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1/144 の揺り籠  作者: kagonosuke
Side - Z: Mへと続くモノガタリ
27/36

第十一話 過去と現在の交錯率 63.7%

今回は、恐らく避けては通れないであろう過去との対峙。信思くん、一風変わった洗礼を受けることになりました。


 ―――――――ピンポーン。


 呼び鈴の鳴る音が部屋に響いて、

「信くーん、出てもらってもいい?」

 台所で洗い物をしていた真帆櫓(まほろ)さんから声がかかった。

「んー」

 リビングで寛いでいた俺は、何も考えずに返事を返して、玄関の扉を開けた。

「はい」

 玄関のドアを開けて、一秒。

 そこに現れた人物と遭遇した。

「あ…………れ?」

 男の怪訝そうな高めな声がした。

 俺は、目の前に立つ人物をまじまじと真正面から見つめた。

「どちら様……ですか?」

 戸口に立っていたのは、まだ若いサラリーマン風の男だった。

 この暑い最中、長袖ワイシャツにご丁寧にネクタイまでして、片手に脱いだジャケットを持っている。 足元には大きなビジネス鞄と紙袋が置かれていた。

 なんだ。営業か何かの勧誘か? 新聞とか、マンションとか。

 でも、普通、休みの日のこんな中途半端な時間に来るのだろうか。


 今日は、9月の頭の日曜日。時刻は、三時半を少し回ったところだった。

 それなりに長かった夏休みともおさらばして、学校では長期休暇の倦怠感を引きずりながらも通常通りの授業が始まったばかりの頃だった。

 9月に入っても暑さが収まることは無く、毎日、茹だるような暑い日々が続いていた。

 『暑さ寒さも彼岸まで』って言うけど、こんな状態があと二週間は続くかと思うとげんなりする。

 この日、俺は真帆櫓さんの所に顔を出していて、小腹が減ったと言った俺に真帆櫓さんが簡単にご飯を作ってくれて、それを食べ終えたところだった。

 これからDVDなんかを見てまったり過ごそうか、なんて話をしていたのだ。


「ここって、保内(ほない)さんのお宅ですよね?」

 目の前のサラリーマン風の男は、そう言って、身体を少し後ろに捻って表札の部分をちらりと確認した。

「そう………ですけど」

 俺が、一応頷けば、

「あの………家主の方はご在宅ですか、女性の方がいますよね?」

 俺を半ば不審そうに見ながらそんなことを言った。

 この人、真帆櫓さんの知り合いなのか? 

 少なくとも、ここに暮らしている人が女性であることを疑っていない口振りだった。

 俺はすっと目を細めた。相手の意図を確かめるように。

 勧誘か何かの営業なら、とっととお引き取りを願おうと思っていたからだ。女の人の独り暮らしってこういう時大変だと思う。最近は物騒な話も多いし。

 今日、真帆櫓さんは別に来客があるとは言っていなかった。

 新手の詐欺かなんかか? それとも押し売り? 

 不意に余りよろしくないことが連想として思い浮かぶ。


「ご用件は何ですか?」

 目の前に立っているのは、スーツを着たそれなりに若い男だ。普通に街中を歩いている分には、なんてことのない普通の光景なんだろうけど。でも、それが、こうして一個人の玄関先に場所を変えるだけで、妙に怪しくなるのは何故なんだろう。

 俺は敢えて不信感を隠さずに男を見た。

 対する男の方は、そんな俺の態度に何故か苦笑い。

 「困ったなぁ………」

 そう言って、のんびりと苦笑みたいな顔を作ると空いた手で頭の後ろをポリポリと掻く。

 その仕草は、妙に白々しく見えて仕方がなかった。


 そうこうするうちに、

「信くん? どうかした?」

 中々戻ってこない俺の様子を不可解に思ったのか、真帆櫓さんが廊下に現れた。

 その姿は、玄関先にいる男にも見えたようだ。

「お、真帆櫓!」

 若い男が助かったというように明るい声を上げた。

 エプロン姿のまま玄関口に現れた真帆櫓さんは、戸口に立つ男を見て目を見開いた。

「な! どうしたの? 泰正(たいせい)

