第十五話 努力と日常の同調率 99.9%
最終話です。今回は少し雰囲気を変えて、未来の情景からの一コマ。こんな未来も悪くないかも……しれない。
最近、巷でも歳の差カップルの話をよく耳にするようになった。大抵が夫婦の話だ。芸能界でもそういう事例があったりすると特に取り上げられたりすることが多い。人の好みは元より千差万別だが、人々の生活が多様化し、それぞれのライフスタイルも多種多様になった昨今、世の中には色々な人間関係の形が現れるようになった。一昔前は目を疑うように思われた事態も時の移ろいと共に当たり前のように思われたりもする。それだけ社会全体が、変化に富み、より寛容になったと言えるのかもしれない。
―――――って、なんでそんなことを話してるかって? それは、俺自身と深く関わりがあることだから。
「ゴメン、今、会社出たとこ。ちょっと遅れるかもしんない」
携帯片手に帰宅ラッシュの人混みを器用に縫いながら、俺は足早に歩いていた。手にした鞄は普通のビジネスモデルで、然程膨れている訳ではないのに重い。きっとノートパソコンが入っている所為だ。
「お疲れさま。別にいいわよ。焦らないでいいからね? 適当に時間潰してるから」
雑踏の中に響く声は以前と少しも変わらず、優しくて温かくて、ささくれだった気分を和ませてくれる。この声は、既に俺の日常生活の中に深く浸透していて、欠かせないものになっていた。
「ん、分かった。サンキュ。じゃあ、着いたらまた連絡入れるから」
「はーい」
携帯のフリップを閉じて、ジャケットのポケットに入れる。そのまま、手を首元に持っていってネクタイを緩めた。
この瞬間、俺の中のスイッチがオンからオフに切り替わる。
今夜、俺は人と会う約束をしていた。偶には気分を変えて外で食事をして帰ろうっていうお誘いに、俺は一も二もなく即答していた。もちろん、返事はOKだ。
今日はいつもより仕事が少し長引いて、約束の時間に遅れそうだった。大体、退社時間ってのは決まってたから、余裕を持って待ち合わせの時間を決めたんだけど、そういう時に限ってイレギュラーな事態が発生したりするんだよな。で、帰り際に捕まって、思いの外時間を取られたって訳だ。
駅に着くと改札を抜け、プラットホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。
車窓を流れる何気ない風景も漸く日常としての景色を俺の中で刻み始めていた。そうして揺られること約10分、待ち合わせの駅に辿り着く。
「お待たせ」
ターミナル駅のコンコース。改札口付近、俺は、柱の影に立つ小柄な背中に声を掛けた。
肩上で切り揃えられた癖のない黒髪がさらりと揺れて、その顔が露になる。
少し垂れ下がり気味の大きな薄茶色の瞳が、俺の姿を捕えるとすっと細められた。
「お疲れさま。なあに? 信くん、慌てて来たの?」
近づいた俺を見て、真帆櫓さんが小さく笑った。以前と変わらない穏やかな微笑みが俺を迎えた。
最初に出会った頃に比べて目尻に小さく笑い皺が出るようになったけれども、それすらも俺にとっては共に重ねた年月の重みを表しているようで愛おしいものだった。そんな細かいことを除けば真帆櫓さんは変わらなかった。
高校を卒業し、大学を経て社会人になっても、真帆櫓さんは揺らがないまま、いつも俺の傍にあった。真帆櫓さんは、それは自分が既に社会人で日常に劇的変化がある訳ではないからだと言ったが、俺は変わらずにそこにある存在に感謝をしていた。
今では家族の他に一番近い他者だ。その関係性を俺は今、もう一段階踏み込んだものにしたいと考えている。
真帆櫓さんがかつて高校生の俺に語った言葉は、社会人になってから、漸く身に染みて実感を伴うようになった。あの時には分からなかった事が、今、やっと見えてきたという感じだ。
大学時代、ちょっとした経緯から離れた時もあったけれど、結局、俺はここに戻ってきた。
今でもよく許してくれたなぁって思っている。今にして思えば、俺が全面的に悪かったんだけど。あの時は二十歳になって大人になった気分で魔が差したんだよな。飲み会で酒が入ってたということもある。色々な事が時期的に重なった時だった。ちょっと余所見をしたら向こうの方が本気になって、責任を取れとかいう話になって、俺はやむなく真帆櫓さんに頭を下げたんだ。浮気をしたのは事実だったから、恥を覚悟で話をして、一度関係を白紙に戻してもらった。
