番外編 本日も晴天なり 前編
第十話直後の体育祭のお話を番外編にしました。真帆櫓視点のお話です。
大分前に書いたものなので本編とは設定が微妙に変わってしまいまして、若干手直しを入れたのですが、かなり糖分が高めになりました。
付き合い始める前の筈なのですが、砂を吐くほど甘いです。
真帆櫓さん、かなり流されています。
今後、信思視点のお話を始めるにあたり(すでに始めてしまいましたが)、学校での様子とか、友人たちとのやりとりといった空気感を少し明らかにできたらと思いまして、載せることにしました。
かなり長くなりますがお付き合い下さい。
2011/2/14 誤字訂正
約束の日曜日。天気は快晴。突き抜ける空は青く、初夏を思わせる強い日差しになりそうな一日の始まりだった。
私は、肩に担いだ鞄を掛け直すと人気の無い門を潜った。
遠くから歓声が聞こえる。
「こんにちは。いいお天気ですね」
挨拶がてら、門にいる守衛さんに声を掛けた。
「ええ。本当に。体育祭日和というものです。一般の方ですか?」
「はい。お弁当を届けに」
手にしていた鞄を持ち上げれば、白髪交じりの守衛さんは穏やかに微笑んだ。
「そうですか。もうすぐお昼ですからね。楽しんでいってください」
「はい。ありがとうございます」
ポジション的には生徒の身内といったところだろうか。核心からは外れた世間話。それでも嘘は言っていない。目に見えない通行証。穏やかでひっそりとした潤滑剤みたいなものだ。
人の良さそうな守衛さんに軽く頭を下げて、私はグラウンドへ向かった。
時刻は十一時半を回ったところ。お昼に合わせた時間だ。
校庭には、色が氾濫していた。学年通しのクラス対抗らしい事は事前に聞いていた。クラス毎にTシャツとハチマキのカラーが違っていて目にも鮮やかなコントラストを作り出していた。その中から、私は信思君のクラスである青色を探した。
マイクを通した放送の声が響いていた。アップテンポのBGM。競技が行われているらしいグラウンドの中心には、ランダムな人の流れが出来ていて実に賑やかだ。
そこから視線を外して周囲を見渡せば、成程、ジャージ姿に混じって私服姿の人達がチラホラしている。学校が違う友達の所に遊びに来たのか、着飾った女の子達の集団もいくつかある。聞いていた通り、外部からの観客もそれなりに入っているようだった。
そして、ここからそう遠くはない対角線上に青色の塊を見つけた。
「あそこ……かしら?」
鞄に入れていたデジカメを取り出してスタンバイさせておく。記念にカメラマンの真似事をすることになるとは思っても見なかった。
信思君が出場する競技は、午後からだと言っていた。リレーと騎馬戦、借り物競走……だったか。あともう一つ何かがあった気がするのだが、それは思い出せなかった。少し耳慣れないものだった気がする。
到着したら携帯に連絡を入れてくれと言われていたが、時間やプログラムの変更が無いとも限らない。
そもそも携帯を肌身離さず手元に置いているかも怪しい。そんな時に邪魔をしては悪い気がして先に信思君の姿を探そうと思ったのだが、中々に上手くはいかないものだ。大人数の中から、目当ての一人を見つけるのは中々に難しかった。
なにはともあれ、私は青い集団の方へ足を進めた。
少し前には華やいだ女の子達の集団。ハチマキをリボンのように髪に巻いている子、カチューシャのように頭に巻いている子、その外見は様々で。それでも皆に共通しているのは、お洒落には余念がない年頃ということだ。
応援の声が甲高く響く。その映像は、昔見た新聞記事に掲載された高校野球のスタンドのモノクロ写真を思い出させた。
そして直ぐ傍には男の子達の集団もある。袖をまくって肩を剥き出しにした子や仲間内でふざけ合っている子達、部活のユニホームらしきものを着ている子達。応援の声は、半ば野次のようにも聞こえて、まるで映画の中の野武士の咆哮のようだった。
中でも、お揃いの青いTシャツに描かれた図柄は、ややシュールで何故か可笑しみを禁じえなかった。
パイプ煙草を銜えたキリン。その表情はどこか飄々としていて。もしかしなくとも担任の教師を真似たものだろうか。そんな想像を働かせるのも楽しい。
ここの空気に当てられている。見ているだけの此方へも静かな高揚感が手を伸ばしてきているのが感じられた。
そのような独特な空気を観察しながら、私はメールを入れることにした。
このままでは時間だけが徒に過ぎてゆく。取り敢えず、到着している旨は伝えておこう。時間に余裕が出来た時に気が付いてくれればいいのだから。
【ランチ・デリバリーサービスです。御用命のものをお届けに参りました。御都合が宜しければ、ご連絡ください】
少しの遊び心を加えて。この位の冗談には付き合ってもらえるだろう。そう踏んで、送信ボタンを押した。
さて、大人しく待つと致しますか。
再び顔を上げて、辺りを見渡す。
太陽が中天に差し掛かり、日差しが段々と強さを増してきていた。じりじりと肌を焼く熱さに早速、根を上げそうになった。何処かに日陰は無いだろうかと首を巡らせて、ちょうど後方に大きな枝ぶりの欅の木を見つけた。伸びた枝には新緑がたわわに茂り、サヤサヤとこの時期特有の乾いた心地よい風に揺れている。ちょうど良い具合に木製のベンチまで設えてあって、私は迷うことなくそこに向かうと腰を落ち着けた。
前方には相変わらず賑やかな青い集団。そこに時折、別の色が混じるのをぼんやりと眺める。
皆、頗る元気だ。余りある体力を持て余しているのだろう。甲高い声は尽きることが無い。
私は眩しいものに対峙するように目を細めていた。直視するには、想い出という名の感傷が邪魔をする光景だ。
そんな他愛もない事を考えていると、突然声を掛けられた。
「すみませーん」
声がした方に顔を向ければ、青いTシャツの一団の中から、同じ格好をした女の子が一人抜け出して来た。
何だろう。ここで待つのは彼らにとっては具合が悪かったのだろうか。
「なにかしら?」
内心、冷や冷やしながらも余所行きの笑みを張り付ければ、
「あのぉ~、写真、撮ってもらってもいいですかぁ?」
間延びした特徴のある話し方に、自分の勘違いを悟り苦笑する。
女の子は私の前まで来ると、笑みを浮かべて後方に集う友人達を指示していた。
「写真ですか? いいですよ?」
快諾すれば、デジタルカメラを手渡された。
オーケーサインを後ろに出して、踵を返した女の子の後を追う。お弁当が入った鞄は邪魔になるので、ひとまずベンチの所に置いた。木陰でもあるし、この近さなら問題ないだろう。
被っていた鍔広の帽子も取る。これで視界はクリアになった。
カメラの基本性能をざっと確認して電源を入れた。自分の保持しているものと大差ない。まぁ、大体、基本機能は一緒であるから、撮影すること自体に余り違いは無いのだが。
カメラを構えてファインダー越しに前を見れば、女の子達が集まって来た。クラスメイトの男の子達にも声が掛かる。興味深そうに寄ってくる子や、さも面倒くさそうに眉を顰める子。反応は其々だ。乗りのいい子達は率先して列に並んだ。
画面を見ながらわらわらと集まってくる集団との距離を調整する。あんまり引き気味だと顔が小さくなるし、かといって近過ぎると全員が入り切らない。写真にプリントするときはデジカメの設定画面と写真サイズの縦横の比率が異なるから、少し余裕を持たせないと端っこが切れてしまう。集合写真は中々に苦労するのだ。
「もう少し真中に寄ってください。端のキミ、切れてしまうから、こっちに」
声を掛けながら手で合図をする。全員が枠の中に収まったのを確認。
「はい、じゃぁ撮りますよ。いいですか?」
「オーケーでーす!」
「はーい!」
「うわわわ、ちょっと待って!」
「待てませーん!」
冗談めかして、タイミングを外す声を軽くあしらってから漸く合図を出した。
「1足す1は?」
「………………」
「………………」
不意に降りた沈黙に、私は首を傾げた。
「あら、ちょっと古かったかしら?」
通じなかった? もしかしなくても、ジェネレーションギャップ?
