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1/144 の揺り籠  作者: kagonosuke
Side - A: Fから始まるモノガタリ
16/36

番外編  本日も晴天なり 後編





 本部テントに戻ると、グラウンド正面と後方の一部の簾が上三分の一程を残して、盛大に捲り上げられていた。天覧試合みたいな感じだ。中に居るのは、ごく普通の教師と生徒たちだが。

 明るくなった所では、放送部と思しき係の生徒がマイクを手に進行を努めていた。直射日光の届かない裏の方では、テーブルの上に何らかの機材とノート型のパソコンが数台。そして、教師や生徒達が忙しそうに中で作業をしていた。

 信思君は中をざっと見渡して、簾の裏で屯っている生徒達の方へ行った。

 どうやら、そのまま掴まってしまったらしく、腕時計の時間を確認し、紙の束を交互に捲りながら、なにやら真剣な表情で話しこんでいる。

 ――――頼りにされているじゃない。

 嫌な顔をして見せた割には場に溶け込んでいる。責任感が強いのだろう。真剣な眼差しは、文句なしに凛々しい。ちょうどこの季節の清々しいそよ風のようだった。

 信思君は、基本的に真面目だ。誠実で、さりげない気遣いができる優しさも持ち合わせている。硬質な風貌とどこか素っ気ない態度から第一印象はどこか取りつきにくく、初対面ではやや損をするきらいがあるが、少しでも踏み込んで接する機会があれば、その印象はがらりと様変わりするだろう。想像以上に気さくで、思いやりのある素顔が覗くのだ。きっとその優しさを知ったら、相手は放ってはおかないだろう。同世代の女の子達なら尚更だと思うのだ。

 学校は、ある意味、外見だけではなくて、そういう中身の方もじっくりと確認できる場所だ。きっと、ここではモテモテなんじゃないだろうか。想像に難くない。

 そんな他愛ない観察をしながら、私は少し先の中心に居る相手を気長に待つことにした。



「あの、坂井の連れの方ですよね?」

 不意に声を掛けられて、私は思考を中断した。

 気が付けば、思いの外、傍に人が立っていて、その近さに内心、狼狽した。

 顔を上げると、人好きのしそうな優しい面立ちをした生徒と思しき男の子が立っていた。

 黄色のTシャツを着た物腰の柔らかい感じで、背がとても高い。全体的にはひょろりとした印象を受ける。

 私は、その声と口調に心当たりがあった。

「ええ。キミとはさっき電話でお話したかしら?」

 相手を安心させるように微笑んで確認を取れば、その子は小さく目を見開いた後、さも嬉しそうに相好を崩した。

「当たりです。よくお分かりになりましたね」

「イントネーションが特徴的だったから」

 今時の高校生にしては珍しく、淀みのない綺麗な言葉遣いだった。昨今の新入社員でもこうはいくまい。

 私としては誉めた積りだったのだが、相手は逆に取ったようで、控え目に聞いてきた。

「変………でしたか?」

 それを軽く笑って返す。

「いいえ。その逆。余りにも自然な感じでしたので、生徒さんだとは思わなかったんです」

 念の為、教師ではないことを確かめてから、私は再び言葉を継いだ。

「まぁ、そういう予想を裏切るという意味では、意外性があったと言えるのでしょけれど」

「そうでしたか」

 そこで、不意に小さく頭を下げた。

「そう言えば、先程は失礼いたしました」

「あら、どうして?」

「不躾にもお電話の邪魔をしてしまった自覚はありますので」

 そう言って、少し申し訳なさそうに眦を下げた。

「別に気にはしていませんからいいですよ。お遊びの一環みたいなものでしょう? キミ達の間のコミュニケーションの一つで。それ位で目くじらを立てたりはしませんから、どうか構えないでください」

 何故か低姿勢で恐縮して見せるので、此方の方が逆に遠慮してしまう位だ。謙虚さは美徳だが、それをこのような若いうちから発揮しなくてもよいのにと思ってしまう。まぁ、それこそ、相手にしてみれば、大きなお世話というものなのだろうけれど。


 私は空気を変えようと話を振った。

「私に何か……御用かしら?」

 ここで話しかけて来たのは、何がしかの意味があるのだろう。そう思って聞いてみたのだが、その子は少し困ったように小さく笑った。

「いえ、これといって特に用事は無いんですけれど………。強いて言えば、そうですね。個人的な興味といいますか………」

 そう言って、はっきり口にするのが躊躇われるのか、言葉を濁す。

 個人的な興味。つまり、この子も純粋な好奇心から、私と信思君の関係が気になると言うことなのだろうか。

 この敷地に足を踏み入れてから感じている興味本位の視線。それらは、実に純粋であるが故に些か性質が悪い。が、それも仕方のないことだろう。そういうことを込みで、私はここに来た積りだった。

 信思君は、まだあちらで掴まっていた。待っている間の暇つぶしに少し話をしてみてもいいだろうか。

「ああ、プログラム進行の件でトラブルがあったみたいで、もう少し掛かりそうですね」

 私の視線の先を辿ったのか、簡潔な状況説明が隣からなされた。

「キミは、こうしていて大丈夫なの?」

「ああ、はい。自分の持ち分とは被っていないので。向こうに行っても邪魔になるだけなんです」

「それなら、もう少し、お話相手になってもらってもいいかしら?」

「ええ。勿論、喜んで。それ位お安いご用です」

「どうもありがとう」



 このまま立ち話もなんだからと、少し奥まった所にある、空いている椅子を勧められて、私はそこへ腰を落ち着かせた。

 その子は、信思君の一つ上の三年生で、葛城(かつらぎ)と名乗った。

 それから、他愛ない雑談を通して、この本部の事を少し知った。

 テントを覆うようにしてあった簾の意味合いもそこで解決したのだ。放送関係の機材を直射日光から守る為というのが第一義的な大義名分だが、本当は日陰で休憩をしたいという教師の要望と外野除けというのが本来の目的なのだとか。

「外野除け?」

 聞き慣れない単語に私は首を傾げる。

 すると葛城君は軽く四方に視線を走らせてから、私に周囲を見るように言った。

「要するに、視線除けですかね。ここに集まる連中は、邪魔されずに仕事がしたいんです。例えば、ほら」

 簾の一部が開いたことで、少し離れた所にちらほらと中の様子を覗く、女の子達の集団が出来ていた。 中にはデジタルカメラを手に写真を撮っているらしい子もいる。そこから黄色い声が途切れ途切れに上がり、ここまでその断片を響かせていた。実に、『らしい』光景だ。

「ああいう生徒達が押し寄せてくると困るので」

 そう言って苦笑気味に眉根を下げた。

 言葉数は多くはないが、言外に含まれる事情には簡単に想像がついた。

 その光景を見て、私は、遠い昔、自分が中学生だった時のことを思い出した。

 あの頃は、まだデジタルカメラなど世の中には出ていなくて。使い捨てのインスタント・カメラで友人達に拝み倒されて彼女たちが気になるという男の子の写真を遠巻きに撮影したものだ。

 詰まり、ここには、そう言った被写体になり得る人物たちが多くいると言うことで。関係者以外立ち入り禁止の閉鎖空間を作ることで、そう言った類の煩わしさから解放させようという苦肉の配慮なのかもしれない。とすると、多かれ少なかれ、ここに集まる生徒達は、本人たちが望む、望まないとに関わらず、周囲の憧憬やら注目を一心に集める人気者ということになる。

「……有名税も支払う側にしてみれば大変なものよね」

 私は、若干、不憫な気がして、感想の積りが、溜息を滲ませていた。

 そういう予備知識を与えられて、再び、私はこのテント内部に居る生徒達を観察してみる。

 少し、先のテーブルで雑談をしている生徒達。忙しなく、プリントを手に出入りをする生徒。中に居る教師と打ち合わせをしている生徒。皆、身につけているものは、色は違えども普通のTシャツに学校指定のジャージだ。それに、身ごろに合わせた同じカラーのハチマキを絞めている。

 改めて良く見てみれば、皆、其々に個性的な感じだ。美醜の感覚というものは人それぞれではあるだろうが、一般的に見ても、騒がれる側の部類の子達のように思えた。まぁ、私自身の感覚は世間一般から見てもかなりズレているらしいので、その辺の所は、本当の所良く分からないのだが。これまでの話を総合してみて、外野の反応を見れば、やはりそういうことなのだろうと結論付けた。

 そういう観点から、再び、隣に座る人物に視線を移した。隣に座っている葛城君も第一印象としては、人から好かれるタイプの人間だろう。年齢の割に妙に老成し過ぎているような感じも若干否めないが、それは私と彼の間にある年齢差の所為かもしれない。彼が身にまとう穏やかな空気は、一緒に居る相手を安心させる。私が生徒ではない部外者であるということもあるのだろうが、丁寧な物腰は恐らく彼本来のもので、決して付け焼刃ではないこともこうして話していることで感じられる。この御仁も要するに御簾内の殿上人。私が一番初めに抱いたこのテントへの印象も強ち間違ってはいなかったということになる。騒がれる方にもそれなりの苦労があるのだ。

