所為か、視界は普段よりは上がっているが、それでも埋もれているという臨場感はたっぷりである。
今朝の車内は珍しく、身動きの取れない程に混み合っていた。
ホームの上に集まる人の多さに嫌な予感はあった。
『今朝方、○○駅で起きました人身事故の影響で電車のダイヤが乱れ、車内が込み合いまして、お客様には大変ご迷惑をお掛けしています……』
相も変わらず無くなることのない飛び込み。アンナ・カレーニナが今日もまた。
不安定に揺られながら、車掌の第一声は実に淡々としていた。
幾編と繰り返されて摩耗した神経が、機械じかけの如く情報を羅列する。
私はひっそりと溜息を吐きだした。冷酷で実に身勝手な想像に対する、やるせなさみたいなものだ。
弾力のある壁に三方を囲まれて、私はじっと息を潜めた。
進行方向逆側に圧力が掛かる度に背中の骨が軋む。
すると、壁であったはずの一面が俄かに身じろいだ。
「なんか………凄いですね」
小さな囁きが耳元に振ってくる。
他意はない。不可抗力だと分かっていても、こそばゆさに体の奥がざわりとする。
右側には紺色のブレザー。同色の折柄の入ったネクタイ。グレーのグレンチェックが入ったズボン。
いつもとは違うイレギュラーな立ち位置で。
それでも、やや硬質な空気を身に纏う青年が立つ場所は、私の隣であることには違いなかった。
「本当に。こんなのは久々かしら」
同じような囁きに苦笑を滲ませて、平衡を保とうと努める。
鞄は肩ではなく、下にして手に持っている。
「背中、大丈夫ですか」
「なんとか……ね」
圧迫感に苛まれているのは同じであるのに、今日もその子は昭和初期の紳士然りとしている。
だが、いつもは泰然自若としている表情も、今日ばかりは時折、微かに歪む。
乗車時間は十分間。何事もなければ、あっという間に過ぎてしまう短い時間だ。それが今日は酷く長く感じられた。
「もう少し、こっち来てもいいですよ」
「大丈夫。ありがとう」
辛いのはお互い様だ。通勤ラッシュの経験値から言えば、自分の方が格段に上。これくらいは、よくあることの範疇に収まってしまう。
そう思って微笑んだのだが、
「ほら」
ブレーキの掛かった衝撃で起きた揺れに合わせて、背中と棒の間に生じたわずかな隙間に腕が伸びてきた。
覚悟していた反動による痛みは、やってこなかった。それとは逆に温かみのある硬さに引き寄せられている。
目の前にはネクタイの結び目。白いワイシャツの襟。
髪が触れそうな至近距離にその学生の顔があった。
唐突に縮んだ距離にたじろいだ。
「あっ……と、ごめんなさい」
気をつけなければ口紅がワイシャツに付いてしまう。そう思って身を引こうにも可動範囲は非常に狭まっていた。
「別にいいですよ。この方が痛くないですよね」
大きな掌が労わるように背骨を撫でたように思えた。
単に収まりが良いように手の位置を直しただけかもしれないのだが。
急速にゼロになった間隔に都合のいい解釈が電算的に弾き出されては消えて行く。
その学生の表情は余り変わらないのに、滲み出るような思いやりのある優しさが掌を通して伝わってくる。それは声の調子にも良く出ていた。
つくづく不思議な御仁だ。
ブレザー越しに自分とは異なる他人の温もりが伝わり、最早お馴染みとなった柚子に似た爽やかな香りが鼻先を掠めた。
これは香水か何かだろうか。だが、香水の類には無い人工的ではない自然な香りだ。その秘密を聞いてみたいと思った。
「ありがとう」
気恥かしさが勝って、謝辞の言葉は呟きの中に掻き消えそうだった。
「どういたしまして」
それでも拾われた言葉に軽く微笑んでみる。
やがて電車は満員の乗客を乗せて滑り込むようにホームに到着した。
大きな揺れに抗うべく足に力を入れる。不安定な足場に密着した身体。全くの赤の他人であれば、人として意識をしないで済むのだが、中途半端に言葉を交わし、顔見知りという同志の称号を持ってしまった相手では、どうにも居た堪れなさが出てきてしまう。
行動の裏にある感情が気にかかってしまうからだろうか。
だが、この他愛ない接触を心地よいものと脳は認識していた。
抗うことのできない強力な磁力のようだ。
自分の感覚が理性を裏切るのはこんな時だ。このまま身に任せたら、私は何処へ堕ちて行くのだろうか。その先を恐ろしいけれども知りたいという欲求が底辺から湧き出でてくる。
揺れの大きさに比例して背に回っていた手に力が入ったのが感じ取れた。
平常心。平常心。念仏を唱える。
色即是空。空即是色。
いや、寧ろ、雑念を払った無の境地か。
修行僧のような心持で、私は自分に言い聞かせた。
今時、珍しい位に親切心の塊で出来ているような子に迷惑を掛けてはいけない。余計な感情は禁物だ。駆け出しそうになる妄想を『暫し待たれい』と思いとどまらせる。
