第四話 信号と符牒の体現率 42.1%
テストに端を発する古典談義、少し長めです。
「おい、坂井」
昼飯の後、午後からは移動教室の授業の為、物理室に向かって廊下を歩いていた俺を呼び止める声がした。
足を止めて振り返えれば、そこにいたのは担任の教師だった。出席簿の黒い古めかしいファイルを手に、肩のところで弄ぶようにトントンと拍子をとっている。
「何ですか?」
担任の蓮見は、意味深な悪どい感のある笑みを浮かべると太い指を折り曲げて、ちょいちょいと俺を招いた。
この担任は、大体にして物臭な性質で、よくテレビドラマでやってるような昨今流行りの熱血教師とは程遠い、寧ろ、その対極のところにいるような男だった。歳は、詳しくは知らないが多分、三十代。因みに独身。世間の晩婚化の流れをもろに体現しているというのが専らの噂だ。
担当教科は国語。現代文に古文、漢文。正直に言うと、俺が余り得意としない分野だ。
身なりこそは、それなりにきちんとはしているが、たまに不精髭が生えてたりする。ニコチン中毒のヘビースモーカーで、薄汚れた白衣に銜えタバコがトレードマークになってる。近寄ると染みついた煙草のほろ苦い匂いがした。昨今の禁煙ブームで肩身は随分と狭そうだ。
だが、そんないい加減で軽そうな空気を醸し出している割に、その根っこのところは意外に真面目で、生徒のことをよく見ている――――というのは、俺の個人的な意見だ。
ま、早い話が、俺は、この担任が嫌いではなかった。
今日は、午前中に古典の授業があって、この間やった実力テストの結果が返って来たのだ。現代文はそこそこいったけど、古文と漢文が壊滅的で、足を引っ張っている感じだった。
蓮見のことだ。俺を呼び止めた理由として、そのテストのことを言われるのかもしれないっていう予感はあった。
「お前なぁ、もうちょっと古典頑張れよ」
予感的中。やっぱり、そう来たか。
「…………はぁ」
分かってはいるけど。どうにもならないものってあるだろう。
俺にとっては、それが古典だった。あれって本当に同じ日本語か? 寧ろ、外国語っていったほうがまだましだ。
「現代文はともかく、他の教科は割かし、いい線いってるだろ。こんなとこで足引っ張ってんの、勿体ないぞ」
――――御説はごもっともです。
担任のいつになく教師らしい言葉に、俺は素直に頷くしかない。
「でも、古文、漢文って、ホント苦手なんですよね。どこから手を付けたらいいか分かんなくて、後回しにしてる内に時間がなくなっちゃう感じで」
これまでのテスト勉強の傾向と対策を赤裸々に打ち明ければ、蓮見は途端に苦い顔をした。
「お前なぁ。授業には付いてこれてんだろ。復習しろ、復習」
「はぁ」
――――――うへぇ。
なんとなく、覇気のない答えを返せば、蓮見は、不意に声の色を変えて、トーンを落とした。
「お前、『例の彼女』に教えてもらえばいいだろう?」
「は…い?」
「彼女、古典に造詣が深いんだろ。船田の奴が言ってたぞ?」
突然のことに俺は、意表を突かれて固まった。
「え? 何で船田先生がそんなこと知ってんですか?」
船田というのは、蓮見と同じ国語教師で、担当は下の一年だから、俺が直接、教わる機会もなかった。面識はあるけれども、別段そんなプライベートなことを話すような相手ではない。
何がどうなって、そんな話が出たんだか。真帆櫓さんが、古典が得意だって?
