表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/144 の揺り籠  作者: kagonosuke
Side - Z: Mへと続くモノガタリ
22/36

第六話  酩酊と焦燥の集約率 67.5%


 真帆櫓(まほろ)さんと付き合い初めてから早二ヶ月、鬱陶しい梅雨の季節ももう少しで終わる頃合いになっていた。

 その日、生温いじめじめとした空気の中、いつものようにコンビニのバイトを終えた俺は、一人、家路に着いた。

 今日は俺の隣に真帆櫓さんの姿はない。コンビニの方にも顔を出さなかった。

 ただ、それだけのことで、急降下した俺のテンションは、肌にまとわりつくこの季節特有のねっとりとした重苦しい空気のように俺の心に蓋をした。



「明日は、そっちに顔を出せないから」

 そう言われたのは、昨日の朝のことだった。

 一緒に帰れないと面と向かって言われたのは、思えば初めてのことだった。

「何かあんの?」

 念の為、理由を尋ねた俺に、

「会社の歓迎会があってね。夜のお付き合い」

「飲み会みたいなもん?」

「まぁ、そうかしらね。今年、入った新入社員が研修を終えて、今月になってうちの部署に配属されて来たから、その為の歓迎会をするの」

 要するに会社での飲み会。社会人であれば、それ位は普通の付き合いのレベルなのだろう。

「ふーん」

 それは、まだ高校生である俺には、想像の付かない世界だった。

「真帆櫓さん、お酒飲めるんだ?」

 俺の問い掛けに真帆櫓さんは小さく笑った。

「余り強くはないけれど、それなりにはね。嗜む程度?」

 真帆櫓さんが酔っぱらうとどんな感じになるんだろうか。俺はまだ酒の入った真帆櫓さんの姿を見たことがなかった。

 俺は、ふと未知の世界に思いを馳せた。

 色白の肌に目元がほんのりと赤くなって、色っぽい感じになるのだろうか。吐き出す息が段々と気だるく緩くなって、いつもより仕草が、緩慢になって、目がとろんとして………ふにゃりとした笑みを浮かべるのか?…………あの時みたいに…………。

 そのまま脳内で禁断の桃色ワールドを展開しそうになった俺は、唐突に車内を襲った揺れに現実に引き戻された。


「だから、明日はコンビニの方にも行けないと思うの。すぐに移動になると思うから。…………って、(のぶ)くん、聞いてる?」

 隣から顔を覗き込まれるように近づかれて、俺は、ハッとした。

 慌てて、桃色の中にしなを作って佇む真帆櫓さんの残像を消去する。

「あ、ああ、うん、わかった。あんまり、飲み過ぎて羽目外さないようにね」

 尤らしい俺のアドバイスを真帆櫓さんはおかしそうに聞いていた。

「ふふふ、大丈夫よ。ちゃんと自分の許容量ぐらい分かってるし。大人数だから、必然的に周囲に気を使うことになるだろうから」

 その時の俺は、それもそうかって、大した心配なんてしなかったんだ。後で電話でもすればいいかなんて軽く考えてた。



 そんなわけで、一人、コンビニから駅へ向かう途中、カラオケボックスの前で、俺は同じ制服を着た見知った顔に出くわした。

「うわ、お前ら、マジでカラオケ行ったんだ?」

 そこにいたのは、お馴染みの喜多見、高畑、須藤の三人だった。


 昼間、カラオケ行きたいなんて喜多見が突然言い出して、俺はバイトがあるからって断った。高畑は部活があるし、須藤は関心がなさそうだったから、てっきり喜多見がごねて終わりかと思ってたのだ。まさか、ホントに行ったとは思わなかった。

