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1/144 の揺り籠  作者: kagonosuke
Side - Z: Mへと続くモノガタリ
25/36

第九話  色彩と情動の共鳴率 93.7%

甘々注意報発令中。苦手な方はご注意を。


 夕闇の中にぼんやりと浮かび上がっているのは、白い項だ。すっきりと髪を高く一つに纏め、顕わになった首筋は、ほっそりとしていて、ともすれば折れてしまいそうな気がする。

 俺は、直ぐ斜め下にある横顔をそっと盗み見た。

 この角度からの光景は、いつもと同じはずであるのに、今夜はやけに新鮮に見えた。

 傍に居るのに、どこか遠くて、それでも触れ合う肩に近さを感じる。

 矛盾した気持ちが、打ち寄せる波のように寄せては引いた。

 輪郭を象る後れ毛が頬に掛かって、いつにない雰囲気を醸し出していた。


 ―――――――カラン、コロン。

 ゆったりとした歩調に合わせて、アスファルトの上を下駄が鳴る。

 ―――――――カラン、コロン。

 肌にまとわりつくようなねっとりとした、この時期特有の生温い夜風が、頬を撫でて行った。

 ―――――――カラン、コロン。

 繋いだ手は、とっくに汗ばんでいたけれど、それを離そうとは思わなかった。



 俺は、その手にほんの少しだけ、力を込めた。

「ん?」

 些細な変化を読み取って、俺の隣を歩く人がこちらを仰ぎ見る。

 それに俺はひっそりと笑みを返していた。

「なぁに?」

 暗闇の中におぼろげに浮かび上がる白い肌。剥き出しになった顔と首筋以外は、背景の闇に滲んでいる。耳に付いたピアスの石が、周りの光を全て吸収してしまったかのように、やけに光って見えた。

「いやさ、中々いいかもって」

「こういうのも?」

「そ」

「ふふふ。偶にはね」

「そ、偶には」

 そう言って、二人して忍び笑い。


 ―――――――カラン、コロン。

 いつもより時間を掛けて道を歩く。小さな歩幅。外部から強制的に可動範囲を狭められた為の足さばき。

 そして、同じようにのんびりとした人の流れに合流する。交わるようで交わらない。混ざるようで混ざらない。独立した個々の点が、その動きはバラバラに同じ方向へ向かって歩みを進めている。そして、緩やかな流れを作り出していた。




 梅雨が明けて本格的な夏が到来した七月の末。

 今日は、週末の日曜日。高校生の俺は、夏休みの真っただ中だ。対する真帆櫓さんは社会人だから、当たり前だけど夏休みは八月のお盆休み期間だけなので普通の日曜日。


 その日、俺は真帆櫓さんを誘って花火を見に来ていた。

 俺と真帆櫓さんが暮らす地元では、毎年、夏になると近くの河原で花火大会が開かれていた。家から川端までは、真っ直ぐ歩いて大体十五分から二十分くらい。チャリならすぐだ。花火の規模もこの近隣ではかなり大きな部類に入って、周辺から多くの人が見物に集まった。

 この間の国語のテストを頑張ったことへの御褒美、要するに俺のおねだりは、真帆櫓さんとこの花火を見に行くことだった。

 それなら普通のデートと変わらないって? いや、ちゃんとそこには俺なりに考えた魅惑のオプションが付いているから。ここが重要。



「ねぇ、真帆櫓さん、浴衣、持ってる?」

 先日のマッサージをした日、俺は用件を切り出す為の事前調査として聞いていた。

「浴衣? 男物の?」

「いや、真帆櫓さんの」

「あるわよ。何枚か」

「じゃぁ、今度の日曜、それ着て花火見に行こ」

「ああ、この近くでやるやつ?」

「そ」

「いいわよ」

 最初の第一関門は、拍子抜けする位、あっさりとクリアした。だけど、ここからが重要だ。

 俺は口慣らしをする為に、その後も他愛ない会話を続けた。

「真帆櫓さん、浴衣、着られるんだ?」

「ええ」

 へぇ、それは凄いかも。でも、これまで俺の中で、真帆櫓さんと着物類(浴衣)は余り結び付かなかった。そんな話も聞いたことなかったし。いや、着たら結構似合うんだろうとは思ってるけど。色が白いから。