訳が分からなくて、目を白黒させた俺に、蓮見が何やら含み笑いをする。
「この間の体育祭ん時に、話しをしたって言ってたぞ。本部のテントの所で、中々粋な謎掛けをしたらしいじやないか。『香炉峯の雪』のくだりを使って。船田のやつ、えらく感動したなんて言ってたぞ」
――――――体育祭。
その言葉に、俺には思い当たる節があった。
そう言えば、真帆櫓さんがあのテントに来た時に、船田先生に連れられて来たんだっけ。その時にそんな話しをしたのか。
いずれにしても、俺にとっては寝耳に水の出来事だった。
面食らっている俺に対して、蓮見が尚も追撃を打ってきた。
「あ? なんだ? お前は知らないのか?」
痛いところを突かれた。
「ああ、まぁ、………はい」
悔しさ半分、もやもやとしたものを抱えながら曖昧に濁せば、
「なら、聞いてみればいいだろ。序でに、テスト見せて、古典のコツでも教えてもらえ」
教科担当の教師、しかも担任とは思えない無責任な発言だ。
「…はぁ」
本当に真帆櫓さんが、古典が得意で、教えてもらえるっていうのは、俺にとっては、かなり美味しい話しではあるが、あの壊滅的なテストを見せなければならないかと思うと、二の足を踏んでしまう。
あんなのを見せて、呆れられたら悲し過ぎるだろう。なけなしのプライドを取るか正直に告げて、真帆櫓さんに俺だけの先生になってもらう方を取るか。後者はかなり魅力的だが………等と、俺が一人、悶々と心の天秤と戦っていると、
「クッソ、お前の彼女、美人なんだろ。しかも、社会人なんだって? 船田とどっこいか、も少し上らしいじゃねぇか。こんなガキにゃあ勿体ねぇだろうがよ。どうなってんだ、全く」
本音半分、やっかみ半分。苦々しい顔をした蓮見のぼやきが聞こえてきた。
その言葉に、俺は教師の観察眼とその情報網を甘く見ていたことを理解した。
「先生、もしかして僻んでんの? いい大人が」
意趣返しとばかりにからかうように口にすれば、蓮見はあからさまに眉を潜めた。
「なんだと! 馬鹿なこと言ってんじゃねぇぞ。それよりも、お前、テストの話だ。ちゃんと復習しとけよ」
ばつが悪かったのか、途端に話を戻されてしまった。
「はいはい。先生のありがたーいアドバイス通り、今度、彼女に聞いてみますよ」
「学生の本文は勉強だ。あんまし女に現つを抜かしてんなよ?」
チクリとした嫌みを適当に流す。
「分かってますよ」
そんなことを話して、蓮見は気が済んだのか、黒い出席簿で俺の腰の辺りを軽く叩いてから廊下の向こうへと踵を返したのだった。
俺は物理室へ行く傍ら、後で国語科準備室に寄って、船田先生に真帆櫓さんとの経緯を確かめておこうと思った。序でに、余り滅多なことを吹聴しないように釘を刺しておかなければ。
俺の預かり知らないところで、自分のことが噂になってんのはどうにも癪だった。
放課後、俺は、国語科準備室に寄った。
うちの学校には職員室というものが存在しない。その代わり、教科毎に準備室があって、そこに教師たちは机を並べているのだ。生徒たちの教室からは、渡り廊下で繋がったところに教務課棟があって、そこには教科毎の教師たちの部屋が並んでいた。国語科準備室は三階、渡り廊下から直ぐの場所にあった。
ドアをノックして、中に入れば、教師たちの机が並んだ雑然とした空間が広がっている。
その中で、探していた船田先生の机は直ぐに見つかったが、当の本人の姿が無く、もぬけの殻だった。
近くにいた先生に聞いたら、まだここには戻ってきてはいないようで、仕方がないので、船田先生が担任をしている一年のクラスの方に行ってみることにした。行き違いになる可能性も考えたが、別に今日中にどうにかしたいということでもなかったので、帰る途中に少し遠回りをする感じだった。