「あっれぇ、坂井じゃん!」

「あ! ホントだ。バイト上がり?」

「お疲れ」

「ウッース」

 俺は、当然のように三人に合流した。こんな時間帯に四人で駅への道のりを歩くのも滅多にないことだ。

「あれ、今日は真帆櫓さん、いないんだ?」

 喜多見が俺の後ろを見た。

 俺がバイトのある日は帰りに真帆櫓さんと一緒になることが多いと知っている奴らは、俺の隣にいるはずの人物の姿がないことをまず疑問に思ったようだ。

「振られた?」

「ちげぇ」

「おお、こぇー」

 おちょくる高畑を一睨みしてから、俺は、正直に話した。

「会社で飲み会があるんだって」

「この時期にか?」

「そ、新人の歓迎会だって」

「へぇ、でも時期的に遅くない? 普通、4月とかだよね」

 喜多見と須藤は上に社会人の兄弟がいる所為か、そういった大人の事情に詳しかった。

「なんか、研修期間を経て、今月、真帆櫓さんの部署に配属されて来たんだと」

「ああ、そういうことか」

「ふーん、それで、坂井は一人淋しく歩いてんだ」

「一人淋しくは余計だ」

 ニヤニヤとして肩に腕を回して来た高畑の腹に、俺は躊躇うことなく拳を突き入れた。

「グゥ………」

 堅い腹筋に邪魔をされたが、あからさまに顔を顰めたヤツに、口角を上げる。

「おまっ、マジで入れただろ!」

 腹を抱えた高畑に、

「なまってんじゃね?」

 俺は何食わぬ顔をして横を流し見た。

「んなわけねぇ。今日だってハードな練習してきたんだから」

「はいはい」

 そうやって高畑を弄ってささやかなストレス発散をしていると、

「なぁ、どっか寄ってかない? 腹減った」

 いつものことだが、唐突に喜多見が振り向いた。

「サンセー!!」

 例の如く、高畑がいち早く反応して手を上げた。

 ちらりと見た須藤は、珍しく、

「ま、偶にはいいか」

 なんて言って、俺の方を向いたものだから、

「分かったよ」

 俺もまぁ、いいかなんて思って、三人に付いていくことにした。

 こうやって他愛ないことで馬鹿やりながら騒ぐのは嫌いじゃなかった。


 俺たちが入ったのは、よくあるファーストフード店で、銘々が好きなものを頼んで、二階の席に上がった。

 9時少し前だったけど、中は適度に空いていた。この辺は学生よりもサラリーマンの方が多いから、まぁ、そんなものだろう。

 俺は、一応、母さんにメールで友人と軽く食べてくる旨を伝えておいた。そうしないといつまでも俺の分を残して待ってるから。父さんが帰ってくるのは、9時を回ることが多いから、似たようなものなんだろうけど、やっぱ、連絡はなるべくしといた方がいいって思ってる。あんまり、心配かけたくないし。これでも、一応、考えてる。あ? 意外? そうかよ。まぁ、いいけど。

 そうやって他愛ないことでワイワイ言いながら(大抵、高畑が訳分かんない事を言いだして自爆するのだ)小腹を満たして、俺たち四人は帰宅するべく、駅に向かった。

 いつの間にか、急降下していた筈の俺の気分も平常より少し上昇傾向にまでに戻って来ていた。




 ほんの少し時間がズレるだけで、駅の空気は様変わりする。

 時計の針は、9時を少し回ったところで、駅の構内は帰宅を急ぐサラリーマンやOLがほとんどだった。

 一杯、引っ掛けてきたのか、明らかに飲んできましたって赤い顔をさらしているオッサンなんかもいる。ネクタイの緩んだ襟元。今日が金曜日ってこともあるんだろうけど、気だるそうな空気がそこかしこに漂っていた。

 俺たち四人は、たまたま同じ路線だ。喜多見と須藤は反対方向で、俺と高畑が同じ方向だった。高畑は俺よりも遠くて、もう10分は余計に乗ってる。


 先に改札を抜けた三人に続いて、俺も改札を通ったところで、思いもよらない事態が俺を待ち受けていた。

 いきなり背後から拘束をされた。早い話が抱きつかれたって感じ。

 ―――――うわ!?