「浴衣って、どんなの?」

 重ねられた俺の問いに、真帆櫓さんは少し可笑しそうに笑った。

 急に興味津々に食いついて来た俺の反応が珍しいからなんだろう。

 でも、それに対しては別段、何も言わずに、

「そうねぇ、紺地のものが二枚と緑色のが一枚、あと白い麻のやつがあるかな」

「そんなにあるんだ?」

 普通、浴衣ってそんなに着るものじゃないから、てっきり一枚ぐらいかと思ってたけど、これは意外だった。

「真帆櫓さん、着物とか好きなの?」

 その問いに真帆櫓さんは少し考える風に首を傾げた。

「そうねぇ、好きと言えば好きなんでしょうねぇ。普段は着る機会なんて滅多にないけどね。友達の結婚式くらい? あとお芝居を見に行ったりした時とか」

「へぇ」

 これまで知らなかった一面に俺が曖昧な合槌を打てば、真帆櫓さんは少し懐かしそうに目を細めて種明かしをした。

「祖父がね、着物が好きで着道楽なところがあったから。お友達に呉服問屋さんがいて、小さいころから、何かと仕立てて送ってくれたのよねぇ。あ、でも浴衣は、二枚は母からのお下がりで、一枚は大人になってから母の知り合いのおばあさんに縫って貰ったものだけど、もう一枚は、子供の頃に祖父に作って貰ったものなの」

「子供の頃のやつ?」

 そんなのがまだ着られるのだろうか。洋服だったら有り得ない。

 俺が内心、目を白黒させていれば、

「そう。まだ小学校の高学年、五年生くらいだったかなぁ。大きくなっても着られるようにって、大体の平均的な大人サイズで仕立てて貰って、お母さんに肩の所とおはしょりの所を子供用に調整してもらって。それを着て、夏に祖父母が暮らす田舎のお祭りに行った時は、少し背伸びした気分になったかな」

 当時の頃を思い出しているのか、柔らかく微笑んだ。

 小さい頃の真帆櫓さんか。想像が付きそうで付かない。きっと可愛かったんだろうなとは思うけど。

 写真とか残ってるんだろうか。小さい頃のとか。あ、勿論、制服着た高校生の時のも見てみたい。

 などと俺が一人あらぬ方向に脳内妄想を繰り広げていると、リビングから寝室の方へ行っていたらしい真帆櫓さんが、学校の机よりは横に長い平たい紙に包まれたモノを手に戻って来た。

 そして、それを床の上に置いた。

「何それ?」

 身を乗り出した俺に、真帆櫓さんが優しく微笑んだ。

「浴衣」

「そういう形で入ってるんだ?」

「そう。見たことなかった?」

「うん」

 うちの母さんは、専ら洋服派で、着物なんて持ってないんじゃないだろうか。着られるかも分からない。俺は自分が覚えている限り、着物を着た母親の姿を見たことはなかった。

 その所為か、俺は初めて見聞きすることに興味津々だ。

 頑丈な和紙で作られた包み紙には、下の方に結び目が二つ付いていて、それをするすると解いて開くと、中から、綺麗に折りたたまれた紺色の浴衣が現れた。

「これは母からのお下がりなの」

 真帆櫓さんはそう言って取りだすと、そっと膝の上で広げて見せた。

「お母さんは、私よりも幾分小柄だから、ちょっと丈が足りないんだけどね」

「サイズが小さいんだ?」

 何気なくそんな質問をした俺に、真帆櫓さんは、ちょっと目を見開いた。

 そして、小さく笑った。

「そっか。信くんはこういうの余り知らないか」

 何か可笑しなことでも言っただろうか。

 俺が怪訝そうに眉を顰めれば、

「浴衣はね、といっても着物全般がそうだけど、本来、採寸をして自分の身体にあったものを仕立てるの。要するに洋服で言えば、完全オーダーメイド」

「へ? そうなの」

「そう。だから同じくらいの背格好なら大丈夫だけど、誰でも着られる訳じゃぁないの」

 あれ。でも最近デパートとかで売ってるやつってのはどうなんだろう。よく夏が近くなると朝のテレビとかでも特集を組んでやってたりするよな。今年の流行はどうのこうのって。

