多分、バラ色の人生 前編)
リクエスト番外編第三弾。お題は、信思君が浮気をして離れていたときの真帆櫓さんの心情。『気が済んだ?』(再びよりを戻すまで)の裏側。
―――――ゴメン。
がばりと突然、目の前の床に押し付けられた黒い頭部を見下ろして、私の思考は固まった。
いきなり何を謝るのだろうかと思った次の瞬間、
「お願いがあって」
そして、状況が良く見えなくて目を瞬かせた私にここ数年で最大の静かなる弾丸が撃ち込まれた。
―――――別れて欲しい。
私の耳が音声を捕らえ、瞬時にその意味を理解しようとした所で私の思考は急停止した。
痛いくらいの沈黙が、ヒーターの鈍い音の隙間を埋めるように冷たく這い上がって来るのが分かった。
その年の12月、急に改まって話があると言われた時、私は、ああ、とうとうこの時がやって来たのだと思った。それは、どこかで予期していたことではあったけれども、実際にそういう場面に直面した私は狼狽えた。このタイミングでそれを切り出されるとは思ってもいなかったからだ。
「いいわよ」
すぐさま口にした了承の言葉。上手く笑えていたかは分からない。そこに潜むお互いのぎこちなさには気が付かない振りをした。
もしかしたらという予感はあった。私と信思君との関係は常に薄氷を踏むような状況にあって、ささやかなことで揺らぎ、崩壊しかねなかった。それは、初めから分かっていたことだ。
それでも最初の一年、二年、三年と、初めの頃は擦れ違いになりそうなこともあったけれど、それなりに順調な関係性を維持できていたと思っていた。
信思君が高校を卒業して大学に進学した時、私はもしかしたらここで終わるかも知れないと覚悟した。
新しい環境、新しい友人。彼の世界は急激に広がりを見せる。大学は様々な人が集う場所だ。多種多様な講義に数多ものサークル。勉強も遊びもこの頃に一番、色々な経験をするだろう。高校という狭い場所から飛び出した時、世界は違って見えるかもしれない。立つ位置が変われば、周囲への認識も再構築、再補正される。そして、改めて現実に向きあった時、彼の中での私への感情が変化するかもしれないとは思っていた。
彼の網膜に掛かっていた恋愛フィルターが剥がれ落ちる。そして、私に掛かっていた脳内補正が取り払われた時、彼の目に私は酷くくすんで見えることだろう。
一年ごとに私は年を重ねるが、それは老化を辿る下降線で、私の肉体は徐々に衰えて行く。それに引き換え信思君の場合はこれから上昇を続ける曲線だ。時の経過と人の肉体的、精神的エネルギーの充実を其々、X軸、Y軸に置いた場合、きっと二つの曲線が交わった所が私と彼との出会いであったのだろう。そして、二つの曲線が描く軌道は、時の経過と共に急激に離れて行くのだ。
彼が大学生になった最初の一年、私は心のどこかで恐々としていた。信思君の前にもっと可愛らしくて魅力的な女の子が現れて、私との関係が清算されるのではないかと。
だが、その年、心配していたようなことは起こらなかった。信思君は相変わらず私の部屋に顔を出しては大学での講義のこと、一風変わった教授たちや学食のメニューのこと、そして新しく出来た友人のことを話した。私は、それらの話を自分の学生時代を懐かしく思い返しながら聞いていた。
そして、二年が過ぎ、三年目に入り、私の中で安心とも慢心ともいうような心が芽生えていた。この関係は、このまま、信思君が大学を卒業するまでは変わらないのではないかと。
だが、人生の落とし穴というものは、このような心配事を忘れ掛けた時に前触れもなくやってくるものである。そして、その法則は、私の場合にも当てはまることになった。
その兆しは、大学三年目の夏を過ぎた辺りからであっただろうか。大学生の夏休みは驚くほど長い。大体二か月近くあるはずだ。その間、私と信思君の生活は殆ど噛み合わなかった。私と彼とを繋ぐものはケータイの番号とメールアドレスのみ。普段、街中で顔を合わせることも無くなった。コンビニのバイトは続けているようだったが、それでもシフトに入る時間はバラバラで、必ずしも私の自主的休憩時間に当たるとは限らなかった。