「キミも……大変なのね」

 思わず漏れてしまった同情的な呟きを気にすることなく、葛城君は穏やかな笑みを浮かべただけだった。



「良かったら、ここで見学していきませんか」

 幸い、ここにはある程度規制が掛かっている為、煩くないし、位置的にも校庭のど真ん中、ベストポイントでもある。テントも本来の日除けとしての目的も果たしているし。

 そう提案されて、正直、心が動かなかった訳ではなかった。だが、私は選択権を持ってはいないのだ。

「ありがとう。お気持ちはありがたいのだけれど、信思君の予定もあるから。私の一存では決められないわ」

 本来なら私もお邪魔をしている立場なのだ。心遣いを嬉しく思いながらも、返事には保留を掛けた。

「そうなんですか。坂井はなんと?」

「ここに顔を出したら、クラスの方へ合流するって言ってましたけれど」

 私が先に聞いていたことを口にすれば、葛城君は何処か呆れたような顔をして、信思君の方を見ていた。そのまま、私も同じように視線を向けてみる。

 二人分の視線を感じたのかどうかは分からないが、不意に顔を此方に向けた信思君は、此方側で座っている私たちに気が付くと、目を見開いて、そのままの勢いで声を上げた。

「あ、ちょっと、葛城さん、何やってんですか?」

 今にも噛みつきそうな勢いを意外に思う。いや、でも電話越しでもそうだったと思い返して、私は自分なりに納得した。

「ほらほら、よそ見などしてないで、さっさとそちらを片付けたらどうですか」

 対する葛城君は、ひらひらと手を振ると、実に鷹揚な態度で笑顔のままに言い放った。

 それは、どこか勿体ぶったような芝居掛かった慇懃無礼さで、私は思わず噴き出しそうになるのを必死で堪えていた。丁寧な口調であるのに、その根底にあるものは、すでに先輩として確立されている相手に対する優位性だ。それらを巧妙に織り交ぜて半ば脅迫紛いにちらつかせながら、一見、相手のことを配慮しているような柔らかさで言葉を紡ぐ。

 中々に捻くれたというかある意味突き抜けた、いい性格をしているではないか。言われた相手は相当に癇に障るだろう。きっと信思君が揶揄していた逆らえない先輩というのは、この葛城君の事を指していたのではないかと思い付く。

 確かに真っ向正面から正攻法で噛みつけば痛い目を見る。社会の中でそれなりに揉まれて来た経験のある私ですら、出来るならば敵に回したくないタイプだと思ってしまった。

「言われなくとも分かってますよ」

 突き付けられた現状を把握しているからか、信思君は、正論にぐっと言葉を飲み込んだ。それだけでは収まらないのか、鋭い視線を葛城君に向ける。

 これ以上の挑発は不味いだろう。傍目にはあからさま過ぎるが、当人は気が付いていない。

 私は宥めるように言葉を掛けた。

「信思くん。葛城君には無理を言ってお話相手になってもらってるの。そっちが終わるまで大人しく待ってるから、心配しないで。ね?」

 大丈夫だからと微笑めば、

「あー、うん。ごめん、速攻終わらすから、もうちょっと待ってて」

「ええ」

 少しだけバツの悪そうな顔をして見せた後、首を掻いた。

「いやぁ、見事ですね」

「はい?」

 感嘆を滲ませた声に私は内心首を傾げた。

「あの坂井が、こんなに素直だなんて、実に気味が悪い」

 微笑みを絶やさずに告げられた台詞の裏側には色々な含みがある。それらは余りにもあからさま過ぎて、私は却って可笑しくなった。

「キミも中々言うじゃない?」

「それほどでもないですよ?」

 ああ、まるでイギリス人を相手にしているようだと思った。偏屈で堅物で、それでもウィットに溢れていて、ちょっとした皮肉めいた物言い、仕草、ブラックジョークの類。シリアスな空気の中に含ませた笑いのスパイス。真面目ぶるからこそ、その落差が明瞭になって、笑いの種を産むのだ。

 かつて一緒に仕事をした同僚の顔を思い出しながら、私はなんだか懐かしい気分になっていた。

 Peter 元気にしているかしら。

「ねぇ、葛城君、キミの親戚にイギリス人はいない?」

 半ばからかう積りでそんな冗談を口に乗せてみたのだが、

「え?」

 吃驚したように目を見開かれて、

「なんで……ご存じ……なんですか? ……いや、まさか」

 呟くように口にされた言葉に、今度は、私自身が仰天する羽目になった。

 ちょっとした衝撃から素早く立ち直った葛城君は、自分の母方の祖父が英国出身なのだと明かした。

 なんと言う偶然の一致だろうか。本当に彼には向こうの血が混じっているなんて。

 なので、私も正直に種明かしをした。単なる感覚的なもので、そう感じたに過ぎないこと。昔、一緒に仕事をしたイギリス人の同僚に物言いの感じが似ていたから、ひょっとしたらと思っただけなのだと。

「……いや、何というか……吃驚しました」

 何度か心底驚いたと目を瞬かせた後、葛城君は取り乱したことを恥じるように小さく笑った。そんな大人びた控え目な言動が鍵になっているとは、無意識であろう本人には分からないのかも知れない。

 そんな所は、まだまだ年相応なのだと内心微笑ましく思っていると、急に内部が賑やかになった。


「あれー、葛城、何やってんだ?」

「あー、おま、ずりぃ、何その美味しいシチュエーション」

「誰だ、その美人は?」

「そっちはもう終わったんか?」

「あーー、疲れたぁ」

 途端に増した人口密度。ぬっと眼前に立ちはだかる高い人垣に私は息が詰まるような錯覚を覚えた。

「ああ、お疲れ。こっちは問題ないよ」

 葛城君は、座ったまま、身体全体を斜め後ろに向けて、にこやかに労いの言葉を掛ける。

 ぞろぞろと入って来たのは、5人。砕けた口調から恐らく同学年の生徒なのだろう。

「点数、どうなってる?」

「今のところ、赤が優位だったけど」

「あ、でも、さっきの棒倒しで緑が逆転かもよ?」

「くっそ、あと一息だったのに」

「まぁまぁ、アレは仕方がないべ」

一人が悔しそうに歯噛みして見せれば、もう一人がそれを宥める。その生徒は、これまで競技に出ていたのか、額際の汗を腕で拭い、あちこち埃まみれで煤けたTシャツやジャージをパンパンと叩き始めた。

「うわっ、おま、マジありえねぇって、向こう行ってやってこいよ」

 すぐさま、周囲から口々に非難の声が上がる。そんな中、葛城君が、有無を言わせないような凄みのある笑顔で言い放った。

「ストップ。そういうのはあっちでやってもらえるかな、黒木。こっちまで埃まみれになるのは堪ったものじゃないからね。人の迷惑を考えようね」

 豪快に埃を叩いていた黒木と呼ばれた生徒は、その言葉に言い返そうと口を開いたが、顔を上げて、直ぐ脇に腰を下ろす見慣れない人物(要するに私)の存在に気が付いたようだった。

「あれ?」

 動きを止めたその大柄な生徒の周りに居る友人達も一斉に此方を見た。突き刺さる興味の視線が痛いほどだ。

 私は実に日本人的な社交辞令の笑みを浮かべた。

「お疲れ様でした」

 そのまま労わりの言葉を掛けてみれば、

「あー、いや、はい」

 歯切れ悪く返答を返される。もしかしなくとも、空気を読まない発言だっただろうか。

 だが、ちらりと覗いた相手の耳先が若干赤くなっていることに気が付いて、単に照れ屋なのだろうと思うことにした。

「人がいたんすね。すんません」

 そう言って小さく頭を下げた。

「つーか、葛城、何してんの?」

「このきれーなおねーさん、誰?」

「なに、葛城のお客さん? 知り合い?」

「俺にも紹介して」

 残りの四人が、一斉に葛城君に押し寄せた。ちらちらと此方を気にしながら。

「お前らねぇ」

 来た時と同じ賑やかさで騒ぎだした友人達に葛城君は、あからさまに眉を潜めた。


 なんとなく迫力のある質問攻めに内心たじたじになっていると、不意に身体が後ろから温かいものに包まれた。私は、その覚えのある感覚にほっと安堵の溜息を吐いた。

 目の前に回される逞しい筋肉質な腕、鼻先を掠める柚子に似た匂い。

 そして、耳元を掠める低い声。

「お待たせ」

 全ての条件が揃って、私を安心させる要素を持つ人物は、もう一人しかいない。

 顔を上げて振り向けば、思いの外、近い所に待ち人の顔が合った。

「信思くん」

 信思君は、その長身を窮屈そうに折り曲げて、椅子に座った私を包み込むように身体全体を持たせかけていた。

「もう終わったの?」

「ん。大丈夫。ありがと」

 そう言って微かに柔らかく微笑む。私は、なんだか堪らなくなって目の前にある頬に掠める程のキスを送っていた。

「お疲れ様」

 そう労いの言葉を掛ければ、信思君は、何故か目を見開いて、大きく息を一つ吐き出した後、その額を私の首元に埋めるように押しつけた。

 さらりと揺れる黒髪が首を擽る。

「ん? どうかした?」

 突然の目の前の変化に付いていけなくて、覗きこもうと顔を寄せれば、

「はあぁぁぁぁ」

 そんな唸り声を上げて、髪をがしがしと掻きむしった。

 そして、徐にこちらに視線を流して一言。

「今の不意打ち。マジ心臓に悪い」

 ぼそりと呟いた。

 目の端が密かに赤く染まっていた。どうやら照れているようだ。

 形勢逆転か。いつも不意打ちを食らって、内心をどぎまぎさせている私にしてみれば、なんだか仕返しが出来たようで心が弾んだ。

「いつものお返しよ」

 悪戯っぽく微笑めば、

「なにそれ」

 訳が分からないと言う顔を作ってから、小さく笑う。

 そして、折り曲げていた上体を元の位置に戻すと、私をゆったりと包んでいた拘束が無くなった。だが、そのまま後ろに戻るかと思われた信思君の手は、今度は私の両脇に回された。あれよと思ううちに背後から抱え上げられるようにして強制的に立ち上がる。そして再び、座っていた時と同じような体勢で立ったまま前方に長い腕が回ってきた。ぴったりと引き寄せられて、熱を発する別の体温に包まれる。背骨の裏に響く規則的な鼓動が、時折、測りがたい動きを見せていた。