 急に裏返ったような声を上げて、凄く吃驚した顔をしている。

「よ! 元気にしてたか?」

 そんな相手に、サラリーマン風の男は爽やかに白い歯を見せて空いていた片手を上げた。

 随分と親しげな感じだ。

「偶々、こっちに来てさ、近くを通ったから」

 ―――――――寄ってみた。

 そんなことをのたまわった。

「お前、まだここに住んでんのな」

 そして、何やら感慨深げな声が聞こえてきた。


 俺は、そっと後ろを振り返った。

 ―――――――どうすんの?

 そういう気持ちを込めて、真帆櫓さんを見てみた。

 真帆櫓さんは、困惑気味に眉根を寄せていた。それでも標準装備となっている穏やかな微笑は隠れていない。

「また、急に。びっくりするじゃない。来るなら来るで連絡くらい寄越してよ」

「アハハ、驚かそうと思ってさ」

 軽く笑った男に、真帆櫓さんが心底、呆れたような声を出した。

「もう、相変わらず突拍子もないことばかりするんだから」

 随分と気さくに会話が弾む。

「まぁ~ほぉ~ろぉ~、堅いこと言うなよ。俺とお前の仲だろう?」

 ―――――――なんだって!

 その台詞にぎょっとしたのは俺の方だった。

 なんだ、このリーマン。まさか、真帆櫓さんの前の男だったりするのかよ?

 俺は口を挟みたいのをぐっと堪えて、成り行きを見守るしかなかった。胸糞が悪かったけど、取り敢えず、表面上は表情を取り繕った。

「また、そうやって調子のいいことばかり」

 真帆櫓さんは会話を続けるも、何故か、玄関先に立ったままだ。

「真帆櫓さん、取り敢えず、上がってもらったら?」

 ―――――――こんなところで立ち話もなんだし。

 第一、この人声がでかいし、さっきから汗だくなんだよね。近所迷惑だろ。それに、俺としても真帆櫓さんとこの人の関係が気になるし。

 そう思って間に入った積りだったんだけど、

「ええ~」

 真帆櫓さんは珍しく嫌そうに眉を寄せた。

 あれ、中に入れる積りなかったってこと? 俺、もしかしなくとも、しくじった? 

