移り気の代償
リクエスト番外編第一弾です。お題は、信思くんが浮気をした時のことを信思くんの友人視点で。それではどうぞ。
今度、ゼミのメンバーで飲み会をやる―――その連絡が回って来た時、俺は何故か嫌な予感がしてならなかった。と言っても、それは俺自身に関することではない。なので、こちらとしては客観的に呑気に構えていられる訳だが、後々その余波を被ることになることは確かなので少々の被害は否めないかもしれない。そんなことを思った。
今から話をするのは俺の友人のことだ。そいつの少し、いや、かなり、しょっぱい話だ。俺の目から見てもそれは当然の報いで、全面的にそいつが悪い訳だから自業自得だと思っている。同情の余地はない。
男は浮気をする生き物である。そして、モテる男ほどその傾向は顕著である。
その昔、遺伝学を雑学的に面白く語った本があって、それを読んだ際に俺が理解をして纏めた結論を図らずも思い浮かべたという訳だ。
そいつは大学に入ってから出来た友人だった。選択している講義が結構重なっていて、教室の規模に関わらず俺の視界に入ってくるヤツがいる。『あ、なんか、こいつ見たことある』というのが最初の認識だった。
俺はこう見えて真面目な学生をやっている。地方から出てきたということもあるが、決して裕福ではない家計の中で両親が遣り繰りをして仕送りをしてくれているのを知っているから、大学生活、引いては講義の類は一つも無駄には出来なかった。余程の事がない限り―――例えば、高熱を出してぶっ倒れたということ―――俺は毎日せっせと大学へ通った。そんな自他共に認める超真面目人間の俺が高い確率で遭遇する男というのがその友人だった。
最初、声を掛けたのは気紛れだったと思う。大学に入学してから三カ月、そろそろ周辺環境にも慣れてきて、話し相手が欲しかった。多分、そのような理由だったと思う。初めてする独り暮らしというのは思っていた以上に大変で、狭い1Kのアパートに帰る度に俺は一人の時間を持て余すようになっていた。
そいつは何処となく特徴的な雰囲気を持つ男だった。背も高くすらりとしていて、そいつがいると自然と視線が引き寄せられる。上手く言えないがそのような不思議な魅力のようなもの(だろう……多分?)を持っていた。
そいつはいつも一人で座っていた。何気なく声を掛けて、振り返ったそいつの顔を間近に見て、俺は一瞬、選択を誤ったかと思った。
近くで見るとそいつは目付きが悪かった。眦が上がった鋭い目には目力があって、視線を向けられた途端、ギロリと睨みつけられたような気がして、内心、冷や汗を流した。だが、なんとなくこいつとは波長が合うかもしれない。その時に感じた俺の勘は当たっていた。
そいつは見た目で損をするきらいがある。それは言葉を交わしてみて直ぐに分かったことだった。つまり見かけほど怖くない。講義も真面目に出ているし、自分の意見もちゃんと持っている。そいつは俺と同い年だったが、外見から受ける印象もそうだが、内面もしっかりとしていて、総合的に大人びて見えた。
その時以来、俺はそいつを友人として認識していた。そいつとは色々な話をした。講義のことは勿論、家族のこと、バイトのこと、政治のこと、世間を賑わせているニュースやその他の他愛ない細々としたこと。そして、若い男同士であるから当然、女の話も。
彼女がいるかいないか。そんな話になった時、そいつは話すことを中々に渋った。だが、俺も地元に残して来た遠距離(恋愛)中の彼女がいることを話せば、やっとのことでその重い口を開いた。
あれは、たしか、そいつが俺の部屋に初めて遊びに来た時だった。1Kの狭いアパートの一室で晩飯―――と言っても近くのコンビニで買った弁当だ―――を食いながら標準よりは大きながたいの野郎が二人、小さなテーブルを囲む。そいつもかなり背が高い方だが、俺もそいつまではいかないまでもそこそこタッパはあったのでただでさえ狭い部屋が一段と狭く感じられた。
ぼんやりとTVを付けながら最初はDVD鑑賞会をしようと思っていたのだ。中身は敢えて聞かないでくれ。若い男が二人して見るヤツなんて大抵相場が決まっているだろう。
