第十三話 混沌と衝突の回避率 81.7%
―――――――ああと。なんでこうなったんだっけ?
俺は、その日、思い切り頭を抱えたい気分で呻いていた。約一週間前の自分の浅はかさを呪ってみたとて既に遅い。
季節は移ろい11月も半ばに入っていた。その間、俺の日常は、俺自身が望む望まないとに関わらず、少しずつ変化を見せ始めていた。
始めは本当にささやかなことだった。それでも小さな塵も積もれば、それなりの山となる。そして、気が付いた時、俺を取り巻く事態は、思わぬ方向へと流れていた。
もう一度、声を大にして言いたい。
なんでこうなったんだ?
最初の兆しみたいなものは、今にして思えば、夏休み明けの9月のことだった。
バイト先のコンビニに8月のお盆明け、近くのカフェで真帆櫓さんを待っている時に偶々俺の隣に座って声を掛けてきたOL風の女性が、同僚を連れて偶に顔を出すようになったことだった。そして、買い物をする際に何故か俺に必ず声を掛けるようになった。
俺としては、相手はお客さんだから無碍にあしらう訳にもいかず、ここ半年で漸く板についてきた愛想笑いなるもの―――俺の悪友たちに言わせれば大層『気味が悪い』とのことだ。余計な御世話だ―――を実践する。それから二、三他愛ないことを話して、その人は機嫌よく帰ってゆくのだ。
それが、四回に一回の割合で、真帆櫓さんが来店する時に重なるものだから堪らなかった。真帆櫓さんは変に遠慮して、俺がその人の相手をしていると別のレジに並んだり、視線だけ合わせて言葉を交わさずにさっさと店を後にしてしまうことが多々あった。俺も仕事中だし、真帆櫓さんも忙しくて本当に時間が取れなかったのかもしれないし。そんなことを都合の良い言い訳のように考えた。
そして、俺の中には、消化不良のような欲求不満が小さく積み上がっていった。
そして二つ目は、コンビニにやってくる真帆櫓さんの側に同僚だという若い男が一緒に付いてくるようになったことだ。
その男は、以前、酔っ払った真帆櫓さんと遭遇した時に後から乱入してきた奴だった。
それが五回の一度ぐらいの割合で両者の顔触れを見るようになった。真帆櫓さんは偶々だというが、俺の目から見ても向こうがぐいぐいアピールをして押して来ているのが丸分かりだった。一緒に商品の棚を見ながら笑顔で言葉を交わし合うその姿は、端から見れば非常に親密に見えた。まるで付き合い始めの初々しい恋人同士のように。
おい、ちょっと、そこ。近づき過ぎだから! ピ、ピピピ、ピー!!!
俺は心の中で、交通整理の警官がぶら下げているようなホイッスルを甲高く吹き慣らして、不届き者へ警告を発する様を思い描いた。だが、そんな俺の内心の懊悩も虚しく、男の方は、恐ろしい程爽やかさ全開の笑顔でこっちがびっくりするくらいに顔を寄せたりするのだ。それをカウンター越しに横目に見るしかない俺は、正直、気が気じゃなかった。
それでも、相手は店にとっては大事なお客さんだから、しがない雇われ店員である俺がぞんざいな態度を取る訳にもいかず、俺はぎこちない笑顔で接客をする羽目になる。
その光景を初めて目にすることになった時のことは良く覚えている。例の同僚は、レジで俺を見た際に俺のことを覚えていたのだ。
その男は、開口一番に爽やかな笑顔を浮かべながらこう言った。
―――――――あの時は悪かったね。キミに保内さんを送らせてしまって。
その台詞に俺が驚いたのは言うまでもない。
てか、それ、俺の台詞だから。曲がりなりにも真帆櫓さんと付き合っているのはこの俺だ。それなのに自分の彼女が迷惑を掛けたみたいな感じで言われて、俺は納得がいかなかった。
それ以来、その男は真帆櫓さんとコンビニに来ると必ず帰り際に俺の方をちらりと横目に見て、微かに意味深な笑みを浮かべるようになった。
何それ。もしかして宣戦布告されてんの、俺。相手のやってることの意味が分からなかったが、いちいち嫌味な男だということは感じ取れた。だが、店内では睨み返す訳にもいがず、ぐっと堪えるしかない。
そして、三つ目は、俺がここでバイトをしてるってことが、学校のクラスのやつらにばれたことだ。塾に通うヤツが夏期講習の際にここを利用して、中で働いている俺を発見したって訳だ。休み明けに学校に行ったらクラスの奴らがそんなことを話していて、今では学校帰りに態々こっちの方にまで顔を出すようになったものだから鬱陶しくて仕方が無かった。仕事の邪魔はしないでくれと一応は釘を刺しているけれども、二学期開始以降、目に見えて増えた見慣れた制服の客たちに、俺は心の中でそっと溜息を吐いた。それが大体、六回に一度の割合で俺の密かな憩いの一時―――要するに真帆櫓さんと言葉を交わす一時だ―――に重なった。
