第五話 狂喜と驚喜の同化率 55.3%
水族館へデートに行った帰り道のお話です。少し短めですが、どうぞ。
「ねぇ、信くん。晩御飯、何がいい?」
それは、水族館からの帰り道のことだった。
道すがら不意に聞かれて、いきなりのことに大して考えもせずに、ぱっと頭に浮かんだ言葉を口にした。
「んー、マグロ?」
自分で言っといてなんだけど、それは、ちょっと、いや、かなりシュールな気がした。
案の定、隣で真帆櫓さんが吹き出したのが分かった。
360度のパノラマ。極力照明の抑えられた仄暗い室内。
ぐるりと周囲を円形状に透明なアクリル水槽に囲まれて、群れを成してもの凄いスピードで回遊する大きな鮪のギラギラと反射する太い胴体を思い出していた。
大勢のギャラリーがいるのに、その場所はひっそりとしていて、沈黙に満ちた不思議な空間だった。
修業僧が寺の本堂で瞑想をするような凪いだ気分とでも言えばいいだろうか。
静かに、本能のままに泳ぐ魚たち。
それらをぼんやりと目で追って。
ぐるぐるぐると止まることを知らない。永遠の動き。
停止は即ち死を意味するのだから。
青白い小さな世界に埋もれたようだった。海の底からそっと見上げるみたいに。
俺も真帆櫓さんも無言のまま、二人して身体をぴったりと寄せ合って。
そうして、長い間、動く魚の群れを飽きることなく眺めていた。
言葉はいらなかった。
空調が効いて室温が低めに保たれた館内。触れ合った場所からじわじわと熱が一定の温度に同化してゆく。
二人でいるのに、沈黙が心地よいことを初めて知った。
「随分ピンポイントね」
ぐるぐるぐる。物凄い速さで視界を横切る大きな魚たち。
隣を朗らかに歩く真帆櫓さんの頭の中にも、あの逞しい、焼け付くような白銀が描かれているのだろうか。
「いやさ、最近、魚、食ってなかったって思って」
「……………確かに、活きは良さそうだったけど」
隣から無意識に近い呟きが聞こえた。
そう言えば、マグロは熟成された方が旨いんだっけか。そんなことを思い出した。
「水槽の中に触発された? 鰺の群れとか?」
突然、閃いたように悪戯っぽい顔をこちらに向けた真帆櫓さんを、俺は半ば呆れたように流し見た。
「俺は、………そこまで、食い意地は張ってないつもりだけど?」
俺の中では、水槽の魚と食卓に上がる魚はどうしても結び付かなかった。
「あら? 違うの?」
それなのに真帆櫓さんは意外そうな顔をした。
「なに、真帆櫓さんは、水槽見ながら、あれは美味そうとか思ったわけ?」
俺はからかうように隣を見下ろした。
「擦る程度には?」
「うわぁ、ザ、ン、コ、ク」
態とらしく、含み笑いをすれば、
「キミがこのタイミングでそんなこと言うからでしょう? てっきりそうかと思ったのに」
恥ずかしそうに目を逸らした後、少し不服そうに口を尖らせる。
その仕草は、いつになく子供染みていた。
普段はツンと澄ました感じなのに偶に見せる少女みたいな仕草。そのギャップに俺はドキリとする。
それは、俺よりもずっと年上のこの人を堪らなく可愛いと感じる瞬間でもあった。
水槽の魚を食欲に結び付けたその思考回路は、何故か、俺のツボに嵌った。即物的な考え方に笑いが込上げて来た。
笑いのツボに入って、なおも肩を震わせる俺の背中を真帆櫓さんは無言のまま抓った。
そうやって、口に出すよりも意外に手が早いことも知った。
「イテッ!」
俺が少し大げさに声を上げれば、
「もう。お刺身が食べたいの? それともステーキみたいに火を通すやつ? それとも、ねぎま? カルパッチョ?」
少し拗ねたように睨み付けられて、これ以上、相手の機嫌を損ねたら不味いと思った俺は、慌てて緩んだ顔を取り繕った。
繋いでいた手を放して、隣にある腰に腕を回す。
そして、誤魔化すように柔らかな部分を撫でた。
「あれがいい。手巻きずし」
ちょっと子供っぽいかと思ったけど、俺は思い付いた声を上げた。