そいつとは何故か馬が合った。お喋りという訳ではない。どちらかと言えば無口な性質だと思われているだろう。そいつの傍は何となく居心地がよくって、俺は余り気負わずにリラックス出来た。
きっかけは煙草だったと思う。俺はヘビースモーカーではないけれど、ごく稀に吸いたくなる時がある。まだ中毒まではいかないけれどその一歩手前ぎりぎりなラインを行ったり来たりしている感じだ。
最近、喫煙者はめっきり肩身が狭くなった。煙草も値上がりしてかなり高くなったし。まぁ、そんな俺の愚痴はこの際どうでもいい。
「いる?」
お前もどうだとカートンを傾けた時、
「や、俺、やらない」
そいつはそう言った。
なんとはなしに理由を尋ねれば、
「彼女が嫌がる」
と即答した。
まぁ、見た目もかなりな部類に入るイケメンってヤツだから、彼女ぐらいいるだろうとは思ったけれど、俺はそいつが女の子と話をするならまだしも、いちゃいちゃする姿をいまいち想像することができなかった。
「へぇ?」
俺が明らかに喰い付いたという顔をすれば、そいつはちょっと嫌そうな顔をした。
そして俺は日頃の勤勉さをこういう時にも発揮して根掘り葉掘り興味のままに聞いたのだ。そいつの彼女の話を。
彼女とはもう付き合い始めて二年になるとそいつは言った。
「高校の時から?」
「ん、高2の時」
「同じ学校の子?」
「いや、違う」
「他校?」
「いや?」
「じゃぁ、アレだ、バイト先で?」
「いや、それも違う」
普通に考えそうなラインを辿って行ったが、そいつの彼女の輪郭は表れてこなかった。
「何やってる人?」
「会社員」
「ふーん」
その時、俺は余り深く考えなかった。高卒で働く子もいるから俺らがこうやって進学して学生をやってても、同い年で既に働いている子もいるからだ。
「いくつ?」
それはなんとはなしに口にした問いだった。
「あーと、27? 確か、そんなもんだったかな」
―――――9コ上だから。
あっさりと口にされた言葉を勢いそのままうっかり流しそうになって、
「はぁ?」
俺は首をぐいと横に向けると大声を上げていた。
口の中から米粒が飛び出して、
「あ、わりぃ」
俺は咄嗟に零れた米粒を拾って、そして、テーブルにあったウーロン茶を一気に流し込んだ。
「そんなに上?」
「そ」
そこで漸く俺は先程の問いの重要な部分をリフレインした。
―――――何やってる人?
―――――会社員。
それはもしかしなくとも出会った時から会社員であったという意味だったのだ。
それだけ歳が離れていると聞いて、俺は周りにそういう知り合いがいなかったから普通に驚いた。そいつは俺と同い年なのに、何だか違う世界にいる。同年代で同じと思っていた仲間が実は違った。俺は訳もなく、一人妙に取り残されたような気分になってしまったのは、ここだけの秘密だ。
「へぇ~」
俺は漸くその一言を発するので精一杯だった。
だが、最初の衝撃が過ぎてしまえば後は比較的楽だった。と言っても俺自身には、全く想像が出来なかったけれど。
「何話してんの?」
会話なんて噛み合うのだろうか。
「ん? 色々?」
答えになっているんだかいないんだか、俺には未知の世界だ。
「学校のこととか、他愛ないこと? 結構、なんでも話す」
「へ、へぇ……」
そこでそいつが不意に柔らかく笑った。何というか、ごちそうさま(?)的なこっちまで腹一杯になりそうな笑みだった。
「デートとかどうしてんの?」
こっちは学生で、向こうは社会人。稼ぎも違うし、金銭感覚も違うだろう。生活のサイクルも違う。そこらへんどうなんだろうと思って興味津々に食いつけば、そいつは、
「普通だと思うけど?」
そう言った後、彼女とどんなふうに過ごしているかを語った。一人暮らしをしている彼女の家で、だらだらまったり過ごしたり、DVD観たり、映画に行ったり、買い物に行ったり、近くの河川敷で遊んだり。話を聞く限りごく普通のありふれた感じだった。
そいつは歳の差があることを気にした様子はなかった。