 そのことを聞けば、

「ああ。あれはね。大体の大きさで、既製品を作って売ってるの。洋服と同じ感じで、ミシンで縫ってるのよね。本来、浴衣も手縫いで作るものなんだけれど、中々反物を買って仕立ててもらうのも敷居が高いし、金銭的に大変だから。だから、ああいう出来上がりのものを買うのも、それはそれで手軽で楽しむにはいいのかもしれないわね。反物を広げて、大体の出来上がりを想像するよりも、実際に形になっている方を見て選んだほうが分かりやすいし。サイズはどうなのかしら。SMLとか身長で分けてるんでしょうけど。まぁ、女物は丈が余っても腰の部分である程度調整はできるから、少しくらい大きめでも大丈夫かしらね」

「へぇ、浴衣って手縫いなんだ」

 それは知らなかった。

「ふふ。昔はパジャマだったのよ?」

「え? そうなの?」

「元々、【湯帷子(ゆかたびら)】って言って、お風呂の時やお風呂上がりに着た白い一重の着物のことなの」

「……風呂って、着たまま、入んの?」

 着物着たまんま、湯船につかるのか?

 俺の想像を否定するように、真帆櫓さんは緩く首を振った。

「当時のお風呂は、蒸し風呂だったから。大きな石を熱々に焼いて、それに水を掛けて水蒸気を発生させて、それを浴びる形ね。それは平安時代の頃のお話だけど。時代が下って江戸辺りになれば、湯上りに着るものになったわね。そして、そのまま寝間着になった」


 いつの間にか、古典の講義みたいになっていて、それはそれで有意義だったけど、俺は話の流れを戻すように口を開いた。

「じゃぁ、それ着て花火見に行こうよ」

「いいわよ」

 そして、俺はそのまま真帆櫓さんの傍ににじり寄ると、その耳元に御褒美のオプションを囁いた。

「な…………」

 真帆櫓さんは、虚を突かれた顔をして目を見開いた後、呆れたように俺の方を流し見た。

「んもう。おねだりにしてはやけに普通だなぁって思ってたら。そういうこと」

 恨めし気な視線にかち合う。

「いいよね?」

 俺は期待に満ちた眼差しで、鼻先にある真帆櫓さんの顔を覗き込んだ。

「信くんて…………結構、一人で妄想を逞しくするタイプよね。なんて言うの? ムッツリ?」

 ―――――――前々から思ってたけど。

 そう言って軽やかに笑う。

 やっぱりバレてたか。身も蓋もない指摘にぐっと詰まる。

 でも、俺は開き直った。今更、この手の分野でこの人を前にカッコつけても仕方がないだろう。

 そうとなれば、これを逆手に取るしかない。

「もっとオープンにした方がいい?」

 ―――――――俺が普段考えてるアレやコレとか?

 俺は低く囁くと目の前にある唇の端にそっとキスを落とした。

 クスクスと小さな笑いが零れる。

「ええ~、それは困るなぁ」

 ―――――――だって、キミにその顔で迫られたら、押し切られちゃうもの。

「何それ?」

 一応、聞いてみるけど、勿論、答えは返ってこない。

「だから、表面的には自重して下さい」

 その代わり、真帆櫓さんは俺の首に手を回して引き寄せるとキスをした。

 甘くて溶けそうなくらいの濃いキスを。

 その瞬間、俺の中でスイッチが切り変わった。


 それから暫く、無言のまま吐息を交わし合った。

 目を瞑りながら、そう言えば、まだOKかどうかの返事を貰ってない、頭の片隅でそんなことを思った。ここで有耶無耶にされては敵わない。

「……真帆櫓さん」

 キスの合間に、俺は再び用件を切り出した。

「さっきの………いいよね?」

 俺の言葉に閉じられていた目が薄く開いた。

「…ううう、誤魔化されてはくれなかったか……」

 恨めし気な呟きのような声が漏れる。

 やっぱり、はぐらかす積りだったようだ。危ない危ない。よく流されなかった、俺の理性。

 だが、そんな内心の動揺を上手く隠して、

「そこまで甘くはないし」

 俺も目を開けると、キスをより深いものにするべく、腕の中に収まる身体を引き寄せた。

「…………んもぅ」

 そう言って、最後に譲歩を見せるのは、やはり真帆櫓さんの方だった。




 そして、待ちに待った日曜日。今、俺の隣を歩く真帆櫓さんは、その時の紺色の浴衣に身を包んでいた。全体に赤や黄、ピンク、青の流線が花火模様となって散っていた。実にこの日にぴったりの柄だ。良く見るとその模様には全体的に細かい凹凸がある。確か、【絞り】ってやつだと言っていた。生地を染めたくない場所を糸で縛って、空白の模様を作るのだとか。