そして、別の相手―――同じ大学の学生だった―――と付き合うようになって初めて、俺は失ったものの大きさを理解したのだ。
新しい彼女とはすぐに上手く行かなくなった。それは、俺が無意識に新しい彼女を真帆櫓さんと比べていたから。俺の心は既に離れていて、それを敏感に感じ取った相手から別れを切り出されたのは当然のことだった。思っていたのと違う――――そんな理由で振られた。
それから、一人になって考えるのは、大抵、真帆櫓さんのことだった。大学の講義なんて当然のことながら上の空で身が入らなくって。俺は毎日をただただ時の流れるに任せて無為に過ごしていた。
この時、俺は高校生の時から続けていたコンビニのバイトに感謝をした。それが俺に残るあの人との唯一の接点だったから。連絡先はもちろん知っていたけれど、自分から連絡を取るのは、余りにも虫が良すぎるかと思い自粛していた。
それから暫らくは一人でいたんだけど、どうしても真帆櫓さんのことが忘れられなくて、俺はコンビニに買い物に来た時、去り行く背中に声を掛けていたんだ。
真帆櫓さんは静かに笑って、『気が済んだ?』って聞いてきた。からかうようにこちらを見て『同年代の彼女はどうだった?』なんて。
それを聞いた時、俺は真帆櫓さんが全て見通していたということを理解した。そして完敗した気分で情けなく笑ったんだ。
それから寛容な女神の計らいで、俺は再び元の場所に戻ることを許された。
あれから五年。何だかんだ言って社会人になってから三年が経過し、俺は今年25になる。気が付けば、初めて出会った真帆櫓さんの歳になっていた。
ここから見える風景は、あの頃とは随分と違った。あの頃と同じ制服姿の高校生を見掛けると何とも言えない懐かしさとほろ苦さが腹の中にせり上がって来る。
今でも偶に考える。こうして大人になった俺は、あの時と同じように電車の中で知り合いになった女子高生と付き合えるかだろうかと。当時の真帆櫓さんと同じような状況を自分に当てはめてみて、いやそれは犯罪だろうと直ぐに妄想を打ち消した。そして、改めて気が付かされるのだ。あの時、俺に頷いてくれた真帆櫓さんの決断が、相当なものであったということを。
「何食べる?」
「ん~、パスタ? イタリアン?」
そう言えば、初めて真帆櫓さんと出掛けた時もそんな話をしたんだっけか。
あの時は、通勤ラッシュの電車の中で口紅がワイシャツの襟に付いてしまって、そのお詫びを兼ねてという名目で俺が映画に誘ったんだった。
初対面の相手によくそこまで食いついたと今更ながらに思う。それでもあの時、声を掛けていなかったら俺は真帆櫓さんとは単なるちょっとした顔見知りって所で終わっていて、このように密な関係を築くことはできなかった訳だから、当時の俺、よくやったって褒めてやりたい気分だった。
あの時は、近場でお昼を食べようという話になって、真帆櫓さんの行き付けの店でパスタを食べた。あのカフェは今でも近隣のOLたちに人気で、いつ行っても大勢の客で溢れている。マスターの豪快な髭面も所々白いものが混じるようになったけれど相変わらずだった。
今でも偶に顔を出すと『来たか、坊主』って言って、銜え煙草でニヒルに笑われる。マスターにはどうも初めて会った時の印象(制服を着てたから)が相当強かったみたいで、スーツ着た立派な成人男子の俺としてはかなり微妙な所なんだけど、マスターから見たら、俺はまだ十分ガキの範疇のようで、仕方がないけれど黙っている。
くぅぅぅ、どうやったらあんな渋い男になれるんだ? 俺は煙草には手を出してないけれど、目下、男前に見える仕草を研究中だったりする。目標は、マスターみたいな感じだ。
というのは、俺の腹の内だけで、真帆櫓さんには言っていない。きっと口にしたら、涙を流して大笑いされそうだから。『キミはそういうの柄じゃないでしょう?』ってね。いやさ。自分がマスターとは真逆だっていうのは分かってる。でも人間、自分にはない正反対の相手に惹かれることは間々あることだろう?