その時、俺はふいに思った。そいつも男として色々頑張っているんだろうけれど、きっと彼女の方も相当気を遣っているんじゃないかと。そいつが不快な思いをしないようにと彼女の方がそいつに歩み寄って合わせている。珍しく饒舌に語るそいつの話を聞きながら、そんなことを思った。その時、俺は携帯に入っている写真を見せてもらった。なんて言うの。こう、よく分からんものが腹の中に湧き上がったね。嫉妬? 羨望? 悔しさ? 自分でも良く分からない感情に囚われて無性にそいつの頭をひっぱ叩きたくなった。そいつがあんまりにも鼻の下を伸ばしてゆるゆるな顔をしていたから。
「きめぇ」
思わずそう言って、そいつの頭を叩く代わりにそいつの弁当に残っていた最後のカツの切れ端を無言で摘んだ。
「あ、俺のカツ! 残してたのに」
「ゴチ」
そいつの恨めし気な視線に俺は漸く溜飲が下がった気分だった。
―――――と、そんなことがあったのが大学一年目の夏で、それから二年経過して、俺たちは三回生になっていた。
そして、その一年ももうすぐ終わる。
季節は12月に入っていた。一足先に大人になった俺に漸く追いつく形で、そいつも二十歳になった。これで気兼ねなく酒が飲めると豪語した。
その頃、俺は地元の彼女と上手く行かなくなって別れた直後だった。やっぱり遠距離ってのはっ難しい。離れている分、相手を構ってやれなかったから、詰まらないとそっぽを向かれてしまった訳だ。俺も正直、日々の事で手一杯でそこまで気が回らないというのもあった。
凹んでいた俺をそいつは慰めた。飲むかという話になったのはごく自然な流れだった。万年金欠の俺を考慮して、場所は俺の部屋。そこに買い込んだビールやらチューハイやらスナックやらつまみやらを持ち寄った。
こうして二人してしみったれた酒を飲んだと言う訳だ。
「お前はいいよな」
つい愚痴めいた言葉が口を突いて出た。他人の芝生はいつも青く見えるものだ。
「なにが?」
女々しい俺にそいつは辛抱強く付き合ってくれた。
その日、俺はいつにないペースでビールを飲んでいた。目が据わった俺は、早速、絡み酒になっていた。
「美人な年上彼女がいて。このモテ男が。そういやこの前、合コンに誘われてただろ?」
「あー、あれ」
少し面倒くさそうにビールの缶を傾けながらもそいつは満更でもないような顔をしているように見えた。
この間、同じゼミにいる女の子に迫られていたのを見た。相手は完全にそいつ狙いだってのが分かる。その子は結構本気らしくって、大抵一緒につるんでいる俺は、(どうやらこれでも仲が良いと思われているようだ)そいつのことを聞かれた。早い話が、彼女がいるかどうかってこと。俺は『いるっぽいって聞いてる』みたいに曖昧に濁しておいた。第一、そういうのは本人に直接聞くべきことで、周りがとやかく言うべきことではないからだ。
「あー、そう言えば、あの、なにちゃんだっけ? サユリちゃん? サキちゃん? あれ、ミサキちゃん? 講義被ってる子で、お前に言い寄ってた子、いたじゃん?」
そいつは結構ピンで立っていても目立つから、周りの女の子に騒がれていたりする。隣にいる俺は完全にスルー。悲しいぜ。チクショウ。
「あー、なんか、今度飲みに行くことになった」
―――――因みにユミちゃんだから。
さり気なく訂正を入れつつぽつりと漏れた声に俺はぎょっとした。
「はぁ? まさか、二人で?」
「まさか。なんか合コンみたいなのをするらしくって、人集めに来いとか言われた。一応断ったけどあんまりしつこいから、一回ぐらいいいかと思って。って、あー、そういやお前も呼んどけって言ってったっけか?」
「え? いつ?」
誘われたのが嬉しくてついテンション上がって反応してしまったけれど。そうじゃなくて。
「おま、彼女いんのに合コン?」
それは不味いんじゃねぇのと思って訊けば、そいつは缶ビール片手に一口ごくりとやってから、
「多分………ヘーキ」
一応話してはみるけど基本的に大学でのことにはノータッチだから。友人たちとの付き合いもあるだろうから、そういうときは自分を優先しなくてもいい。そいつの彼女はそんなことを言っているのだとか。
それを聞いて俺は驚いた。というかその彼女、懐が深すぎるだろう。いや、それだけそいつを信用しているってことなのか。それとも社会人で付き合いも四年とかになるとそういうもんなのか。俺は一度その辺りのことを聞いてみたいなんて密かに思った。
「ふーん」
俺は何だか釈然としないものを感じながら、つまみのサキイカに手を伸ばした。