そして、四つ目。これがホント厄介なことだった。七回に一度の割合で、真帆櫓さんの元彼だというあのサラリーマンと何故か遭遇するようになったことだ。
九月の頭、初めて会った時に話していたように本格的に辞令が下りて、札幌からこっちに戻ってきたんだと。勤務地は横浜とのことで部屋もその辺りで探したらしい。だから、普通に考えてたとえ川一つ向こうと雖も隣の自治体に暮らす俺や真帆櫓さんとは生活圏は違う筈なんだが。
偶に休みの日に俺が真帆櫓さんと街中を歩いていたりすると休憩で入ったカフェとか、昼飯を食べようとして入った店とかに何故かあのやたらと暑苦しい感じの爽やかな男―――言葉は矛盾してるけど、そうとしかいいようがないのだから仕方がない―――がいるのだ。
俺も初めは単なる偶然かとも思った。だが、それが二回、そして三回と続き、五回目になった時、俺は思わず聞いていた。横浜の方に住んでるんじゃないのかって。そうしたら、なんて言ったと思う? その男が挙げた住所は、ほんと目と鼻の先の場所だった。
『だからかぁ』なんて真帆櫓さんは度重なる邂逅をあっさりと流して受け入れていたが、俺は『ちょっと待て』と思った。住んでる場所が近所というのは、百歩譲って仕方がないとして。だからと言ってここまで遭遇率が跳ね上がるものだろうか。俺はこの方、ずっとこの地域に暮らしているけれども、小学生の頃とか中学生の頃の友人たちには滅多なことでは顔を合わせたりしなかった。
あの豪快でどこか暑苦しい匂いのする笑顔を目にする度に俺はその男へ胡乱気な視線を投げていた。いや、だってさ、普通に考えて有り得ないだろ。なんか見張られている気がして仕方がない。俺が一度、冗談めかしてそんなことを口にしたら、真帆櫓さんは『そんなことあるわけないじゃない』って笑って流していたけれど。俺は内心、首を捻るばかりだった。
それからというものの、俺の日常にはこうして様々な異分子が外野から複雑に絡んで来るようになったのだ。
そして、少しずつ奏でられ始めた不協和音。
俺はそれに気が付かない振りをしながら何とかして現状を立て直そうと躍起になっていた。今にして思えば、それが悪かったんだろう。俺は自分のことしか考えていなくて、その向こう側で相手がどんなことを思っているかなんてちっとも考慮してなんかいなかった。
ああ、あの平和で穏やかな日々はどこに行ったのだ?
この間、バッティングセンターに行ったときは純粋に楽しかった。場所については昼休み、いつものメンバーで飯を食っていた時に高畑(あいつは中学時代野球部だった)の奴に話を振ったから、当日行ったらその知り合いだという野球部の先輩ってのがいて、ちょっとしたイレギュラーな展開にはなったけど、それでもまだ俺の許容範囲であった。
真帆櫓さんは初めてだと言っていたけれど、結構ヒットを連発していた。勿論、速度は一番下の時速70kmだったけど、それでも金属バットを振って当てるんだから大したものだった。
バットはどうにも重いらしくって、構えた時はそれなりの形になってたんだけど、それを振る段階で大根切りみたいになっていた。そんなんでも上手い具合にバットの芯に当てたりするんだから不思議なものだった。俺がボックスの外で、携帯のムービーでその様子を動画に撮って見せたら、本人としてはちゃんと打ってたイメージがあったらしくて、少し恥ずかしそうに笑ってた。
真帆櫓さんは始終、楽しそうにはしゃいでいた。一人、バッターボックスの中に入って、向こうとこちらを区切る透明な強度のあるアクリル板(みたいなもの?)を通して、ちらちらとこちらを見ながら実にいい笑顔で笑ってた。そして、見事ヒットを打って見せると『どうだ』って顔をしてこちらをちらりと見るのだ。そして悪戯っぽく笑うのだ。
その時の少し子供っぽい笑顔を思いだして、俺は無意識にニヤツいていた―――らしい。
「―――――で、どうすんだ?」
不意に聞こえてきた低い男の声に、俺は強制的に意識を現実に引き戻された。
現実逃避は儚くも終わりを告げた。
俺の目の前には、何故か、安っぽいテーブルを挟んで向こう側に、あの前髪を整髪料で跳ね上げさせた秀でた額の男がいた。その名を生方泰正。真帆櫓さんの元彼だというあの三十絡みのおっさんだ。
世間じゃあ、三十はまだおっさんじゃないって認識があるみたいだけど俺にしてみれば十分おっさんに見えたから、以後そう呼ぶことにする。