内心、地味にショックを受けていると一呼吸置いてから爆笑の渦に巻き込まれた。
居たたまれない。笑われてしまったことに羞恥心を感じつつも、皆が笑顔を見せたその間にシャッターを切っていた。
「あー!!!!」
それに気が付いた何人かが声を上げる。
「撮っちゃいました?」
「ええ」
意趣返しとばかりに大きく頷く。
ブーイングが湧きあがって、私はもう一度カメラを構えた。
「はーい。では御要望にお応えして、もう一枚、いきますよ」
そして、今度はごく普通の一般的な合図を送る。
「はい、CHEESE」
独特の機械的シャッター音が響いた。
画面にブレが無いことを確認してもらって、私はカメラを持ち主に返した。
なんだかどっと疲れた。精神的に。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
礼を口にしたその子に微笑みを返す。何処となく浮足立った空気に、先程の写真が気になるのか、生徒達が集まって来た。
「おねーさん、見学?」
さて、用事も済んだ事だし、木陰に戻ろうかと踵を返したところで、カメラを覗きに集まった男の子の一人が不意にそんなことを訊いてきた。何処か人懐こそうな顔に八重歯がちらりと覗く。
明らかな部外者が一人待ちぼうけを食っていたことが気になったのだろうか。彼らからしてみれば、私は異分子、基、不審人物だ。警戒されてしまっても仕方がない。
「お弁当を届けに来たの。もうすぐお昼でしょう?」
正直な種明かしをすれば、
「うぉぉぉ、マジすか。いいなぁ」
何故か微妙な反応が返ってきて、なんと答えたものかと内心苦笑する。
「そう言えば、もうそんな時間か」
すぐ隣に立っていた友人らしき男の子が、空を仰いでから尤もらしく合槌を打った。
「弁当って、ひょっとして、おねーさんの手作り?」
「ええ」
唐突な質問に頷けば、
「マジっすか!」
あからさまに驚いたようなリアクションを返されて、私はまたも苦笑を洩らさざるを得なかった。
料理するようには見えないのだろうか。面と向かってそう揶揄されているようで少しショックではある。まぁ、本人に他意はなさそうではあるけれど。
「ふふ、料理するようには見えない?」
一応聞いてみれば、
「いや、違くって。単に羨ましいなぁと」
「そう?」
すぐさま否定の言葉が返って来た。向こうなりにフォローをしてくれたのかも知れない。
こんなところで相手に気を遣わせてどうするのだ。私は、少しもやもやした感情を微笑みの中に濁した。
―――――そんな事よりも。
待ち人来たらず。
奇しくもこの子たちは、私の待ち合わせの相手と同じ色のTシャツを着ている。あの子もてっきりここにいるのかと思ったのだが、探し人の姿は生憎見当たらなかった。
学年は違うかもしれないが、訊いてみてもいいだろうか。先程メールを入れていたが、まだ連絡は入っていない。ひょっとしたら何か有益な情報が聞けるかもしれない。
「君たちは何年生?」
「俺ら?」
見返した顔に微笑んで頷き返す。
「俺は三年で、こっちの喧しいのが二年」
すると落ち着いた感じの生徒の方がそう答えた。
成程、人懐こそうな八重歯が覗く子が二年生で、ちょっと真面目そうな感じの子が三年生らしい。
「学年が違っても、仲がいいのね」
初めはクラスメイトなのかと思ったぐらいだ。和気藹々と戯れ合っている姿は微笑ましい。
「おねーさん、誰か探してんの?」
問いを発した後輩の後頭部を先輩が勢いよく叩いた。
「アタ! なんすか!」
「お前は話を聞いていたか? この人は弁当を届けに来たと言っていただろ。相手がいる」
「あー、そっか」
コントのような軽妙な遣り取りに私は思わず噴き出した。
「んで、おねーさんが弁当を届けに来たっていう激羨ましいヤツは誰なんすか?」
「差支え無ければ、探すの手伝いましょうか?」
被せるように口にされて、親切心に微笑んだ。
「ありがとう」
ならば言葉に甘えてもいいだろうか。
「あのね。君たちと同じ色らしくて、Tシャツが青色って聞いたからここに来てみたんだけれど………」
念のためもう一度携帯を取り出して、メールのチェックをする。連絡はまだ入っていなかった。
「連絡なし?」
「ええ」
「電話してみたら?」
「んー、でも、もしかしたら、今、携帯が手元にないのかも知れないから。メールは入れてあるから気が付いたら返事が来ると思うんだけれど」
それに学内では携帯使用禁止のような規則が無いのだろうか。
「相手は生徒ですよね。何年ですか?」
「二年生」
「つぅことは、お前と同じクラスだな」
先輩が後輩を見やれば、その子は途端に目を輝かせた。
「で、ここにいない奴か……」
そう言って後方の青色の集団を見渡した。
歩きながら、私は元いた欅の木の下に辿りついていた。
二人は何故かそのまま着いてきた。どうやら私の尋ね人が誰であるのか、彼らの好奇心を刺激してしまったらしい。ちょっとしたゲームのような感覚なのだろう。
二年生の子は後方を見透かしながら、
「あ、まだ、名前は言わないで。当てるから」
くるくると表情を変えながら、実に楽しそうに此方を見る。
妙なことになったものだ。退屈はしないから良いが、肝心の事が遅々として進まないのは事実だった。
――――まぁ、良いか。今日は彼らにとって『ハレの日』であるのだし。彼らのフィールドで余所者が好き勝手は出来まい。
私はお弁当が入った鞄を傍らに引き寄せるとベンチに腰を下ろした。
「高崎? 加藤?………いや、あそこにいるか」
「実行委員は?」
二年生の子がぶつぶつとクラスメイトの顔を照合させてゆく脇で、三年生の子もああだこうだと合いの手を入れていた。
そんな時だった。軽快なメロディーが辺りに鳴り響いた。
「携帯?」
途端に二人が此方を向く。
違えようのない耳に馴染んだ旋律。私のものだ。
ジーンズのポケットから取り出せば、そこにはお目当ての人物の名前が、ディスプレイに表示されていた。
「はい。『ランチ・デリバリーサービス』で御座います」
余所行きの仕事モードの時の声音で電話に出てみる。此方の意図が分かるだろうか。
『あー、…………………遅くなって、すみません』
若干の間があった後、小さな忍び笑いが耳元でこだました。
それに私も小さく笑って返した。