「で、それいつやんの?」
「今月の15日とかって言ってた」
12月15日。クリスマスイブの9日前。クリスマスの10日前。実に微妙な日付設定だ。彼氏、彼女のいない寂しい独り者はその時に気合入れて相手を見つけて、間近に迫ったクリスマスを一人淋しく過ごすのを阻止しようっていう訳だ。
今度はスルメイカを手に割きながら何だか嫌な予感がすると思った。
それは多分最近のそいつの言動の所為もあるかもしれない。というか、最近のそいつは、寛大な彼女のことをちょっと当たり前みたいに思っている節があった。付き合いが長くなるとそういう感覚がやっぱ鈍くなるものなんだろうか。出会った時のドキドキ感を忘れるっての? 独り身の男、いや、彼女持ちのヤツでもいいけど、絶対そいつの話を聞いたヤツらはみんな口を揃えて言うだろう。
―――――『贅沢だ』って。
なんだろう、このもやもや感。いや、この場合、完璧に部外者である俺がヤキモキしても仕方ないんだけどね。話を聞いてると、その彼女って、一歩下がって主を立てる昔の嫁みたいな感じなんだよな。そいつは亭主関白って風には見えなかったけれど、やっぱりそういう状況に胡坐をかいていたんだと思う。
人間というものは貪欲で贅沢で。最初は感激して飛びついたものもやがてそれが当たり前になってしまうと当初の有り難みやら恩恵やらを感じなくなってしまう。そして、もっとそれ以上のものを求めるようになるのだ。『慣れ』というのは一番怖いことだと思った。
その合コンという名の飲み会には俺も参加した。男は四人で、向こうの女の子も四人。他の二人は大学の同じ学部の奴で、余り言葉を交わしたことはないが顔を見れば分かる、そんな感じだった。女の子の方は同じ学部が一人、後はバラバラで、サークルの友人繋がりなのだとか。あいつに猛アタックを掛けているユミちゃんてのは、確か英文科の子だったか。溌剌とした明るい子でムードメーカー的な世話焼きタイプだった。
飲み会はそれなりに楽しかった。基本的にワイワイガヤガヤするのは嫌いじゃない。
ユミちゃんは恋する乙女モード全開。いや、あれはもうハンターの域か。俺らがちょっと吃驚するくらいそいつにモーション掛けていて、猛アピールをしていた。冬場だというのに胸元の大きく開いたニットにミニスカート。見てるこっちには眼福ものだけどさ。
ユミちゃんはそいつの隣に陣取って頑張っていた。お酒を注いだり、お皿に料理を取り分けたり。それを当たり前っぽく受け取っているそいつに俺は軽く殺意のようなものを覚えた。
年上彼女からどれだけつくされているのは知らないが、『どんだけ慣れてんの?』って話だから。だから、普通の男子(俺や今日一緒に来た奴ら)はそんな風に色々世話を焼かれるのに慣れていないから、―――くん、お代りは? とか。―――くん、これいる? とか。さり気なくお皿の位置を調整してくれたりとか取り皿を渡してくれたりとか、そんな些細なことでキュンキュンしちゃう訳だけど、そいつはどうもそういう旬な気持ちがないっぽいんだよな。だから一般男子が簡単に落ちるようなテクにはまず引っ掛からない。センサーにすら掠らない。これじゃぁ、攻略する方は大変だろう。
あいつの中では女性の基準は、多分彼女で。それは普通から見たらえらく高い基準なのだ。
俺は酒を飲んでワイワイやりながらもやっぱりそいつのことが気になって、女の子と話しながらもさり気なくそいつを視界の隅に入れていた。
まだ二十歳になった俺たちは形だけ大人になったばかりで、酒の飲み方なんて知らない。加減なんて自分でもまだ分からない。最初はビールから始めて、サワーに切り替えた頃合いで、どれくらい飲んだんだろうか。酔っ払っているという状態はなんとなく分かるけれどもそれでも自分がどこまで平気かというのはまだ試しかことがなかった。
ユミちゃんは俺の目からみてもかなり酔っ払っているように見えた。元々、あまり強い方でもないのだろう。顔を直ぐに赤く染めて、はしゃいでいたと思ったら、そいつにしなだれかかっていた。そいつの腕を抱いて豊かな胸をくっつけている。その子は酒が入ると笑い上戸になるようでクスクスと小さな笑い声を立てては、そいつの肩に頭を擦り寄せていた。
―――――おい、大丈夫かよ?