必然的に顔を合わせるのは土日の休日になる。だが、三回生になり、勉強の方が忙しくなったようで、レポートや課題を沢山抱えていると耳にした。そのような中で、私は付かず離れず、彼の負担にならないような距離を手探りで探しながら接していた積りだった。
それでも私はその関係を良好だと認識していた。実際に会う機会がなくて、少し間が開いた時でもメールや電話でその隙間を埋めるように他愛ない遣り取りをしていた。
信思君の大学でのことには全く口出しをしなかった。年上風を吹かせて説教染みたことは言いたくなかったし、そういう事をしたり、されたりするのは私自身が嫌であったから。
少し位音信がなくとも、私は私たちの関係が揺らぐとは思ってもいなかった。それまでに積み重ねた四年余りの年月は、そのくらいでは傷が付かないと過信していたのだ。
それはやはり、私にしてみれば唐突に思えることだった。私の部屋に上がるなり、神妙な顔をしていたかと思うと信思君は急に頭を下げたのだ。
「ゴメン」
そして面食らった私に構わずに、
「お願いがあって」
頭を下げたまま、口にした。
「お願い? なぁに、急に改まって」
私はからかうような軽い声を上げていた。急に真剣さを帯びた空気に狼狽して、それを軽く流してしまおうとした。
そして、落とされた一滴の赤い水滴。私の体内を貫通して行った透明の弾丸から辛うじて漏れた一滴。そうして心という名の水面に落とされた波紋は、音もなく一気に同心円状に広まり、その波動を隅々まで余すことなく伝えて行った。
私の耳は肝心な言葉を素通りさせていった。それは一瞬の自己防衛だったのかもしれない。
季節はちょうど12月も半ばを過ぎ、クリスマスも間近に迫った頃で、今年はどうしようか、いつもと一緒で、家で少し豪華な晩御飯にするか、それともイルミネーションを見に外出しようか、そんなことを話しながら今後の予定を立てていた頃合いだった。
以前のように頻繁に会う機会は減ってはいたが、だからこそ今度のちょっとしたイベントを私は密かに心待ちにしていたのだ。その間、連絡は殆どメールと電話だった。私は信思君の方に起こった異変に全く気が付いていなかった。
私はじっと頭を下げたままの信思君を見つめた。癖の無い黒髪が艶やかに室内の照明を反射していた。
今、何を言われた?
―――――ワカレテ ホシイ。
再び動き出した思考回路。ゆっくりと息を吐き出す。耳の奥でやけに心臓がドクドクと鳴っている気がした。
「…………随分、唐突ね」
思わず出た言葉。だが、そこで不意にひょっとしたら信思君は大分前からこのことを考えていつ切り出そうかとタイミングを窺っていたのかもしれないということに思い至り、愕然とした。
「ええと………そう」
そこでゆっくりと息を吐き出した。
「取り敢えず、訳を聞いてもいいかしら?」
私は動揺をしながらもお茶を淹れていて(少し零してしまった)茶器をテーブルの上に置いた。カチャリとカップのぶつかる音が不協和音のように何故か耳に付いた。
「信くん、こちらにいらっしゃい」
少し離れた所にいる相手にテーブル近くに来るように促す。
そこで信思君はゆっくりと顔を上げた。そこにある顔色は、どこか思い詰めたような冴えないものだった。もしかしなくてもそんな顔をさせてしまっているのは、私の所為なのだろうか。それを思うと胸の奥を突かれるようにズキリと痛んだ。
「何か……困ったことでもあった?」
静かな問い掛けにこちらを見ていた筈の視線が揺れた。いつもは潔い程に真っ直ぐ引かれている眉が、力なく下がっていた。
その顔を見て私は苦笑した。