 この短期間の内に、俺はやたらとこの方面の知識が増えた気がする。


 花火会場に近づくにつれ、人が徐々に増えて行った。逸れないように握る手に力を込める。

 熱さ凌ぎに持ってきた団扇をパタパタと仰ぐ。生温い風もないよりはマシだった。

「信くん、足、大丈夫?」

 のんびりと歩きながら、気遣わしげに向けられた眼差しに、

「今んとこは平気」

 俺は自分の足元を見下ろした。

 そこには黒い鼻緒の付いた白木の下駄が収まっていて、隣を歩く真帆櫓さんと同じように、カランコロンと音を立てて鳴っていた。

 下駄ってのは履き慣れない奴には、鼻緒の所が擦れて痛くなるらしくって、一応、予防としてテーピングはしていたけど、それが新品で鼻緒の所がまだまだ固いってことで、慣れない事をさせているっていう自覚がある所為か、かなり心配をしているようだった。

 正直言えば歩きづらいけど。ま、別にここは家の近所で、遠出をしてる訳ではないから、その分は助かったと思ってる。


 この日、なんと俺も浴衣を着ていた。

 初めて着る浴衣は、いつもと勝手が違って少し戸惑う。俺は浴衣なんて持ってなかったし、別にTシャツにジーンズで構わなかったんだけど、真帆櫓さんがやけに乗り気になって、俺のおねだりオプションを叶える為の派生オプションだと主張したもんだから、最終的には俺も折れざるを得なかったって訳だ。


 真帆櫓さんは、どこから調達してきたのか、少し早めに迎えに行った俺の目の前に、一揃いの男物の浴衣と下駄を差し出した。にっこりと実にいい笑顔で、だ。既成のお仕着せだから丈が大丈夫か心配だと言いながらも慣れた手付きで俺に浴衣を着せて、前を合わせると細い男物の帯を巻いた。『うーん、やっぱり身幅が余るか』なんて言って眉を下げていたけど、着付けを終えた俺を見ると、満足そうに頷いた。

 帯を回した腰の辺りをパンと軽く叩く。

 そして、晴れやかな笑顔で一言。

「うん。男前。やっぱり、信くん、こういうの似合うわね」

 その言葉に俺が撃沈したのは言うまでもない。


 俺が着ているものは、白地に絣柄っての(?)、早い話が十字の紋様が所々に点々と入ったヤツで、腰の所を帯でキュッと締め付けられるのは、少し不思議な感覚だった。身体の中心が、こうすっと通るっていう感じか。自然と背筋が伸びるっていうか、姿勢が良くなりそうだ。そういや、同じクラスにいる弓道部の奴は姿勢が良かったっけ。

 でも、正直、歩きづらい。はっきり言って、歩きづらい。

 いつもと同じように足を出そうとすると、直ぐに足首まである布地に動きを邪魔されるからだ。

 これをずっと着ていた昔の日本人をほんと凄いと思った。逆にアレだ。こういう着物で何百年も生活してきた民族がさ、幕末に黒船が来て、開国ってことになって、明治以降、洋服を取り入れた時は、すっげぇ衝撃だったんだろうなって思う。

 そう言えば、真帆櫓さんの話じゃ、普段から皆が洋服を着るようになったのって第二次世界大戦後のことじゃないかって言っていたっけ。それまでは、まだまだ着物を着てる人が街中には多かったって。今じゃ、考えられないけど。


 そんなこんなで、なんとか体勢を整えながら歩いて。

 いつもより歩幅が狭い所為か、歩く速度は当然ゆっくりとしたものになる。それは、女性である真帆櫓さんも同じようだ。でも、真帆櫓さんはそれなりに着なれているのか、身のこなしが滑らかで軽やかだ。 カランコロンと実に軽快に下駄が鳴る。そこに俺のちょっとぎこちない下駄の音が重なった。

 浴衣を着た真帆櫓さんは、普段よりもずっと大人びて見えた。着ている色が紺色っていう落ち着いた色ってこともあるんだろうけど、それ以上になんかこう色っぽく見えて仕方がなかった。

 少し深めに開いた項から伸びるほっそりとした首筋が、目の端にちらつく。気になってしょうがない。その場所に思いっ切り口付けて、この人は俺のものなんだって、印を残したい衝動に駆られて仕方がなかった。

 特別、肌を露わにしている訳ではないのに。寧ろ控えめ過ぎるぐらいなのに。何たるエロさ。これぞ浴衣マジックってやつか?