 俺がぎょっとして、反射的に身体を捻ろうとしたところで、

「ああ、やっぱり」

 聞き覚えのある声に動きを止めた。

 首だけ捻って振り向けば、そこにいたのは、少し垂れ気味の大きな瞳を一層ゆるゆるにしている俺の想い人だった。

「信くんだぁ」

 語尾にハートマークが飛んでいそうなほど甘ったるく名前を呼ばれて、

「へ? 真帆櫓さん?」

 俺は、いつもとは違う雰囲気にぎょっとした。

「うふふ、信くん、いつもよりちょっと遅い? もしかしたら、いるかなぁなんて思ったら、大当たり」

 こちらを見上げている顔は、やたら上機嫌でニコニコしている。

 つぅか、あり得ないだろう。

 意外な展開に俺は虚を突かれた感じだった。

 普通なら、真帆櫓さんが人前でこんな風にベタベタするなんてことは絶対にない。

 いつもの凛とした清々しさはどこにいったのか、ぐずぐずに甘い様子に、俺は真帆櫓さんが、かなり酔っ払っていることを知った。まさかのアルコール効果。

 その変化に俺は、内心、狼狽えた。

 けど、その動揺を悟られないように、敢えて平静を装った。

「もう終わったんだ? そっちは」

 俺は、前に回った腕を解いて、真帆櫓さんの正面に向き直った。

「うん、一次会が終わったところ。まだまだ付き合う人もいるけど、私はもういいかと思って。とりあえず駅まで来たら、キミの後ろ姿が見えたから」

 ――――――驚かせようと思って。吃驚した?

 そう言って、悪戯っぽく笑う。

 その企みは大成功だろう。何せ、俺の鼓動は妙な方向に跳ね上がったのだから。

 それから、真帆櫓さんは、ふわふわとした笑みを浮かべながら俺の腕を取ると両手を巻き付けて胸元に抱えた。

 今は7月だから、当然のことに着ている学校指定のシャツは半袖で、俺の剥き出しの腕に真帆櫓さんの柔らかい感触が押し付けられた。

 真帆櫓さんは半袖のカットソーの上にシャツ風のジャケットを羽織っていて、今日は、膝丈の黒いタイトスカートを穿いていた。因みにスカートの後ろ側には結構、深いスリットが入っていて、階段を登る度に内心、気が気じゃなかった。

 心なしか、肌が汗ばんでいる。

 俺は駆け出しそうになる鼓動を、深呼吸をすることで努めて抑えた。


「坂井? どーしたぁ?」

 中々やってこない俺に気が付いた三人が、こっちを見て、俺の置かれた状況に、一瞬、目を瞠った後、ニヤニヤと意味深な色を浮かべながら近づいてきた。

 真帆櫓さんは、すぐに俺の友人たちを認識したようだった。体育祭の時の印象は、それなりにあったということなのだろう。

「あらぁ、キミたちも一緒だったのね」

「こんばんは」

「はい、こんばんは」

 俺は、しなだれ掛かる身体を支えながら、邪魔にならないように端に移動した。

「須藤。わりぃ、水、買って」

 ちょうど良く自販機の傍にいた須藤に口パクで頼めば、須藤は何も言わずに頼んだものを購入するとそのままペットボトルを寄越した。

 須藤の事だから、絶対に何か言われるかと思った。

 だが、その眼差しは、実に愉快そうにこの成り行きを見守っているようだった。

 俺は意識の中から、取り敢えず、外野を排除することにした。

「真帆櫓さん、大丈夫? かなり酔っ払ってるだろ? 気持ち悪くない?」

「ヘーキよ、このくらい。全然」

 何が可笑しいのかは知らないが、始終ニコニコしている顔の前に俺はミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出した。

「ほら、お水、一口飲んで。真帆櫓さん、これ、いつも飲んでるやつだろ? すっきりするから」

 真帆櫓さんは、俺の差し出したペットボトルのラベルと俺の顔を交互にじっと見つめた。

 それから、不意に顔を寄せると強請るように囁いた。

「飲ませてくれないの? ………口移しで」

 いやいや、それはまずいだろ。さすがに。

 ここが人目のない場所なら、俺は躊躇わずに、いや、寧ろ嬉々としてそのおねだりを叶えてあげてるんだろうけど。今、いるのは駅だ。

 