「言いたくないことは無理に話さなくていいわよ。でも、別れるにしても……理由は知りたい…かな? ちょっと突然だったからびっくりしちゃった。ああ、でも、キミはもう大分前から考えていたのかしら?」
取り敢えずの話の接穂を求めて言葉を探しながら、私は当たり障りのない笑みを刷いていた。内心の動揺を上手く隠そうとしても多分バレバレであるかもしれない。だが、それは普段の冷静さを欠いている相手には伝わっていないかも知れなかった。
信思君は顔を上げるとガシガシと頭を掻いた。それは彼が困った時に良く見せる癖のような仕草だ。いつになく煮え切らない歯切れの悪い態度を見て取って、私はもう一歩踏み込んでみることにした。
「別れるのは……いいわよ」
以前、描いたシナリオ通りに理解ある大人を演じて見せる。それが所詮は机上の空論であったことをこの時、初めて理解した。
そこで信思君が私をまじまじと見た。切れ長の瞳が大きく見開かれていた。それは、信じられないというような虚を突かれた表情にも思えた。
どうしてそこでそんな顔をするのだろう。向こうから別れを切り出しておきながら、そんな顔をするなんて。まるでそれが不本意であるとでも言うように。期待してしまうではないか。
私は相手のささやかな感情の機微を逃さないようにと慎重に言葉を選んだ。
「でも、理由が知りたい」
他に好きな人が出来たらちゃんと教えてくれ。そう告げたのは私の方だった。信思君が高校を卒業して大学に入った頃のことだ。その時の私は彼の心をずっと繋ぎ留めて置くことが出来るとは思っていなかったから。今でもその気持ちに変わりはない。年と共に人の心は変わるものだ。生活環境が変われば同じように人間関係にも変化が現れ流動するだろう。そして、そのスピードは必ずしも両者で一致するとは限らないのだ。
信思君が私と同じ年齢であったならば、共に刻んだ時間は同じような流れの中で比較的遜色なく同じ色になったのかもしれない。だが、私と彼の間には九つの年の差が大きく横たわっていた。昔は、【十年前は一昔】と言われて、ちょっとした隔絶の感として捉えられたものだ。彼と私の潮流は初めから異なっていた。その違いを理解した上でのスタートであった筈なのに、いざ現実に直面してみれば、それを受け入れたくないという自分がいることに気が付かざるを得なかった。
「他に好きな子ができた?」
静まり返った室内にヒーターの音がくぐもった唸り声を立てる。年も押し詰まった冬の暮れ。この時期、日はあっという間に落ちる。4時を過ぎると辺りは闇に包まれる。私の部屋から見える外の景色も既に闇に包まれていて、街灯が存在を主張するように瞬き始めていた。
少なくとも私は現状に何の疑問も抱いてはいなかった。不満や不平などなかった。偶に顔を見て、下らないお喋りをして会えなかった間の事を確認し合い、そして、言葉にはなり難い寂しさを埋めるように身体を重ねた。私の日常は、以前と変わらず穏やかでほんの少しのスパイスと刺激に満ちていた。
私はこの状況を気に入っていた。だが、やはり刺激の少ない日常はまだ若い信思くんには物足りなかったかのかもしれない。
流行の服に身を包んで可愛らしさを若さと共に自分の魅力に変える。そんな攻めの姿勢は今の私にはない。自分の好みはある程度確立されていて、その中からワードローブも構築している。ファッションも流行は気にするけれどもデザインよりも着心地の良さを重視して、冒険をしてみるのはごく稀だ。年相応と言えば聞こえがいいが、要するに保守的なのだ。ピンクやヒラヒラしたフラワープリントやミニのワンピースなどの所謂【カワイイ】ジャンルとは掠りもしない。信思君も本当はああいった可愛らしい女の子の方が良かったのかもしれない。そのことに今、気が付いたのかもしれない。
私の問い掛けに信思君は力なく首を振った。
「分かんねぇ」
ぎゅっと寄った眉間に深い皺が刻まれた。
分からないとはどういうことだろうか。
「じゃぁ、他に気になる子ができた?」