俺は無言のままテーブルにあった飲み物に手を伸ばすと、そのチープな紙コップに突き刺さる縞模様のストローに吸いついた。ズズズと砕けた氷と僅かな水分に空気だけを吸い込む音が聞こえて、中身が無くなっていたことに気が付いた。そんな些細なことで俺は顔を顰めていた。
地元の駅の駅前のファーストフード店。そこの二階席で、俺は、このおっさんと四人掛けのテーブルに着いていた。何が悲しくて休みの日の昼間にむさ苦しいおっさんと顔を合わせて飯を食わなきゃらならんのか。そう愚痴を零してみても、そもそもの原因は俺にある訳で。自爆しそうになっている俺に救いの手を差し伸べてくれたのは、このおっさんの方だった。だから、本来なら俺は平身低頭してこのおっさんに感謝をしなくてはならないのだ。袋小路に入りかけた今の俺に何らかの突破口を開いてくれそうなこの人に。と言ってもこの人の場合、その原動力の根底にあるのは真帆櫓さんのことを心配してのことで、間違っても俺を思ってのことでは無かった。だが、動機は違えども目的は一致している訳だから、そこには目を瞑ることにした。………なんて大きなことを言える立場じゃないんだ。本当に。
「なぁにお前が死にそうな顔してんだよ。このボケが」
再びぐるぐると思考の渦に嵌ったようで、ぼんやりしていた俺の額に容赦ないデコピンが繰り出されて、俺は思わず恨めしそうに目の前に座る男の顔を見た。
そんな俺をおっさんは鼻で笑った。どこまでも余裕綽綽の態度だ。
「文句は全てが解決した時に聞く。……ってかなぁ、そんなどん底に落ち込むくらいなら、あんなこと言わなけりゃぁ良かったんだ」
ご説はご尤も。だが、後悔は先に立たず。時間を巻き戻すことなど出来ない俺は、幾ら悔んだとて仕方が無かった。
ここまで色々とぐだぐだと言っていた訳だが。俺が途轍もなく凹んでいるには訳があった。
初めて、真帆櫓さんと喧嘩をした。
傍から見ればそれは本当に些細なことで、喧嘩にすら見えないかもしれない。だって、いつも真帆櫓さんは優しくて、俺の我が儘を苦笑に似た笑み一つで流してくれていたから。
それでも、勢いに任せて、俺は『言ってはならない一言』ってやつを口にしていたのだ。
『しまった』と思った時は後の祭り。一度口にしてしまった言葉は取り消せない。
本心では、そんなこと真剣には思ってもいなかったけど…………。いや、正直に言えば、微かには思っていた。
だって、この所、俺を取り巻く環境は急に変化をみせていて、俺と真帆櫓さんの間に思わぬ障害が壁となって立ちはだかり始めたから。むしゃくしゃとした小さな不満が行き場をなくして、俺の中に溜まっていたんだ。忍耐力はある方だと思っていたんだけど、溜まりに溜まった鬱憤は、ほんの少しの刺激で爆発をしてしまった。
それは、いつものようにバイトを終えた後の帰り道の時だった。なんでそんな話になったのか、今でも良く覚えていない。多分些細なことだったんだと思う。
――――――真帆櫓さん、本当は無理してるんじゃねぇの? 本当は俺みたいなガキよか、スマートな大人のリーマンの方がいいんだろ?
それは、俺が前々から気になっていたことでもあった。あの元彼だっていうサラリーマンのおっさんと同僚だっていう男が現れるようになって、そういうことを思うようになっていた。
最近、富に年の差が生み出す大きな隔たりを俺は痛感しない訳にはいかなくなっていた。とりわけ社会人と学生の意識の差が生む感覚の違いとでも言えばいいか。
それは始めから予期していたことで、俺も受け入れなくちゃならないことだった。それは頭では理解してる。でも気持ちの面で追い付いていけなかった。
真帆櫓さんが俺を受け入れてくれたってことは分かっていたけれど、元々俺の方から、ごり押しして始まった関係でもあったから、真帆櫓さんは半ば仕方ないみたいな感じだったんじゃないかって。
この時の俺はいつになく弱気になっていた。そして、臆病になっていた。自信が無くっていた。
だから口にしてしまったんだ。一番言ってはいけないことを。
真帆櫓さんの本心は違うんじゃないかって。
それは相手にしてみれば失礼極まりない発言で、その時の俺はそこまで頭を働かせることが出来なかった。
俺は真帆櫓さんなら『なに言ってるのよ!』って笑って冗談に流してくれることを期待していた。
だが、その予想に反して、真帆櫓さんは傷ついた顔をして、こちらを見ながら止まってしまった。
そして、『そっか』と小さく呟くと哀しそうな顔をして笑ったんだ。
―――――――キミも無理してるの?