「おっ、さっすが、気が利くな、少年」

 相反する対極のリアクション。

 俺は内心、まずったかと思った。

「お邪魔しま~す」

 サラリーマン風の男は、家主の許可無く、いそいそと靴を脱ぐと上がり込んできた。そして、俺と真帆櫓さんの横を通ってリビングの方へ向かった。

 冷気を遮断していた硝子戸を開けて、

「ああ、涼しい。生き返る!」

 雄叫びのような咆哮が挙がった。オヤジくせえ。


 俺はそっと真帆櫓さんを窺うように見た。

「なんか………不味かった?」

 もしかしなくとも余計なお節介を焼いたと思って、ちょっと凹みつつ、隣を透かし見れば、

「ううん、信くんが気にすることじゃないわ。それよりも、ごめんなさいね。なんか急に」

 小さく首を横に振って笑った後、困惑したように眉を下げた。

 俺はそっと真帆櫓さんの頬に掠めるだけのキスをした。

 心底、間の悪そうな顔をしてたから。気にしないでって言いたかった。

「別にいいよ。てか、あの人誰?」

 真帆櫓さんは、大きく息を吐くと俺の肩に頭を預けた。

「信くん…………気付いてるんじゃないの?」

 そう言って、ちらりと横目に俺を見上げた。

「まぁ薄々? でも、俺としては出来れば、真帆櫓さんの口から聞きたいけど?」

 憶測はあるけど、やっぱりそういうことは、ちゃんと本人の口から教えてもらいたい。

 そう言えば、真帆櫓さんは観念したように小さく笑った。

「前、付き合ってた人。学生時代から社会人の一年目ちょいくらいかしら」

 予想と違わない答えに、俺は内心とっぷりと溜息を吐いた。やっぱり、元カレってやつか。でも、学生時代ってのはちょっと意外だった。もっと直近かと思ってたから。

「今は別になんともないわよ? 恋愛感情なんてまるっきりなし」

 そうはっきりと口にする。

 でも、その後もこうやって尋ねてくる位には、関係を回復(?…なのかは分からないけど)しているんだから、悪い別れ方をした訳では無かったのだろう。俺から見ると、その辺はちょっと不思議だ。

 大体、前の彼氏と連絡って取り合うものなのか? 普通別れたら、そのままだったりするよな。お互いに気まずいだろうし………って思うんだけど。正直、よく分からん。俺はそこまで経験がある訳じゃないし。数少ない経験をほじくり返してみても、前に付き合った人たちとは(俺の方が気持ち半分だったから、当然、余り長くは続かなかったけど)それっきりだ。

 だけど、俺の中でなんかもやもやとしたものが出てきたことには違いなかった。

 こそこそと音量を抑えて会話をしていれば、

「お~い。まほろぉ、茶ぁくれぇ」

 亭主が妻に言うような偉そうな声が聞こえてきて、真帆櫓さんは呆れたように額際に手を当てた。

「はいはい」

 そうして、台所に入って、冷たくしてあるジャスミンティーのボトルを取り出すと、コップを手にリビングに向かった。




「で、そちらさんはどちら様で?」

 ―――――――勿論、紹介してくれるんだろ?

 リビングのソファーにどっかりと座って冷えたお茶を美味そうに飲んだ男は、テーブルの前の床に腰を下ろした真帆櫓さんを見て、意味あり気に笑った。その口元にはニヤニヤとからかいの笑みが浮かんでいる。

 ネクタイの襟元はいつの間にか緩められていて、長袖のワイシャツの釦も幾つか外して腕まくりをし始めた。筋肉質な骨張った男の腕が覗いた。脱いでいたスーツのジャケットは、器用にソファーの背に掛けている。

「なんだ、今度はえらく若いのを捕まえたみたいじゃないか。まだ、学生か?」

 そんなどこぞのオヤジ顔負けの台詞を吐いた男を真帆櫓さんは、心底、呆れたように見ていた。

 そんな表情を憚らずにするというのも珍しいことだった。

 そのまま、男が、流れるような、ごく自然な仕草で胸ポケットの辺りをまさぐると、真帆櫓さんから制止の声が掛かった。

「禁煙です!」

 ぴしゃりとした一言。

 一本、ひょろりとした細い筒を口に銜えた所で止められて、男は途端に苦々しい顔をした。

 そこへすかさず追い打ちが掛かる。

「駄目です。吸うならベランダ行って。あ、でも灰皿ないからね。それが駄目なら、もう出てってください」

 何気に容赦無い厳しいお達しだ。

 男は、真帆櫓さんの剣幕に押されてか、渋々と銜えていた煙草を元の場所に戻した。どこか面白くなさそうな微妙な顔だ。


 不意に落ちた沈黙に、真帆櫓さんが淡々と口を開いた。

「この偉そーな人は、生方(うぶかた)泰正(たいせい)。学生時代からの知り合い」

 どうやら面通しが始まるらしい。

「どーも。序でに言うと昔、付き合ってたから。要するに元彼?」

 そう口にしてニヤリと笑った男を真帆櫓さんは、軽く睨んでから受け流した。

「で、こちらは坂井信思(のぶもと)くん。私の好きな人」

「ほう?」

 真帆櫓さんは、俺の事を【彼氏】とは言わなかった。【好きな人】と表現した。そこに俺は『あれ?』って思った。いや、普通に考えれば同じニュアンスなんだけどさ。なんか単に【好きな人】だと真帆櫓さんの一方通行っぽい感じがあるから。