「気になるっていうか、なんだろ、その………」
私のことを気にしているのだろうか。随分と歯切れの悪い態度に私は自ら禁域に踏み込んで行った。
「それとも……私に飽きた?」
「ちがっ……ていうか、そんなんじゃなくって……」
焦った顔をして見せたのは彼なりの優しさなのかもしれない。だけれどもそんな優しさは要らなかった。
私は軽く笑って見せた。
「いいのよ。正直に話してくれた方が、私もすっきりするから。変に隠しごとをされるよりもよっぽどいい」
―――――だから、教えて。何があったのか。
その言葉に、暫く逡巡するように視線を彷徨わせてから、信思君は重い口を開いた。私を真正面から見ることはせずに壁の端っこの方を睨んでいるようにも見えた。
「この間、合コンしてさ…………」
そして、ぽつりぽつりと要領を得ない話から聞き出したことは、一言で言ってしまえば、信思君が【浮気をした】ということだった。
単なる一度くらいの過ちであるならば、私は気に留めないことにする積りだった。一番興味の対象が広がる時に、私だけが信思君を独占することは出来ない。それに恐らく男はそういうものだと思っていたから。心と身体は別物で、貞操という古臭い観念で縛りつけるのは難しいことだろうと思っていた。こんなことを言うと私の女友達たちは皆、男に甘過ぎると怒るけれど、私自身はそれでいいと思っているのだから仕方がない。この辺りは、自分でも寛容……いや、多分その逆で、かなりドライなのかもしれない。少し変わっているとは思う。
だけれども話を聞いて行く内に信思君の場合は、状況が少し違うことに気が付いた。
複数のグループで飲んでいて、最後、酔っ払った女の子たちを送ることになった。その内の一人の女の子を自宅(独り暮らしのアパートの部屋)に送って行った時に、帰り際、帰らないで欲しいと懇願された。具合も悪いようだったから、取り敢えず、もう少しだけ様子を見る為に部屋に上がって、それから何故か、妙な具合になってしまったということらしかった。信思君自身、アルコールが入っていていい具合に酔っ払っていたということもある。それにこういうこと自体随分とご無沙汰だった為―――つまり早い話が欲求不満だったということだ―――相手の誘いにあっさりと流されてしまった。そして、翌朝、気が付いたら、狭いワンルームの部屋、見覚えのないベッドの中にいて、その隣にはすやすやと眠る柔らかい髪をした女の子が一人。周囲には昨晩、脱ぎ散らかされた男物の服と女物の服が散らばっていた。
もしかしなくともやってしまったということだ。それに記憶もはっきりと残っていた。
その時のことを思い出したのか、信思君は途端に苦々しい顔付きになって胡坐をかいた膝の上に頬杖を突いた。
そして、そこから急速に自分の日常がおかしな方角へ進み出したと信思君は言った。
おかしな方角とはどういうことだろうか。単なる保身の為のいい訳なのか、それとも信思君自身が望まない方向ということなのか。そこに横たわる違いはその表情からは掴めなかった。
その女の子とは、酒に酔った上のことということで不問にする積りだった。だが、男の側の身勝手な腹積りを嘲笑うかのように、その女の子に責任を取って欲しいと言われた。
それまでに信思君自身は、その女の子に対して曖昧な態度を取ってしまっていたということで互いの感情の認識にズレが生じたらしい。
女の子の方はてっきり信思君が自分に対して好意を抱いていると思ったらしい。
付き合っている人がいると話せば、そっちの関係を切って、自分と付き合って欲しいと迫られた。これでは酷過ぎる。そうでなければ納得いかないと。
信思君の中にも罪悪感と後ろめたさがあったのだろう。それが誰に対するものかは分からないが。
一夜限りとはいえ、そういう関係を持ってしまった。それにもしかしたら、心のどこかでその女の子に惹かれた所があったのかもしれない。