その問い掛けに俺は直ぐ反応することが出来なかった。その遅れを真帆櫓さんは肯定と受け取ったようだった。
その時、俺は人生最大のミスを犯したことを悟った。
相手を不用意に傷つけてしまったことを知った。
『冗談に決まってるじゃん』って言ってみたけれど、その時は間違っても冗談めいた空気すら無くて、多分、信じては貰えなかったんだろう。
それから、俺たちの間にはギクシャクとしたものが挟まるようになった。取り繕おうとしても、一度生まれてしまった不信感みたいなものは、俺たちの間の見えない蟠りを栄養にして大きくその根を張り伸ばして行った。そこに芽生えた小さな双葉が成長をして花を咲かせないように、俺はその芽を摘み取ってしまわなければならなかった。
毎朝の通学時間、電車に揺られながらの10分間。唯一の俺たちの共通時間に小さな亀裂が入り始めたのも想像に難くないことだった。
翌朝、俺は少々気まずい思いをしながらも、一晩経って真帆櫓さんが昨日の事を有耶無耶に流してくれるのではと淡い期待を抱いていた。
翌朝、車内で隣に立った俺に真帆櫓さんは小さく微笑んだ。だが、その態度が少し余所余所しいものになったことを俺は認めないわけにはいかなかった。
それから俺はずるずるとあの時の一件を引きずっていた。真帆櫓さんに謝りたいんだけど、その時間を中々取ることが出来なかった。こちらから連絡を取ろうにも当たり障りのない笑顔を浮かべて、やんわりとかわされてしまうのだ。バイト先では色々な邪魔が入って話を振ることが出来なかった。そして、俺がぐずぐずしているうちに真帆櫓さんがコンビニに顔を出す回数までもが減って行ってしまっていた。
相手がまだかんかんに怒って、怒りを露わにしてもらえた方が楽だった。向こうがぶつかって来ればこちらも同じようにぶつかることが出来るから、真正面から本音の遣り取りが出来れば、そこで誤解やら齟齬が解決できるだろうと思っていた。
だけれど真帆櫓さんはそういうタイプじゃなかった。大人だから、年上だから。多分そういう理由で俺の不満を笑顔の仮面で受け止めてしまうのだ。その本心は、傷ついているだろうに、それを平気な振りをする。俺は真帆櫓さんが浮かべる微笑みの裏に潜む感情が分からなくなってしまった。
そうして、どうやって謝ったらいいか。どうやってこの微妙な空気を元に戻したらいいか。そんなことに一人ぐるぐるとしている時に、このおっさんから突然、電話が掛かってきたのだ。
以前、何かあったらということで、おっさんとは連絡先を交換していた。当時、俺は、まさかこのおっさんと連絡を取る羽目になるだろうとは露も思っていなかったけれど、この時ばかりは交換していたことに感謝した。まぁ、掛かってきた当初は何を言われるかと思って冷や汗が流れたけど。
おっさんは取り敢えず『出て来い』といって俺を駅前のファーストフード店に呼び出した。
そして、少し遅めの昼飯を食べながら、これまでの顛末を語る羽目になった。
「ふーん」
おっさんは俺の話を聞き終えると胸ポケットに入れていた煙草を取り出して、徐に火を付けた。
そして、ゆっくりと紫煙を燻らせてから一言。
「ガキが」
そう言ってニヤリと笑った。
クッソ。そんなの分かってるさ。
俺は腹の中で毒づいた。でもきっと俺の心の内はこの相手に伝わってしまっていることだろう。
「なんだ。どいつもこいつも。そんな風にうだうだ悩んでるくらいだったら正面からぶつかればいいだろ。腹割って話し合え。不安なら不安だって言わなけりゃぁ分からねぇだろうが。ガキならガキらしく足掻け。カッコつけんのはもっと年食ってからでいいんだよ。………ったく真帆櫓も真帆櫓だな」
「………それは分かってるんですけど」
「なんだ、連絡も取れないのか?」
「いや、それは平気ですけど。いざ話を振ろうとするとさらりと流されるというか、かわされるというか」
そう言って尻すぼみになった俺に、おっさんはやってられないという風に大きく溜息を吐いて見せたけれど、最後にとっておきのアドヴァイスをくれた。
後は自分で考えろ―――そう言って、一人去ってゆく背中に俺は小さく感謝の言葉を心の内で口にした。
そして、俺はその時の助言をもって行動に移すことにしたのだった。