「大学生か? 二十歳ぐらい?」

 俺が紹介に軽く頭を下げると、こちらをまじまじと見ながら男が言った。

 その問い掛けに俺は首を横に振った。

「いえ。高校生です」

「………は?」

 案の定、吃驚したように目を見開かれて、俺は苦笑いして見せるしかなかった。

 それなりにタッパもあるから制服を着ていなかったら、どうも大人びて見えるってのは、薄々気が付いていた。身長だけ取ったら、向こうの方が低かったし。まぁ、でも精々行って大学生って所なんだろうけど。

「うっわ、若けぇ」

 思わずという風に口に出すと、その男は不意に身を乗り出した。

「おいおい、真帆櫓。おまえ、大丈夫かよ?」

 ―――――――何がだ? 

「もう、泰正(たいせい)が心配することじゃないでしょう? どうしてそこで口を挟むのよ」

 真帆櫓さんがムッとした表情を作る。

 俺は、さっきから喧嘩腰な真帆櫓さんの態度が気になって仕方無かった。普段はおっとりとしてて呑気な性質だ。大体にして寛容で、目くじらを立てたりすることもない。そんな人が、毛を逆立てた猫のように臨戦態勢で警戒をしている。真帆櫓さんにとってこの男は、それだけ要注意人物になるのだろうか。確かにここに入り込んだ手口を見ても、強引な感じだ。

 だが、何をそんなに心配しているのだろう。

「あー、そこはお互い納得してるんで。あんまり突かないでもらえますか?」

 俺はすかさず間に入った。

 だって、この男の要らぬ一言の所為で俺たちの間が変に拗れたりしたらシャレんなんないから。只でさえ、当初、真帆櫓さんに頷いてもらうに骨を折ったのだ。

 元々、俺の方が半ば強引に押し切って始まった関係だった。それに、年の差がかなりあることを最後まで気にしていたのは真帆櫓さんの方だったから。

 再び、そこに横槍が入って、一旦は解消した筈の疑問を持たれたりしたら困る。漸く苦労してここまで持ってきた関係を覆されるのは、俺にしてみれば御免だった。


「坂井くんだっけ。今、幾つ?」

「16ですけど………」

 この時ほど、誕生日が冬であることを忌々しく思ったことはなかった。たかが一年、されど一年ってやつだ。

「16かぁ……ってことは、9つか。………って、俺の大体、半分じゃねぇかよ!」

 そんな勘定をした男の方が、自分の台詞に軽くショックを受けたようだった。

「あー、無駄に年はとりたくねぇな」

 そんなことをぼやきつつソファーの背凭れに身体を預けた。

 微妙な沈黙が落ちた。

 いや、この人、一体、何しに来たんだろう。

 そんな俺の心の内を代弁するように、

「それよりも。ねぇ泰正(たいせい)。急にどうしたの? 転勤して札幌にいるんじゃなかったの?」

 真帆櫓さんが、話しの流れを変えるように男に突然の訪問の目的を尋ねた。

「ああ。今度、辞令が下りてな、またこっちに戻ってくることになったんだよ。横浜だけど。今日は事前に挨拶回りに来たわけ。正式には来月一日(いっぴ)からだけどな」

 それで偶々、近くまで来たから寄ってみたと言うことだった。

「本社の方に戻るのね?」

「そ」

「栄転?」

「そんなもんじゃねぇよ」

「そう? でも満更でもないんじゃないの?」

 ―――――――だって、前よりも仕事、充実しているみたいじゃない?