だが、この距離は危険区域だ。嗅覚と触覚を刺激され、制限された視覚に大いなる誤解を導きそうになる。これもある意味修行だ。
扉が開いて、乗客が吐き出されるように外に出た。
待ちに待った開放感に安堵の溜息を吐きだした。
新鮮な空気を思いっきり吸い込む。変に捻じれた体を解すために私は伸びをした。
すぐ隣で骨の鳴る音がした。
ワイシャツの上に伸びた首をコキコキと横に動かしているのは例の学生だった。
何気なくその様子を観察して、不意にその襟元にそぐわない赤みを帯びた色が付いているのを見つけて、私はぎょっとした。
「あ!」
慌てて駆け寄り、顔を近づけて確かめる。
「あぁぁ」
私は情けない声を出していた。
何ということだ。
「ごめんなさい。口紅、付いちゃったみたいです」
見下ろしている目が僅かに見開かれたのが見えた。
「今、落としますから。じっとしてて下さいね」
その学生の腕を引っ張って、他の乗客の邪魔にならない位置に移動した。
空いているベンチに座らせる。すぐさま鞄の中からポーチを取り出した。メイク落としの液材が染み込んだコットン。簡易的なものでも持っていてよかったと思う。
染みにならないように気を付けながら、慎重に自分の唇と同じ色を拭った。
「別に大丈夫ですよ?」
なんてことはないというような顔をしてその学生が言う。
みっともないことになってしまっているのに怒ることなく相手を気遣う。本当に寛容な子だ。
紺色のブレザーならまだしも、よりによって真っ白なシャツに付いてしまうとは。
余りにもあからさまで、ある意味ベタな展開に情けないやら、申し訳ないやら。これが単なる喜劇ならばよいのだが、生憎、現実世界はそうもいかない。
「そういう訳にはいきませんよ。目立つ場所ですから」
このまま学校に行ったら、級友たちに囃されること間違いない。彼女がいたら、あらぬ疑いの火種になるだろう。それこそ夫の浮気を疑う新妻と言った昼ドラ的展開が容易に浮かんでくる。いや、まぁ、この学生にしてみれば、そこまではいかないのかもしれないが。自分がその原因になってしまうのは名誉なことではない。
「それに、気持ちのいいものじゃないでしょう?」
「俺は……気にしませんけど……」
顔を覗き込むように口にすれば、その学生は合わせていた視線をついと横に流した。
丁寧に叩きこんで、汚れを移しとって、元通りという訳にはいかないが、ぱっと見て目立たないくらいにはなった。後はちゃんと洗剤で洗わないと無理だろう。応急措置はここまでだ。
「これなら、ひとまず大丈夫かしら」
ついでに鏡を取り出して、本人にも確認してもらう。
「どう?」
「ありがとうございます」
こんな状況でも礼を述べる。見上げた律儀さだ。こんなことをしでかしてしまった相手がこの学生で良かったと思わずにはいられない。世の中、親切な人ばかりではないのだ。
「いいえ、とんでもない。汚してしまったのは私の方なんですから。それよりも帰ったら、洗剤を垂らして漬け置きした方がいいかも知れないです。そのままだと完全に落ちきらないかも知れないので。もし、落ちなかったら言ってくださいね。御迷惑でなければ私がお預かりして、それでも駄目なら、新しいシャツを弁償しますから」
「いいですよ。そんな気を使わないでください」
少し苦笑気味にその子が見上げた。
これまでとは違う構図。朝の光に反射して露わになった瞳の色が、黒よりも少し藍が入っているように見えた。澄んだ綺麗な色だ。
時計を確認する。
電車を降りてから、すでに十五分が経過していた。
「ごめんなさいね。引きとめてしまって。時間、大丈夫?」
私は始業三十分前到着のコースなのでこの位のロスは問題ない。
「あ」
その子が腕時計をチラリと見て、立ち上がった。
「急げば、間に合う…か」
ポツリと確認するように漏れた自己内対話に、私は焦った。
襟に口紅は付けられるは、その所為で遅刻をするはでは、踏んだり蹴ったりだ。その原因がこちらにあるのだから実に申し訳なさすぎる。
「ごめんなさい」
下げた頭の上、のんびりとした声が響く。
「そんな顔しないでください。平気ですから。それじゃ、お先に」
『また、明日』
去り際、掠れるような小さな囁きを残して、その子が不意に微笑んだ。
それは、ちょっとしたサプライズのようだった。衝撃が、徐々に余波となって神経を揺さぶる。シノプスが一斉に点滅を繰り返す様を想像した。
紺色のブレザーが足早に階段を駆け降りる背中を、私はぼんやりと見送った。
本文で出た【アンナ・カレーニナ】ですが…………かの有名なロシアの文豪、トルストイの長編小説【アンナ・カレーニナ】の最後は、絶望した主人公、アンナ・カレーニナが駅で汽車に飛び込み自殺を図るシーンで終わるのです。それを念頭に置いたものです。
さてさて、今回で、二人の距離は急激に縮まりました。それでも、主人公たちの名前はまだ出て来てません。次回に続きます。