あれは楽しいだろう。自分が好きな具材を入れて。なによりも、準備にそんなに手間がかからないのがいいだろう。
キッチンに立って、真帆櫓さんがご飯の準備をする後ろ姿を見るのは、好きだけど、手伝うことがないかと思って周りをうろうろすると、苦笑をしながらも、邪魔になるからと追い出されてしまうのだ。
真帆櫓さんの家に遊びに行くようになって、度々、ご飯をご馳走になるようになった。
真帆櫓さんは、はっきり言って、料理上手だと思う。自炊は一人暮らしを初めてからするようになったらしくて、見よう見まねで、行き当たりばったりだなんて笑っているけど、俺の母さんの作るものと比べても遜色ない位だった。いや、和食に関しては、母さんよりも旨いかもしれない。
うちの母さんは意外に洋食系が多い。魚よりも肉って感じだ。
ひじきの和え物とか昆布の煮物とか、ゼンマイや蕗の煮物とか、真帆櫓さんの手料理で初めて美味しいと思ったおかずは結構ある。魚の煮付けや味噌漬けなんかも旨かった。真帆櫓さんは『田舎くさいでしょ』なんて笑っていたけど、俺にしてみれば、なんか新鮮だった。
勿論、俺の目的は、それだけではない訳で。あわよくばと、より密な身体的接触を狙っている訳だけれども。
――――――ってことも、きっと真帆櫓さんには筒抜けだ。
「了解。じゃあ、帰りにスーパーに寄ってかないとね。新鮮なネタがあるといいんだけど」
きっと真帆櫓さんの中では、これからの算段が始まっているのだろう。
鼻歌が聞こえてきそうな位、上機嫌な空気が腰に回した腕を通して伝わってきた。
それから、帰りに駅前のスーパーに寄った。
今日は土曜日で。俺の方は、午前中に学校があるから、一旦、家に帰って、午後から水族館へ出かけたのだ。
久しぶりのデートらしいデートだ。
ペンギンが見たいと真帆櫓さんが言ったのが、多分、きっかけだった。
ペンギンの場所には、ふわふわした茶色の毛の子供がいて、立ったまま寝ているのか、微動だにしない母親の傍にとことこと歩み寄る様が可愛らしくて、真帆櫓さんは、いたく気に入ったようだった。
中には行き倒れみたいに腹ばいで寝そべっているのもいて、俺的にはかなりウケた。
だってあり得ないカッコして寝てんだから。足をピンと伸ばしてさ。なんかマンガみたいだった。
ガラス越しにそれを見た真帆櫓さんも大笑い。二人して、腹が捩れるんじゃないかってくらい笑った。 あ、でも館内は静かだったから極力音量を抑えてだ。噛み殺すみたいに。
「触ったらモフモフしてるのかな」
ガラスにへばり付きながら、中にいるペンギンに熱い眼差しを注いでいる真帆櫓さんの姿は、滅多に見られないレアショットだけど、俺は内心、面白くない。
「まぁ、柔らかそうではあるかも。でも、魚臭いんじゃねぇ?」
思わず嫉妬混じりにそんな感想を吐けば、俺の言葉を想像したのか、真帆櫓さんは複雑な顔をした。
それからは、俺ははしゃぎながら、目を爛々と輝かせる真帆櫓さんの横顔ばかり追っていたのだ。
今日はそのまま真帆櫓さん家に泊まる予定だった。
ちょくちょく遊びには来ていたけれど、付き合い初めて約一月半、ようやく許されたことだった。
真帆櫓さんは、俺の両親の手前、外泊を良しとしなかった。互いの家は目と鼻の先ってこともあるけれど、俺がまだ高校生で、未成年だからだ。その辺りの線引きは、真帆櫓さんの中では譲れないものらしく、かなり厳しかった。
「そう言えば、ご両親には何て言って来たの?」
スーパーに入って、当たり前のように籠を持った手からそれを奪って、野菜コーナーで大葉とかかいわれ大根とかを見繕いながら、真帆櫓さんがこっちを見た。
「母さんには、彼女のとこに遊びに行くって言ってきた。父さんには直接話してはないけど、多分、母さんから話が行ってると思う」
正直に告げれば、真帆櫓さんは目を見開いて、あからさまに驚いた顔をした。
―――――あれ、んな、驚くことだった?