「まぁな」

 先程よりは普通に世間話を始めた真帆櫓さんに、男の方も小さく微笑んだ。


 そうやって始まった社会人同士の会話を俺は複雑な思いで聞いていた。

 普段、俺の前では、真帆櫓さんは仕事をしている時の社会人としての顔を覗かせたりはしなかった。仕事の話を具体的にしたりはしないし、当然、愚痴のようなものも聞かない。俺に話しても理解できないってことが分かっているからだと思うけど。

 そうやって相手の男と落ち着いて話をする真帆櫓さんは、どこか別人のように見えた。こういう時、単なる学生と社会人の差って大きいんだなぁなんて痛感した。少なくとも俺の場合、大学進学を考えているから、今の真帆櫓さんと同じような状況に追いつくのに後五年は掛かる。その五年という時間が、今の俺にとっては、なんだか途方もないように感じられた。

 お互いの仕事の事とか、会社の状況とか、景気の話とか、そんな近況を一通り話した後、不意に真帆櫓さんが、空気を改めた。

「で、本題は?」

 そこで、俺はこれまでの会話が全て口慣らしのようなものであったことを悟った。

「あー…………とだな」

 男は、俺の方をちらりと見てから、言葉にならない声を挙げた。何やら、逡巡をしているような態度だ。

 暫く言い淀んだ後、少しばつが悪そうに切り出した。

「お前が、一人だったら、今晩、泊めてもらおうかと思ったんだけど………」

 その言葉に俺はぎょっとして思わず男の顔を見つめてしまった。俺の普段の顔の造作からしてみれば、相手には睨んでいるように見えたかも知れない。

「分かってるって。そんな睨まないでくれよ」

 男は、少し困ったようにへらりと緩く笑い、手をひらひらと振った。

「やっぱり、そうじゃないかとは思った」

 そんな男の魂胆は、真帆櫓さんもどうやら分かっていたようだ。……ってことは、前にもそういうことがあったってことなのだろう。

「当然、駄目よ? 無理だからね」

 自分の彼女の所に昔の男を泊めるなんて絶対許せる訳が無い。真帆櫓さんにそんな気が無くても、何が起こるか分からないのだから。あわよくばなんて考えているかもしれない。

「ちゃんとホテル探して。この時期なら中途半端だから、一人ぐらいの空き部屋なんてすぐ見つかるでしょう?」

 ―――――――その為に、出張費だってフルで出てるんだろうから。

 容赦の無い一言に、男は観念したように小さく笑った。

「アハハハ。やっぱ駄目だったか」

「当然です」

「へいへい」

 そう言うと、その反応も予想の範囲内であったのか、別段、堪えた風もなく、男がソファーから立ち上がった。

「お、そうそう。コレ、札幌土産な」

 それから不意に足下に置いていた紙袋をガザガザと漁って、中からかの有名な御当地土産のクッキーを差し出した。

「いいの?」

「ああ。流石に手ぶらで来る訳ないだろ?」

 そう言って気障ったらしく笑う男に真帆櫓さんは胡乱気な眼差しを投げていた。

 だが、すぐに気を取り直したように微笑んだ。

「はいはい。どうもありがとう。ごちそうさまです」

「ん、じゃぁ、久し振りにお前の顔を見たことだし、俺はこの辺で今夜の宿探しでもするか」

 鞄とジャケットを手に立ち上がった男を見て、俺と真帆櫓さんも客人を見送るべく取り敢えず、玄関へと向かった。

 靴を履いて玄関に立った所で、男が不意に俺に向かってちょいちょい指を拱いた。

「なんですか?」

 なんだろうかと思い傍に寄れば、いきなり首に腕を回されて拘束された。

 俺が突然のことに目を白黒させていれば、男の口からとんでもない台詞が吐き出された。

「少年、駅まで道案内を頼む。真帆櫓、こいつ、ちょっと借りてくから」