 花火会場は、案の定、凄い人だかりだった。

 俺たちは、人混みを避けるように歩き続けた。俺がその昔通っていた小学校の傍を抜ける。生まれてこの方、ずっとここに暮らしてる。

 この場所で花火大会が開かれるようになったのは、俺が小学生の頃だった。子供の頃は友達同士、チャリに乗って見に行ったりもした。勿論、花火よりも見物客を当て込んで並んだ露店のタコ焼きや焼きそばが目当てだったことは間違いないけど。

 そうして、俺たちは地元民だからこそ知る絶好の観覧スポットに辿りついた。近過ぎず、遠過ぎず、花火全体を見ることが出来る穴場だ。この辺は閑静な住宅街で視界を遮る高い建物はない。周囲に人は、ちらほらとしかいなかった。

「こんなところがあるのね」

 感嘆交じりに呟いた真帆櫓さんに、俺は少し得意げに微笑んだ。


 そうこうするうちに花火の打ち上げが始まった。

 独特な破裂音と共に闇の濃くなった空を駆け上がる甲高い摩擦音がする。

 そして、上空で勢いよく弾けた。

 ――――――――パァーン。

 色とりどりの光線が四方八方に飛んでゆく。

「………わぁ」

 闇色のカンバスに作りだされる一瞬の造形に、観客たちの視線が釘付けになった。

 そして、俺の隣に居る人の視線も。

「キレーだね」

「うん」

 食い入るように空を見上げている真帆櫓さんの横顔を俺は見つめていた。

 花火が弾ける度に反射する光。轟続ける雷鳴に似た音が、時間差で聞こえる。

 俺は、そっと繋いでいた手を離すと、真帆櫓さんの後ろに回り、その体を抱き込むような形で前に手を回した。

「キレーだね」

「うん」

 俺は、目の前の人を想って言葉を紡ぐ。それを受け取る筈の相手は、夜空に繰り広げられる束の間の煌びやかな世界を想って合槌を打つ。

 そこに生じている認識のズレをそのままに、俺は、すぐ傍にある柔らかな肢体にそっと手を伸ばした。

「暑くないの?」

 夏が苦手であることへのからかいの言葉。ぴったりと隙間の無い密着に、面映ゆそうに喉が鳴る。

 それと同時に、団扇を手にした真帆櫓さんが、俺に向けて風を送った。

 相変わらず生温い。

 だが、その風は、目の前に居る真帆櫓さんから発せられる甘い匂いを一緒に運んできた。首筋から立ち上るその人独自の少し癖になる匂い。

 露わになった首筋に、俺はそっと鼻先を押し付けた。

「それはソレ、これはコレ」

 薄暗がりで、人気が無いことをいいことに俺はその輪郭を緩くなぞった。

 魅惑のオプションを確かめる為に。

 そして、俺は真帆櫓さんがそのお願いを聞きいれてくれたことを感知した。

 落ち着きのある紺色の浴衣の下に隠された柔らかな肢体を夢想する。涼しげな顔の下、そこに潜む秘密は俺だけのモノだ。

「…………信くん、花火は?」

 緩く風を送りながら、真帆櫓さんが低く囁いた。

 ほんの少しだけ咎めるような口調。甘い匂いにつられて、それすらも俺を惑わす麻薬に代わる。

 唆されるように俺は返事をした。

「観てる」

「こら。駄目よ」

 窘める言葉を吐きながらも、真帆櫓さんは動かなかった。言葉とは裏腹に俺に身体を預けて立っている。

 夜空を見上げて、その大きな瞳に様々な光の奔流を焼きつけながら。

「戻ってから、ね?」

 そう言うと、空いているもう片方の手を悪戯に這い回る俺の手の上に乗せた。

「ちゃんとお願い聞いてくれたんだ?」

 同じように夜空を見上げながら、俺はその耳元で囁いた。


 ―――――――パァーーン、パパパパパン。パパン。

 夜空を一定の規則性に基づき跳ねる破裂音に混じり、掠れた囁きが風に乗った。

「だって、約束だったでしょう?」

 俺の手の上に乗った小さな親指が、擽るように手の甲を撫でた。


 今、無性に腕の中にある小柄な身体をぎゅうぎゅうと抱き締めて、キスをしたい気分に駆られた。その衝動を緩く息を吐き出すことで、どうにか堪える。

 真帆櫓さんと付き合い始めてから、俺は自分で考えていたよりも意外に忍耐力があることを知った。楽しみは後に取っておくタイプだからだろうか。そこに至るまでの過程に色々と思いを馳せながら、いつ決壊するとも限らない最後の一線の手前で、ギリギリで踏み止まるのだ。その綱渡り的緊張感が意外に快感であったりもする。その分、箍が外れた時は、ヤバいんだろうけど。