「お母さんは………なんて?」
「んー、迷惑を掛けないようにしなさいって。あとは真帆櫓さんによろしく? それから、今度、紹介しろって言われた」
「……………キミの家は、かなりオープンなのね」
「あ? そう?」
そうなんだろうか。
彼女がいるとかいないとかの話は普通にする。父さんともだ。母さんなんて結構根掘り葉掘り聞いてくるし。父さんなんか、自分の学生時代の話しをして、学生らしい清く正しい付き合い方なんかを俺に説く位だ。それから、女心の複雑さとか、これまで、父さんがした失敗談とか、成功談とか。あ、もちろん、その辺は母さんには内緒だ。
そういう俺の家族関係を暴露すれば、真帆櫓さんは俄かには信じられなかったようだ。
「普通はそこまで赤裸々ではないかもしれないわね。キミのところは普段から仲がいいのね」
確かに、言われてみれば、そうかもしれない。
「真帆櫓さんとこは違うんだ?」
「ええ。家に男を泊めるなんて聞いたら、きっと大変なことになると思う。良くも悪くも古風というか。かなり保守的な人たちだから」
――――――あの人たちの中では、結婚前に同棲なんて有り得ない。だから、キミが泊りに来ることは秘密なの。
そう言って、苦笑気味に笑った。
幾ら時代が変わったと言っても、人の意識がそう簡単に変わるものではなくて。そういう教えの中で育ってきた人もいるってことだ。
「ま、年齢と性別的な違いもあるでしょうけどね」
真帆櫓さんはそこで自嘲気味な笑みをその口元に刷いた。
真帆櫓さんが女性だからとか、それなりの年齢だからとか。きっとそういうことを言いたい訳なんだろうけど。
「ふーん」
俺はこんな時に気の効いた言葉なんて言えるわけもなく、曖昧な合槌を打つしかできなかった。
そう言えば、まだ真帆櫓さんと家族の話は余りしたことがないなんて思った。
知らないことはまだまだ沢山ある。
「でも、まぁ、親の許可は取ってあるから」
だから心配はしなくていい。
真帆櫓さん的にはネックだったことは一応、クリア出来てると思う。
「なら、大丈夫かしらね。キミのご両親には申し訳ないとは思うけど………」
「なにそれ」
情けない顔をして苦笑いみたいな微笑みを浮かべた真帆櫓さんに俺はムッとした。
そんな風に考える必要なんてないのに。そう思ってしまうのは、やっぱり俺がガキだからなんだろうか。
「だって、キミのご両親だって、まさか、付き合ってる相手がこんなに年上だなんて思わないんじゃないの?」
真帆櫓さんはやっぱり年が離れていることを気にしているらしい。
「ああ、それは平気。真帆櫓さんが社会人だってことは言ってあるし。つーか、さぁ。そんなに気になる?」
俺は繋いだ手に力を入れるとグイと引き寄せた。
たたらを踏んで倒れ込んだ華奢で柔らかい身体を片手できつく抱き締めた。
「信くん! ここ、スーパーだから」
途端に焦った顔をした真帆櫓さんをじっと見下ろす。
良識ある大人の真帆櫓さんには、公共の場所でこんなことをすること自体、言語道断なんだろう。
俺だって人前でベタベタしようなんて思わないけど。
でも、俺の中に渦巻き出したもやもやしたものをどうにかしたくて。
それをこうやって直ぐに行動に出してしまうところが、やっぱりガキなのかもしれないなんて頭の隅っこの方で思ったりもした。
「知ってる」
「ほら、先に買い物しちゃいましょう、ね?」
野菜コーナーの端に立って、至近距離で見つめ合う俺たちに他の客が不審気な視線を投げる。
店内は、ちょうど夕食の買い物をしにやって来る客でそれなりに賑わい始めていた。
子供が冷やかすように声を上げて走り抜けた。
「信くん?」
俺の様子を心配そうに見上げる茶色の瞳。
その優しさに付け込んでしまう自分はきっとズルイのかも知れない。
「じゃあ、後でお願い聞いて」
一時解放の代わりに、条件を提示する。
真帆櫓さん的には、全く、飲む必要のない俺の一方的な条件な訳だけど。
「お願い? また無理難題じゃないでしょうねぇ」
解れ始めた空気に、妥協点を探るのは、いつも真帆櫓さんの方だと気が付いているだろうか。
「いや?」
「んもう」
即答した俺にちょっと胡乱気な眼差しを送りながら、縛めを解かれた真帆櫓さんは、鮮魚コーナーへ向かうべく踵を返した。
否定の言葉が出なかったことに俺は内心ほくそ笑んで、馬の尻尾のように揺れる長い髪の先を眺めた。
「ほら、信くん!」
そして、手招きする。
少し呆れたような、それでいて優しい微笑みを浮かべて。
対する俺は、尻尾を振る犬みたいに嬉々として、その後を追ったのだった。
葛西臨海公園の水族館をモチーフにしました。マグロが泳ぐ水槽は圧巻です。