一年の教室は俺たち二年とは別の棟にあって、同じ敷地内とはいえ、普段、行き来はしない。
ほんの数ヶ月前は、こっちに通っていた訳だから、少し懐かしく思わないでもない。
船田先生は一年七組の担任だったか。七組は二階の隅。
棟が離れている所為で、普段、他学年との交流は殆どないから、違う学年である俺が、この場所をふらついているのは、意外に目立つようで、ホームルームを終えてる教室からは、もの問いたげな視線が向けられていた。それを軽く流して行く。
七組を覗けば、案の定、生徒に捕まってる船田先生がいた。
どうも雑談してるみたいだ。
船田先生は、ここにいる教師の中でもかなり若い方で、その優しいのんびりとした性格と相まってか、生徒は親近感を抱き易く、相談を受けたり気軽に話をしたりと人気があるようだった。
開いているドアをノックして、
「船田先生、ちょっといいですか?」
取り敢えず声を掛ければ、
「あれ、坂井じゃないか。こんなところでどうした?」
のほほんとした空気に驚きを滲ませた穏和な顔が振り返った。
「先生に聞きたいことがあるんですけど…………」
そこで言葉を濁して、ちょっとあからさまかと思ったけど、周囲に目配せをする。
突然、現れた部外者に対して興味津々の視線が突き刺さるのを視界の端で捕えて、船田先生の方を伺うように見た。
先生は人払いをして欲しいという俺の信号を素早く感じ取ったようで、分かったという風に一つ頷くと、残っていた生徒たちを軽くあしらって廊下に出てきた。
「すみません。いきなりお邪魔して」
「いや、別に構わないよ」
そのまま人気の無い廊下の隅に移動して。
そこに二人で立って、取り敢えず、そう謝ってから俺は声を潜めて、自分の本題を切り出した。
「さっき、担任の蓮見先生から、聞いたんですけど…………」
そして、俺は船田先生と真帆櫓さんの会話の中身を知ったのだった。
体育祭当日、本部のテントには四方に簾が下ろされていて、それを開けてもらおうとして掛けられた声が、【枕草子】のとある一段を真似たものだったのだとか。簾を御簾に見立てた中々に古典教師の心を擽る遣り取りであったらしい。先生は始め、生徒が謎かけをしてきたのかと思ったらしいのだが、簾を上げた先にいたのは、一般の若い女性だったから驚いたということだった。
「…………で、先生はその人が、古典に詳しいって思ったんですか」
「そうだね。あんなところで普通はすぐに出てこないからね。聞いてみて御覧よ。あの人は絶対に古典好きだね。何せ同志の匂いがする。僕の感がそう言ってるんだから間違いない」
そう言って、少し興奮気味ににこやかな笑みを浮かべた。
俺にとっては、その根拠の理由がいまいち理解出来なかったが、拳を握り締めて力説する船田先生の勢いに、内心、口の端を引きつらせながらも、
「そう…………ですか」
曖昧な相槌を打っておくに留めたのだった。
そして、最後にあんまり吹聴しないように口止めをした。
「あはは。そうだね。ごめん、ごめん。蓮見先生とは席が隣だからさ。ちょうど坂井のテストを採点してたところで蓮見先生のぼやきが聞こえて来てね。それで、坂井と言えばって、この間の体育祭のことを思い出したから、ついね」
――――――つい、ですか。
だが、まぁ、これで船田先生と蓮見先生の間だけの遣り取りであったことが分かって、少し安堵した。
船田先生はニコニコとしながら、こちらをみた。そして、相変わらず人の良さが表れている柔和な顔で全く悪びれることなく、こう言い放った。
「でも、坂井、古典が苦手なら、彼女に克服のコツでも聞いてごらんよ」
「てか、それ、蓮見先生にも言われたんですけど。国語教師なのに、丸投げじゃないですか」
―――――教師がそんなんでいいのか?