 不意に回されていた腕に力が入る。それに促されるようにして、私は自分が置かれていた状況を思い出した。

 ――――もしかしなくても、やってしまったか。

 恐る恐る視線を前に戻せば、目に入るのは、不揃いに並んだ半ば唖然とした生徒達の顔。

 その内の一人と目が合う。私は、居た堪れない気分を誤魔化すように小さく微笑んでみた。

「あんま困らせないで下さいよ。先輩方」

 言葉使いは丁寧だが、低く発せられたその響きは、なにやら含みがありそうで、余り相手を敬っているようには聞こえない。

 だが、沈黙の中に落ちたその声は、固まった人達の解凍を促すには十分だった。

「ああと、葛城の知り合いじゃなかったんか?」

「あれ、坂井?」

「え、そっち?」

 息を吹き返した生徒達が素っ頓狂な声を上げた。他の生徒達も私と背後の信思君の顔を代わる代わる見返して、目を白黒させる。それに信思君は、小さく口の端を上げて見せた。

 それから、ゆっくりと葛城君の方を向いた。

「紛らわしいことしないでくださいよ」

 呆れたような口調で信思君が口を開けば、葛城君は椅子から立ち上がると、とんだ言いがかりだとばかりにちょっと肩を竦めて見せた。

「そんな積りは無かったんだけれど?」

 信思君は相手の悪びれた所のないにこやかな笑顔に、渋い顔をしつつも、少し思い直してか、別の言葉を口にした。

「ああ、でも、まぁ、ありがとうございます」

「いや、坂井に感謝されるようなことはした覚えが無いんだけど?」

 今度は、葛城君が意外なものを見るように信思君を流し見た。

「結果的には、……気を遣ってもらったみたいなんで」

「キミからお礼を言われるなんて明日は雪が降るかな。気味が悪い」

「これでも普通に礼を口にする位の常識は持ち合わせてる積りなんで。気にしないで下さい。こちらは随分と世話になったようですし」

 立ちあがってみれば、二人とも随分と背が高いことが知れた。信思君も上背のある方だとは思っていたが、こうして並んで立ってみると、若干、葛城君の方が高いようだった。ただ、信思君の方が全体的な骨格ががっしりとしている所為か、両者の間に差は感じられない。ややもすれば、葛城君の方が相対的に小さく見える。そして、目の前に集う友人達も皆、体格が良かったり、背が高かったりとで、私は、自分が朝の通勤電車で乱立するスーツの群れの中に紛れ込んでいる時と同じような感覚に陥っていた。私の身長は、成人女性の平均値だ。決して低い方ではないのだが、対比する対象が悪かった。

 埋もれた感満載の中、私は、自分の頭上で交わされる言葉のキャッチボールを内心、冷や冷やしながら聞いていた。

「葛城君、どうもありがとう。引き留めてしまってごめんなさいね」

 私は、一応、誤解があるのならば解いておいた方がよかろうと、事実を口にした。今の状況を作り上げたのは、少なくとも私の自発的なもので、葛城君に非はない。なにやら含むものがありそうな二人の関係であったので、私が乱入することで、余計な混乱を生じさせたくは無かった。

「いいえ、とんでもありません。こちらこそ、お話しできて良かったです」

 対する葛城君からは、相変わらず人好きのする柔らかい微笑みが返って来た。

 そして、ちらりと私の背後、上方へ視線を走らせた後、笑みを深くして、序でにとばかりに小さな爆弾を落としていった。

「嫌だね。心の狭い男は」

 葛城君は溜息を吐いて、大げさに肩を竦めて見せる。

 私の影の努力も虚しく、両者の間を一陣の冷風が吹き抜けたと思った。一気に体感温度が下がった気がして、思わず身に着けていたカーキのミリタリーブルゾンの上から腕を摩る。

「全く、可愛げのない」

「それはどうも。生憎、無駄に振りまく愛想なんて持ち合わせていないので」

 私には背後に居る信思君の表情は見えないが、感情を削ぎ落したような声音に、きっと能面のような凄みのある無表情なのだろうと想像した。目の前に居る葛城君の友人達も何処か呆れたような顔をしていたり、引き攣った顔をしていたり、青い顔をしていたりしている。が、それでも間に入る積りはないのか、此方の様子を遠巻きに見守っていた。さっきまでの騒がしさが嘘のようだ。中には時折、此方に縋るような眼差しを向ける子もいた。どうにかしてくれと。

 剣呑さの増す空気に、私は仕方がないと苦笑を洩らした。

 二人が普段、どういった距離感で接しているのだとか、どんな遣り取りをしているのだとかは分からないが、流石にこのままでは埒が明かないだろう。二人とも一歩も引かず、意外に頑ななことが分かる。

 停滞した寒冷前線を払拭するように、私はくるりと身体を反転させて信思君の方へ向き直った。

「ねぇ、信思くん」

 場違いな程にのんびりとした声が出た。

 掛けた声に、ついと視線が下がる。

「時間は大丈夫? 今からクラスの方に合流するんでしょう?」

 殊更ゆっくりと腕時計を示せば、急に我に返ったようで、信思君は慌ただしく時間を確認し、周囲を見渡した。

 それで漸く凍りついた空気が解れたようだった。

 あからさまな安堵の溜息が前方から漏れてきた。目があった子は、ほっとした顔をしていて、私は再び苦笑する。そして、直ぐさま移動できるようにテーブルの上に置いていた荷物を手に取った。

 動き始めた空気にざわめきが戻ってくる。外部の喧騒もこちらまで届き始めていた。

「坂井、見学ならここの方が良くないか?」

 踵を返した信思君の背中に、周りに居た生徒の一人が不意に声を掛けた。確か、葛城君に黒木と呼ばれていた体格のいい三年生だ。

 後ろを振り返った信思君は、少し逡巡して見せた。

「ああ、まぁ、最初はそうしようかとも思ったんですけど………」

 そう口にしながら、もう一度辺りを見渡す。そして、ある一点で止まると、実に嫌そうな顔をして、直ぐに顔を反らした。

 そこには、ひらひらと手を振る葛城君がいた。

 それを見た黒木君も何故か苦笑い。彼は、少なくともその背景の何がしかを知っているのだろう。

「まぁ、好きにしろ。どっちにしろ、向こうが喧しくなったら、こっちに来ていいからな」

 助け舟というか逃げ道を確保してあげて、白い歯を見せて密かに笑う。兄貴肌というか先輩らしい真っ直ぐな心遣いに、信思君は口元を少し緩めて、小さく頭を下げた。そんな所は実に素直である。

 結局、信思君は一度、クラスの方に合流する方を採用したようだった。私はその決定に大人しく付いて行くだけだ。

「それでは、お邪魔しました」

 周囲に軽く頭を下げて、本部テントを後にする。視界の隅でひらひらと手を振っている葛城君が見えて、私は、ここで世話になった謝意を込めて微笑みを深くした。



 

 テントから出たグラウンドでは、色別の応援合戦が繰り広げられていた。其々のクラスカラーをモチーフにした衣装に身を包んだ鮮やかな集団が、鳴り響く音楽に合わせて、パフォーマンスを繰り広げる。信思君が出場するクラス対抗のリレーは、この後なのだとか。

 途中、どっと歓声が上がった。野太い野次の声、咆哮に似た叫び、そして、それを取り巻く黄色い声。華やかな衣装に匹敵する位、溢れる天然音の洪水は、太古から面々と続く人間の原始的な欲求に基づいている。これも祭りの一形態なのだと改めて感じた。

「凄いのね」

 我知らず、感嘆の息が漏れていた。どこか懐かしさを感じさせながらも、私にとっての未知の世界が、そこには広がっていた。傍観者であることをほんの少しだけ寂しく思ってしまったことを心の底にそっと閉じ込めておく。

「これも得点に反映されるから」

 グラウンドの中央、組織だった色の群れを眺めていた信思君は、首だけ振り返りながらそう淡々と口にした。その表情は、これまでと同じような涼しい顔だった。こういう周囲の高揚した空気に、参加者の一人である信思君もそれなりに感染しているのではないかと思っていたのだが、それが周りに知れるほど面に出るには、まだまだ段階が足りないようだった。といっても、私自身、あの中で声をあらん限りに張り上げている男の子達と同じような事をこの目の前の人物が行う場面など想像できないのだから仕方がない。まぁ、楽しみ方も人それぞれでいいではないか。

「審査は誰が行うの?」

「一部の教師と実行委員会の生徒。覆面だから、誰が票を持ってるかは分からないようにしてあるんだ」

「よく考えてあるのね」

私は素直に感心した。

 買収や賄賂などが行われないように。たかが体育祭、されど体育祭。より公正さを記して、いいものを作り上げようという生徒達の意気込みが垣間見える。そうであるからこその盛り上がりなのだ。

「キミは参加しないの?」

 そんな私の問いに、此方を振り向いた信思君は、実に微妙な顔をして見せた。

「………すると思う?」

 これまでの印象から言って、自発的にということは無いだろうとは簡単に想像がついた。でも、強制的な全員参加という場合だってあるだろう。熱血漢とは大分遠い所に位置しているが、その本質は、さほど変わりがないのではないだろうかとも思うのも事実だ。何といっても頑なな所があるし。表現の仕方は随分と違うだけで、根底を流れるものは類似している。