「さっすが。真帆櫓さん」

 俺は、体内に抱えた爆弾に気が付かない振りをして、飄々と軽薄さすら滲ませて、俺的には史上最高に優しい恋人を褒め称えた。

「じゃぁ、序でにもう一つ」

 そして、調子に乗った俺は、更なる追加要請を小さく形のいい耳元に吹き込んだ。

 真帆櫓さんは、ちらりと俺の方へ視線を向けると、

「ヨ、ク、バ、リ」

 音節に合わせて、手にした団扇で俺の太ももの辺りを四度、軽く叩いた。

 キッと睨みつけるような視線も、直ぐに苦笑に似たものに変わった。

 そして最終的には、小さく息を吐き出して、

「帰ったら、ね」

 了承の言葉を吐いた。


 ――――――――おっしゃぁー!

 俺は内心、ガッツポーズ。

 でも、それを気持ちのままに表情に乗せるのは何だがガキっぽいかと思って、努めて何でもない風に表情を取り繕った。

 少なくとも、今が夜でよかった。それにこの体勢で良かった。ゆるゆるに緩んだ口元は、きっと隠せそうになかったから。

 そして、今にも鼻歌が出そうな程の上機嫌で、俺は引き続き夜空を見上げた。

「もう、単純なんだから」

 辛うじて拾えるか拾えない程の小さな呟き。

 的を射たその指摘に、

「男はそんなもんだろ」

 俺も緩んだ口元をそのままに、そっと呟きを返していた。




 そして、花火の後、再び人の流れに合流しながら、俺たちは家路をのんびりと辿った。

 ―――――――カラン、コロン。

 俺の心はこれからの期待感に逸っている。それを宥めながら、ゆっくりと下駄を鳴らした。

 ―――――――カラン、コロン。

 俺の隣からも、同じように軽やかな音が鳴った。

 ―――――――カラン、コロン。

 再び繋いだ手は、やっぱり汗ばんでいたけれど、それを振り解く積りは更々なかった。


「綺麗だったね」

「ん」

 俺の隣をゆったりとした足取りで歩く真帆櫓さんの脳裏には、夜空を彩る様々な花火が残像のように残っているのだろう。

 俺の目裏には、それを見上げる真帆櫓さんの横顔が焼き付いていた。

 そこに生じている認識のズレをそのままに、俺はこれからの一時に思いを馳せた。

 今夜は、このまま、真帆櫓さんの家に泊る予定だった。真帆櫓さんは明日も普通に仕事があるから、一緒に居られる時間はそんなにないけれど。それでも、俺にとっては貴重な一時だった。



 玄関を入って下駄を脱ぐと、感覚の麻痺した足の裏に吃驚した。自分の足なのに、まるで自分のモノでない感じ。それでも、指先に伝わる独特の解放感に緩く息を吐いた。親指の付け根が痛い。下駄、恐るべし。

 なんだ、この感覚。

 おっかなびっくり、廊下で気取った猫みたいに足を踏み出す俺を見て、真帆櫓さんが可笑しそうに喉を鳴らした。

「大丈夫? 指の所とか擦れてない?」

 目の端に涙を浮かべながら心配されても、かなり微妙だ。

「久し振りに下駄って、結構くるものね」

「真帆櫓さんでも?」

 あんなに軽やかに足を運んでいたのに。

「そうよ? 毎日履いていれば違うんだろうけど」

 冷蔵庫から冷たいお茶を取り出して、コップに注いだ。それを二つお盆に乗せて、真帆櫓さんは言葉の割には平気そうな顔をしてリビングへ向かう。

 俺は明るい電灯の下、その後ろ姿を目で追った。

 紺色の浴衣の下に隠れている秘密を目で追った。

「ほら、いらっしゃい。足の裏、揉んであげるから」

 小さなローテーブルの上にお盆を置くと、その場に腰を下ろして軽やかな声で俺を誘う。

 俺は気合を入れると足を踏み出した。きっと慣れてくれば平気な筈だ。

 そして、やや覚束ない足取りで真帆櫓さんの隣に腰を下ろした。

 だらりと脚を前に投げだす。行儀が悪いってことは分かってるけど、大目に見て欲しい。浴衣に下駄、伝統的日本人仕様は、現代日本人の俺には、かなりきつかったようだ。人の生活の変化ってすごいと思う、ホント。