思わず本音を漏らせば、
「あはは。でもさ、その方が坂井だって素直に耳を傾けるんじゃないのか?」
―――――教師が頭ごなしに勉強しろっていうよりも。
その先生なりの論理に俺は、成程と思った。
確かに、担任の蓮見の言うことよりも、俺だったら確実に真帆櫓さんの言葉を取るだろう。どちらがすんなり頭に入るかって言えば、それは明らかだ。
「……………確かに」
「そういうこと」
思わず漏れた俺の本音に、船田先生は得意気に微笑んだのだった。
要するに、俺の負けだった。
「―――――って、ことがあったんだ」
そんなことがあってから数日後、俺はちゃっかり、真帆櫓さんの家にいた。
「なるほどねぇ」
俺の話に一通りの相槌を打った後、真帆櫓さんは徐にテーブルの上で、俺に向かって手を差し出した。
「なに?」
俺はその手をじっと見下ろした。
「持ってきているんでしょう? キミが苦手にしている古典のテスト」
―――――見せてご覧なさい。
やっぱりそう来るよな。自分で話しておいてなんだけど。
未だ最後の一線を死守出来ないかと、悪あがきをして、ちらりと真帆櫓さんを窺う。だが、そこにあるのは、好奇に輝く茶色の瞳だった。
目が合った真帆櫓さんは、にっこりと微笑んだ。
それは、俺が無条件降伏をしてしまう微笑みの一つで。
俺は、渋々、鞄の中から四つ折りにした恥辱の結果を取り出して見せた。
「真帆櫓さん、古典、得意なの?」
恐々と相手の反応を窺いながらも、船田先生の感を確かめてみるべく訊いてみた。
「うーん、得意と言うよりも好きではあったわね。でも、細かいことは大分忘れちゃってるから、大丈夫かしら? 辞書を引きながらになるわよ?」
そう言って、のんびりと笑った。
真帆櫓さんは謙遜しているけど、きっと『好きこそものの上手なれ』ってやつなんだろう。
俺は序でに、勉強のコツを聞いてみることにした。
真帆櫓さんは少し考えた後、俺が思いもつかないようなことを言った。
「そうねぇ。まず原文を読む為には、その背景を知っておく事が大事かしら。よくある古典作品がどういう時代背景にあるものなのか。どういう経緯で書かれたものなのか。どんなことが書かれているのか。大まかな粗筋もね。大体の話の流れとその背景が分かっていれば、例えば原文でどうしても単語の意味が分からなくても、類推が出来るでしょう? こういう話だから、こういう感じだろうって。要するに周辺の情報をどれだけ知っているかというのが、意外に役に立つの。そうすると古典じゃなくて、歴史みたいな括りになるけれど。問題を解く上でもヒントは多い方がいいからね」
それは、俺が考えてもみないことだった。
それから、真帆櫓さんは言葉を継いだ。
「今では古典作品は大体現代語訳されたものがあるでしょう? 小説の類も豊富にあるから。そういうのを最初に読んでみるのがいいかしらね」
そう言ってから、相変わらず複雑な顔をしたままの俺を見てか、からかうような笑みを浮かべた。
「あんまり興味がないかしら。少しでも面白いって思えると意外に取りかかりやすいんだけど」
「古典の話って、詰まり、【枕草子】とか、【源氏物語】………とか?」
教科書で必ずやる分野を思い浮かべる。平安時代の貴族の話だろ。あんなのどこが面白いんだ?
拒否反応が、どうやら顔にくっきりと出ていたらしい。向かいに座っている真帆櫓さんが苦笑をしているのが分かったけど、こればかりはどうすることもできなくて、俺はテーブルの上に頬杖を突いたのだった。
真帆櫓さんは徐に立ち上がると、俺の脇に来て、そこの壁一面にある本棚の前に立った。
初めて真帆櫓さんの部屋に上がった時も感じた事だけれど、このリビングの本棚は、俺にしてみれば圧巻だった。壁の一面にはびっしりと本が詰まっている。ジャンルは実に様々だ。シンプルな飾り気のない部屋だけれども、その中でもその場所は異色を放っていた。それだけでこの部屋の主が、かなりの読書家であることが見て取れた。
「なに探してんの?」
何かを探すように床に膝を着いた真帆櫓さんが屈みこんだ。
真帆櫓さんは今日、少し細めのストレートのジーンズを履いていて、股上が浅い所為か、そうやって屈むと腰の括れた部分の白い肌が、カットソーの合間から覗いた。残念ながら下着までは見えない。見えそうで見えない。中々に悩ましい領域だ。
テーブルに頬杖を突いてその様子を横目に見ていた俺は、のっそりと身体を起こすと、白い肌がチラチラとする華奢な背中に後ろから抱きついた。
「真帆櫓さん?」
真帆櫓さんは一つのことに集中すると他への注意が散漫になるタイプだ。それをいいことに俺は、甘い匂いのする身体に腕を回した。
「ああ、あったこれこれ」
そう言って真帆櫓さんが取り出したのは、何冊かの本だった。
「何それ?」
その内の一冊、真帆櫓さんが手に取ったのはフルカラーの写真がふんだんに使われた中国詩、要するに漢文の図説みたいな本だった。表紙には大きく【李白】と書かれてある。
李白、李白………どっかで聞いたことがある。どこだったっけ?