俺は目線でそいつに合図を送った。そこにある意味合いは二つ。一つは酔っ払っている女の子の状態で、もう一つは、そいつがそんなことをしていていいのかってことだ。
そいつはちょっと困った顔をしながらもその子の好きにさせていた。
ああ。抵抗しないんだ。形だけでも。ということは相手の女の子の方にOKもしくは脈ありと思われても仕方がないだろう。
普段のそいつなら彼女を裏切るなんて莫迦な真似はしないと思っていたけれど、今、酒が入って良い気分になっているらしいそいつの思考は、俺には分からなかった。
ま、俺だったら、舞い上がってその腕に触れる感触を楽しむと思う。いや、だって。目の前に美味しいものを差し出されたら、やっぱりそこには手を伸ばすだろう。男なら。で、そいつもやっぱり硬派に見えて男だったと言う訳だ。
俺はさり気なくその子の友達にユミちゃんは大丈夫なのかと聞いてみた。けれど、それが却って逆効果であったことを直ぐに思い知らされた。
女の子たちも結構良い気分になっていて、『ユミちゃんガンバレ』とか『このままくっついちゃえば?』とか『お持ち帰りされちゃえ』なんて煽るようなことを言う始末。
酒が入っている時って、素面の時なら『何で?』っていうようなことを平気でやってしまうんだよな。アルコールの力って侮れない。周りから囃されて、段々とそんな気になってくるんだ。俺は一人、つまみのコロッケを食べながら『いやいや、不味いだろ』なんて内心、冷や冷やしていた。
それから暫くして、合コンという名の飲み会はお開きになった。女の子たちを送ると言うことで、俺はそいつとは途中で別れた。そいつの腕にはべったりとユミちゃんがぶら下がっている。帰る方向が偶々同じということでその子の家まで送るらしい。まぁ、あれだけべろべろだから、送るのは別に構わないんだけど。
ユミちゃんは一人暮らしをしているという話だった。俺は一応そいつに釘を刺しておいた。ちゃんと送り届けるのはいいけれど変な気を起すなと。その時、そいつは分かってるよなんて心外だとばかりに睨みつけたものだから、俺はまぁ大丈夫かなと思ってしまったのだ。あいつは実家暮らしだから、女の子を部屋に連れ込むなんてことは有り得ない。
だが、この時、俺はすっかり失念していた。あいつが基本、困ったヤツを放っておけないお人好しだってことを。そして押しに弱いタイプだってことを。
その日は金曜日だったから、土日を挟んで月曜日。俺の取っている講義は午後からで、のんびりと大学へ行ったわけだ。そして、授業前には必ず寄るカフェテリアで、俺はそいつの後姿を発見した。その光景に俺は直ぐに違和感を覚えた。
いつもと違ってそいつは一人じゃなかった。その隣には、あのユミちゃんがいて、柔らかそうな茶色の髪の毛を揺らしていた。彼女から醸し出されているのは幸せのピンクオーラ。その隣のそいつはいつもと変わらない無表情に近い感じだけれども本当の所は俺にはよく分からなかった。それでもユミちゃんの話に合槌を打っていて会話は弾んでいるようだ。
「やだぁ、そんな訳ないじゃん」
鈴のような笑い声が聞こえてきて、『もう、やぁねぇ』とばかりにユミちゃんがそいつの腕を軽く叩いた。まるで恋人同士のような遣り取りだ。
その時、俺はピンときた。急速に縮まった距離。それは随分と踏み込んだ関係性を築いた後に特有のものだった。つまり、あの夜、そいつは紳士的にはならなかったということなのだろう。
あーあ、どうすんの。俺は何だか見てはいけないものを覗いてしまった気がしてちょっと嫌な気分になった。まぁ、当事者ではない外野の俺が幾らウダウダ言っても仕方がない訳だけれど、俺は心の中であいつの彼女に同情した。
それから俺はそいつがどうするのかに注目していた。俺の方からは口出しをしなかった。そいつの方からなんか相談でも愚痴でも懺悔でも、聞いてくれと言われれば一・二もなく頷いたことだろう。だが、そいつは俺の予想に反して俺にはそのことを話さなかった。そのことに俺は地味に凹んだ。これまで約三年、大学で友人らしいことをやってきたから、トラブルになったとか、そういう時には助けを求めてくると思っていたからだ。愚痴でもぼやきでも何でもいい。何か掠るようなことを一言くらいは口にするんじゃないかって思っていた。
そいつが触れなかったから、俺の方からも話を振ることはしなかった。
それから暫くして、学内でそいつがそのユミちゃんと付き合い始めたということを耳にした。
それを受けて俺は一応そいつに同じことをぶつけてみた。
「ユミちゃんと付き合い始めたんだって?」
そいつは俺の顔を見るなり、
「……あー……」
暫く気まずそうに視線を彷徨わせた後、ガシガシと頭を掻いた。それは、そいつが困った時に見せる癖みたいな仕草だった。本人がそのことに気が付いているかは分からない。
それから俺の目を見て、
「そういうことになった」
ぽつりと一言、口にした。
「前の彼女は?」
「……………別れた」
長い間の後、小さく呟いた。
二股だけはしなかったらしい。
「ふーん」
俺は肯定でも否定でもなく、ただ、その一言だけを口にした。
四年ちょいになる年上彼女を振って、同い年の女の子に走った。その決め手は何だったんだろう。
でも久し振りに見るそいつはあんまり楽しそうじゃなかった。嬉しそうにも見えなかった。
結局、クリスマスは前の彼女とではなく、ユミちゃんと過ごすことになったらしい。
何が切っ掛けだったんだ? そんなに心変わりって直ぐにするものなのか?
