第十話 誤解と疑惑の連動率 50.1%
前回に引き続き、夏休みの一コマです。
それは、俺が時間潰しの為にカフェにいた時のことだった。
8月のお盆休みが明けた週の金曜日の夕方。俺は、真帆櫓さんの会社近くにあるカフェで、仕事を終えた真帆櫓さんが出てくるのを待っていた。要するに忠犬よろしくお迎えに来たって訳だ。
ちょうど会社が見える大通りを挟んだ対面のビルの一階に、街中にはよくあるフランチャイズのカフェがあって、俺はそこに入ると迷わず窓側の席に陣取っていた。
ここからは、向こうのビルの玄関口が良く見えた。
時刻は夕方6時を少し回った辺り。外はまだまだ明るい。
実を言えば、真帆櫓さんに会うのは、久し振りだった。
お盆休みの期間、真帆櫓さんは母方の実家の田舎に墓参りに行くとかで自宅を留守にしていた。毎年、田舎で一人暮らしをしているおばあさんのところに顔を出しているとのことだった。田舎ではお盆に墓参りをするのが習わしで、そこにはおじいさんが眠っているそうだ。都心から新幹線に乗って、在来線を乗り継いだ日本海側の小さな田舎町だなんて言っていた。
この夏休み中、俺は、バイトのシフトをそれなりに入れていて、いつもとは生活時間がズレた所為か、真帆櫓さんとは前みたいに一緒に帰ったりすることは出来なくなっていた。だから、顔を合わせると言っても、俺がバイト中に店の方に買い物に来た真帆櫓さんと簡単に言葉を交わす程度で、忙しい時は視線を合わせるのがやっとだったりする。仕方がないとは思うけど、ちょっと、いや、かなり物足りないって思っていた。俺のメインエネルギータンクは、バッテリー切れ寸前って感じだった。
相変わらず毎日暑い。ホント、溶けてしまうんじゃないかってくらい。
カウンターの上にあるアイスコーヒーの氷が溶けてカランと軽快な音を立てる。ガラスのグラスに付いた水滴が、だらだらと落ちていてテーブルに水溜まりを作る。それを横目に鬱陶しく思った。
店内はそこそこ涼しかった。一時の涼を求めて、中途半端な時間だと思うんだけど、中は結構混んでいた。
「ここ、いいですか?」
ふと掛けられた声に顔を上げれば、
「あ………はい」
隣に仕事帰りのOLだろうか、一人の女性が座った。
鼻先を甘い香水の匂いが漂った。ほんの少しだけ息が詰まりそうになる。
付けすぎじゃね?
思わず顔を顰めそうになるのを慌てて取り繕って、俺はぼんやりと通り向こうのビルを見つめた。
始め、真帆櫓さんは、会社を出たら連絡を入れるから地元の駅で待ち合わせをしようと言ってたんだけど、俺は、ついでだから会社の近くまで迎えに行くと主張したのだ。
この日、俺はバイトもなかったから、そっちに出掛ける用事もなかったんだけど、定期があるから別に電車賃は余計に掛からないし、家からでも精々掛かる時間なんて三十分くらいだから苦になるって程じゃなかった。真帆櫓さんは『どうせ家に帰るんだから態々いいわよ。二度手間になるし』なんて笑ってたけど、それだけ、俺は真帆櫓さんに早く会いたくて仕方がなかった。
今日は、帰りにスーパーに寄って、真帆櫓さん家で晩御飯を食べて、そのまま泊まる予定だった。
久し振りにゆっくりできる。真帆櫓さん家に泊まるのは、一緒に花火を見に行って以来だから、約半月振りだった。
という訳で、今の俺は鼻歌が飛び出しそうな程、テンションが高かった。
もうそろそろか。今日はなるべく早く上がるからって言ってたから。
俺は、大通りを挟んで見えるビルの一階の自動ドアを今か今かと見つめていた。
ちょっとストーカーっぽい。今の俺は、その気持ちが理解出来ると思う。
ふと、視線を感じて、ちらりと横目に見れば、隣に座ったOLがじっとこちらを見ていた。
――――――なんだ?
観察する様な強い視線。
俺が振り返れば、その人は慌てて取り繕うように視線を逸らした。
――――――なんなんだ?
俺は所在なげに携帯を弄った。勿論、まだメールも電話もない。
「あの………」
躊躇いがちに隣から声を掛けられ、俺は振り返った。
「キミ、もしかして、この近くのコンビニでバイトしてない?」
突然のことに驚いたが、コンビニの名前を告げられて、間違ってはいなかったので、俺は一も二もなく頷いた。
「ああ、はい。してますよ」
「やっぱり、どこかで見たことあると思ったんだぁ」
その人は、そう言ってやけにすっきりした顔をした。
「そうか、そうか、あのコンビニのバイト君かぁ」
コーヒーのマグを両手で持って小さく笑った。
要するに、客だったって訳か。
俺は、その人のことを覚えていなかった。それもそうだ。コンビニに来る客なんて、よっぽのことがないかぎり覚えている訳がない。
「キミは学生さん?」
まるで世間話をするように話を振られて、
「はぁ」
俺は曖昧に返事をしていた。
「バイトのシフトって大抵午後からなのよね?」
何でそんなこと知ってるんだ?