「お時間大丈夫ですか? 宜しければ、今からお届けにまいりますが」
『いえ、こちらから行きます。所在地を教えて頂ければ。………ていうか、今、何処ですか? 校内にいるんですよね?』
慣れない敬語に戸惑いながらも、私のお遊びに付き合ってくれるようだ。微妙な言い回しだが、努力は認める。
急に妙な会話を始めた私を先程の二人が怪訝な顔をして見ていた。
「少々、お待ちいただけますか?」
通話相手にそう断りを入れて、私は立ちあがると二人へ声を掛けた。
「ありがとう。連絡がついたので、大丈夫ですよ」
耳に当てている携帯を指し示しながら謝意を述べれば、
「それは良かったです」
「あー! でも、まだ誰だか当ててねぇ!」
両者より其々に特徴的な反応が返って来た。
『真帆櫓さん?………………誰か近くにいんの? てか、今、どこ?』
乗りを諦めたのか、通常モードに戻って矢継ぎ早に質問を出される。
私はゆっくりと辺りを見渡した。ひょっとしたら向こうからも此方の位置が見えるのではないかなどという淡い期待を抱いて。
「キミが言っていた青チームの近くにいるんだけど」
『はい?』
「親切な子達がいてね。心配してくれて、場所は………」
そのまま所在地を告げようとした時に、電話越しにざわざわとした大きな雑音が混じり、私は咄嗟に口を噤んだ。
『あ?……却下……ですって。………ざ…けんな』
遠くなった声に喧嘩腰の言い合い、切れ切れの怒声が微かに聞こえる。どうやら揉め事が起きているらしい。現在進行形で。
不意に空いた間に、
「大丈夫?」
言葉を挿み込む。
『あ、ごめん、真帆櫓さん、今からそっち行くから、えっと場所は………、って、ちょっ、………おい…………』
ガヤガヤとした背景音に小さくなった信思君の焦っているような声。
『何すんですか! 返して下さいよ!』
途切れ途切れに聞こえる言い争う雑音の後に、違うトーンの声が電話口に響いた。
『もしもし、お電話変わりました』
どうやら強制的に誰かと電話を変わったらしい。さてさて、向こうでは何が起こっているのやら。
成り行きを見守るように沈黙を貫く。
『突然すみません。不躾を承知でお願いしますが、此方へお越しいただけますか?』
実に柔らかで紳士的な物言いで言葉が紡がれた。教師だろうか。それとも生徒なのか。声だけからは判別がつかない。
私はそれに忍び笑いを漏らした。
「了解いたしました。そちらへお伺いすれば宜しいのですね。それでは、場所を教えて頂けませんでしょうか。何分不慣れなもので、直ぐに理解できれば宜しいのですが」
同じような口調で淀みなく返事を返せば、電話越しの相手が雰囲気で笑ったのが分かった。
『御心配には及びません。グラウンドの中心付近に、本部用の大きなテントが二つ立っています。向かって右側の方へお越しください』
成程。グラウンドの中心を透かし見れば、言われた通り仮設テントが見えた。白い帆布が太陽光を反射して眩しい。
「分かりました。早速、伺わせていただきます」
『はい、お待ち申しあげております』
そして、失礼しますとの文言と共に通話を切った。
「おねーさん、大丈夫そう?」
鞄を肩に担いで立ち上がった私に、二年生の子が声を掛ける。
「ええ。ありがとう。これから届けに行ってくるの」
意気揚々と足を踏み出せば、その隣の三年生の子が訊いた。
「ちなみにどちらへ?」
「あのテントの辺りですって」
先程、指示された場所を指し示せば、二人は顔を見合わせて、実に微妙な表情を作った。二年生の子は口元を引き攣らせて。三年生の子は苦虫を噛み潰したような顔をして。どうやら曰くつきの場所らしい。
「もしかして…………あのテント?」
二年生の子が恐る恐るというように口にする。
「ええ、本部のテントってあそこだけよね?」
「成程な」
私が淡々と答えれば、三年生の子は何やら納得したのか自己完結をしたようだった。
「って、あ~~~~~~! あいつか!」
此方の訪ね人の該当者に目星がついたのか、あからさまな大きな声が上がった。
そんなやや風変わりなBGMを背景に、私は少しの好奇心を持って、指示されたテントの方へと歩き出したのだった。
さて。目指すべき本部のテント。そのテント自体は巷でよく見かけるような、なんの変哲もない白い帆布だった。それをお決まりの如く、四本の鉄パイプが支えている。上空から見れば、ごく普通のものだ。 だが、近づくにつれその外観がやや変わっていることに気が付かざるを得なかった。
通常、テントの役割は日除けが主なもので、周囲はあけっぴろげ、実に解放感に溢れてしかるべきものだ。だから、私はテントの下まで行けば、見知った顔を見つけられると思っていたのだが………。
辿りついた先で、まず私の目に入ったものは、四方を囲む簾だった。
御簾……だろうか。咄嗟に時代錯誤的な言葉が頭を過る。いや、そこまでの雅さはないか。精々よしず張りというところか。外側からは内部が窺い知れない。逆に内側からは外が透かして見える。じつに体のいい目隠しだ。一体、どういうことなのか。中には日差しが天敵という人物が陣取っているのだろうか。普通ならばガラス張りのなかで主導権を握る筈の本部は、中々に謎めいている。先程の電話から察するに、信思君はこの中にいるのであろう。足止めを食らっているとか。他の生徒達の視線を遮ってまで、その中には何があるのか。疑問点は尽きないが、一々気に止めていても仕方がない。
さて、到着をしたはいいが、如何にして声を掛けようか。
私は、御簾からの連想で、枕草子にあるとある一段を思い出していた。冬場、雪が沢山降った翌日、中宮定子が清少納言に『香炉峯の雪や如何に』と問いかけて、清少納言がするすると御簾を上げてご覧に入れたという件だ。白楽天の詩をモチーフにした遊びの掛けあい。同じ素養を持つ主従同士
ならではのお遊びだ。私は、高校時代の古典の授業の延長でこの話を知ったが、今でもそれは変わらないのだろうか。
「香炉峯の雪や如何に」
季節は真冬とは正反対の初夏ではあったが、ふとした懐かしさに人知れず呟いていた。
あれだ、自己内対話が思わず外に漏れてしまったという奴だ。知らない人から見れば、私は意味不明な事を口走る不審人物だ。
すると、次の瞬間、驚くべき事態が私の目の前で起こった。