そんなことをしているうちに信思君自身、自分の気持ちが分からなくなってしまったのだという。だから、こんがらがった感情の整理を付ける為に私と少し距離を置きたいということだった。自分が本当に望んでいるのは誰とのどんな関係なのか。それを確かめたいのだと言った。
私はそれを信思君からの決別宣言だと受け取った。その話は取りようによっては、両者を天秤に乗せて吟味している最中とも思えなくもない。よくよく考えれば業腹な話だが。
そして、比較の如何によっては再び私の元に戻ってくるという場合もあり得るのかもしれないが、私はそこまで楽天的にはなれなかった。単なる方便かも知れないし。
流されたということは、少なくともその相手を憎からず思っていたということなのだろう。酔っ払っていたとはいえ、好きでもない相手と肉体関係を持てるだろうか……と考えて、男は女と違って、その辺りはかなり割り切れるだろうということに思い至った。快楽と感情は別の所にある場合が多いからだ。それでも私はその一般的な男という範疇に無意識に信思君を除外していた節があった。
と同時に、それは、私が信思君を繋ぎ留めて置くだけの魅力を失ってしまっているということを意味していることに気付かない訳にはいかなかった。
信思君の心は、もう既に私から離れていたのかも知れない。忙しさにかまけて擦れ違いの生活に危機感を抱かず、それに気が付かなかったことに私は内心、ショックを受けていた。
「そう………」
一通り話を聞き終えた私はゆっくりと息を吐き出した。驚き、衝撃、悔恨、悲しみ、諦観。内側に渦巻く様々な感情を制御する……というよりも湧き上がる何かを封じ込めるように。
それから伏せていた目を上げ、真正面から話を切り出した当人を見た。
「分かったわ」
驚くほど冷静な声が出ていた。
信思くんの眉毛は、始終下がりぱなしだった。それを見て私は苦笑いをするしかなかった。こんな時でも私に怒りという感情は湧いてこなかった。何故だろう。元々、そこまでの執着がなかったのか。性格的に怒りの方向へ向かうベクトルが極めて小さいのかもしれない。怒ることにはかなりのパワーがいる。それをするくらいなら、適当な所で妥協する方がいい。そうやって私はこれまでの人生を歩んできた。
無駄な衝突を避けようとする大人の処世術。省エネ的と言うには後ろ向きで少しずるい生き方だ。それでもそれを変えようとは思わなかった。
少なくとも信思君は、彼なりに悩んでいるということなのだ。その点は、情状酌量という訳ではないが、ちゃんと汲み取ってあげなければいけないだろう。
「いいわ。そうね」
私はそこでその日、最大限の笑みを浮かべていた。
「別れましょう」
「………え?」
「この5年間、ありがとう。私は楽しかった。でもキミにはちょっと面白味が無くなっちゃったのかもしれないわね。ここ一年は中々上手く時間が合わなかったし。だから、そう。距離を置いてみるのはいいと思う」
上手く笑えているだろうか。震えそうになる腕を誤魔化すように手で握り締めた。
「今までありがとう」
これで信思君は自由になる。常に頭の片隅にあった私の存在に気兼ねすることもなくなる。束縛をしていた積りはなかったけれど、息苦しさを感じ始めていたのかもしれない。だから、そこから抜け出してみたかった。別の世界に興味を持ち始めていて、そこにかち合ったのが、恐らくその女の子なのだろう。
そして、ありふれたごく【普通】の日常に戻るのだ。信思君は同じような年頃の女の子と恋をして新しい関係を築いて行く。それはごく自然な流れなのかもしれない。私がいたら、信思君は、そういう経験ができなくなってしまう所だった。今まで私は信思君の時間を独占し過ぎたのかもしれない。そう思うことで自分を納得させた。
「え…あ……う…ん……」
自分から話を切り出しておきながら、信思君は気の抜けたような返事をした。私があっさりと頷いてみせたのが意外であったのだろうか。
