第二話 必然と偶然の乖離率 98.30%
この作品はフィクションです。前回で出た駅の名前は、実際に存在する場所を想定したものではありませんので、あしからず。今回は少し短めです。
いつもと変わらない朝。同じ電車。同じ車両。
そして、同じ吊革。
今朝も指定どおりの空間を確保して、その達成感に密かに拳を握る。
同志諸君。ご協力感謝する。
空いていた左隣の空間に人が立った。
ふわりと柚を思わせるような柑橘系の香りが鼻先を掠める。近づいてこそ分かる、中々に小憎らしい香りの使い方だ。
吊革に掴まりつつ、そっと気配を窺った。窓ガラス越しに人影が写り込む。紺色の上着に白いセーター。ベージュのラインが入って………と、どこか既視感のある服装だ。
釣られるように横を向くと昨日世話になった高校生が立っていた。
「お…はようございます」
会釈をして、口早に小さく挨拶をする。
こちらを見下ろしたその子は、目が合うと、『どうも』と軽く頭を下げた。
規則的な震動と不規則な揺れを伴い進んで行く車両。
読書をするには短すぎて。新聞を読むにはスペースがない。吊革に掴まったまま、流れてゆく景色をぼんやりと眺めるのが精々だ。
少なくとも窓があって、地上を走っていることに感謝する。地下鉄であったら最悪だ。真っ黒の濃淡の世界をただただ突き進んで行く。景色は変わらない黒のままで。何処をどう走っているのか、頭の中にモグラのトンネルを一人思い浮かべるのも限界がある。
吊革につかまってそっと目を閉じた。
瞑想の入口。船を漕ぐのは朝飯前。この揺れを少しでも心地よいと感じてしまったら、もうアウトだ。 睡眠不足は到底解消されそうもない。右の手を命綱に、意識の移動を始める。車内アナウンスが水面を這うように無意識の調整が働く。四分の一の覚醒。
何故、電車の中で取る睡眠は、かようにも気持ちが良いのだろう。眠るという行為には全く適さないような不安定、且つ雑然とした場所であるのに。
ある意味、人間の持つ神経の図太さに敬意を表する。いや、それを言うならば、自分自身の寝汚さにか。こんな短い時間でも夢を見ることがあるのだから、人間の意識とは本当に不思議だ。
うつらうつらと心地よい揺れに身を任せていると、突然、肩を叩かれた。
フルカラーの脳内スクリーンが忽ち歪みを生じる。
焦点を合わせる為に目を瞬かせていると、隣から低い囁きが聞こえた。
「次、降りますよ」
まだ、覚醒しきらない頭のまま顔を横に向ける。
すると、こちらに体を屈みこむようにして隣の高校生が顔を覗き込んでいた。
車両が減速したかと思うと、お馴染みの駅の看板が視界に滑り込んできた。自分が降車する駅のプラットホームだ。そこで漸く、私の意識は完全なる覚醒を果たした。
危うく乗り過ごす所であった。一度ならずも、二度までも隣の青年に助けられたことになる。いい大人が恥ずかしすぎるだろう。
「ありがとうございます」
居た堪れなさを隠すように私は俯いた。
排出される人々の流れに乗ってホームに降り立つと、昨日と同じように私の左隣にその学生が肩を並べていた。
「なんだかキミには迷惑を掛けてばかりですね」
だらしのない自分に呆れて、苦笑気味に小さく口にすれば、
「いや、別に大したことじゃ。そんなの、お互い様でしょう」
やけに大人びた返答が返ってきて、驚いた。と同時にそのような科白を口にすることが、何処となく、その子が持つ硬質な雰囲気に似つかわしく思えて、小さく笑いを零した。
「お気遣い痛み入ります」
わざとらしく、普段は使わないような大業な言い回しをする。
こちらの軽い空気が伝わったのか、隣の子が雰囲気で小さく笑ったのが、感じ取れた。
改札を出て、私は右に。そして、その学生は左に進路を取る。
分岐点となる交差点の前で、私は昨日と同じように軽い会釈を送った。
同じように小さく揺れた長身の先を認めて、ひっそりと微笑んでみた。