「はあ」
俺が内心、仰天していれば、その人はもっと吃驚するようなことを言った。
「私も結構、あそこ利用するんだけど。うちの社内でね、キミのこと、ちょっとした噂になってるのよ?」
―――――なんだそれ。
「は?」
俺が固まって目を見開けば、その人は何故か悪戯っぽく笑った。
ふわふわのネコ毛が肩の辺りで揺れている。厚みのあるぽってりとした唇は、グロスがたっぷり塗られてテカテカに光っていた。
「あのコンビニに最近かっこいい子が入ったって。キミ目当てで買い物に出る同僚もいるのよ?」
「…………………はぁ」
俺は曖昧に息を吐いた。
そんなことを言われても反応に困る。この人、何がしたいんだろ。ホント。訳が分からん。
いきなり話し掛けられてなんだとは思ったけど、俺は早くも鬱陶しく思い始めていた。
カウンターに頬杖を突いて、一人の世界を演出してみたけど、その人は構わず話し続けた。
「キミ、家、この近くなの?」
なんだ。今度は事情聴取でも始める積りか?
俺は居心地の悪さを感じ始めていた。
初対面の人にずけずけとものを言われるのは苦手だ。俺は、こう見えて、人見知りをする性質だった。
「いや、違います」
不意に擦り寄られて、俺は咄嗟に身体を引いた。座っていたのが端っこで、隣は直ぐ壁だったから、可動範囲は狭かったけど。
たっぷりとした大きな胸が、肘に当たりそうなところで揺れた。思わず、そこに視線が行ってしまったのは、男なら仕方がないだろう。
そこから視線を上げて、ニコニコした笑顔にぶち当たって、俺は戸惑った。
「ねぇ、この後、時間ある?」
声のトーンが変わったって思った。なんつーの? 甘ったるく鼻に掛かる感じっての?
「は?」
「もし良かったら、ご飯食べてかない? 美味しいお店知ってるから」
―――――勿論、私の奢りよ。
いや、いやいやいや。何、言ってんのこの人。初対面の奴に。いきなり飯に誘う?
俺は突然のことにびっくりした。何でこんなに積極的なんだか。あれか、昨今流行りの肉食系女子ってやつか? 男が草食化する傍ら、逆に女の方が肉食化してるってやつ。俺、ターゲットにされたのか?
俺自身は自分を肉食系だと思ってる。別に年中がっついてるわけじゃぁないけど、そういうことは結構興味があるし、好きな相手には結構迫ってると思う。勿論、それは自分の彼女限定で、だ。睡眠欲と食欲と性欲を三つ並べたら、上の二つは足りなくなってもあんまりダメージ受けないけど、っていうか我慢がきくけど、最後の一つは満たされなかったら、ヤバい気がする。
前に真帆櫓さんとそんな話をした時には、半ば呆れた顔をしながらも頷いていた。なんでもスイッチが入るとスゴイらしい。あ、でも、勿論、このスイッチは、真帆櫓さん限定でしか発動はしないけど。
そういう観点から見れば、今の俺の状況は、飢えた猛獣に近いかもしれない。真帆櫓さん不足。腹ペコで死にそうだ。だから間違っても食われるなんてことは有り得ない。
―――などと現実逃避をする為に、俺の溶けかかった脳みそはある一定の分野でフル回転をし始めていた。
俺は、混乱する気持ちを落ち着ける為にアイスコーヒーに手を伸ばした。
取り敢えず、落ち着け。
氷が溶けてかなり薄まっていたアイスコーヒーは、はっきり言って不味かった。
それでも、少し冷静さを取り戻すことは出来た。
そして、断りの言葉を吐いた。
「いや、あの、俺、この後、用事があるんで」
俺には、真帆櫓さんを待つという崇高なる至上命題があるのだ。
「あら、さっきから暇そうにしてるのに?」
――――――グサリ。
地味に痛いところを突かれて、ダメージ300。人を待ってる時って、何でこんなに時間が経つのが遅いんだろう。チクショウ。本でも持ってくればよかったか。
「待ち合わせしてるんです。時間、早く着いたんで」
俺は、淡々と答えながらも、心の中で早く真帆櫓さんから連絡が入ることを願った。
「待ち合わせって………彼女と?」
マグを両手に持ちながら、その人がこちらを見た。
「はい」
「ふーん、彼女、いるんだ。やっぱり」
俺が肯定をすれば、その人は何やら含みのありそうな声で言った。なんかちょっと恨みがましい感じ。 なんなんだ一体。俺に彼女がいちゃ悪い訳?