「………真帆櫓さんは、それで………いいの?」
たっぷりと間を開けてから絞り出すような小さな声が漏れた。こちらを見る目が飼い主に捨てられた犬のように見えたのは何故だろう。
躊躇いがちに出された低い声を私はからりと笑い飛ばしていた。
「いいのって、だって、キミはもうその子と付き合うことに決めたのでしょう?」
―――――なら、私はどうすることもできないわ。
はっきり口にした訳ではなかったけれど、私は信思君の話の裏にそういうニュアンスを嗅ぎ取っていた。
「二股なんて絶対しちゃダメ。相手の子にも失礼だし、第一、キミが一番後悔する。だって信くん、二つの間を上手く立ち回れるほど器用じゃないでしょう?」
そのくらいは私にも分かっていた。伊達に5年間、彼のことを見てきたわけでない。それに私も二股を許すほど寛容でもいい加減でもなかった。
ならば私が道を譲るしかないではないか。
「そりゃぁ、そうだけど…………」
的確な指摘が業腹だったのか、信思君は何故か不服そうな顔をして私の方をちらりと見た。その口元は苛立たしげに引き結ばれていた。
「なぁに? あんまりあっさりと承諾されたから、拍子抜けした?」
「いや………まぁ……なんつーか。もっと……こう……怒るかと思ったから」
そう言って信思君は力なく笑った。
残念ながら、私はそこまで単純ではなかったのだ。
その顔はちっとも嬉しそうではなかった。望み通りに事が運んだというのに。
だが、そのことを詮索する余裕も私には無かった。
「怒ったりはしないわよ。最後くらい穏やかに終わりにしたいと思っただけ。だって私はキミに悪い感情は持っていないもの」
後もう少し。後少しの辛抱だ。心の中で決壊している涙腺の堤防を精神力で修復する。
私は敢えて飄々と冗談に流すように振る舞った。悲しい顔なんてできる訳がない。そうでなくては、私は自分の約束を果たせなくなってしまう。
これまでの四年間が軽いものであったとは思えない。それでも今は、まるでヘリウムガスにでもなったかのように分からない振りをしなくてはならないのだ。それが最後の他人には分かり難いかもしれないが、私なりの意地でもあった。
―――――真帆櫓って、見た目よりもずっと分かり難い性格してるよね。なんでそんなに斜めに構えてるかなぁ。
いつだったか、大学時代の女友達に言われた台詞を思い出して、私は可笑しくなった。
本当に。やっぱり私は今もこうして肝心な場面で損をしている。でもそれが私なのだ。
「これまでありがとう。お世話になりました」
別れの挨拶としては妙な感じだったけれど、玄関先でその長身を見上げた時、何故かその言葉しか出て来なかった。何だか転勤を終えたサラリーマンが派遣先を引き払って本社に戻る時に口にする陳腐な台詞のようだ。
「こっちこそ。無理言ってゴメン」
小さくぎこちない笑みを浮かべた信思君を私はそっと見上げていた。
この扉を開けてしまったら、もうこうして彼と出会うことはないのだろう。
不意に掌の上に落ちてきた真実に私の足は竦んだ。厚さ五センチにも満たない薄い扉。だが、ここに横たわる境界線は、底なしのように深い溝を刻んでいる。
でも、ここで踏みとどまる訳にはいかなかった。
「サヨナラ、信くん」
出会った頃よりも精悍さを増した頬に手を伸ばす。そして最後、掠めるだけのキスを送った。
静かに玄関の扉が閉まる音がして、その後、廊下を遠ざかってゆく足音が聞こえた。
私はサンダルを脱いで、上がり框に足を踏み出して、そこで力が抜けたように座り込んでいた。
そこで私は力尽きた。ぼんやりと急に静かになった室内に佇む。廊下を照らす橙色の光が滲み出すのは早かった。
その日、私は久し振りに涙を流した。
何故か別れ話をした時の場面を書き始めたら長くなってしまったので、一度、ここで切りたいと思います。次回こそは真帆櫓が一人になった時の様子とよりを戻すまでの経緯が描けるかと。もう少々お待ち下さい。