俺はその心境の変化を知りたくて仕方がなかったけれど、その時、そいつは明らかにこの件については触れて欲しくなさそうだったので、俺としてもそれ以上は突っ込む事を止めた。
年が明けてからも学内でそいつと彼女の姿はちょくちょく見かけた。講義のコマがぶつかる時は、そいつは彼女の方へ行く。俺はそれを横目に見てから自分の定位置となっている席に着いた。
彼女に掛かりきりになったそいつは、学内で挨拶はするけど以前のように俺と同じ共有時間を持たなくなった。付き合い初めだからというのは分かるけれど男同士の話はまた別物になる訳で、少し遠くなった背中にそれを少し淋しいと思った。
それから二カ月ほどたった三月半ばの頃だった。後期の期末試験を終えて長い春休みに入っていた。就職をする奴らは三年の夏ごろから活動を始めていて、今は正念場だ。
俺は進学をする積りだった。将来は研究者になりたかったら。師事したい教授もいて自分の専門分野にのめり込んでいた。そいつは就職すると言って、夏ごろから少しずつ活動を始めていたらしい。
「どの辺、回ってんの?」
以前、そんなことをそいつに聞いた時、物流関係、国際輸送を手掛けている会社を考えていると言っていた。商社も考えたらしいけれど、OB訪問とか色々リサーチを重ねていく内にその辺りを考えるようになったと言っていた。後は具体的な名前は出さなかったけれどメーカーとかも考えたと言っていた。
そいつの就職活動はどうなったのか。男の場合、4月前には大体、結果が出るらしいというのが、俺が他から聞いた話だった。
長い春休み、偶には帰って来いという両親の願いをかわして、俺はこっちに残りバイトに精を出しつつ、暇があれば大学の図書館と教授の研究室に通っていた。あれだ。勤労学生ってやつだね。自分でいうのもなんだけど。
そんな時だった。そいつから連絡が来たのだ。前触れもなく、唐突に。その時はそいつとはかなり疎遠になっていたから、俺は驚いた。
―――――今日、そっち行っていいか?
簡潔な一文。素っ気ないけれど単文が俺たちの通常の遣り取りだ。
それに俺はとうとうこの時が来たかと思った。あいつが何を話すかは分からないが、何か聞いて欲しいことがある。そう思った俺は、すぐさま了承の返事を返していた。
そして、その日の夕方、俺の相変わらず狭い1Kのアパートにそいつはやってきた。
暫く振りに見るそいつは何だか酷い顔をしていた。
『人生、悩んでます』みたいな張り紙をでかでかと額際にぶら下げたようだった。
「よ、久し振り」
「ああ」
暫く振りの空気は、俺たちの中にも微妙なぎこちなさを残していた。
「ひでぇ面」
俺の第一声にそいつは力なく笑った。
「ハハ……」
それからそいつはいつもの所定の位置に座った。
ぐるりと狭い部屋を見回して、
「相変わらず汚ねぇ部屋」
散らばっている本や積まれている雑誌、PC、色々なものが点々と散乱している俺の部屋の状況を見て、ぽつりと苦情めいた一言を言った。
「でも、なんか落ち着く」
そう言って深々と溜息を吐く。
おいおいおい。大分重症じゃねぇか。
余りの憔悴振りに俺は少し心配になった。
そんなに煮詰まってんの? 何に?
俺はお湯を沸かしてから黙って茶を出した。
暫し、沈黙が落ちて、そいつがぽつりと言った。
「何も聞かねぇの?」
「聞いてほしいのか?」
俺は間髪入れずに返していた。
無理に聞きだそうとは思わない。それでも話したいのならば別だ。俺は黙って聞き役に徹してやろう。
いつもと同じように淡々とそう口にした俺にそいつは口の端を吊り上げて小さく笑った。そんな影のある笑みもそいつにはよく似合っていた。
「サンキュ」
「飯にすっか?」
「ああ、なんか買いに行く?」
「いや、俺、カレー作った。御飯も炊けてるし」
「用意がいいな」
その日、俺は偶々カレーを作っていた。これでも少しずつ自炊をしていた。男の料理で大したものは作れないけれど。
そして、俺御手製のカレーライスを囲みながら、俺はそいつの話を聞くことになった。
一言で纏めれば、結論から言えば、【自業自得】ということだ。浮気男の悔恨とも言う。
そいつはこう言った。今でもあの時の自分の判断を後悔している。別れて別の女の子と付き合うようになって初めて、前の彼女の素晴らしさに気が付いた。喪失したものの大きさに気が付いた。そして、急に全てが色褪せて見えるようになったのだそうだ。
ふらふらと余所見をして浮気をしたのは認める。自分が悪かったと。だが、そいつにしてみればその後の展開は予想外だったらしい。