 その台詞にぎょっとしたのは、俺だけではなかったようだ。

 すぐ側で成り行きを見守っている三人も肩を揺らした。そして、顔を見交わせた後、俺の方をどうするんだとばかりに見た。

 喜多見と高畑の目が爛々と好奇に輝き出した。

 だが、するりと空気が変わる。

「冗談よ。そこまでじゃないもの」

 真帆櫓さんは小さく笑いながら、ペットボトルを手に取ると中身を飲んだ。

「焦ったぁ」

 思わず、漏れた本音に、

「でも、半分、本気よ? ここが、駅じゃなかったらね」

 そんなことを言って、頭を俺の肩に擦り寄せた。

 ――――――なんなんですか! この可愛い生き物は!

 俺は、安心しきったように身体全体を預けてくる真帆櫓さんを力一杯抱き締めて、ムチャクチャにキスがしたい衝動に駆られた。ここが人目のある駅ってことが、恨めしい。

 一人、葛藤を抱えながら、衝動に悶々としていると、

「ああ! 保内(ほない)さん、こんなとこにいたんですか! 探しましたよ!」

 改札の方からスーツを着たサラリーマンが、カバン片手に駆け寄ってきた。

 近づいて来たまだ若い男の顔を見て、真帆櫓さんは、少しだけ呆れたような表情をした。

「どうしたんですか? 山中さん」

「それはこっちの台詞ですよ。方向が同じだから途中までご一緒しますって言ったじゃないですか! いきなり消えないでくださいよ!」

 焦っていたのか知らないが、額際に汗が滴り落ちていた。この蒸し暑い最中、ここまで走って来たようだ。

「大丈夫ですよ。それより、山中さんの方こそ、次も参加するんじゃなかったんですか」

 淡々とした真帆櫓さんからの言葉に、若い男は少しだけ白けたような顔をした。

保内(ほない)さん、大分、飲んでたでしょう? 放っておける訳ないじゃないですか」

 そう言うと、男は不意に真帆櫓さんがしがみついている俺の腕へ視線を落とした。

 そうして、少し困惑したような苦笑いを浮かべた。

「ほら、また、そうやって知らない人に絡んで。悪いね、キミたち。迷惑掛けたね。この人は俺が送ってくから」

 ――――――はぁ?

 俺は、思ってもみない展開に吃驚だ。

 なんなの、この人。真帆櫓さんの前の彼氏とか? いや、それにしては少し余所余所しいか。

 というか、それよりも。

 俺的に気になったのは。

「真帆櫓さん、酒癖悪いんだ?」

 ―――――――酔っ払って、見ず知らずの人に絡む位には?

 それが他人に知られてるってどうよ。

 思わず、すぐ下にある顔を横目に見れば、真帆櫓さんは、些かバツが悪そうに視線を逸らした。

 どうやら自覚はあるらしい。

「……昔の話よ」

「へぇ? 昔の話」

 ぎゅっと俺の腕を掴む手に力が入る。

「で、どうすんの?」

 ―――――――この人。

 目の前の若い男は、俺が真帆櫓さんの知り合いだとは思ってもみなかったようだ。

 なんだか、面倒臭そうな気がする。

「あれ、キミは保内さんの知り合いなのか?」

 俺が、その問いに何らかのリアクションを返す前に、

「山中さん、私のことはお気になさらないでください」

 真帆櫓さんが、すかさず予防線らしきものを張った。


 そうやって話す分には、真帆櫓さんは、一見、普通に見えた。知らない人が見たら素面に見えるくらいには。

 でも、知ってる人間からしたら危なっかしく見えるだろうことは直ぐに想像が付いた。

 ってことは、この人の目から見ても相当なんだろう。こうやって心配をするくらいには。

 そう思って、俺はこちらに駆けて来た、まだ若い会社員の男の顔を盗み見た。

 二十代後半だろうか。細身のチャコールグレーのスーツが様になっている人当たりのよさそうな爽やか系だ。

 二人の会話から察するに同僚ってとこなんだろう。それに少なくともこの人は、真帆櫓さんに好意を持っている。しかも、わざわざ追って来て酔っ払ったところを送ろうだなんて、下心ありまくりだろうが。