 そんな俺の様子を見て、真帆櫓さんが小さく微笑んだ。

 真帆櫓さんは、きちんと正座をしていた。

 投げ出した俺の素足を覗き込みながら、真帆櫓さんがそっと指を滑らせた。

 それはくすぐったい。

「擦れては……ないみたいね」

 肉刺(マメ)の類が出来ていない事を確認して、ほっとしたように息を吐く。随分と心配されていたようだ。

 それから、さっきの言葉通りに、真帆櫓さんは俺の足を掴むとその足裏をマッサージし始めた。いや、これが吃驚するくらい気持ちよかった。マジで。


「……………はぁ」

 緩く息を吐きだした俺に、細い少し骨ばった指を動かしながら、俺の方をちらりと見た。

 そこには、どこか悪戯っぽい表情が浮かんでいた。

「お加減は如何にございますか」

 おっと、ここから始めんの?

 普段とは違う口調に、俺はその意図を読み取った。

「あ~、ゴクラク、ゴクラク。苦しゅうない」

 やりたいって言い出したのは俺の方だったけど、元々古典を苦手とする俺に、昔風の言い回しのボキャブラリーなんて高が知れてる。無い知恵絞って、それらしい言葉をなんとか口に乗せた。

「それは重畳」

 対する真帆櫓さんは、慣れたもので(いや、慣れてるってのもなんか変だけど)、実にすらすらと大河ドラマの武士のような台詞を口にした。

 同じように反対側の足裏もマッサージをして貰った。

 俺はすっかり骨抜きになった気分で、ソファにぐったりと凭れかかった。

 真帆櫓さんは穏やかに微笑むと俺の足元のだらしなく肌蹴た裾を直して、こちらを窺うように見た。

「湯殿をお使いになられまするか」

 湯殿って、………風呂ってことだよな。いやいや、それは駄目だ。あの甘い匂いが消えてしまう。勿体ないだろ。

「いや、まだよい。それよりも」

 腰を浮かしかけた相手を制して、俺は手を伸ばすと柔らかな身体を手元に引き寄せた。

「いけませぬ」

 思った通り、真帆櫓さんは抗う素振りを見せた。

「何を言う。よいではないか」

 俺は、そんな台詞を吐いて(ちょっと棒読みだ)胸元の合わせに手を入れた。

 そして、そこにある弾力豊かで柔らかな感触にほくそ笑む。

 掌に触れる肌はしっとりと汗ばんでいた。

「なりませぬ」

 真帆櫓さんが身じろいだ。


 ここまで来れば、俺が何をやりたがったかは、勘のいい人なら分かるだろう。

 そう、浴衣(ホントは着物なんだろうけど、それだとハードルが高すぎるので)と言えば、アレだ。悪代官が生娘を相手に帯を解いてくるくるってやるやつ。アレ、一度やってみたかったんだよね。男のロマンってやつ? え? 古い? ほっといてくれ。