『分かってるくせに……』

 小さく漏れた不満そうな呟きに、拗ねているのが分かって、私は思わず吹き出してしまった。

「ごめん、ごめん。別にからかう積りじゃなかったのよ?」

「どうだか」

 恨みがましい流し目を、私は誤魔化すように笑ってみせることで流した。


 そうこうするうちに目的地に辿りついた。私としては約一時間ぶりの場所である。

「ちょっと行ってくる」

 その声に頷き返す。

 信思君が同じ色の青いTシャツの中に入って行く。

 私は少し離れた所からその様子を見守った。

 人垣が割れ、気付いたクラスメイト達が声を上げた。

「あ、坂井!」

「お前、どこ行ってたんだよ!」

「やっと帰ってきやがった」

 背中を叩かれて、あからさまに顔を顰めるのが離れていても分かった。

「仕事だっつの」

「昼飯は~?」

「食った」

「えー、一人で?」

「いつのまに?」

 わらわらと周りを男友達が囲んだ。中々に仲の良いクラスのようだ。

「さ~か~い~。やっと帰って来たぁ。寂しかっただろ~」

 中から、軽い調子で一人が声を上げると勢いよく首に腕を回して抱きついた。そのまま、相手が軽く締め上げるような体勢に入る前に、信思君は何でもない顔をして瞬時に肘鉄を食らわす。

「いてぇー!マジで入った」

 ぎゃぁぎゃぁと騒ぎ立てる友人を尻目に更に表情を変えないまま二言三言、言い放つ。それに周囲がどっと沸いた。

 周りにいた女の子達も俄かに色めき立った気がした。漸く現れたクラスメイトに笑顔全開で駆け寄って行く果敢な挑戦者もいれば、その様子を遠巻きに眺めながら、友人同士で遠慮の恥じらい合戦をしている子達もいる。急に賑やかさを増した高音のパートは、実に様々な感情を派生させていた。

 ポニーテールに結った長い髪が、長身の間合いに揺れる。ふわふわの柔らかそうな猫毛も手の届きそうな場所にあった。話しかけられて、態度は素っ気ないように見えるが、それなりに言葉を返している様子が遠目にも窺えた。

 あらあら。随分な人気ぶりじゃないの。

 完全な傍観者たるには、静かに湧きあがってくる違和感が、私の感情を裏切っていた。現実は、ありのままであるからこそ、時に優しく、時に残酷だ。

 不意に私は本部テントで耳にした葛城君の言葉を思い出していた。

 『良くも悪くも、ここにいる奴らは注目を集めるんです』

 そのカテゴリーの中に、自分の連れが入っていることを私は改めて認識したのだった。

 想像を裏切らないその状況に苦笑い。目の当たりにする現実は、些か容赦がなかった。自分がいかに自然の道理から外れているかを突き付けられた気がして、思わず目を反らしてしまった。


 待っている間、ぼんやりと青の集団の顔ぶれを眺めた。その中に、お昼前、この辺りでうろうろしていた部外者である私を心配して声を掛けてくれた二人組を見つけた。八重歯が覗く二年生の子と落ち着いた感じの三年生の子だ。

 此方に気が付いた二年生の子が、効果音の付きそうな程の屈託のない笑顔で大きく手を振った。その様子が余りにも劇画的で、私は込上げて来る笑いを堪えるように小さく手を振り返す。すると、その傍に居た三年生の子も私に気が付いて、いつまでも幼子のように手を上げている隣の後輩の頭を叩いてから、軽く会釈を返した。そして、そのまま二人は此方に足を進めてきた。

「やほー、おねーさん、さっきぶり!」

「探してた奴とは会えましたか?」

 八重歯を覗かせた人懐っこい笑顔と、少し大人びた柔らかな微笑に迎えられて、

「ええ。お陰さまで。どうもありがとう」

 私は微笑み返すともう一度、お礼を述べた。

「で、その当人は?」

 私がまた一人なのを不思議に思ったのか、上級生の方が周囲を見渡した。

「あっちにいるわよ」

 それに苦笑を滲ませて、私は彼らが来た方向を再度目で指し示した。そこには、男女問わず、クラスメイト達に揉まれている信思君の黒い頭部が見えた。

「あー、やっぱり、坂井だったんだ。おねーさんの探してたのって」

 後ろを振り返って、該当者を見出した二年生の子がのんびりとした声を上げた。

「キミは、クラスメイトなのよね」

「てことは、弁当食ったんだな。手作りのやつ」

「途中で、お友達も来たのよ。三人」

「うがー、羨ましいぜ」

 どうやら、その子は『お弁当の行方』が気になって仕方がなかったようだ。流石、食欲魔人のお年頃だ。

「てことは……あいつ等か」

 その隣に居たもう一人は、『三人』というフレーズに心当たりがあったようだ。

「あら、それだけで誰だか分かるの?」

喜多見(きたみ)須藤(すどう)高畑(たかはた)ですよね」

 すらすらと当然のように出てきた符牒に私は内心驚いた。三年生ともなると他学年でもそれなりに知っているのだろうか。

「あいつら、仲良いの有名なんで」

 私の疑問を察してか、片方が種明かしをすれば、

「中々に濃い面子だからなぁ」

 もう片方も腕組みをしながら尤もらしく呟く。

 成程。彼らはどうやら客観的に見ても目を引く存在であるらしい。『濃い面子』―――そう言われて、それで納得してしまうことが、なんだか可笑しかった。

「そう言えば、テントにいた子達も中々に濃いメンバーだったけど」

『濃い』繋がりで、思いだしたことを口にする。

「あっちは、なんていうか、別格な感じですよ」

 上級生が控え目に形のいい眉を顰めて、嫌そうな顔をしたかと思えば、

「触らぬ神に祟りなし」

 下級生はあからさまに身体を震わせて見せた。

「あら、キミには鬼門なの?」

 苦手な先輩がいたのだろうか。それを指摘してみれば、明らかにしまったという顔をして見せた後、誤魔化すように首を横に振る。その大きなリアクションが可笑しくて、私は自然と口元を綻ばせていた。

 そんな他愛ないお喋りに興じることで私の気分は再び軽やかに上昇した。先程まで感じていた蟠りも霧散してゆくようだった。




真帆櫓(まほろ)さん」

 周囲のざわめきに混じって、軽やかな低音がこちらに届いた。

 声のした方に顔を向ければ、信思君が手を『おいで』と拱く様に振っていた。呼ばれるままに、信思君の下に向かう。周囲からはもの問いたげな興味津々の視線が注がれるが、信思君はまるで気にかけていないようだった。

「あ、中里と水瀬さん?」

 私の後ろにいた二人に気が付いて、信思君は片方の眉をひょいと上げた。

 新しく提示された二人の名前を私はすぐさま脳内にインプットした。

「ほら、電話をした時、キミを待ってる間に心配してくれてね」

 それで、信思君は知り合った経緯を理解したようだった。

 信思君は、水瀬と呼んだ上級生に向き直って軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 そして、その隣に居たクラスメイトにも視線を向ける。

「中里も、サンキュ」

 二人は少し驚いたように一瞬、顔を見合わせてから、からからと笑った。

「別に大したことはしてないが」

「そうそう」

「じゃ、序でとばかりに頼まれてくれますか?」

 信思君は、私の肩に両手を置いて、ポンポンと叩いた。

「ああ、いいぜ」

 何やら謎かけのような遣り取りに疑問符を浮かべて背後を仰ぎ見れば、信思君が優しい目をして微笑んでいた。

「リレーの集合、掛かってて、もう行くから。真帆櫓さんは、ここで見てて」

 耳元で低く囁くように口にされて、私は事の次第を納得した。要するに、水瀬君と中里君に私を頼んだということなのだ。全く知り合いのいない所にポツンと一人残される私を信思君なりに気遣ったらしかった。どこまでもよく気が回る。そんな心遣いを嬉しく思う自分がいた。

「ええ。大人しく見てるわ。張り切り過ぎて怪我しないようにね」

「任せといて」

 からかうように言えば、得意げに口の端をくいと上げる。

 そうこうするうちにお昼ご飯を一緒に食べた色とりどりTシャツを着た賑やか三人組がやって来て、信思君は、他のメンバー達とリレーが行われるグラウンドの方へ向かっていった。




 空気を切り裂くようなピストルの合図の下、クラス対抗のリレー競技が始まった。体育祭の花形種目と言われるだけはある。これまで以上に凄まじい歓声が湧きあがり、グラウンドを震わせていた。選手である走者の名前が、あちこちで響き渡る。自分が走る訳でもないのに私は何故か緊張していた。次々とバトンが渡り、走者が変わって行く。

 そう言えば、何番手に走るのかを聞いてはいなかった。私は信思君の出番を今か今かと待った。

「坂井は、アンカーですよ」

 私の右隣に座っていた水瀬君が、私の疑問に答えるように、前を向いたまま小さく口にした。

「アイツ、足だけはすげー早いんだよな」

 左隣の中里君が、のんびりと合槌を打つ。

 バトンが最後のアンカーに渡った。分かりやすいようにハチマキと同じ色の幅の広い襷を上半身に斜めに掛けている。信思君の出番だ。現時点、青チームは、僅差で三番手だった。

 差し出されたバトンを手に軽やかなフォームで信思君が駆け出した。長めに結われたハチマキが風のように後方に靡く。前を走る白いTシャツの生徒との距離が縮まっていた。真剣な顔をして走る姿。真っ直ぐ前を見て、綺麗な無駄のない走りだ。長い手足をフルに活用している。私は息を吐く間も忘れた様にその姿を目で追った。