初め、そいつはユミちゃんと付き合う積りはなかったらしい。酒が入った上のことでアルコールの勢いもあった。だが、相手の方は違ったようでまるで彼女のように振る舞いだした。ユミちゃんの中では、自分たちは互いに想い合っているということになっていた。肉体関係を持ったということもあるだろう。
俺はそれを聞いた時、だから言わんこっちゃないと思った。俺の目から見てもそいつの態度は随分と思わせぶりだったからだ。
「それはお前が悪い」
ぴしゃりと言った俺にそいつは『そっか』とがっくりと項垂れて、片手で顔を覆った。
もっと早い段階でちゃんと断るべきだったのだ。それをずるずると引き摺って有耶無耶に濁してきたのだ。向こうにしてみれば脈があるかもしれないと勘違いをするだろう。
一度は彼女がいるからと断ったが、『ヒドイ』と泣かれてほとほと困ったということだ。彼女と別れて自分と付き合って欲しい。その位の誠意を見せて欲しいということで、仕方なく(と言っているが、本当の所はどうか怪しいものだ)前の彼女に訳を話して別れてもらった。そして、新しい彼女と付き合うようになったということだ。
くだらない。呆れてモノが言えなかった。
「大バカモノが」
小さく吐き捨てた俺にそいつは力なく笑った。
「ああ、そうだよ。俺が馬鹿だったよ」
迫られて靡いた。そして受け入れたのだから、やはりそいつが悪いのだ。
「前の彼女と別れてユミちゃんと付き合い始めたのは分かった」
―――――で、お前はどうしたいわけ?
最近はそのユミちゃんとも上手く行っていないとのことだった。そりゃぁそうだ。こいつの方は未練たらたら前の彼女のことを忘れられない。心が離れているのだから。そういう変化に女の子は敏感だ。自分に気持ちのベクトルが向いていないことが分かれば、『どうして?』となるだろう。
「ユミちゃんとは多分、近いうちに終わると思う」
冷静にそんなことを淡々と言ったそいつに俺は白い目を向けた。
「ま、その方がいいだろうな。好きでもないのに無理に付き合うのは相手にも失礼だ。そういうのはちゃんと本心で向きあわないと」
―――――だろう?
説教染みた言葉を吐き出した俺にそいつは『ご尤もです。弁解の余地はありません』と項垂れた。
「で、何をそんなに凹んでんだ?」
新しい彼女と付き合い始めて、前の彼女の素晴らしさを再認識した。自分は大きな過ちを犯したことに気が付いた。間違いに気が付いた代償は大きかったが、それでも気が付かないよりは断然良いだろう。
「真帆櫓さんをすげぇ傷つけた」
そいつは大きく息を吐き出した後、沈痛な面持ちで呟いた。
マホロさん―――というのは、そいつの前の彼女の名前だ。
「今更だな」
「ああ、分かってる」
「で、どうしたいわけ?」
「できれば謝りたい」
「それは虫が良すぎるだろ」
「……だよな」
「当然だ」
「やっぱり好きだって気付いたんだよ」
離れてみて初めて分かった。
確かにね。高2の時から一緒にいたんだ。その関係が彼女の方の努力に大きく依存していたことを初めて気が付いたということなのだろう。
俺は冷蔵庫の中から缶チューハイを取り出すとそいつに渡した。
そいつは手にした缶を持て余すように触ってからプルを引いた。
「もう酒は懲り懲りだ」
しみじみといったそいつに俺は呆れた。
「おまえなぁ、まだ二十歳になったばかりじゃねぇか。莫迦なことできんのは若いうちなんだから。今の内に自分の底くらい知っとけ」
どこまで飲んだらヤバいか、その許容量を知ることは大切だ。
「それ真帆櫓さんにも言われた」
ほら、やっぱりそいつの彼女はよく分かっている。
「若いうちは失敗しても許されるって」
「ふーん、じゃぁ、おまえのことも許してくれるんじゃねぇの?」
前の彼女はそいつが失敗をすることを前提で一緒にいた。恐らく、それは酒のことだけではなくて、浮気とか余所見とか、そういうことも含まれていたのではないだろうか。広義に取ればそう思えなくもない。そんなことを話せば、そいつはガバリと顔を上げた。
「お前もそう思う?」
俺の鼻先に詰め寄ってきた。
「いや、分かんねぇけどな」
第一、俺はその『マホロさん』とやらと面識はない。写メの写真を幾つか見せてもらっただけだ。その人がどういう風に笑い話すのか、俺には見当が付かなかった。
俺は、視界一杯に広がったそいつの整っている顔面を向こうへ押しやった。野郎に顔を近づけられても俺には萎えるだけだから。
そこで俺は何か引っ掛かるものを感じてそいつの顔をまじまじと見た。