普段使わない部分の記憶を思い出すように、細い首筋に顔を埋める。
「ええと、たしかこの辺だったんだけど………」
何かを探すようにページを繰っていた手が、とある箇所で止まった。
「こら」
身体の前で動き出した俺の手を上から掴んで、真帆櫓さんが振り返った。
鼻先に柔らかい頬が触れた。
「信くん、ここ」
真帆櫓さんの細い指先が、俺の鼻をキュッと摘んで意識を前に戻した。
目の前に開かれているページには、小さな帆かけ舟を写した何処かの大きな湖か河みたいな場所の写真の上に白文から読み下した漢詩が載っていた。タイトルには大きく【将進酒】とある。
その文面を見て、俺はあっと思った。なぜなら、それはテストの漢文の部分で使われていたものと同じ内容だったからだ。
「懐かしいわね。私が高校生の時もこの詩が教科書に載っていて、授業でもやったけど」
そう言ってから、何かを思い出すように小さく笑った。
「でもこの内容って、酔っ払い親父の戯言みたいなものなのよね。『おら酒もってこい!』みたいな。漢字だけ見ると随分固いけど」
あれ、そんな話だったっけ?
俺にしてみればどこか高尚で堅苦しく、取りつき難い筈の漢詩が、途端に下世話でその辺に転がっているようなよくある日常のレベルにまで落ちてきた。その落差に一人唖然とする。
「んな………身も蓋もない」
目から鱗が落ちた気分で呟けば、真帆櫓さんは可笑しそうに肩を揺らした。その振動がすぐ後ろに張り付く俺にまで伝わって来る。
ちらりと肩越しに背中に貼り着いたままの俺の顔を横目で見て、真帆櫓さんは悪戯っぽく笑った。
「あら、そんなものよ。だって時代は異なるけれど同じ人間が書いたものじゃない。意外にこういう下世話なものってインパクトがあって面白いわよね。あ、勿論、中にはこう情景が浮かぶような綺麗なものもあるのよ。どれも、ちょっと表現は大げさだったりするけどね」
そう言って、再びページを繰ると、今度は真帆櫓さんがお気に入りだという詩の部分を開いて見せた。 そして、そっとその漢文を読み下した。
俺に分かったのは、真帆櫓さんの朗読の声が意外に耳に心地よいという事で、その詩の内容も、真帆櫓さんが綺麗だと力説する情景もいまいち頭の中に入ってこなかった。
そんな調子の俺を見て、真帆櫓さんは、苦笑いを浮かべる。
「まぁ、私の好みは置いておいて。こう教科書でただ白文を追うよりも、こういうものを見てみるっていうのも一つの手なの。視覚から入ったり、零れ話的な横道から入ったりすると、意外に面白いものが見つかるっていう例かしらね」
そう結論付けるとふと思い出したように声を上げた。
「キミのところの漢文の先生って、中国語、やってたりする?」
不意に変わった話の流れに俺は目を白黒させた。
「へ? 中国語?」
そして、首を傾げた。
「さあ、どうだろ。聞いたことないかも」
担任の顔と中国語。それはとても掛け離れているように思えて仕方がなかった。
「そう。じゃぁ今度、聞いてみたら?」
「それが何なの?」
「ほら、よく漢詩で韻を踏むっていうのがあるじゃない。形式として」
「ああ。そう言えばある」
俺は授業の中での言葉を思い出していた。
「そう。元々、漢詩は中国の詩だから。当たり前だけれど中国語で発音されるものじゃない? だから、中国語で読んでいるものを聞かないと、日本人には、それが韻を踏んでいるかどうかなんてわかりにくいの。だから、もし、先生が、中国語が出来て、こういった授業で使われる漢文の部分を読んでもらえれば、【韻を踏む】っていう概念も耳から入ってすんなり納得できると思ったんだけどね」
「そういうことか」