 そう言って、こちらの事情はお構いなしに玄関から出て行こうとする。俺は慌てて、玄関にあった自分のスニーカーに足を突っ込んだ。

「じゃぁ、またな。お茶、ごっそさん」

「え? ちょっと!」

 予想外の展開に真帆櫓さんも驚きの声を挙げた。

 ―――――――何なんだ、この人。

 拘束から逃れようとするが、見かけ以上に腕の力が強くって、すっげぇ不本意だけど、俺はずるずると引き摺られる形になった。

 そうやって半ば強引に俺を外に引っ張り出して、男は階段を慣れた足取りで下るとマンションの入り口を抜けた。


「あの、放してもらってもいいですか?」

 暫く歩いた所で、身長差がある為、やや前屈みになって体勢がきつかった俺は、首に回った腕を外して貰うように男に頼んだ。

「ああ。すまんすまん」

 悪びれた風もなく男が謝って拘束が外された。

 俺は縒れたシャツの襟元を直した。

 こうまであからさまにされるとは思ってもみなかったけど、男が俺に話があるだろうことは分かった。 電車に乗ってここまで来てるんだから、駅までの道のりなんて分かってるに決まってる。方便にしてもあからさま過ぎるだろう。

「で、何なんですか?」

 駅までの道を辿って住宅街の中を歩きながら、俺は用心深く尋ねた。何を言われるのか、何を聞かれるのか、内心、冷や冷やしていた。

「坂井くん、だっけ?」

 先程と同じように再び名前を確かめられる。

「はい」

「真帆櫓のこと、………本気?」

 不意に強い眼差しに射抜かれて、俺は真正面から男の視線を捕らえた。

 つい先程までの軽々しい空気はどこにもない。真剣な態度だ。真摯ですらある。それにご丁寧に社会で揉まれた人間特有の威圧感みたいなものが付加されていた。

 俺は小さく息を吐き出すと、

「本気じゃなかったら、こんなに必死になってませんよ」

 どこか自嘲気味に返事を返していた。

 俺は、自分でも有り得ない程、彼女を繋ぎとめておくために必死になっている。昔の俺からはきっと考えられないことだろう。

 実際問題、単なる年の差以上に、社会人と学生の差は大きいことを俺は実感していた。近づいた積りになっても、ふとした瞬間、するりと真帆櫓さんが手の内から擦り抜ける気がして仕方がない。例えば、今日みたいな日はそうだ。

「へぇ。キミ、見かけほど冷めた感じじゃないんだ?」

「そうですかね」

 情熱的な方だとはこれっぽッちも思ってないけど、逃したくないものに限っては、それなりのエネルギーを注いで努力はするだろう。外見から受ける第一印象から、クールっていうより無関心って感じに捉えられがちだけど、自分の興味が向かう対象に関しては、引いたりはしない。

 男は、俺の吐露したことに興味深そうな顔をした。

 何でかは知らないけれど、この人はこの人なりに、真帆櫓さんの事を案じていたようだった。

「そんなに真帆櫓さんが心配ですか?」

 この人は何を思ってそんなことを言っているのだろう。

 真帆櫓さんの方は恋愛感情なんてないって言ってたけれど、この人は、まだ別れたことに未練があるんだろうか。もう4年近くは経ってるのに? だから、こうして、偶に不意打ちをするように真帆櫓さんの前に現れるのか?

 そんなことをぐるぐると思いながら、歩いていれば、

「んー、なんだろうなぁ」

 男はのんびりとした口振りで、首を傾げた。

 再び、元の軽薄さすら滲ませた軽やかな空気に戻っていた。

「虫の報せっていうの? 良くわかんねぇけど、たまーに、こうして思い出すんだよな。ふと、ああ、あいつ元気にしてるかなって。そうすると気になって、こうして足を向けてるんだよ」