 で、折角、浴衣を着たんだからってことで、俺は真帆櫓さんに『悪代官ごっこ』がやりたいと言ったのだ。どうせ脱がすなら一捻りあった方が楽しいし。

 体勢が崩れた足元を見て、俺は浴衣の裾を割って手を差し込んだ。

 あれ、浴衣の下に同じようなのがもう一枚ある。なんだこれ。

「坂井様、なりませぬ」

 おっと、なんか結構、調子が出てきたかも。真帆櫓さんも意外に乗り気っぽいし。

「これはなんだ?」

 尤もらしく浴衣の下にあった白いもう一枚の布を摘めば、

「腰巻にございます。御存じありませなんだか」

 真帆櫓さんが不意に真面目な顔をして俺を見上げた。

 いや、知らないし。初めて聞いた。

「腰巻って?」

「昔の下着にございます」

 ―――――――男の場合は下帯びですが。

 そう言った後、恥じらうように目を伏せた。

「下帯び?」

 ここで、再び、俺は引っ掛かった。

(ふんどし)と言えばお分かりになりまするか」

「…………へぇ?」

 つまり、男が褌で、女が腰巻。これが着物を着ていた時の下着って訳か。成程ね。一つ勉強になったかも。

 それから、気を良くした俺は、ふくらはぎから膝頭を撫で上げ、そのまま太ももから焦らすようにゆっくりと脚の付け根を目指した。

 再び移動を始めた俺の手に、真帆櫓さんが焦ったような声を出した。

「坂井様。御無体な。お待ち下さりませ」

 そう言って、身を捩って、俺の手を浴衣の上から止めようとする。

 うわ。これ、すごく楽しいかも。

「いや、待たん」

 そして、俺は自分のおねだりが正確に聞きいれてもらえたことを直に確認したのだった。

 息を詰めた真帆櫓さんが、俺に縋りついていた。顔を伏せるように俺の胸元に押し付けている。その耳元が恥じらいの為にか赤くなっていた。

 やっべぇ。鼻血出そう。

 俺はゴクリと喉を鳴らしていた。


 ここまで来れば、俺が真帆櫓さんにしたおねだりも分かったことだろう。

 上も下も下着無しっていうオプションだ。現代のっていう注釈が付くけど。

 ほんの少し、シチュエーションが違うだけで、俺はかなり盛り上がっていた。こちらの異様なまでの高揚は、どうも相手である真帆櫓さんの方にも感染したようだ。

 それから俺は、見かけ上、いやいやと首を振る真帆櫓さんをその場で組み敷いていた。気分はすっかり、使用人に手を付けるどこぞの主、若しくは、生娘に無体を働く悪代官、いや、奉行か。



 そして、嵐のようなめくるめく一時が過ぎ去って。

 ぼんやりと二人して湯船の中に浸かりながら、俺は新境地を開拓した気分で長い息を吐いていた。

 対する真帆櫓さんは、ぐったりと俺に背中を凭せ掛けながら目を閉じている。

「……癖になるかも」

 ぽつりと漏れた俺の呟きに、真帆櫓さんは抗議をするように身体を脇に傾けると、器用に両手で作った水鉄砲で、俺の顔を狙い撃ちにした。

 ―――――――ブフッ。

 お湯が思いの外、強い威力をもって、見事、顔面に命中した。

 何その特技。

「それは困ります!」

「でも楽しかっただろ?」

 ―――――――真帆櫓さん、ノリノリだったじゃん。

 だから、俺の方も期待に応えるべく張り切ったのに。

 そう主張すれば、図星であったのか、真帆櫓さんは面映ゆそうに目を逸らし、身じろいで今度は湯船の縁に肘を突いた。

 そして、ちらりと横目に俺を見て、恨めし気な声を出した。

「だって。……もう。信くんがあんなだとは思わなかった……………」

 俺はその恨み節を、男として見事恋人の期待に応えることが出来たことへの褒め言葉だと受け取った。

 そして一人、口の端を吊り上げた。


 こうして、俺は、苦手な古典を頑張ったことへの対価に、想像以上の楽しい一時を味わうことが出来たのだった。


ギリギリ15Rですかね。らぶらぶというよりもここまでくれば、バカップル。信思くんが、段々と単なるエロ親父に見えてきたのは気のせいでしょうか。いや、作者の所為ですね。失礼しました。


追記:とある方より「浴衣」と「着物」が並列的に扱われているように思えるというご指摘を頂きまして、誤解を防ぐためにも少々、補足説明をしたいと思います。

信思くんは今時の高校生なので、「浴衣」も「着物」も同じようなものだと思っている為、冒頭部分の会話文では混同するような使い方をしていますが、実際は全く違います。別物と思って頂いた方がいいかと。

「浴衣」は現代でも外出着として許されるのは「お祭り」ぐらいの限られたシチュエーションのみで、基本はパジャマのような湯上りに着るものです。正式な場所では全く通用しませんのでご注意を。また、一口に着物と言いましても、訪問先や用途によってかなりのヴァリエーションがあります。紬は日常着だとか柄モノの小紋はちょっとしたおしゃれ着だとか。洋服にフォーマルがあるように着物の方にも厳格なルールがあります(というのは蛇足ですが)2012/1/30


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