 半周で、二番手の白いTシャツを追い抜いた。一際、歓声が高くなる。

 あと、もう少し。そして、ぐんぐんと勢いを増して、その前を走る緑のTシャツを捉えた。

 後、1メートル。50センチ。並んだ。ゴール直前で、一気に加速。第一位のテープを身体一つ分の差で切っていた。

 青チームが、第一位を獲得した。

 応援をしていた青の集団は、一気に立ちあがり、喜びの雄叫び、歓声を上げた。私は、興奮の余韻から震える手を強く握りしめた。

 辺りが勝利の興奮に酔いしれる中、リレーのメンバーが帰って来た。

 ヒーローの御帰還だ。各学年二名、合計六名の走者たちは、皆一様に晴れやかないい笑顔をしていた。 戻って来た彼らをクラスメイトが囲み、彼らの健闘を称えた。中でも最後の場面でライバル二人を抜き去った信思君は一番の功労者だった。バシバシと友人や先輩達から背中を容赦なく叩かれて、その遠慮のない痛みに顔を顰めながらも、やはりどこか嬉しそうな顔をしていた。


 集まった生徒達に揉みくちゃにされながらも、信思君はぐるりと辺りを見渡した。

 そして、遠巻きに一部始終を見ていた私と目が合った。周囲に居た友人達に二言三言何かを告げると、ゆっくりとした足取りで此方に向かってきた。

 囲んでいた人垣が割れた。

 近くに来た信思君は、先程までの熱が嘘のように涼しい顔をしていた。だが、額際、ハチマキに残る汗染みが、有志の名残を伝えていた。

 すぐ傍まで来ると、無言で親指を付き上げた。年相応な得意げな表情だ。私は、破顔して見せた。

「すごい。おめでとう。かっこよかったわよ」

周囲の興奮の余韻を引きずりながら、素直な賛辞を贈る。

「惚れ直した?」

「ええ」

 やり切った感で、満足げに口角をくいと上げる。

 ―――――勝ったら御褒美頂戴。

 私の脳裏には、レースに向かう直前、小さく囁かれた台詞がこだましていた。

 人参をぶら下げられた馬の如くであったなんて、誰も思わないだろうに。

「さっきの約束、覚えてる?」

 信思君は、ついと顔を寄せると耳元にそう吹き込んだ。確認するように私の腕をそっと撫で上げる。

 一々確認を取るなんて、何をさせたいのだろう。そう思って見上げれば、悪戯っぽい目が私を見下ろしていた。

「勿論。何にするか決めてるの?」

 だが、尋ねた問いに対しては、密かに口元を緩めるだけで、答えを明かす積りはないようだった。

 そんな遣り取りをしていると、

「坂井~、あんま見せつけんなよ!」

「このタラシ~」

「ムッツリ~」

「いやーん、ノブくん!」

 遠くから野太いからかいの野次が湧いた。

 振り返れば、ニヤニヤと意味深な表情を浮かべながら、此方を眺めている青の生徒達がいた。

「大きなお世話ですよ」

 揶揄された本人は、面倒くさそうにそう言うと、私の腰を引き寄せた。

 それを見ていた女の子達の間から甲高い悲鳴のようなものが上がる。

「余り刺激をしない方がいいんじゃないの?」

 後で質問攻めにあっても困るだろう。

 当てつけとも言える見え透いた行動に、呆れたように苦笑をすれば、

「いや、この方が好都合」

 そんなことを言って、鼻先で笑った。

「なぁに、私を女除けかなにかにする積り?」

 それはそれで、微妙だ。嫉妬に駆られた視線を浴びるのは、余り気持ちのいいものではないのだ。

「まさか。単に俺が自慢したいだけ」

 さらりと言われた一言に私は白旗を上げる気分で硬質な顔を見上げた。

 いつになく気持ちが高ぶっている。それはやはりこの場の空気に当てられているのだろう。

 密やかに笑ってから、そっと離れた体温をどうしようもない程、もどかしく思わずには居られなかった。




 騎馬戦は、男の子達の独壇場だ。かつての合戦を真似たゲーム。ゲームや物語上、二次元の世界でしか知らないことを疑似体験できる。人間の本能に備わっている闘争心と競争心を刺激してやまない競技だ。

 グラウンドは面白い程、明確な境界線が表れ始めていた。トラック内部には、疑似戦士達の勇ましい集団。それを遠巻きに囲む女の子達。残された女の子達は、意中の相手を探してか、真剣な眼差しを中央へ投げかけていた。Tシャツの色で、ある程度の絞り込みが出来たとしても、この大勢の中から、唯一の一人を見つけ出すのは、中々に至難の業だ。

 私は、早々に信思君の姿を見失っていた。オペラグラスが欲しいかもしれない。端から見たら、ちょっとした変質者のように見えなくもないだろうが、それ程、視力に自身がある訳ではないので、ついついそんな益体もないことを考えてしまった。

 結局、一人を探すのは諦めて、青チームの戦士達を応援することにした。

 大将首には一際長い幅広のハチマキが巻かれていた。長々と風に揺れて、靡く色とりどりの布切れは、上半身を覆っているTシャツの色と相まって、実に壮観であった。

 青、赤、緑、黄色、白、黒、紫。全部で七色。儀式のようだ。


 宛がわれた椅子に遠慮気味に腰を掛けていると、影が差して、隣に人が立っているのが分かった。

「ここ、いいですか?」

「どうぞ」

 元々、私は部外者だ。遠慮をするなら此方の方なのだが………。

 苦笑をしながら仰ぎ見れば、男の子達と同じ青いTシャツを着た女の子が二人立っていた。茶色の髪を緩くカールさせた子と黒髪のショートボブの子。空いている場所に座るように勧めれば、ややはにかむようにして微笑んだ後、嬉々として腰を下ろした。甘いフローラル系統の香水の香りが鼻先を掠めた。

 暫く、前方を見つめていると、隣から遠慮がちな声が上がった。

「あの………さっき、写真を撮ってくれた人……ですよね?」

「ええ」

「…………坂井くんの………応援に来たんですか?」

 こちらの様子を窺いながら、躊躇いがちに出された名前に、私は曖昧な笑みを浮かべていた。

「お弁当を届けに、ね」

 取り敢えず、事実を告げてみる。

「私は、お昼調達係なの」

「ええと……その…………彼女さん、では………ないんですか?」

 気丈な感じで言葉を紡ぐ子の向こうに、今にも泣き出しそうに顔を歪ませているもう一人の子が見えた。

 さて、どう答えたものか。

「…………気になるの?」

 好きな人の事は何でも知りたい。それはよく理解できる欲求だ。だが、夢を見るお年頃、希望的観測が現実と異なってしまう場合、それをすんなりと受け入れられるだろうか。

 私はなるべく当たり障りのない言葉を選ぶように微笑んでみる。ほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ。

「ふふふ。どうかしらね」

 繋がったであろう仮の望みに、自嘲気味な笑みが漏れていた。

「……気になるなら、直接、本人に聞いてみた方がいいかもしれないわ」

 この子達が知りたいのは、私ではなくて、信思君の気持ちだろう。下手に第三者が絡むよりも直接当事者に質問をぶつけてみればよい。その方が、後々誤解が生じなくてよいだろう。

「そう………ですか」

 だが、どうやら茶色の髪の子は、私の返答が気に入らなかったらしい。やや不服そうに眉を寄せる。それでもその顔の向こうで、ほっとしたもう一つの表情が垣間見えて、私は目先の好奇心よりも後者の心の揺れを取り除けたことに胸を撫で下ろした。

「信………坂井、くんは、人気があるの?」

 このまま、話題が有耶無耶になることを祈って、私は言葉を継いだ。

 その問いに、二人は顔を見交わせ、含み笑いをしてから、頷いた。

「かっこいいから、フツーにモテてる感じです。ちょっと素っ気ないっていうか、冷たい感じだけど、そんな所もクールでいいって女の子の間では言われてますよ」

「でも……普通に優しいし」

 ボブの女の子がとっておきの秘密を打ち明けるように小さく呟いた。

「そうそう。なんていうか、ギャップがあるっていうかね」

 ほんのりと色づいた頬に、その時の情景でも思い出していたのか、一人はうっとりとした表情を浮かべていた。いやはや、完璧な“恋する乙女モード”である。

 この子達のフィルター越しには、信思君はどういう風に見えているのだろうか。

 私は想像した通りの展開に、少し可笑しくなった。だが、まぁ、一方で女の子達がちゃんと見ていることが分かる。なんだか複雑な気持ちであったが、総合的に見れば、嬉しくもあったというのが正直なところだ。

「告白とかも割とされてるみたいだし」

それは、実に……なんというか……気にはなるけれども、余り聞きたくはない類の話題だった。

「よく見てるのね」

 初めて耳にする女の子達の評判に私の鼓動は不意に跳ねあがる。それを敢えて無視するように、私は、表面上は穏やかに微笑みながら合槌を打った。

「なんとなく……ですけど。そう言うのって自然と噂にはなりますから」

「あからさまじゃなくても、それとなくね」

 そう言って小さく微笑んで二人は視線を合わせる。

「それだけ、影でも気にしてる子が多いってことだよね」

 女の子達は昔からこういった類の恋の話が大好きだ。生憎、私自身はそのカテゴリーには当てはまらないのだが。

 今年のバレンタインなんかは大変だったみたいだと思い出したように口にされて、私は大量のチョコを前に、平静を取り繕おうとしても口の端を引き攣らせている信思君の姿が目裏に浮かんだ。基本的に紳士で、相手を思いやれる細やかな気遣いの持ち主であるから、受け取るにしても、断りを入れるにしても、気苦労が多くて大変であったろうことは、なんとなくだが、容易に想像が付いた。確か、甘いものは基本的に好きだがチョコレートは余り得意ではないと言っていた筈だ。