 ―――――――気に食わない。

 けど、俺が無駄に口を挟む訳にはいかないから、取り敢えず、黒子みたいに気配を極力消して(と言ってもかなり無理があるだろうけど)、真帆櫓さんの出方を待つことにした。


「大丈夫ですよ。普通に帰れますから。山中さんのほうこそ、あっちで待たせてるんじゃないんですか?」

 真帆櫓さんは俺に身体を預けながらも、にこやかにきっぱりと否定の言葉を紡いだ。

 言い方はやんわりとしているが、突き離して距離を置いた感じだ。

 だが、相手は全く怯まなかった。

「折角だから送りますよ。僕も今日はここで帰ろうと思ってますんで」

 そのサラリーマンは、笑みを浮かべながらネクタイに手を掛けて襟元を緩めた。

 俺とその後ろにいる三人の高校生の姿は視界に入っているだろうに、綺麗に存在ごと無視されている感じだ。多分、その人にとっては部外者に見えるからだろう。

 ―――――――なんか、ムカつく。

 真帆櫓さんは、少し困ったように微笑んだ。

 そして、ちらりと横目で俺の方を窺う。無意識か意識的かは分からないが、俺の腕を掴む手に少し力が入った。

 俺は、それを真帆櫓さんからの救難信号だと受け取った。

 俺は凭れかかる身体に腕を回して本格的に支えると、顔をその会社員の方へ向けた。

 目線は大体同じ位だ。

「あの、すいませんけど、この人は俺がちゃんと送っていきますんで」

 なるべく丁寧に俺的には最大限の敬意を払って間に割り込めば、その人は、表面上、人当たりの良さそうな微笑みを浮かべながらも、怪訝そうに首を傾げた。

「そう言う訳にはいかないだろう」

 ああ。いるよな。こう笑顔を浮かべながら、ずけずけと言いたいことを言うタイプ。

 この人もアイツと同類か?

 俺は不意に一つ上の学年の葛城先輩のことを思い出しては、内心、顔を顰めた。ああいうタイプは、俺が一番苦手とするからだ。

 だけど、俺は極力感情を表に出さないように努めた。まぁ、普段から無愛想で何考えてるんだか分かんないとは言われるけど、こういう時にポーカーフェイスも役には立つってものだ。