言われてみれば、そうだ。単純な事なんだけれど、なまじっか日本語として意味が捉えられてしまうから、大元の大前提を忘れそうになってしまうのだ。
「でも、昔の日本人も凄いわよね。こうして、まっさらな漢字だけが並んだ地の文をなんとかして読めるようにって読み下すことを編み出したんだから」
それがレ点や上下点や一、二、三などの番号になっている訳だ。涙ぐましい血と汗滲む努力の結晶だろう。
昔の人の偉業を称えつつ、真帆櫓さんは、それからまた話を変えた。
「それじゃぁ、漢文はこれでいいとして。次は、古文の方ね」
そして、取り出したのは、また別の文庫本だった。
「教科書だとやっぱり【源氏物語】をやってるの?」
「あ、あと【枕草子】もやった」
「他は?」
「あ~と。教科書見てみないと分かんねぇ」
「そう。伊勢物語、方丈記、平家物語、東鏡、蜻蛉日記、土佐日記、堤中納言物語、宇治拾遺物語……等々、挙げればきりがないものね。じゃぁ、まずテストの方からにしようか。ほら、信くん。テーブルの方に戻って」
前に回った腕を解く様に促されて、俺は渋々と、拘束を解いた。
そして、大人しく、真帆櫓さんの斜交いに腰を下ろした。
「それにしても、このテスト面白いところを突いてくるわね」
真帆櫓さんは感じ入ったようにテストの古文の部分を指で差した。
「これは何から出題されてるか、分かる?」
「ああとなんだっけ? なんとか物語」
答えの解説の時に蓮見が言ってた筈なんだけど、俺はすっかり忘れていた。ノートには書いた記憶があるが、肝心の中身を覚えていなかった。
まるっきり覚束ない俺の答えに真帆櫓さんは少々呆れ顔。
ううう。面目ない。でも興味がないんだから仕方がない。
「【雨月物語】、作者は上田秋成。江戸時代中期の人よ。中々に渋いチョイスじゃない」
そして、テーブルの上には、【雨月物語】と題された文庫本が置かれていた。
真帆櫓さんはそれを手に取るとページを捲って、該当箇所を開くと俺にその場所に目を通すように勧めた。
「この部分は、この箇所から抜き出したものなの。【雨月物語】は早い話が怪奇・怪談話で。他のスタンダードとされているものとは、かなり趣が違うから」
生徒が少しでも古典に興味を持つようにって先生たちも趣向を凝らしたのかしらね。
そう言って、微笑んだ。
それから暫く、俺は真帆櫓さんを臨時教師に、テストの復習という名目で苦手な古文、漢文と格闘したのだった。
分かったことは、船田先生の感が外れていなかったこと。単に古文といっても幅広く、中には俺が興味を引いた話もあったこと。そして何よりも、真帆櫓さんがそういった分野が好きで、かなり詳しいということ。収穫は、その三つだった。
途中、休憩を入れて。
少し甘めでミルクたっぷりのカフェ・オレの入ったマグを手に、俺は、フル回転させた脳みそを休める為に、ぐったりとソファに凭れかかった。
古文、漢文をこんなに勉強するのは、初めてのことだった。なんだか、蓮見と船田、両教師陣にしてやられた気がしないでもない。真帆櫓さんが教師代わりになった途端、嬉々として机に向かう俺も俺だけど。
でも確かに、古典モノが好きだという真帆櫓さんのコツってのは目から鱗だった。要するに周辺から攻めていく。それだけでもかなりの収穫だった。
真帆櫓さんは興が乗ったのか、休憩の合間中も、かなり饒舌に自分の好きな分野の話をしていた。
そして話は、必然的に古典で大々的に取り上げられる必須分野になった。