なんと、目の前の簾が、するすると音を立てずに上がって行くではないか。
「かくありなん」
そんな切り返しの言葉と共に。
なんという小憎らしい演出だろう。
内心、感動に浸っていると、簾の中からジャージ姿のまだ若い男が現れた。
極めて主観的な第一印象から言えば、高校生には見えない。ということは教師だろうか。
もしかしなくとも、正しいリアクションを返されたのだろうか。私は目を瞬かせる。
その人物と目が合った瞬間、『おや』というように相手の眉が跳ねあがったのが見て取れた。
「あれ、生徒じゃなかった?」
私の顔をまじまじと見て一言。ゆっくりと首を傾げる姿は何処かのほほんとしている。不思議な、それでも自分には波長の合いそうな馴染みある間合いに、私は笑みを零していた。
「何か、ご用ですか?」
其の問いかけに返すことなく、私の第一声は気になっていたことへの問いとなった。
「古典の先生でいらっしゃいますか?」
「ええ。担当は国語ですが、古文、漢文も含みますので」
「そうでしたか」
成程、と一人合点をすれば、質問の主旨が分かったのか更なる種明かしをしてくれた。
「ちょうどこの間、枕草子を授業で扱いましたので、てっきり、生徒が粋な謎かけをしてきたのだと思ったのですけれど………」
どうやら、違ったようですね。そう言って穏やかに微笑んだ。
「紛らわしい事をして申し訳ございません」
「いやいやいや、此方としても楽しめましたから」
私もちょっとした嬉しさ半分を笑って誤魔化した。
「で、どうされましたか?」
脇に逸れた本流が、再び、蛇行し元に戻る。私は、漸く、本来の目的を告げた。
「此方に二年生の坂井信思君がいるとお聞きしたのですが」
「ああ、坂井ですか。多分、中にいると思いますよ」
やや後方を振り返ってから、国語教師は『どうぞ、此方へ』と私を促した。
促されるまま、中に入る。途中まで上げられていた簾は、それを支える人物がいなくなった途端、滑らかに垂れ下がった。そして、私は黒いジャージ姿の背中を追った。
中は外に比べ、直射日光が遮られている分、ひんやりとしていた。簾越しにでも十分太陽光は入ってくるため、別段、暗いという印象は受けない。
内部は、大まかに二つに区分けされていた。入口から見て直ぐの手前には、机と椅子が並べられていて、教師と思われるジャージ姿の人達と放送部だろうか、マイクやら機材やらを並べたブースが角に設えてあり、Tシャツを着てハチマキを首から下げた生徒らしき人物が機械の調整をしている。
そして、もう一方の黒いジャージが向かった先には、色とりどりのTシャツを身に付けた生徒達の小さな集団があった。皆、紙を手にしている。何かの打ち合わせだろうか。
「どうだ。問題はないか」
「あ、センセー」
声を掛けた教師に何人かが顔を上げ、にこやかに会話をする。その一団の隅の方に、私は漸くお目当ての人物を見つけた。
設置された簡易折りたたみ長テーブルを前にパイプ椅子に座って、なにやら真剣な表情で手にした紙を見ながら両隣りに座る生徒達と話し込んでいる。
「ああと、坂井はどこだ?」
集まっている生徒達をざっと見渡した教師の視線がある一点で止まった。
「お、いたいた。坂井、麗しき客人がお待ちかねだぞ」
二言・三言簡単な遣り取りが合って、その中の一人が突然、勢いよく顔を上げた。
私は邪魔にならないようにと少し離れた後方から、その一部始終を眺めていた。
向こうはいつ此方に気が付くだろうか。そんな子供じみた期待感を込めて。
そうしていると信思君は同じような勢いそのままに椅子から立ち上がる。当然、隣に座っていた生徒達が驚いて、何事かと身体を仰け反らせる。周囲から掛かる声を無視して、辺りを見渡して、固まった。
ピントが合致する。漸く此方の姿を捉えたようだった。
若干、見開かれた目に私はひらひらと控え目に手を振った。
「真帆櫓さん!」
ガタガタと椅子を鳴らして、慌てたように此方へ駆け寄って来た。
「マジ、ごめん!」
両手をパンと合わせて、いきなりの謝罪体勢に入った相手に私は驚きつつも苦笑を滲ませた。冷静沈着で物怖じしない普段の様相からは想像が付かない慌て振りだ。
ああ、この子は律儀な性質だった。今更ながらにそんなことを再確認する。
「どうしたの、いきなり。キミが謝ることなんてないのに」
『ごめん』よりも聞きたいのは『ありがとう』の言葉だ。
微笑んで見上げれば、眉がほんの少しだけ下がって、余り変わらない表情の中に困惑の色が浮かんでいる。
「折角、連絡もらったのに、あんな風になったし………」
少し前の電話での遣り取り、要するに此方に来ることになった経緯を気にしているのだろう。
「融通が利くのは私の方なんだから、寧ろ当然のことよ。気にしないで。キミは忙しそうじゃない。だから、ほら、そんな顔しないの」
手を伸ばして軽く頬に触れれば、信思君は多少のぎこちなさを見せながらも小さく微笑んだ。
「お弁当、どうする? リクエスト通り唐揚げもあるわよ?」
肩に担いでいたショルダーバッグを上げて示す。腕時計の時間を確認すると時刻はちょうど十二時になる所だった。
お昼休憩はどういう具合になっているのだろうか。このまま、お弁当を渡して此方は控えた方がいいのか。そう思って、傍らにある硬質な顔を見上げる。
信思君は嬉しそうにふわりと柔らかい笑みを浮かべて口を開いた。
「ありがと」
聞きたかった言葉が漸く聞けて、私も同じように微笑み返していた。
ランチタイムに突入しても良いのだろうか。その判断をするには、ここでのシステムと信思君の現時点での状況把握が必要になる。
「どうする? お昼休憩がまだなら、邪魔にならないように待ってるし、もしなんだったらお弁当置いていくわよ?」
「ああ。それなら」
私の意図するところの事を理解して、信思君は問題ないとばかりに口の端を吊り上げると後方を振り返った。
「もういいですよね。約束通り、昼飯にしますから」
打ち合わせをしていただろう集団に声を掛ける。
それまで若干遠巻きに此方の様子を窺っていたのか、周囲からは、入って来た時のような騒然さは消えていた。皆、何故か此方に注目している。なんだか観察されているようで居たたまれないのは気のせいだろうか。
「ああ、いいぜ」
「行って来い」
「いってらー」
