第三話 空想と理想の乖離率 83.20%
第一話と第二話では、舞台の時間設定は出てきていませんでしたが、春先、4月辺りから始まったお話として設定しています。
同じ電車。同じ車両。同じ吊革。
そして、左隣に立つ同じ人物。
私の車両風景の中には、新しい情報が付加され、認識されるに至った。
それは、毎朝、私の隣に立つ人物。紺色のブレザーに白いワイシャツ。紺色の折柄の入ったネクタイ。すらりとした長身に黒い癖のない髪。吊革に掴まるのはいつも左手。骨ばった大きな手。柚に似た柑橘系の香り。
断片的な統合が、急スピードで進んで行く。
窓の外、流れて行く空は、快晴だ。
昨日、夕方から降りだした雨も朝方には上がった。水分を含んだ重みのある空気が、ねっとりと肌に絡みつく。それは、これからやってくるであろう梅雨の季節を何処となく想起させて、ほんの少しだけ憂鬱な気分をもたらすが、植物たち、木々にとっては格好のご褒美であったようだ。
新緑が目に眩しい。この時分の一雨は、多大なる成長を植物にもたらす。我が家の小さなプランターに植えられたレモングラスも驚くほど元気になっている。
窓ガラスに車内の様子が反射している。流れる緑を背景に透明にぼやけた人垣が浮かび上がっては揺れる。薄手のコートも少し暑苦しくなってきた。冷房の入る前、車内の空調は効いているのかいないのか、実に淀んだ空気が行き場をなくしているのが分かる。
隣の学生は暑くないのだろうか。こういう時、男性諸君は不便だ。女性は、社会人でもかなり服装の自由が利く。重ね着で温度調整がしやすい。暑ければ脱げばいいし、寒ければ着込めばいい。反対に男性諸君はいつもスーツだ。ワイシャツにネクタイ。そしてジャケット。生地は春物になったとはいえ、年がら年中、身に付ける量は同じだ。それ以上に学生の制服の方が大変だろう。六月一日、夏服への衣替えまでは、春秋冬、三シーズン着通す、いや、着倒すブレザーなのだから。
ガラス越しに隣の男子生徒を見やった。
相変わらず涼しい顔をしている。すうっと通った鼻筋にややする鋭いきらいのある切れ長の目。武士の正装である直垂を着せたら似合いそうな風貌だ。簡素な単衣に単跨か括り袴を穿いて、腰に脇差を差すのもいいかもしれない。
剣の稽古と銘打って、木刀を手にして。いや、それとも具足をつけた方がいいか。鉢巻きに烏帽子を被せて。前の晩に見た『蒙古襲来絵詞』に描かれていたような鎌倉武士の装いなどは、正に惚れ惚れする。鬢のおくれ毛が額際に掛かって、米神から顎にかけて白い組紐が若々しさと勇ましさを際立たせるだろう。
ガラス越しとはいえ、長々と観察をしていた所為か、窓に映った学生が目を瞬かせた。
そして、じっとこちらを見ているように見えた。
私は頭の中で描いたかの者の若武者ぶりに一人ほくそ笑んでいた。
傍から見たらニヤツいている怪しい人物である。晩春の陽気に頭の中までもついにシンクロしてしまったのではと勘繰られても仕方のない有様だ。
ガラスに反射する若者は、まだこちらを見ていた。
私はそれを、微笑みを湛えながら見やった。
先に目を逸らした方が負け。そんな奇妙で子供染みたゲームを思いついて。負けず嫌いの気性に火が付いたようだ。
この小さな攻防は、我々が降車する駅まで続いた。
勝負は引き分けだった。
「何かいいことでもありましたか?」
プラットホームに降り立ち、新鮮な空気を思い切り吸い込んだ所で、隣に並んだ学生が徐に口にした。 耳に優しい低めの穏やかな声だ。
言われたことが分からずに、首を傾げた私に言葉を継いだ。
「今日は随分とご機嫌ですね」
その指摘に内心、鼓動が跳ね上がる。
中々に鋭い指摘だ。いや、それよりも自分の態度が余りにもあからさま過ぎるのだろうか。
動揺を隠すように微笑んでみる。
「そう見えます?」
「はい」
「それなら、そうなんでしょうねぇ」
自嘲気味に微笑んでみる。
それでも頗る心のうちは軽やかだ。軽薄な程に。
まさか、当人を目の前にして『キミの直垂姿を妄想していたからですよ』などとは言えまい。
怪しい要注意人物としてのレッテルが貼られてしまう。
案の定、怪訝そうな瞳がこちらを見下ろした。
「そんなもんですか?」
世の中には知らなくてよいことは沢山あるのだ。
「そんなもんじゃないですか?」
私はそれを笑って見上げた。
赤裸々に語るにはまだ早い。この位の距離感が精々だろう。
ほんの少しの歩み寄り。それはまだ、電車の揺れで簡単に相殺されてしまうような小さなブレに過ぎないのだから。
この世の中で、日本人男性を一番セクシーに見せる衣装は、【直垂】だと思っている作者です。中でも、後ろ姿はうっとり………失礼、しました。