―――――まぁ、それはさておき。
「最近、お魚が続いたからね。お肉じゃなくていいの?」
「ん。こってり系がいい」
「じゃぁ、あそこにしようか」
「あ、ピザが上手かったとこ?」
「そう」
「いいね」
去年の秋から俺は真帆櫓さんと一緒に暮らしていた。真帆櫓さんが元々暮らしていた部屋は二人で暮らすには少し手狭だったから、相談して、もう少し広い所に引っ越をした。
社会に出てから二年目、まだまだ新人の部類ではあるけれど、そこそこ仕事っていうものにも慣れてきて、給料もそれなりに出るようになった。だからそろそろいいかと思って、俺の方から同棲を切り出したんだ。真帆櫓さんはかなり驚いた風だったけれど、最終的には頷いてくれた。
そして、一緒に生活を始めてからもうすぐ一年が経つ。真帆櫓さんとの付き合いはそれなりに長い方だったけど、共に暮らし始めてから初めて見えてきたことも沢山あった。日々の細かい習慣とか生活リズムとか、本当にちょっとした違いなんだけど、単に付き合うっていうのと一緒に暮らすっていうのは、全然違うことだと思ったのも記憶に新しい。
まだまだちょっとしたことで言い合いになったりする。本当に他愛ないささやかな部類のものだけれど。御飯のおかずの味付けとか。目玉焼きの火の通り具合とか。肉じゃがに入れる肉の種類とか。カレーに使う肉の種類とか。育った家庭の味がそのまま違いとして出てくるんだよな。どうしても譲れないっていう点は除いて、今の所、大体三回に一回の割合で真帆櫓さんが妥協してる……かな。
今ではそれなりにペースも掴めていて―――勿論、俺だって家事を手伝ってる―――自分の時間を持ちながらも二人の共有時間を楽しんでいた。何よりもくたくたで家に帰って来た時に、『お帰りなさい』って笑顔で迎えてくれる人がいることが凄く嬉しいことだった。
今、俺は家賃やら諸々の生活費を真帆櫓さんと折半している。本当は『俺が養ってやる』って言えればいいんだろうけど、現実問題それは厳しくて、俺よりもずっと社会の先輩である真帆櫓さんには『無理をしなくていいわよ』って軽く流されてしまうだろう。それは俺も仕方がないって思っている。真帆櫓さんは自分が年上であることを鼻にかけたりすることはなかったけれど、俺が社会人になってからというもの、同じフィールドに立つことが出来たからこその年の差が生み出す違いは大きいと認識していた。
だけど、それを理由に俺はここまで築き上げてきた関係と立ち位置を手放そうとは思っていなかった。真帆櫓さんの隣は俺を安心させた。俺がなんの気負いもなく、リラックスして素を曝け出せるのは、この人の隣でしかなかった。
ここまで来れば、あと俺が目指すべき人生の通過点は一つ。
来月は、真帆櫓さんの誕生日。それに合わせて俺は密かな計画を練っていた。今更だろうって思うかもしれない。それでも相手をここまで待たせてしまったという思いもあった。真帆櫓さんは付き合い初めの時点で、そのことは気にしなくていいと言ってくれていたけれども、俺はその言葉を鵜呑みにした訳では無かった。
一般的な相場に比べるときっと安物だろうけれど、普段から使ってもらえるようにとシンプルなものを選んだ。それでも俺の給料から見たら高い買い物だった。でも、これで俺は人生最大、最高のものを引き換えにするのだから、それはきっと海老で鯛を釣るみたいなものなんだろう。
今日の昼間、休み時間の合間を縫って注文していた品を取りに行った。受け取った時は柄にもなく指が震えた。そして、今、その綺麗にラッピングされた小さな包みは、俺のジャケットのポケットに収まっていた。
俺はさり気なく鞄を持つ手を替えて、隣にある小さな手を取った。
決戦の日まであと少し。同期の奴らや大学時代、高校時代の友人たちから見れば、俺の決意はきっと驚くべきもので、『そんなに早く人生決めていいのかよ』なんて呆れられるかもしれないけれど、これが俺のペースだって思っている。
「ん? どうしたの? 何かいいことでもあった?」
これからのことを考えて思わず口元を緩めた俺に、真帆櫓さんが顔を上げた。
「ちょっとね」
「ふーん?」
一人、含み笑いをした俺に真帆櫓さんは怪訝そうな顔をしたけれど、それでも直ぐに柔らかく微笑んだ。
こういうささやかな距離感が心地よかった。
「カルボナーラが食べたい」
「ああ。この間、失敗したから?」
「そう」
一緒に台所にも立つようになって、レシピを囲みながら新しい料理にもチャレンジするようになった。まぁ、俺は専ら味見と茶々を入れる側だけど。下ごしらえの野菜の皮むきなんかは率先してやっている。
信号が青になって横断歩道を渡る。ちょうど帰宅ラッシュと時間帯と重なって、駅へ足早に向かうサラリーマンやOLたちの流れを逆流するようにのんびりと歩いた。
「お腹すいた」
「いつもより時間、早いけど?」
「食欲の秋だから?」
『お昼はちゃんと食べたんだけどなぁ』と照れたように小さく笑って、真帆櫓さんがその手を腹部に宛がった。
真帆櫓さんは一般的な人に比べても食が細い方だった。俺からすれば彼女が一度に食べる量は驚くほど少ない。そんな中でも食べるものとタイミングによって、かなり波があることも知った。今日はどうやら沢山食べるスイッチが入っているようだ。
「じゃぁ、沢山食べてください」
「ラジャー」
調子の良すぎる返答に俺は小さな笑いを堪えながら直ぐ下にある顔をそっと見下ろした。顔を見交わせると真帆櫓さんも可笑しかったのか、少し照れたように笑った。
そうして俺たちはクスクスと小さな笑いを小出しにしながら、お目当ての店へと向かった。
こうして過ぎて行く穏やかな日々。こんな日常も悪くない。
そして、俺はこのささやかな日常を守る為に日々、小さな努力を重ねて行くのだろう。
今、隣にあるこの人と共に。
【完】
これまで長々とお付き合いありがとうございました。
これを持って【1/144の揺り籠】本編を終了したいと思います。
最終話は、少し時間を進めて大人になった信思くんにご登場頂きました。(余り変わっていないかも?)途中、色々と紆余曲折はあったようですが、信思くんにとっては真帆櫓さんはその後の人生のよきパートナーであるようです。
次回からはリクエスト番外編になります。