「後で、報告な」
「きっちり吐いてもらうぜ?」
面白がるようなニヤニヤ笑いが並ぶ中に了承の意を込めてか、ひらひらと軽く手が振られる。
信思君は若干顔を顰めて、その集団を冷ややかに流し見た。まぁ、軽い冗談の範囲だ。相手もそれを良く分かっているのか、『おお怖い』などとおどけた様に態と怖がって見せていた。
「楽しんで来いよ」
何気なく掛けられた教師の声に周囲がどっと沸く。私は案内をしてくれた教師に謝意を込めて微笑むと小さく頭を下げた。
「じゃ、飯にしよ」
『ああ、腹減った』と大きく伸びをして、ごく自然に私の肩にあった鞄を手に取る。
「うぉ、重てぇ」
ぎっしり詰まったお弁当に水筒、シート等など。持ってくるものは最低限にした積りであったが、実際にはかなりの量になった。コンパクトに纏めた積りでも、ご飯は重いものなのだ。
「沢山、入ってるからね」
私は思いもよらぬ重量に吃驚して鞄の中を覗き込む信思君に笑って答えながら、此方を見ている後方からの視線に軽く会釈をして、今にも鼻歌が聞こえてきそうな機嫌の良さを隠そうともしない大きな背中を追ったのだった。
そして、信思君が向かった先は、校舎寄りの中庭のような場所だった。建物の間のぽっかりと空いた空間。校庭が遠くに見える。色の放流が縦横無尽に視界の隅を駆け巡っている。然程離れているという訳ではないのに校舎の配置の問題なのか、不思議と喧騒は届かなかった。
静かだ。適度に遮断された空間。ひっそりとした木陰が、流れる時間をこの場所だけゆっくりとしたものにしているかのようだった。
「さあ、どうぞ」
ささやかではございますが。
ピクニック用のビニールシートを敷いて、小さめではあるが、三段重ねのお重を開く。
「うわぁ、すっげぇ」
中を見るとごくりと喉を鳴らす。
「うまそう」
それは、実際に食べてから口にしてもらいたい台詞だ。
「キミの口に合えばいいんだけど……」
取り皿と箸を手渡せば、嬉々として『いただきます』と手を合わせた。
唐揚げを抓んで一口。内心、ドキドキの瞬間だ。味付けは、ごく一般的なものと雖も、最後のちょっとした匙加減は、私が育ってきた家庭の味だ。それが少なくとも相手の許容範囲と被れば良いのだが。
咀嚼をして、小さくなった塊が喉元を通り過ぎる。
切れ長の黒い瞳がゆっくりと此方を向いた。
「……うまい」
ぽつりと漏れた一言。私は、その声に無意識に詰めていた息を吐き出して、頬の筋肉を緩めた。思いの外、緊張をしていたらしい。
「よかった」
それからは、黙々と箸を伸ばして咀嚼を繰り返す。左手にはおにぎり。右手は箸を重箱の中に突っ込んで。まさに両手をフル活用だ。
「あ、これ、中身何?」
「鮭」
「こっちは?」
「明太子。で、こっちが梅で、これがおかか」
空腹は最大の調味料なり。
食欲旺盛の年頃の類に漏れず、次々に減って行く重箱の中身を私は頼もしい気持ちで眺めやった。
「ほら、良く噛んで。焦らなくてもいいのよ?」
二人分には余りある量を作って来たのだ。それこそ、友人が飛び入りで来ることを想定して、あと二・三人は来ても大丈夫なように。
喉を詰まらせそうになる姿にお茶を注いだコップを差し出して、噎せかえそうになる背中をそっと摩る。ぐびりと飲んで上下した喉仏を、半ば可笑しさを堪えながら見つめた。
「ふはぁ~」
吐き出された吐息に漸く人心地がついたようでなによりだ。視線が絡めば、自分でも可笑しかったのか、信思君がクククと喉の奥を小さく鳴らして笑った。それに釣られるようにして、私も口角を上げる。 そうやって他愛ない世話を焼きながら、私も相伴に預かることにしたのだった。
和やかな食事中、私は改めて目の前に胡坐をかいて座る人物を見やった。
クラス対抗の青いTシャツは、彼が持つ硬質で静謐な雰囲気に良く似合っていた。
普段のイメージはどちらかといえば、『動』というよりは『静』で、部活動に汗水たらして練習に励むというような泥臭さはこれまで感じたことが無かったから、なんだかとても新鮮だった。目立って日焼けしている訳ではないが、袖から覗く腕は筋肉質で逞しい男のソレだ。節だった長い指。しなやかな長い腕。いつぞやの電車の中で、私の身体をすっぽりと包んだ温かい檻だ。私の身体の一部は、その時の感覚を未だ忘れずに覚えている。
「そう言えば、キミ、体育委員かなにかなの?」
クラスの方ではなく、本部のテントに居た経緯を不思議に思って尋ねたのだが、
「ああ、まぁ。似たようなもん……かな」
返ってきたのは随分と歯切れの悪い返答だった。
「なぁにそれ」
思わず小さな笑いが零れる。
「知り合いの先輩に扱き使われてる……感じ?」
業腹なのか、不本意なのか、苦々しい顔をする。
「お手伝いなのね」
「半強制的だけど」
不満げな口調でぶすりと漏らす。
「まぁ、それだけ信頼されているってことじゃないの? 頼りにされているのよ」
そうでなければ、忙しい中、態々無関係の下級生を混ぜないだろう。
「……………」
「なぁに?」
何かを言い掛けて、止まる。先を促すように問い掛ければ、ちらりと此方を見た後、手にしていたお茶に口を付けた。
「ものは言いようだなって」
「そうね。モノは言い様。視点を変えれば、見方は変わるし。要するに、気分の問題だから」
「……気の持ちようってこと?」
「そう。幸か不幸か、はたまた不可抗力か。日頃から『お世話になってる』上級生には逆らえないからね?」
狭い世界でも、そこにはそれなりの秩序が存在していて、その目には見えない鎖は、良くもあり悪くもある。人が社会的な生き物である限り、何処に居ても、いつの時代でも変わることのない法則だ。
「やっぱ、真帆櫓さんは……大人だ」
それなのに、どこか拗ねたように吐き出された言葉に苦笑をする。
普段、気を付けている積りでも、私と目の前の子が過ごしてきた年月の差が、不意にこうやって頭を出して現れる。なるべく説教じみたことは口にしないように。そう思っていても、こればかりはどうしようもない。
「仕方ないわよ。私はキミよりも大分この世界に長くいるんだから」
だから、態とらしく肩をすくめておどけて見せるのだ。過ぎ去ったものを手の内に眺めるように。