微妙な沈黙が落ちた。
俺は内心、ムッとしながらも、そのまま沈黙を守った。
その時、テーブルに置いていた携帯が振動した。急なことで俺は柄にもなく吃驚して肩を揺らした。
ディスプレイに待ち望んでいた名前が点滅しているのを見て、俺は慌てて携帯を手に取ると通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、信くん?』
聞きたかった声が聞こえて、俺は漸く安堵の息を吐いていた。
「仕事、終わった?」
『うん。遅くなってごめんなさいね』
「いや、お疲れ様。今、どこにいんの?」
俺は首を伸ばして、大通りの向こう側にあるとあるビルの玄関口へ視線を走らせたけど、それらしい姿は見つからなかった。
『会社を出てすぐのとこ』
「ドラッグストアがある辺?」
『ううん。今、本屋さんの前に来た』
マジか。ここで張ってようと思ってたのに、真帆櫓さんは既に会社を出ていたらしい。
本屋はこのカフェよりも駅寄りに信号を一つ越えた所にあった。ひょっとしたら、俺が駅で待ってると思ったのかもしれない。驚かせようと思ってカフェで待つことを知らせなかった俺の失敗か。
「分かった。今からそこに行くから待ってて」
『はーい』
俺は立ち上がると携帯をポケットにしまい、すぐさま店内を後にした。
ちらりと後方を振り返れば、窓際のカウンターの所からさっきのOLが手をひらひらと振っているのが見えた。俺は仕方がないけど無視するわけにはいかなくって、小さく会釈をしてから外に出る羽目になった。
本屋の前で、真帆櫓さんは待っていた。走り寄った俺に開口一番『そんなに慌てなくてもいいのに』と小さく笑った。
円らな色素の薄い瞳が柔らかく細められて、垂れ下がり気味の眦を一層下げていた。
渇望して止まなかった優しい微笑みが、俺を迎える。弧を描く艶々とした唇に思いっ切りむしゃぶりつきたい衝動をなんとか抑えた。
「なんだか久し振りね」
カフェから猛ダッシュした所為で、額際から滴る俺の汗を手にしたハンドタオルで拭いながら、真帆櫓さんが微笑んだ。
「少し日焼けした?」
そう言う真帆櫓さんは、ちっとも日に焼けていなかった。目に付く肌は相変わらず白いままだ。
「どうだろ?」
俺は自分を見下ろした。日焼け止めなんて使う訳ないし、結構外を出歩いてはいるから、多少は焼けているのかもしれない。
「ちょっと男らしくなった?」
そう言って喉の奥を小さく鳴らす。
「なに、真帆櫓さん、色が黒い方が好み?」
それは初耳だ。生憎、俺は日焼けした肌に白い歯を見せて笑うような爽やかスポーツマンとは程遠い。
「んー? そういうわけでもないかな」
それを聞いてちょっと安心。
「真帆櫓さんは変わんないね」
「ふふふ。だってちゃんと日焼け止め塗ってるもの。紫外線は大敵だからね。あ、でも腕はほら、結構焼けてるかも」
そう言って、腕時計を外した真帆櫓さんの手首には、薄らと白くベルトの跡が付いていた。
驚いた。そのままでも白いけど、本来はもっと白かったってことだろ。
「ホントだ」
俺は、手を伸ばすと真帆櫓さんの手首を取り、その部分にそっと指を滑らせた。
「くすぐったい」
真帆櫓さんが肩を揺らす。
俺は、手首を掴むとその場所に吸い寄せられるように噛み付いていた。そして、舌先でぺろりと舐めた。
無意識だった。さっきの肉食系の話じゃないけど、相当飢えていたようだ。
真帆櫓さんは、驚いた後、面映ゆそうに手首にもう片方の手を当てて、目元をほんのり赤らめた。
「んもう、どうしたの、急に」
困ったように眉根を下げた後、上目づかいにこちらを見た。
それは俺の心臓を直撃するかわいい仕草の一つだった。欲にまみれたLoveゲージが一気に跳ね上がる。振り切れんばかりに。
俺は、堪らなくなって華奢な身体に抱きついていた。
流石に人目があるから、キスは我慢した。薄暗い横道でもあれば、絶対に連れ込んで深いヤツをかましてるところだ。
「ちょっ、信くん?」
案の定、真帆櫓さんは吃驚して、でも俺を振り払うことはせずに、苦笑を滲ませながらも宥めるように腰の辺りをポンポンと軽く叩いた。
「もう、暑苦しい。この暑さでネジが飛んじゃったの? さっきから何だか変よ?」
からかうように俺を見上げる。