「………それは大変そうね」

 客観的事実を淡々と口にした積りだったのだが、

「やっぱり、気になりますよね」

 結局のところ、話はまたそこに逆戻り。

 私は、それにただただ微笑みを返しただけだった。それから、暫くは、二人のお喋りを黙って聞いていた。

「でも、今まで、校内で、告白は結構されてたみたいですけど、誰とも付きあったりしてなかったんですよね」

「だから、他校に彼女がいるんじゃないかって一時は噂されたりもしたけれど、本人はすっごくガードが固いっていうか」

「そうそう、そういう話が全く出てこなくて。仲のいい友達とかクラスメイトとかにそれとなく聞いてみても、誰もそう言う話は聞かないって」

「ちょっとそれって嘘っぽいよね」

「だから、余計に、他の子達も望みはあるかもって」

「単に興味がなかっただけなんじゃないの? 偶々、好きな子がいなかったとか」

 それは、本人のみぞ知ると言うところだが、仮にも高校生の男の子。恋愛ごとに関心がないと言うのは………有り得ないか、などと口にしてから思った。

 すると何やら意味深な目付きでこちらをちらりと見てから、茶色の髪の子は好奇心たっぷりに微笑んだ。緩やかな柔らかそうな髪がふわりと揺れる。

「だから、みんな興味津々なんですよ?」

「あら、どうして?」

 何やら話が妙な方向へ流れていく気がして、私は、内心、どきりとした。

「だって、あの坂井くんが女の人を呼んだって」

「私は、単にお弁当を届けに来ただけよ?」

 態とおどけた様に肩を竦めて見せる。

「たとえ、それが本当だったとしても。坂井くんの周りに女っ気みたいなのってなかったんですよ?」

「みんなやっぱり、好みとか気になってるから」

 その言葉に、私は可笑しさを堪えるように小さく笑った。

 目の前の子達は、その子達なりに必死なのだ。外側から見ているのならば、なんというか微笑ましい光景だ。

「本人に聞いてみたらいいじゃない?」

 その人の好みなんて、本人以外には分からないのだから。

「それが出来れば苦労しないですよ~」

 ちょっとふてくされた様に茶色の髪の子が口にすれば

「今のところ、そんなチャレンジャーなんていないし」

 もう一人の黒髪の子も、訳知り顔で頷いている。

「あら、どうして? クラスメイトで普通にお話はするんでしょう?」

「そうなんですけど………」

 面映ゆそうに髪を耳に掛ける仕草に、なんだか私は甘酸っぱい気分に浸っていた。

「ふふふ。ごめんなさいね。困らせる積りはないのよ?」

 微笑ましい気分で穏やかに口元を緩めれば、二人はちょっと困ったように照れ笑いをした。


 さてさて、それでは後で聞いてみるとしようか。話の種に。きっと信思君はあからさまに嫌そうな顔をしそうだが、それでも渋々といった形で口を開くに違いない。

 私の中にあるデータが形作る『信思君像』と今日だけで得られた膨大なデータを擦り合わせて統合させなければならない。きっと最終的には、これまでにはない形と色が表れる気がする。それは、ほんの少し、怖くもあり、楽しみでもあった。




 混乱の様相を呈した騎馬戦は、程なくして終了を告げた。体中泥だらけになった戦士たちが陣地に戻って行く。帰還した勇者達に、残っていた女の子達は労いの言葉を送った。

 帰って来た信思君は、例に漏れず埃まみれだった。額際にはびっしょりと汗を掻き、時折、滴り落ちるそれを鬱陶しそうに腕で拭う。

 隣に座っていた女の子達は、男の子達が帰ってくると静かに元の場所に戻ったようだった。

「真帆櫓さん。飲み物残ってる?」

 そう聞かれて、私は鞄の中に入っていた飲みかけのペットボトルを、キャップを外してから手渡した。

「大分、温くなってるわよ?」

「いい」

 逆さに掲げて、勢いよく嚥下する。その度に喉仏が上下した。

「全部飲んでいい?」

「どうぞ」

 余程、喉が渇いていたのか、瞬く間に半透明な液体が空になった。

「サンキュ」

 空になったボトルを受け取れば、信思君は口元を剥き出しの腕で拭っていた。

 漸く、人心地ついたらしかった。

 よく見れば、顔も腕も膝から下も。剥き出しになっている部分は埃まみれで、薄茶色の跡が付いていた。奮戦の様子がそれだけで窺える。青いTシャツは汗で滲み、沢山の白っぽい手形らしき跡まで見える。中々に揉まれたようだ。

「お疲れ様」

 身につけているものは、戦闘の激しさを思わせるようにくたくただったが、信思君本人は、やや疲労した様子を見せながらも、どこか溌剌としてすっきりとした顔をしていた。頬に一筋、どこぞの部族の勇敢な戦士みたいに泥が付着している。

 じっと観察をしていたこちらの視線に気が付いたのか、信思君は改めて自分の全身を見回した。

「うへぇ、泥だらけだ」

「戦の勲章じゃない」

 それから振り返って、遠く、透かし見た先は、水道のある一角で、同じような格好の俄か戦士達が戦闘の後の汚れを落としているようだった。

「洗ってくる」

 そういって踵を返した背中に声を掛ける。

「飲み物は? まだいる?」

「あ、欲しい」

「何がいい?」

「同じやつ」

 その返答に、私は鞄を手に立ちあがった。

 自動販売機は、校舎のよりの休憩スペースが併設されたロビーのような所にあった。方向としては同じだ。

「タオルあるから、買ったら、そっちに行くわね」

「ん」

 そう声を掛けて、真っ直ぐ水道の洗い場を目指した信思君の背中を私も追った。




 飲み物を買って、洗い場まで来ると随分と賑やかな声がしていた。

 泥を落としつつといっても、今日は朝からよく晴れて、午後になってから気温が随分と上がった所為か、冷たい水が気持ちいいのかもしれない。もはや、水かけ遊びのようなことになっていた。こういう所は、まだまだ男の子の方が子供っぽいところがある。黙々と腕やら足やらの汚れを落としている子の傍らで、じゃれ合いを続ける子達が大声を上げながら、水道の水を掛けあったりしている。そんな遣り取りは、小学生みたいに無邪気だった。

 信思君は、端っこの方で剥き出しになった腕の汚れを落としていた。そして、バシャバシャと勢いよく顔を洗っていたかと思えば、今度は蛇口の方に頭を突っ込んで頭部全体を水で濡らした。いつにない豪快さに、半ば驚きながらも私は目を細めた。

 身体の火照りが取れたのか、上半身を起こすと、濡れそぼった髪を掻き上げた。気持ち良さそうに目を細める。

 それを見て無意識に鼓動が跳ねあがった。額際に濡れた髪が張り付いて、水滴が滴り落ちる。

 ぼんやりとその様子を眺めていた私に気が付くと、信思君は意味ありげに小さく笑った。

「なに、考えてんの?」

「え? な…なにが?」

 ぼんやりと物思いに浸っていた途中に、不意に口にされて。私は現実世界に引き戻された。動揺を隠そうとしても間に合わなかった。

 気が付いたら、信思君が目の前に立っていた。浴びた水がキラキラと太陽光を反射して、額際、頬、首元を滴り落ちていた。硬質で静寂な風貌を持つ彼は、形容しがたい雄としての色気を放っているように見えた。

 『水も滴るいい男』―――まさにその通り。言い得て妙だ。

「真帆櫓さんさ、今、どんな顔してるか、分かってる?」

 張り付いた髪を掻き上げて、したり顔でふっと口元を緩めた。計算などされていないだろう、ごく自然な動作。何気ない所作であるからこそ、その威力は半端無いものだった。

 私は自分の身体の熱が、急速に末端へ流れて行くのが分かった。

 先程、自ら作り上げた幻想が匂い立つように現前に広がる。それが、実像に重なる前に、私は慌てて、脳内の残像を消し去ろうと試みた。理性の天秤が酷く頼りなく揺れた。

「想像した?」

「………な……なにを?」

 意味深な含みのある問い掛けに、私の反応がワンテンポ遅れる。

 心臓が煩い位に高鳴っていた。ドクドクと耳の奥が共鳴する。

 信思君は、徐に手を伸ばすと、指先で私の頬にそっと触れた。ひんやりと冷たい感触が頬を掠める。

 指先を通じて、私の熱が伝導する。身体の内側を渦巻く高ぶりまでも引きずられて向こう側に筒抜けてしまいそうだと思った。

「あっちのこと」

 ひっそりと並べられたのは、暗号のような符牒。それでも、私には、それが何を意味しているのかが分かった。今しがたしていた自分の脳内映像をずばりと指摘されて、私は居たたまれなさに硬直した。

 思わず視線を彷徨わせれば、信思君が雰囲気で笑ったのが感じ取れた。


 見上げれば、そこにはどこか場違いな程の熱が、その目に映り込んでいるのが見て取れた。魔法に掛かったように、瞬きを繰り返す。収縮する瞳孔に、反射した私の虚像が揺れる。

 きっと、今、自分の顔は酷く情けないものになっているのではないだろうか。

 混乱する思考の片隅で、辛うじて冷静を保っている部分が、そんな囁きを残して消えていった。絡めとられる。このままではいけない。今、ここで、この感情に引きずられる訳にはいかない。理性が警鐘を鳴らし始めていた。

「誘ってんの?」

 言い知れぬ熱い眼差しが、真っ直ぐに私を貫いた。

「…………すげぇ、もの欲しそうな顔してるよ?」

 低く、耳元で囁かれた。

 じわりじわりと私の身体は、意志とは裏腹に、正直過ぎるほどの反応を返し始めていた。頬へ熱を帯びた吐息が掠める。


『なんだよ、それ!』

 と同時に、外部からのんびりとした笑い声が、耳に入って来て、私ははっと我に返った。

 鞄から取り出して、手にしていた大きめのタオルを目の前にある濡れた頭部に被せた。

 魔法の影響を断ち切るように。

「もう………何、言っているの」

 危なかった。もう少しで。

 自分は何をしようとしていたのか。

 わしわしと意趣返しの意味合いを込めて、少し強めにタオルを押しつける。

「うわっ、いたたたたた、強い、強いって。てか、もうちょっと優しく………」

 直ぐ傍で上がる小さな抗議の声を敢えて聞き流す。

 反射的に引かれる頭を胸元に抱え込むようにして、その動きを封じ込めた。八当たりであることは百も承知だ。

 しかし、こんな所で、あんな仄めかし方をする信思君も悪いのだ。

「真帆櫓さんってば…………おうわっ」

「ほら、大人しくしてなさい。まだ濡れてるわよ」

 本気で抵抗をすれば、力の差は歴然な訳であるから、瞬く間にこの拘束など取れるだろう。

 だが、それをしないのは、信思君なりに私とのじゃれあいに付き合ってくれるということなのだろう。

 ぐしゃぐしゃに掻きまわして、気が晴れたのでゆっくりと手を放す。そして、今度は、それまでの自分の大人げない行為を反省するように、乱れた髪を手櫛で優しく整えてやった。

 やがて、信思君は閉じていた目をそろりと開けた。

 視線が合えば、悪戯っぽく小さく笑った。

「なぁに?」

「べつに?」

 間近にある顔は、なんだか楽しそうだ。




 そんな時だった。

 ―――――バシャ!!!