 ―――――――今回は、偶々、上手くタイミングが合ったけれど。

 言っていて自分でも要領を得ない事が分かっているのか、男が苦笑気味に頭を掻いた。

「真帆櫓さんが好きなんですか?」

 不意に真面目な顔した俺を見て、男はからりと笑った。

「んな怖い顔すんなって」

 そんなことを言われてもこれは地顔だから仕方がない。

「心配するな。あいつに恋愛感情は持ってねぇよ。強いて言えば、ちょっと危なっかしい妹を見てる感じかなぁ」

 そう言うと、どこか懐かしい顔をして目を細めた。

「俺はあいつの五つ上で、初めて会った時、あいつが大学の一年で、俺が四年だった。あ、俺、一年ダブってるから。因みに今年三十ね。とうとう王台にのっちまったんだよなぁ」

 そう言って何かにひたるようにぼやいた。

 人の年齢ってのは良く分からないけど、俺はその人が、三十を超えているようには見えなかったから少し驚いた。

「で、あいつは昔からあんなんだから……って分かるか? なんて言うの純粋培養? 今時、珍しいくらいにすれてなくって、ぽやぽやしてて。男なんて知りませんって顔して。要するに箱入りみたいな所があったわけ」

 男の言いたいことは、なんとなくだが分かった。社会に出てからそれなりに責任感を持って、しっかりしている風に見えるけど、真帆櫓さんは俺の目から見ても、肝心な所で抜けてる所がある。それがまた、らしさを醸し出す可愛らしいところだけどさ。

 当時は、それがもっと顕著だったってことだろう。

「あの頃は、男に免疫がなかったから警戒心もなくってさ。おんなじように柔らかく微笑んでニコニコして、女にも男にも同じように接する訳だ。当然、勘違いする男が出てくるだろう? 俺はそれが気が気じゃなかった口だった」

 そう言うと男が悪戯っぽく笑った。

 つまり見ていて危なっかしくて放っておけない。そんな庇護欲を誘うような感じだったのだろう。年上の男から見て。

「それは、何となく分かります」

 俺の合槌にその男は少しだけ嬉しそうな顔をした。

「ハハ。そうか。あいつはあんな能天気そうに見えて、結構、真面目でさ、一旦、悪い方に考えだすと一人勝手に思い詰めて自爆しそうになるんだ。何でも平気な振りして、抱え込んじまうんだろうな。そういうのを見てるからさ。今でも何となく気になっちまうわけ。上手くガス抜きが出来てるかなってね。あ、今は別にキミが心配するような恋愛感情ってのは持ってねぇから、その辺は勘違いするなよ?」

 再三の復唱に、俺は男の言葉を信じることにした。

「そういうことにしておきますよ」

「なんだ、言うじゃねぇか」

 ちらりと俺を横目に見てから、男は再び視線を前に戻した。

「まぁ、俺的には年下と付き合ってるって聞いて、ちょっと、いや、かなり吃驚したけど、見る限り、遊びって訳じゃなさそうだし。あいつも無理してるように見えなかったから」

 ―――――――取り敢えず、おにーさんから見ても合格ってことにしておくよ。

 何様だかは知らないが、最後はそんな尊大な態度で締め括るとニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。

「それは、どうもありがとうございます」

 俺はあんまり感情の籠ってない態度で、取り敢えず、そう返していた。

「なんだよ、お墨付きだぜ? もっと嬉しそうな顔しろよ」

「生憎、これが地なんで無理です」

 そうこうするうちに最寄駅に辿り付いた。

 改札が見えた所で、その男はいきなり、こっちを振り返ると俺の腰を勢いよく叩いた。

 パシンと小気味良い破裂音がした。

「ハハハ。まぁ、頑張りたまえよ、少年」

 なにその妙なテンション。

 俺は余りの痛さに顔を顰めていた。

 あの人、マジで叩きやがった。

 それが元彼からのやっかみという名の洗礼なのか、単なる激励(とはとても思えないが)なのかは分からないが。

 こうして、小さく振り返って、したり顔で改札の向こうに消えた人騒がせな男を俺は何とも言えない表情で見送ったのだった。


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