「お前【も】?」
【も?】誰と比べての【も】なのだろうか。そこを突っ込めば、そいつは『ああ』と天井を仰いだ後、恐ろしく甘っちょろい希望的観測を口にしたのだ。
「多分、真帆櫓さんなら、正直全てを話せば許してくれるんじゃないかって思ってる」
何を根拠にそんなことを言うのか。俺が心底信じられないという風に口をあんぐりと開けて振り返れば、昔、高校を卒業した時に言われたことがあるのだと言う。大学生になって環境が変わると世界が広がる。また新しい人との出会いがある。そこでもし自分よりも好きな女の子が現れたのならちゃんと教えて欲しい。その時は自分と無理に付き合うことはないのだ。
いや、どんだけ懐が深いんだ。そのマホロさんとやらは。
要するにそいつが心変わりすることをちゃんと予期していて、それを込みで付き合っていたということなのだ。それとも若い男は浮気をしても仕方がない。そんな達観(?)、いや諦観から来ているのだろうか。その辺りのことを聞いてみたいと思った。俺が益々そのマホロさんとやらに興味を持ったのは言うまでもない。
「それは流石に調子良すぎるだろ」
俺はそいつを付けあがらせる訳にはいかないと思った。相手がどんな思いでその台詞を口にしたのか。そのことを考えてみなくてはならないだろう。
俺はそれから口を酸っぱくして、『相手の立場になって考えてみろ』と繰り返した。
そいつは俺に全てをぶちまけて、大分、精神的に楽になったようだった。玄関のドアを開けた時には死にそうな顔をしていたヤツが、飯を食い終え、風呂に入った後には冗談を言うくらいには浮上していた。
「ま、焦らず、ゆっくり行くことだな」
「そうかもな」
最終的にはそこに落ち着いた。これに懲りたらこれまでの行動を猛省して考えを改めるだろう。その誠意をそのマホロさんとやらがどう受け取るかは未知数だが、そっち(つまり、ユミちゃんとの事)が片付いたら。まぁ気長にトライしてみろ。そういうアドバイスをしておいた。
そして翌日、そいつは少し浮上した顔をして帰って行った。
それから俺はそう簡単によりを戻せる訳がないと思っていた。
情けなさMAX。大馬鹿野郎の告白、いや、懺悔の夜から約二カ月、年度が変わって俺たちは、四回生になっていた。
そいつからは就職先が決まったとの連絡があった。俺は素直に『おめでとう』とメールを入れた。懸案のユミちゃんとはあの後、すぐに別れたそうだ。振られたとすっきりした顔で苦笑いしていたのが印象的だった。ま、当然の報いという奴だ。
俺たちの関係も以前と同じような付かず離れずの適度な距離に戻っていた。そうして俺の目から見た俺たちの学生生活は元の軌道に戻り始めていた。
その日、卒論の準備の為にせっせと空き時間に図書館に通う俺の背中に声を掛けるヤツがいた。
「周防」
名字を呼ばれて振り返る。そこには気味が悪いくらい上機嫌な顔をしたそいつがいて、目が合うと無表情から一転、にんまりと笑って無言で親指を突き上げた。
俺はちょうど図書館と校舎を繋ぐ5Fの渡り廊下を歩いていた時で、俺がいきなりのことに目を白黒させている間にそいつは理由を述べることなく踵を返した。
―――――なんなわけ?
メールで簡潔に問いただした。
返事は直ぐに来た。
―――――4限の後、学食で話す。
―――――アイアイ。
そして、その日の昼休み、俺はそいつの口から信じられないことを耳にする羽目になった。
「真帆櫓さんに許してもらえた」
つまり、前の彼女とよりを戻すことが出来たと言うことなのだ。
「……有り得ねぇ」
信じられないと呟いた俺にそいつがちょっと苦笑した。
「俺も正直どうなるかは分からなかった」
それから俺が聞いた話を要点だけ纏めれば、そいつはどうもその彼女の掌の上で右往左往していたということなのだ。つまり全てを見通されていた。
こうなると何だか痴話喧嘩の延長のように思えてきたから、俺としては馬鹿らしくなったのは言うまでもない。そして再認識するのだ。夫婦喧嘩は犬も食わないって。
その実、そいつのことを心配していたことは口にせず、
「精々捨てられないように気を付けろよ?」
俺は上から目線でそんな偉そうなことを言って、そいつの背中を思いっ切り引っ叩いてやった。
そいつは痛そうに顔を顰めたけれど、最後には嬉しそうに笑ってた。
―――――クッソ。今度、なんか奢らせようか。
それを真正面から見て、なんかムカついたのはここだけの話だ。
リクエストを下さいましたねこ4匹さま、どうもありがとうございました。