今、目の前の子が現在進行形で経験している時間は、私にはとうに過去のもので。それは、幾ばくかの言い知れぬ独特な感傷を誘う大人の特権でもある。だからこそ、今になって目に付いてしまうことが沢山あるのだ。それを少しでも伝えられたら……と思ってしまうのは、私のエゴでしかないのだが。
まぁ、そんなことはいいとして。
私には先程から、どうにも気になっていた事があった。
「ねぇ、あそこにいるトリオは、キミのお友達……かしら?」
先程から、視界の隅にチラチラと首を出している生徒が三人。どうやら、此方の様子を窺っているようだった。向こうは隠れている積りなのであろうが、完全にバレバレであるのが笑いを誘う。いや、おかずを頬張る信思君からは死角になって見えないから、彼らのターゲットがこの目の前の子であるならば、目的は達成されていると言えなくもないか。
信思君は、おにぎりを片手に私が目線で示した方角を流し見た。
対象を認めて、しんなりと眉が寄る。
「あいつら……」
隣から発せられた声は、ごく小さな呟き程度でまだ距離がある向こう側には到底聞こえる筈がないのだが、何がしかの只ならぬ気配でも感じ取ったのか、あからさまに三人の肩がピクリと震えたのが分かった。それだけで、彼らの関係性というか、精神的ヒエラルキーのようなものが透かして見えた気分だ。
まんじりともしない空気を打開すべく、私は新たな闖入者達に向かって手を振った。
「いらっしゃい」
にこやかに微笑んで、招くべく声を掛ければ、三人は顔を見交わした後、此方にやって来た。にやにやとからかいの笑みを浮かべて。
「坂井、おま、探したぞ。っていうか、ずりぃ!」
「ったく、姿が見えねぇって思ったら、こんなとこに隠れていやがったか」
「うわぁ、いいなぁ、お弁当だ。うまそう」
其々の反応は実に三者三様だ。
シートに広げられた重箱を覗いた一人から、ぐうと腹の虫が鳴る音が聞こえた。
自然と目が合って、誤魔化すようにへらりと照れた笑いを浮かべられ、私も釣られるように微笑んだ。 若干、忍び笑いとも言えなくもない。
「よかったら、どうぞ。お口に合うかは分からないけれど、まだ、沢山あるから」
そう言って取り皿とお箸を差し出せば、途端に目を輝かせた。
「え、いいんですか?」
「キミ達もどう? 流石に二人でこの量は大変だから」
シートに膝を着いて今にも涎を垂らしそうな子の傍で立っている二人にも声を掛けてみる。躊躇いがちで探るような視線が二人の間で交わされる。警戒をされているのだろうか。それとも、様子見か。確かに知らない相手から、いきなり食べ物を差し出されたら驚くか。
信思君の方を見れば、おにぎりを頬張りながらも三人を見て小さく頷く。それが、何がしかの合図になったようだった。身じろいで座っている位置を調整した信思君を待って三人がシートに集まる。
新たな客人を迎えて、即席ピクニックはかなり賑やかなものになった。
『いただきます』ときちんと手を合わせてから、唐揚げやら、卵焼きやら、アスパラガスのベーコン巻やらサラダやらが、大きな口に飲みこまれてゆく。
「うまい」
「マジウマ」
「ホントだ」
取り敢えず、その声が聞けたことに安堵して、私の頬は緩みっぱなしだった。がつがつと食べ始めた三人は、さながら欠食児童のようで、飢餓状態から一足先に抜け出していた信思君は、少し前の自分を棚に上げて、呆れたような顔をした。
「お前らなぁ……」
『もっと味わえ』などと要らぬ講釈を加える。
案の定、その内の一人が喉を詰まらせそうになって、私は似たような既視感を覚えながら、内心の笑いを堪えるようにお茶の入ったコップを差し出した。
改めてやって来た三人を見ると、其々、色が違うTシャツを身に着けていた。
どうやらクラスは違うらしい。そんなことを思いながら、順繰りに三人の顔を眺めていって、最後に信思君に戻る。不意に、その口元に米粒が付いているのを発見した。
私は微笑ましい気分になって、手を伸ばした。
「信思くん……」
「ん?」
小さく掛けた声に、怪訝そうに眉が上がる。そんな大人びた表情さえも、口の端に白い米粒を付けていてはどうにも様にはならない。込み上げてくるものを顔に出さないようにして、私は指で薄い唇の脇に付着した幼さの勲章を取り去った。火照りを帯びた柔らかな感触が指先を掠めて、取り去ったものを自分の口に持って行く。次に手にしていたウエットティッシュで、残っている汚れをそっとふき取った。
信思君はされるままに目を瞬かせる。
「ん? なんか付いてた?」
「おベント付けてどこいくの?」
この位の接触を自然に受け入れる程には、私は目の前の子に馴染んでいて。
それは向こうも同じようだった。緩やかな空気。家族のような近しい温かな空間。それでも、まだまだ存在する互いの温度差を微調整しながら、私は無意識に境界線のラインを緩めている。するりと入り込んだ懐にその名残を抱くようにして。
だが、この当事者には当たり前の行為も端から見れば、十分奇異を覚えるものである可能性もある訳で。特に傍らに居た三人には、違和感が拭えないものであったようだ。
「「「……………」」」
ある意味、とても雄弁に語る無言の視線。あんぐりと開いた口に、僅かに見開かれた目、完全に固まってしまった空気。
刺激が強すぎたとは到底思えないのだが、彼らにとってはインパクトがあり過ぎたのかもしれない。
「どうかした?」
伸ばしていた手を引っ込めて、私は徐に首を傾げた。
ゆっくりと三人の顔を見やる。すぐ脇を流れる微妙な空気には、敢えて気がつかぬ振りをした。年長者の嗜みともいう。何事にも気にしてはいけないこと、深く立ち入ってはいけないことはあるのだ。
「それとも………お茶がいる?」
潤滑剤となる微笑みを絶やさずに言葉を重ねれば、漸く解凍が始まったようだった。
「あのー」
控え目な挙手と共に一人が顔を上げた。
「質問があるんですけど?」
了承の意を込めて微笑めば、躊躇いがちに切り出された。
「お姉さんは……どちら様ですか?」
直球の質問に同じように返す。
私は一般的な自己紹介として名前を名乗った。
「名字が……」
フルネームを耳にして、小さく呟かれた言葉に、相手が何を想像していたかを知る。やはり、初めは無難に姉弟の線から当たりを付けたようだった。