「個人的には、【源氏物語】よりも、【枕草子】の方が好きだったわね。高校生の時は、【源氏物語】は、どうにも湿っぽくって肌に合わなかったのをよく覚えてる。だって、男がすぐに『よよよよ』って涙を流すのよ。ほら、涙に袖を濡らすって譬え。あれは、生理的に無理。まぁ、今、読み返したら、違うのかも知れないけれどね。光源氏という絶世の美男子と言っても要するに母親だった桐壷の更衣の面影を追い続ける訳だから、究極のマザコン男の女性遍歴というか、まぁ、主人公は狂言回し的なピエロの役割で、彼を通して見た当時の様々な女性の生き様を描いたというお話なのよね。昼ドラ真っ青の女のドロドロした嫉妬の鞘当てあり、不義密通あり、泥沼的展開もあるし。女の人ってああいうの好きよね。ホントに昔から」
そう言ってちょっと顔を顰めた後、
「あ、でも【末摘花】の下りは素直に面白かったわ」
そう言って笑った。
「末摘花?」
俺は話の半分も理解できていなかったけど、最後の下りに引っかかって真帆櫓さんの方を見た。
「そう。【末摘花】というのは、とある女性の通称で。出てくる女性は皆、名前が出て来ないのよ。だから、お話の段、詰まり、簡単に言えばタイトルから、通称を取っている訳。あとは役職とか、その土地の名前からね。当時、自分の名は夫になるべき人物にのみ教えるものだったから。言霊と一緒で、名前には魂が宿ると考えられていたから、それをみだりに人に教えたら、呪われたり、縛られたりするっていう考えがあったの」
「ふーん」
女性の名前は歴史の表には出て来ない。それは習った覚えがあった。
俺は改めて復習する気分で、合槌を打っていた。
「で、【末摘花】は当時の美人の基準からは大分離れた人でね。でも当時、男が女を口説くのって、周りから噂を聞いて、歌を送って、それに対する返歌で相手の教養とか性格とかを把握して、あ、この人いいかもしれないって思っても、実際に会いに行くのは夜じゃない? 当時は灯りなんてほんの少ししかないから真っ暗で。頼りになる月明かりも常にあるとは限らない。そんな中で、女の寝所に夜這を掛けて、正に手探りで一夜を過ごす。そして夜が明けて、男が帰る身支度をするんだけれど、明るい下で見たその【末摘花】の顔は、たしか冬の話だったから、鼻の頭が寒さで真っ赤になっていて、さしもの百戦錬磨のプレイボーイも吃驚仰天したっていう話なの。でも、それで終わりじゃなくて、その後も、光君は、【末摘花】の心映え、つまり性格に感じ入って、その後もちゃんと面倒を見て、いい関係を作っていったのよ」
「ええと、詰まり、真っ暗で顔が分かんなくて、取り敢えずやっちゃってから、翌朝、明るい場所で見たら、相手が想像とは違って美人じゃなくて仰け反ったってこと?」
正しく理解したかを確認する為に、俺が自分なりに慎重に言葉を選びながら内容を反芻すれば、真帆櫓さんは、何がツボだったのか、目の端に涙を浮かべていて、肯定するように深く頷いた。
――――――マジですか。意外にあけすけな話だ。
これまで、敬遠して、拒絶反応を示していた【源氏物語】に対する俺の印象がガラリと変わった瞬間でもあった。
そして、真帆櫓さんは、悪戯っぽい顔をすると、テーブルに飲み掛けのコーヒーの入ったマグを置いて、ソファに座る俺の隣へとやって来た。
「ねぇ、信くん」
少し低めのしっとりとした声で、俺の首に腕を回して、その耳元で囁いた。
「今度、真っ暗にしてやってみる? 中々、当時の暗闇っていうのは、現代で体験するのは難しいけれど、近い感じなら、そうね、雰囲気位なら分かるかもしれないわよ?」
――――――ゴクリ。
仄めかされた符号に俺の喉が無意識に鳴った。
それは、もしかしなくても。
「夜這に来いってこと?」
急に変わった空気に、俺は内心どぎまぎしながら、そろりと横目で隣を窺った。
対する真帆櫓さんは、意味深に笑っただけだった。
作者の趣味に長々とお付き合い下さりありがとうございました。