「!!!!!!!!!」

 何かがぶつかった衝撃の後、背中に濡れた感触が伝わった。

 突然のことに、反射的に声が漏れる。

 跳ね上がった肩先に、信思君は身体を起こして、怪訝な顔を向けた。

「ん? どうした?」

 私は、恐る恐る振り返った。

「ウギャー、すんません!」

「あちゃあ、おま、バカ、なにやってんだよ!!」

「コントロールミス」

「ひゃぁー、どうしよ~」

「………あ」

 背後を覗きこんで上がった声に、私も首を後方に巡らした。

 背中一面には濡れた感触。視界の少し先には、どこから持ってきたのか、水風船を手にしているTシャツ姿の男の子達。どうやら、水風船を作って遊んでいて、投げ合いをするうちにその内の一つが、手元が狂い、私に当たったようだった。

「何やってんだよ」

 素早く状況を判断した信思君は、遊んでいた子達に向かって鋭い声を発した。

 私は、一先ず、手にしていた鞄を持ってもらって、ジャケットを手早く脱いだ。

 カーキ色のミリタリージャケットは、背中一面が変色していた。

 足元には、飛散した水しぶきの一部と小さなピンク色のゴムの破片。ジャケットを脱いでも、まだ、多少冷たさが背中に残る。それを見て、思いの外、水を浴びてしまったらしいことが分かった。いやはや、吃驚だ。

「すいません」

「大丈夫ですか?」

「ごめんなさい」

 慌てて駆けつけてきた子達は、皆、顔面蒼白だった。何故か泣きそうな顔をしている。仲間内のおふざけで、真逆、こんなところに一般人がいるとは思いもよらなかったに違いない。

 がばりと勢いよく頭を下げられて、私は肩を震わせた。

「大丈夫よ。ちょっと濡れただけだから」

 そこまで深刻なことではないし、別段、憤りを感じた訳でもなかったので、安心させるように微笑んだ。大したことではない。ただ、偶然、水が掛かってしまっただけだ。悪気があった訳ではないのだ。敢えて言うならば、驚いた。それだけのこと。

「………全然、ちょっとじゃねぇじゃん」

 信思君が水を差すように大きく溜息を吐いて、ぶすりと不服気に漏らした。

 それを流して、私は来た子達に向き直った。

「そんなに気にしないで。今日は暖かいから直ぐに乾くだろうし。この服だって、別に濡れても構わないものだし。私がこんなところでぼけっと立っていたのもいけないから。これ、普通のお水でしょう?」

「……はぁ」

「ですが……」

「水、結構入ってたし」

「かなり濡れちゃいましたよね」

 チラチラと私が手にしているジャケットへ視線を送る。それだけで、この子達が本当に申し訳なく思っているという気持ちが伝わって来て、私はその気持ちだけで十分だと微笑み返した。

「乾けば平気よ?」

「「「「ホント、すいませんでした!」」」」

「次は気を付けてね」

「「「「はい」」」」

 穏やかに微笑めば、その子達は、こちらの気持ちが伝わったのか、よかったとあからさまに安堵の表情を浮かべた。

「真帆櫓さん…………優しすぎ」

 だが、ここにもう一人、不満そうなのがいた。

 もっと怒ればいいのにとでも言いたげな顔をして、前に立っていた信思君は、私の腰のあたりを両手で掴んだまま眉根を下げた。

 その反応を恐恐と窺う男の子達。もしかしなくとも、彼らは下級生だったのだろうか。心配してくれるのは有り難いが、別に目くじらを立てる程の事ではない。常日頃から沸点はかなり高い方だし、第一、子供達のしたことだ。それに、今日はお祭りなのだ。ある程度の無礼講も有りだろう。

 私は話の流れを変えるべく、目の前の硬質な顔を見上げた。

「それより、ねぇ、信思くん。背中、目立つ?」

 背中には、不快と言うほどではないが、まだ濡れた感触があった。

 自分では生憎、よく見えない為、このまま乾くのを待っていていいのだろうか。

 そう思って訊けば、信思君は肩越しに私の背後を覗きこんで、遠慮がちに手を這わせた。

「冷たい?」

「少しだけ。でも、大したことじゃないわよ?」

「あー………濡れてんのは、あんまし、分かんないかもだけど…………」

それから言い難そうに言葉を濁す。

「その………白だから…………ああと……その……ブラが透けてる。…………薄いブルーのレース?」

「………あらららら」

 躊躇いつつ口にされた言葉に私は内心、困ったと思った。

 普通に乾くまで待てばいいかと思ったのだが、どうにもこうにも、そう言う訳にはいかなさそうだ。これではみっともない。タオルを背中に掛けておくのがいいのだろうが、余分に持ってきただろうか。

「気になる? 自然に乾くのを待てばいいかなと思ったんだけど……やっぱり……おかしいわよね?」

 私の問いかけに、信思君は試すがめつ触った後、

「いや、変っつうか………、ぶっちゃけ、エロい」

 そんなことを真顔で言った。

「何、言ってるの」

 急に矛先を変えた展開に、私は苦笑を洩らす。

 そういう感想は求めていなかった訳だが、要するに、人目を憚った方がよいと言うことだろう。若干一名、妙な気を起こされても困る―――――というのは冗談だが。


 そうこうするうちに、背中に回っていた手が何やら動き始めた。身につけている白い半袖カットソーの生地が引っ張られる。そして、やや骨ばった大きな掌が直に肌に触れてきた。

「ん? 何してるの?」

「こっちのタオルで水気が取れないかと思って」

 どうやら鞄の中に入れていたハンドタオルを濡れた個所に中から当てたようだった。

「え、信思くん?」

 やけに熱を持った掌が、背中をゆっくりと撫で上げた。前から覆いかぶさるような体勢の為、此方からその表情は見えない。

 明らかに別の目的を持っていそうな接触に私は慌てた。水風船で遊んでいた子達が、どうにも気になるようで、此方の遣り取りを遠巻きに見ていた。他にも水道の洗い場付近にはまだそれなりの生徒達が残っていて、興味津々にこちらの様子を窺っている。その内の何人かは、呆気に取られた顔をして、驚きに目を見開いていた。

 こんなところで、真逆の羞恥プレイ。信思君は、人目があることを分かっているのだろうか。

 私は、内心焦っていた。この体勢をどうにかしようと思考を巡らす。

 そして閃いた。

「ねぇ、キミ、ジャージの上着、どうした?」

 確か、お昼を食べた時には、身につけていた筈だ。取り敢えず、誤魔化す為に上着を貸してもらえば良いのではないか。少なくともジャケットが乾くまで。

 我ながらいい思いつきに顔を上げれば、

「あ? ジャージ?」

 信思君は漸く傾けていた顔を上げた。手は、未だに背中の上。きっと濡れた水が冷たいだろうからという気遣いなのだろうけれど、今はその優しさが面映ゆい。というか居た堪れない。

「そう。貸してもらえる? こっちが乾くまで」

 そう言ってジャケットを持つ手を軽く上げる。こちらの言いたいことを察した信思君は、身体を起こすと、小首を傾げた。

「いいけど…………。あー、本部に置きっぱだ」

 そう言って、少し苦い顔をして見せた。

 私は、離れていった大きな手の感触を少し寂しく思うと同時に、ほっとした。

 相変わらず立ち位置は近いままだが、それは特に気にしてはいなかった。


「あの~、俺のでよかったら、貸しましょうか?」

 あっちに置いてあるんで。

 相変わらず、複雑な顔をしたままの信思君の傍らで、水遊びをしていた子達の一人が、躊躇いがちに声を掛けてきた。

 どうやら、向こうにはこちらの会話が筒抜けであったようだ。

 しっとりと水気を含んだ前髪を額に張り付けたまま、その子は、自分の後方を指し示した。

「そのままじゃ、寒いんじゃないですか。乾くまででよかったら、どうぞ」

 多少なりとも濡らしてしまったことをその子なりに気にしているようだった。

「でも、いいの? 借りても?」

「ええ、別に。今日は、暑くて殆ど着てませんから、汗臭くもない筈ですよ?」

 そう言って、密かに笑う。まだ、どこか少年っぽさの残る優しい面立ちに悪戯っぽさが入り混じる。小さく覗いた笑窪が印象的だった。すらりとした線の細い体型で、まだ成長過程なのか、先程のテントで見かけた三年生達と比べると、格段に迫力が違う。体格も自分とは然程変わりがないように思えて、サイズも大丈夫だろうと思った。その申し出は、渡りに船と言う感じだった。私としては信思君から借りる方が、気が楽であることには違いないのだが、彼のものは鬼門である本部にあって、取りに行かせるのも、なんだか申し訳ない。本人もあまり気が進まないようであるし。