私は向かいに座る信思君をちらりと流し見た。ここは少なくとも彼のテリトリーだ。どんな立ち位置でこの三人に接しているのかが、此方には見えない為、迂闊なことは口にできない。私はなるべく当たり障りのない表現に努めた。
「姉弟に見える?」
煙に巻く積りはなかったが、微笑んでみる。
「……いや、ありえないだろ」
ごく客観的に見ても私と信思くんの間に遺伝的共通性は見当たらない。私とその隣で片膝を立てている子の顔をじっくり見比べて、別の子は、そう判断を下した。
「あ、じゃぁ親戚とか?」
取っ掛かりの一歩としては、妥当なところだろう。
他の二人もその答えが気になっているようで、手を止めて此方に注意を向けているのが分かる。
きっと三人には、私とこの目の前に居る人物との関係性を捉えあぐねているのだろう。年の離れた肉親、若しくは、親族。それならば取り立てて騒ぐほどのことではない。態々、休日にお弁当を持参で駆けつけているという事態の理由づけとしては、やや苦しい感があるが、有り得ないとは言えない。
「残念ながら、違うわ」
「え、じゃぁ、………まさか、まさか」
三人は不意に顔を見交わせて、信思君へ詰め寄った。
「おい、おま、まさか。そうなのか?」
「ずるい。詐欺だ。ありえない」
あからさまに意外だと驚きを露わにする二人の傍で、
「ふーん、やっぱ、ポーズだった訳か。ま、普通そうだよな」
もう一人は、なにやら納得したように低く呟いた。
それに揶揄された本人が小さく反応を返す。
「なにが?」
「あんなに寄ってくる奴等には興味ありませーんって顔して、冷たくあしらってたのに」
「なーんだ。でも、教えてくれてもよくね?」
「水臭い」
「………お前らに言うと後々面倒だろ」
そう言って、信思くんは実に嫌そうな顔をした。
決定的な言葉は誰も口にしていない。それでも彼らの間で話が成立している。それは彼らなりの共通の土台があると言うことだ。それだけで仲の良さが窺えた。四人の遣り取りを見ていて、どうやら三人は正確な当たりを付けたらしかった。
「キミ達はクラスが違うのよね」
このまま傍観者を貫いても良かったが、四人の背景がすこし気になって、会話に入ってみた。
其々違う色のTシャツを示しながら確認すれば、
「俺ら、去年、同じクラスだったんです。今年は見事にみんなバラけましたけれど」
人当たりの柔らかさを目の端に浮かべて、一人の子が言った。一番最初にお弁当箱の中身に釘づけになったのはこの子だ。ややマイペースな感じがする。
「そう。だから仲がいいのね」
ふわふわとした空気に私も穏やかに合槌を打った。
「てか、お前、キャラ違うだろ!」
溌剌とした感じの短い髪を上に跳ねあげさせた子が、胡散臭そうな眼差しを信思くんへ向けていた。
いかにもスポーツ青年らしい元気一杯の感じだが、勢い余ってやや挙動不審気味というか、一つ一つのリアクションが大きい。クラスの中ではごく自然にムードメーカーを荷っていそうな子だ。
一方の言われた本人は、それに取り合うことなく、無言でついと目の前にコップを差し出す。
若干照れ臭さの入ったぶっきら棒な仕草に、私は内心の可笑しさを堪えるようにしてお茶を注いだ。
その子は、信思君の、普段、彼らの前で見せる態度と今、私の前で見せている寛いだ表情が違うと言いたいのだろう。それは、互いの距離感と関係性の違いによるものだ。言われた方としては、無意識だったのか、外からそれを指摘されて、本当の事であったが故に面白くない。そんなところだろうか。
私の知らない信思君の学校での様子の切れ端が、ほんの少しだけ目の前で展開されているようだった。 他愛ない同年代の友人たちとの遣り取り。普段は目にすることの出来ない舞台裏に、私の興味は津々だ。
「え、ちょっと、俺の発言スルー?」
「うっせぇ」
信思君は、鬱陶しそうに隣を睨みつけるとお茶に口を付けた。
「あーでも、これですっきりしたな」
「あ、確かに」
「つーか、マジ、ビビってたもんな。周りも」
「そうそう」
「無駄に気合入ってるし?」
三人はそう言って意味深な笑いを洩らす。対する信思君は、若干居心地の悪そうな顔をして見せた。
要するに図星であった訳だ。いまいち、私には話の内容が見えてこないが、楽しそうな雰囲気に水を差すような真似をしたくは無いので、黙っていることにした。
「ま、俺的には逆に、なんかほっとしかたも」
「あ、分かる」
「いいとこ見せたいって?」
「そ、その辺の奴と変わんないってさ」
「ニシシシシ。純情少年だな」
「当分、このネタで遊べるな。退屈はしねぇか」
某有名時代劇の御代官様と越後屋のような間合いで、実に芝居がかった滑稽な笑い声を短髪の子が上げれば、三人の中で一番落ち着いた感じの子が、人の悪そうな癖のある笑みを口の端に乗せていた。
一見、人当たりが良さそうに見えるが、中身は大分違いそうだ。その外見を裏切るかのような辛辣さでずけずけと遠慮なくモノを言うタイプだろうか。優等生らしく見える真面目そうなシルバーフレームの眼鏡は、相手を油断させる対外的なカモフラージュのようにも思える。
こうして見ると三人共に中々に個性的な面子だ。ここに信思君が加われば、一層、際立って総合的な濃さが増す気がする。四方向のベクトルが其々主張を掲げる。それらを繋いでいるものは、きっと去年一年間で培われた柔軟な楔なのだろう。
「お前ら、邪魔すんなら、どっか行け」
三対一ではどうにも分が悪い。遠慮なく言いたい放題言われて痺れを切らしたのか、信思君は不平を口にして、三人を睨みつけた。
「何その扱い。酷くね?」
「えー、だって、まだご飯残ってるし」
「分が悪いからって僻むなよ」
「あ、何、図星?」
皆目の付けどころが違う所為か、発せられる言葉は実に其々の性格をよく表している。論点がずれているようで総合的に見れば噛み合っている。不思議な間合いだった。
そんなテンポの良い他愛のない軽口の応酬は、それから暫く続いた。
「「「「ごちそうさまでした」」」」
「はい。お粗末さまでした」
唱和された声に私は思わず目を細めた。
びっしりと埋まっていた重箱は、ものの見事に空っぽになった。流石、食欲魔人のお年頃だ。作り手冥利に尽きるとは、このことを言うのだろう。
「キミの出番は午後からなのよね」
片付けをしながら、これからの予定を確認する。