「家が近所なんです。この人の家は、【よく】知ってますから。序でですから、ご心配なく」

 取り敢えず、強調できる部分は、強調しておくに限る。

「ホント?」

 その会社員は、若干、疑わしそうな視線を俺に投げた。

「そういうことなので、ここで失礼しますね」

 だが、向こうが口を挟む前に、真帆櫓さんが笑顔でバッサリと切り捨てた。

「お疲れさまでした。山中さんもお気を付けて」

 そして、軽く会釈をして俺の腕を引っ張るとプラットホームに向かうべく身体を反転させた。

 さっきまでの覚束ない足取りは何処に行ったのか、急にシャキっとなって、階段を上り始めたものだから、少し驚く。

 俺は半ば引き摺られるようにそれに続いた。そして去り際、呆気に取られた顔を晒している若い男を横目に見て、軽く頭を下げたのだった。




 プラットホームで、電車を待つ間、一部始終を見届けていた三人が、俺たちの方に合流して来た。

「何あれ、修羅場?」

「マジ? すっげぇもん見たな」

 ―――――――聞こえてるから。本人を前にそういうこと言うなよ。

 小声の積りなんだろうが、普段と余り変わらない音量で、そんなことを抜かした喜多見と高畑を思いっ切り睨み付けた。

 俺の信号を的確にキャッチした須藤が二人の頭を小突いた。

 須藤なりに気を使ったらしい。きっと真帆櫓さんの手前ってことなんだろう。俺一人の事だったら、絶対、そのままほっとくに違いないから。


「ごめんね、なんか、妙なことに巻き込んじゃって」

 俺の腕に掴まりながら、真帆櫓さんが苦笑を滲ませた。

「や、別に構わないけど。つうか、良かったよ、逆に」

「ん?」

 だって、そうだろう。俺が、このタイミングで現れなければ、べろべろに酔っ払った真帆櫓さんをあの男が送ったってことなんだろう? それは、絶対に頂けないだろう。

「真帆櫓さん、結構、足元フラフラだし、危なっかしいったらありゃしない」

「そう? 今日はそんなに飲まなかった筈なんだけどなぁ」

 そう言って笑った顔に俺は疑わしい視線を投げた。

「ふーん?」

「信じてないわね?」

「そりゃぁね」


 反対方向の電車の方が先に来て、須藤と喜多見の二人を見送った後、俺たち三人は時間差でやって来た車両に乗り込んだ。

 車内は適度に混み合っていた。

 ちょうど空いた席があったので、真帆櫓さんに座るように勧めたのだが、すぐだからと首を横に振って、俺たちは、最終的に反対側のドアの隅に寄り掛かった。

 真帆櫓さんは、俺に寄り掛かって窓の外を眺めていた。電車の振動に合わせて、身体が左右にぶれる。 それを最小限に抑える為に、俺はその体をしっかりと抱き込むように腰に腕を回した。

 さっきから高畑の奴が挙動不審だ。俺の前に立って吊革に掴まっているんだけど、ちらちらとこちらを見る。

「なに?」

 俺が低く尋ねれば、

「俺、邪魔してね?」

 ヒソヒソ声で告げられた言葉に、真帆櫓さんがこっちを振り返った。

「大丈夫よ」

 小さく微笑んで、身体の向きを変えた。

「ごめんなさいね。変に気を使わせちゃって」

「いや、別に、それは、いいんですけど」

 上目使いで小さな緩い吐息と共に吐き出された言葉に、高畑があからさまに目を泳がせた。

 普段よりも色っぽい真帆櫓さんの姿に、高畑も戸惑っているらしい。柄にもなく意外に純情な所がある奴には、どうやら難易度が高かったようだ。

 いや、俺だって、気持ちは分からなくはないけど。今だって必死に先走りそうな衝動をなけなしの理性で抑え込んでいる。

 それから、真帆櫓さんは俺に凭れかかったまま静かに目を閉じた。

「へーき? 気分悪い?」

 揺れが頭に響くんだろうかと思って心配して直ぐ下にある顔を覗き込めば、

「少し眠くなっちゃって」

 瞼を閉じたまま、緩く息を吐き出した。

 そう言えば、真帆櫓さんの特技は立ったままでも寝れることだった。

 俺は、真帆櫓さんを認識するに至った契機を、少し懐かしさを込めて思い出していた。

「いいよ。もうすぐだけど、それまで寝てて」

 俺は腰に回した手に力を入れると耳元で囁いた。そして、掠めるようなキスを米神の辺りにする。

「ありがと」

 すると真帆櫓さんは、満足そうに息を吐いて、収まりのいい場所を探すように身じろいだ。

 俺としては、さっきの若い男のことや真帆櫓さんの酒癖とかが気になったけど、取り敢えず、質問は後でもいいかと思った。

 今は、この右半身に掛かる重みを堪能することにした。

 ふと、突き刺さる視線に横を見れば、何とも言えない顔をして高畑がこちらを見ていた。そして、俺と目が合うと居心地が悪そうに身じろいだ。

 奴にしてみれば、俺が相当甘ったるい空気を出していることに違和感があったのだろう。

 だが、俺はそんなことは気にすることなく、口元に笑みを浮かべた。

 お前も、分かるよ。当事者になってみれば。

 恋をすれば人は幾らでも変わるのだ。賢くもなるし、愚かにもなる。新しく芽生える感情は、その全てが良いものづくしという訳にはいかないけれど、俺は、そんな発見を楽しいと感じていた。

 取り敢えず、大事な人を魔の手から救ったという達成感に、俺は小さくほくそ笑んだのであった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