確かに変かもしれない。頭のネジなんて、きっととっくに飛んでる。繋ぎ留めておく理性はこの春からゆるゆるだ。
そうして、俺はほんの少しだけ、足りなくなった補給をした。
――――――帰ろうか。
差し出された手を取って、俺たちは家路に着いた。
のんびりと駅に向かって歩きながら、田舎の話や俺の変わらない近況なんかを取りとめもなく話して。
不意に繋いだ手を引っ張られたかと思えば、小さな呟きが隣から聞こえてきた。
「随分と楽しそうだったわね」
「…………へ?」
「信くんも男の子だものね。やっぱり、ああいうのがいいのよね」
「…………はい?」
何の話だ。急に変わった話の流れに俺は面食らっていた。なんだか雲行きが怪しい。
「ホントは物足りなかったんでしょう?」
拗ねた感じの声音を俺は慌てて遮った。
「ちょっと、待った。何の話?」
「向かいのカフェ」
「え?」
「窓際のカウンター」
暗号のように出されるキーワード。
「……………」
「綺麗な女の人に迫られてたじゃない。キミも満更じゃない感じだったし。知り合いの人?」
その瞬間、俺はガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
―――――――ちょっと待て。見られてたのか、まさか。
「胸の大きな子」
別に後ろめたいことなんかなかったけど、何故か動揺していた。
「…………見てたんだ?」
真帆櫓さんは何も言わずにちらりとこちらを見た。要するに肯定ということだ。
なんつうこった。俺は内心、頭を抱えながら思いっ切り溜息を吐いていた。
「だったら助けてよ」
こっちは心底、間の悪い気分を味わっていたんだから。
自然と恨みがましい声が出ていた。
「真帆櫓さんが会社から出てくるの、あそこでずっと待ってたんだけど?」
事前に言ってなかった俺も悪いけど。そう本来の目的を明かしてみる。
「そうなの?」
「そうなの!」
「ふーん」
真帆櫓さんは、ちらりとこちらをどこか疑わしそうな目で見た。
「あ、ちょ、マジで何にもないから。まさか疑ってるとか言わないよな?」
ここで焦ると却って逆効果なんだろうけど、その時の俺には、そこまで頭が回っていなかった。
俺は握った手に力を込めて引っ張った。
おおいに焦った顔をした俺を見て、真帆櫓さんは、気が済んだのか小さく笑った。
「冗談よ。気にはなったけど、本気にはしてないわよ? 今の所は」
「なにその限定的な条件」
「だって、キミ、モテるんだもの」
―――――――それに、夏は誘惑が一杯でしょ?
冗談なのか本気なのか、判別が付かない顔をして真帆櫓さんが嘯いた。
偶に、こうして真帆櫓さんは良く分からない心配のようなものをする。まるで俺の気持ちを確かめるみたいに。言い方は随分軽いものだったけど、そこに覗く本心みたいなものは俺にも感じ取れた。
真帆櫓さんは大人だから、いつも余裕がないのは俺の方だけかと思ってたけど、どうもそうでもないらしい。そう思うとちょっと嬉しくなった。
「どうしたの?」
急に機嫌を良くした俺に真帆櫓さんが怪訝そうな視線を寄越した。
「べつに?」
「ふーん」
それから、駅に着いて改札を潜り、いつものプラットホームで電車を待った。
「そーだ、真帆櫓さん」
俺は思いついたように声を上げて、
「ん?」
「俺、腹ペコだから」
隣に立つ人に向かって宣言をした。
「晩御飯、カレーにしようかと思ってるんだけど。直ぐに摘めるものでも買っておく?」
俺の真意に気が付くことなく、真帆櫓さんは言葉通りに受け取った。
「摘み食いしていいの?」
「だって、お腹すいてるんでしょう?」
「ん。すげぇ減ってる」
そして、スーパーに寄って、食材を買いこんでから真帆櫓さんの自宅に着いて。
靴を脱ぐ間も惜しむように玄関先の廊下で、俺は宣言通り小腹を満たした。
その時になって初めて、真帆櫓さんは俺との会話に隠れた本当の意味を理解したようで。焦った声を出したけれど、時既に遅し。
その後、ぶちぶちと憎まれ口を叩かれながらも(俺にとっては痛くも痒くもなかった)、台所で一緒に晩御飯の用意を手伝って(ジャガイモやニンジンの皮剥きくらいは出来るから。勿論、ピーラーだけど)。御飯が炊けたのを合図に、本来の食欲を満たしたのだった。
そして、その夜、カフェでの顛末を受けて、俺が名誉挽回に励んだのは、言うまでもない。