遠く風に乗って、午後のプログラム開始を告げる放送が流れていた。
「そ。やっぱ、時間が押してるか……」
頷き返すと徐に腕時計を見た。
「そー言えば、坂井は何に出るんだ? 俺はリレーだけど」
マイペースな喜多見君が不意にそんなことを聞いた。
あれから簡単に自己紹介をされて、私は漸く三人の名前を知った。
「ああ、俺もリレーには出る」
「うがー、マジか」
信思君の答えに、短い髪を跳ねあげさせたお調子者の高畑君は、意味不明な奇声を発して頭を抱えた。
「ほら、みろ。やっぱ、そうだろ」
その傍らで、須藤君は冷静な指摘をして見せる。
なんというか温度差のある対照的なリアクションだ。
「なんだ。お前らもか」
今更というように信思君が顔を向ければ、
「何気に得点高いからな。どこもベストメンバーを持ってくるさ」
須藤君が、恐らく部外者である私の為だろう、その背景にある事情を簡潔に説明してくれた。
つまり、ここにいるメンバーは、クラスでも俊足の持ち主ということなのだ。リレーは三学年合同カラー別対抗だそうで、中々に盛り上がりを見せる種目なのだとか。
「みんなライバルなのね」
粗方片付けを終えた私がのんびりと口を挿めば、
「おー、負けねぇからな」
「望むところだ」
「こっちの台詞だっての」
「ジュース一本だな」
水面下で闘志を燃やすメンバー。序でに賭けの約束まで取り付けて。
「じゃ、俺ら先に戻ってるから」
「ごちそうさまでした」
そして、三人は互いに発破を掛けあって、グラウンドの方へ戻って行った。
彼らが去った後は、なんだか嵐が通り過ぎたみたいな感じだった。専ら私は話を聞いていただけなのだが、お喋りの余韻がまだまだ耳の奥に木霊しているみたいだ。元気一杯なパワーに気圧された感がある。
「あー、やっと静かになった」
遠ざかって行く三つの不揃いな背中を視界の隅に認めながら、信思君は大きな溜息を吐いた。
「ごめん、なんか煩くて」
苦り切った顔で私の方をちらりと見る。
「構わないわよ。別に。私としては楽しかったけど?」
堪え切れない笑いの余韻を口の端に留めながら、私はおどけて見せた。其々に個性的な反応は、ピンポイントで私の笑いのツボを刺激した。思い出すだけで笑ってしまいそうだ。
私も彼らの空気に当てられているみたいだった。軽薄な心のリズム。つい自分の立ち位置を忘れてしまいそうになる。
「あいつら、要らんことばかり言いやがって」
「仲がいいのね。とても」
「まぁ……そうかも」
表面上は嫌そうな顔をしていても、内心はくすぐったくて仕方がないのだろう。
満更でもないけれど、それを正直に認めるのは癪だ。そんな矛盾した気持ちを隠すようにして信思君は小さく笑った。
「これからどうするの?」
荷物を纏めて立ち上がると、信思君は大きく伸びをしたままの姿勢で顔だけ後ろに振り向いた。
「あー、取り敢えず、本部に顔、出して、それからクラスの方に合流予定」
「私が付いていっても平気?」
「勿論」
当然とばかりに柔らかく微笑まれる。そんな様子を見てしまえば、一々対外的な細かいことを気にしている自分がなんだか馬鹿らしく思えた。
今日はある種のお祭りだ。舞台に立つ役者たちは晴れ姿を見てもらいたいのだ。私をここに呼んだ当初の目的は、きっとそんな欲求が根底にはあって。ここで期待を裏切る訳にはいかない。
吹き抜ける爽やかな初夏の風が、少し先の黒い髪を揺らす。ジャージのポケットから取り出した濃紺のハチマキを額に巻いて、長く伸びたそのひれの先が風と戯れるように後ろに靡く。途端に凛々しさが増した横顔を私は幾つも脳内シャッターで切り取った。
「真帆櫓さん?」
ぼんやりと被写体を眺めていた私に、すらりと伸びた背中が振り返る。
流れるような動作で差し出された手に、私は自分の正直な気持ちを少しだけ乗せた。
そのまま、ゆっくりと引き寄せられて、縮まった距離が不意にゼロになる。
暫くして、小さく吐き出された吐息には、同じジャスミンの香りが混じっていた。
それが、妙にこそばゆかった。
「……お茶の味」
それもそうだ。二人とも口にしたのは、私が持参した水筒の中身で、同じジャスミン茶だったのだから。
小さく漏れた呟きに、向こうも同じような事を考えたことが分かり、同調した思考にくすりと小さな笑いを零す。
「レモン味が良かった?」
「なんで?」
「良く言うじゃない。『初めてのキスはレモンの味がした』って。あれ。『初恋』だったかしら」
陳腐ですらある、うろ覚えなフレーズを頭の隅で捏ね繰り回していると、鼻先で噴き出されてしまった。思考が飛躍しすぎたか。それとも、例えが少し古かっただろうか。
「別に初めてじゃないけど。あ、CMに似たようなのがあった……かも。ああと、カ○○ス、だったっけ?」
小さく喉の奥を震わせながらも、バトンの受け渡しは上手くいったみたいだった。
「ふーん、でも酸味が足りないかしら?」
「なにそれ?」
「だって甘酸っぱくなくちゃ」
初恋にまつわるエトセトラ。
大人たちが遠く思い描く感傷の小道具としては、甘さだけでは足りないのだ。初めての胸のときめきは、実らない、どこか現実離れをした淡いものであるからこそ、その挫折感を真綿で包んだような酸味が必要なのだ。
そんなことをこんなところで語ってみたところで滑稽でしかないのだが。
「キミには……覚えが無い?」
初恋は、そう遠い記憶ではない筈だ。誰しもが持ち得るであろう一般論として。
話を振れば、予想に違わず、笑いを堪える振動が肩先で波を打ち始めた。
背中を折り曲げて、額を剥き出しになった首筋に埋める。直ぐ傍でさらりと揺れる髪がくすぐったい。火照った額の熱が、温湿布のようにじわじわと侵食を始めていた。
一頻り笑った後、信思君は、良いことを思いついたと言うように顔を上げた。
「じゃぁ、後でオレンジジュースだな。あ、飴でもいいけど」
その台詞に今度は私の方が、頭上に疑問符を浮かべる。
「喉飴ならあるけど?」
「何味?」
「レモン……だったかしら」
すると、鼻先で悪戯っぽく小さく笑って、
「じゃ、仕切り直し」
再び掠め取るようなキスをした。
―――――そんな積りは全くなかったのだが。
颯爽と歩きだした背中に引っ張られるようにして、私は苦笑を滲ませながらも、まぁ、それでもいいかと思い始めていた。