「それじゃぁ………おね「いや、いいから。俺のがあるし」かし……ら?」

 ―――――お願いしようかしら。

 途中まで出かかった言葉は、有無を言わせない低い声に遮られてしまった。

「え?」

「真帆櫓さんは、ここで待ってて。ちょっと取りに行ってくっから」

 そして、声を掛けてくれた子を見た。

「つう訳で、そっちはいいから」

 そう言うなり、踵を返して、首にタオルを掛けたすらりとした背中はあっという間に小さくなった。

 私は、目を瞬かせて、その遠ざかる背中を見送った後、ゆっくりと隣に立つ、もう一人に向き直った。

 「ごめんなさいね。折角だけれど、気持ちだけもらっておくわね。心配してくれて、どうもありがとう」

 苦笑気味に相手を見遣る。折角の相手の好意に水を差すことになってしまって、やや申し訳ない。

 目が合うと、その子は、少しばつが悪そうに首の後ろに手を当てた。

「あー、すいません。なんか、大きなお世話っつうか、邪魔しちゃったみたいですね。そんな積りは無かったんですけど」

「そんなことはないわよ?」

「え、でも、ムッとしてましたよ、坂井先輩」

「そう?」

「やっぱ、間近で見ると無駄に迫力あるなぁ」

 その子は、こちらに分からないようなことを小さくひとりごちて、軽く頭を下げた後、友人達に合流していった。



 暫くして、信思君がジャージを片手に戻ってきた。信思君はジャージを広げると私の肩に掛けた。じりじりと焼かれるような熱へ影が出来る。

「これでOK」

 なにやら満足げな呟きに、

「ありがとう」

 態々、取りに行ってくれたことへ謝辞を述べた。

 思った通り、信思君のジャージはかなり大きかった。肩の位置は腕の半ばまで来ているし、袖も長い。 裾は太ももの半ばまであって、なんだか子供が大人の服を着たみたいな感じだ。みっともなく見えるかも知れない。私は誤魔化すように長い袖を捲った。

 信思君は、黙ったまま、何故かこちらの様子をじっと眺めていた。

「やっぱり、ぶかぶか。可笑しいわよね?」

 着られている感たっぷりで、その滑稽さを笑い飛ばそうと仰ぎ見れば、

「………いいかも」

 口元を手で押さえながら、なにやらぶつぶつと言っている。

「信思くん?」

 どこか、心ここにあらずといった反応を訝しく思い、覗き込めば、ハッと我に返って、漸く視線があった。そして、一連の挙動不審を誤魔化すように一つ咳払いをして見せると、何事も無かったかのように小さく微笑んだ。

 ジャージからは微かに嗅ぎ慣れたお馴染みの匂いがした。柑橘系の爽やかな香り。そこに混じるもう一つの別の匂い。

 私は自分が着たジャージの襟元に鼻を寄せると、思わず口を滑らせていた。

「ふふふ。キミの匂いがする」

 後から冷静に考えてみれば、随分と変態くさい発言だ。

「な……」

 信思くんはぎょっとしたような顔をしたかと思うと、その目元がみるみる内に赤くなり始めた。

「あ、ごめんなさい。別に他意はないのよ」

 恥ずかしいことを言った自覚はあるので慌てて言い訳がましい弁解をする。

 呆れられただろうか。

 信思くんは、顔を大きな骨ばった掌で覆って、指の間からこちらを透かし見たかと思うと、大きく態とらしい溜息を吐いた。

「ええと、ついね」

 誤魔化すように笑ってみる。

「真帆櫓さん、それ、態と?」

「何が?」

「………んな訳ないか」

 問われたことの意味が分からなくて、頭上で疑問符を浮かべれば、信思君は一人自己完結してしまったようだった。

「ねぇ、何の話?」

「何でもない」

 そして、それ以上は口を開かない積りらしかった。

「ふーん」

「それより喉渇いた」

「はいはい」

 急に変わった話の流れに、私の方もそれ以上の追及は止めることにして、先程、自販機で購入したスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。

 信思君は蓋を開けると天を仰ぎ、ゴクゴクと喉を鳴らして嚥下した。

 男らしい喉仏が上下する。そのしなやかな曲線が動く様を私はなんだか釈然としない気分で眺めやった。




 それから再び、グラウンドの方に戻って。

 私は、濡れた背中と手にしたジャケットを乾かす為に、最初にここに来た時に座った後方のベンチへと退くことにした。

 ベンチの端にジャケットを掛けて、借りていたジャージの上を脱ぐ。後ろで一つ束ねていた髪を脇に避けて、濡れた部分が乾く様に調整した。じりじりとした陽射しが背中に当たる。

 信思君は私の意図が分かったようで、クラスの方には戻らずにこちらに着いて来た。と言っても目と鼻の先であるが。

 私の隣に腰を下ろすと、長い脚をだらりと前へ投げ出して、前方のグラウンドの方へ視線を投げながら、眩しそうに目を細めた。

 時折、思い出したように吹き込む風が、日光を浴びて火照った体温を鎮めてゆく。男らしい横顔を象る癖の無い黒髪が、さらさらと風に揺れて隠れた額を顕わにした。

 賑やかな喧騒は、直ぐ目の前にあると言うのに、この場所は不思議な静寂に満ちていた。

 大きな木から伸びた枝葉の影が、足下で点々と黒い斑点を描いて揺れる。まるで少し先に、こちら側とあちら側を遮断する透明な境界線があるみたいだ。


「ありがと」

 不意に聞こえた静かな声に、私は同じように前を向いていた視線を横にずらした。

「来てくれて」

 信思君が穏やかな表情をしてこちらを見ていた。

 私は小さく微笑むと首を振った。別に気にすることではないという意味合いを込めて。

 寧ろ感謝をするのは私の方かもしれない。今日は、狭い通勤電車の中だけでは知りえなかった信思君の一面を垣間見ることが出来たのだから。恐らく、素に近い、年相応の一面だ。

 私は、再び視線を前方に戻すと、賑やかな歓声が沸き上がるグラウンドを透かし見た。

 さやさやと頬を撫でて行く風が気持ちいい。

「今日は、みんな日焼けするかもしれないわね」

 とりとめのない感想を独りごちる。

 ベンチの上に置いていた私の手に、大きな手が被さった。

「キミも焼けるんじゃない?」

 日本人形のような涼しい顔立ちが、日に焼けて黒くなる様は、余り想像が付かなくて、その思い付きに一人、喉の奥を鳴らす。

「なに?」

 案の定、訝しげな視線がこちらに向けられる。

 私は内心の可笑しさを誤魔化すように緩く頭を振った。

「そうだ。真帆櫓さん」

 急に良いことを思い付いたとばかりに信思君が顔を上げた。

 ついと顔を寄せられて、近づいた瞳が悪戯っぽく光る。

「さっきの約束だけど」

 リレーで優勝した時の対価(ご褒美)の話を蒸し返されて、

「何にするか決めたの?」

 私の問いかけに頷くと、

「それ着て、俺と写真撮って」

 膝の上に畳んだジャージを指差した。

 私は、ジャージとその妙な提案をした人物の顔を交互に見遣った。

 怪訝な顔をした私の前で、いそいそとズボンのポケットの中から携帯を取り出す。

「早く」

「ん? うん」

 私は一度脱いだ借り物の大きなジャージを再び羽織った。

「袖もちゃんと着て」

 急かされるままに袖を通して、気が付けば肩を抱かれて真正面の小さなファインダーを見るように言われていた。

 ―――――――カシャ。

 そして玩具のようなカメラ特有のシャッター音がした。

 画面を確認した信思君は、満足がいったように微笑んでいる。

 念の為、私もその画面を見せて貰う。

 そこには、自然な笑みを湛えた信思君と少し驚いて虚を突かれたような顔をしている私が映っていた。なんだか滑稽な気がしたが、私は敢えて口を挟まないことにした。



 それから体育祭の演目は多少の時間的遅れはあったものの恙無く進行し、実行委員会の手伝いに駆り出されていた信思君もほっとしたように安堵の息を吐いていた。

 閉会式とその後に片付けやらHRがあるということで、私は、そこでお暇することにした。


 校門の所まで見送りに着いて来た長身を私は見上げた。

「今日は楽しかった。ありがとう」

「それはこっちの台詞」

「それじゃぁ、また、明日……」

 と言い掛けて、休日に学校行事を行った時の恒例で、信思君は明日休みであることを思い出す。

「じゃなくて、明後日ね」

 明日は、車内にこの長身が居ない。それを思うと少し妙な感じがした。

「明日はゆっくりお休みね」

「真帆櫓さん」

「ん?」

「さっきのスポーツドリンク、残ってる?」

「あるわよ」

 鞄から取り出せば、まだ半分位残っていた。いつものように少し口にしただけで、結局最後まで飲みきれなかった。

「頂戴」

 そう言われて、私は素直にペットボトルを手渡した。

 次の瞬間、無言のまま、差し出した腕ごと引き寄せられて剥き出しの筋肉質な腕に強く抱き締められていた。

「ありがと」

 そして、直ぐにその一言と共に解放される。

「どういたしまして」

 私も微笑んで、小さく手を振ると帰路に着くべく、踵を返した。

 足取りはまだふわふわとしていて、頗る軽かった。

 こうして賑やかで濃密な一時が、終わりを告げたのだった。

 私の無意識の中に様々な変化をもたらしながら。


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