第十四話 精神と肉体の乖離率 1.35%
今回で、Side-A 保内真帆櫓サイドのお話は最後になります。かなり糖度が高めになりました。ご注意ください。
お茶を用意してリビングに戻れば、信思君は、本棚の前に陣取っていた。
リビングのある部屋の壁とある一面には、その広さには似つかわしくない程の大きな本棚があった。
それは、ちょっとした私の書籍コレクションだった。
気に入った本は、手元に置いておきたい性質で、気が付くとかなりの量になっていた。本棚にある本のジャンルは様々だが、そこに並ぶのは少々偏った趣味に走っているかもかもしれない。
時代小説。浄瑠璃・歌舞伎の本・パンフレット。ロシア・東欧の文学小説、幻想小説。ファンタジー系の児童文学、ペーパーバック等々。そこには過去から現在に至るまでの私の読書遍歴が雑然と晒されている。趣味、嗜好がそのままに剥き出しになっている場所だ。
それが、今、思ってもみなかった形で人目に触れていた。それは、なんだか、自分の頭の中身を覗かれているようで言い知れぬ恥ずかしさが私の中に生じ始めていた。
信思君は、本棚の前に立って、そこに並ぶ背表紙をじっと見つめていた。長い指先が時折、本の角を軽く叩いて行く。
何か、興味を引くものでもあったのだろうか。だが、お世辞にも高校生の男の子の趣味に掠るものは、無いような気がする。あるとすれば、日本の城関係の写真集とかか。まぁ、信思君が文学に興味があれば違うかもしれないが。
そんなことを頭の片隅に置きながら、
「コーヒー、淹れたわよ」
小さなテーブルにマグカップを二つ置いた。
「ミルクとお砂糖はどうする?」
自分のカップにたっぷりと牛乳を注ぎながら声を掛ければ、信思君はゆっくりと振り返った。
少し長めの黒い髪がさらりと揺れる。
「両方欲しい」
鋭角な刃物のような冷たい外見から受ける印象を裏切るような子供っぽい好みに自然と笑みが零れた。 そんなこちらの感情に気が付いたのか、ほんの少しだけ、拗ねたように眉を寄せた顔を尻目に、私は少し甘めのカフェ・オレになるようにもう一つのカップを調整した。
ソファーに座った信思君は、カフェ・オレの入ったカップを手にぐるりと周囲を見渡した。
「何か珍しいものでもあった?」
「んー? なんか、イメージと違った」
「そう?」
果たして、信思君が私に対して抱いていたイメージとはどんなものであったのだろうか。
私は改めて、自分の部屋を見渡してみた。
窓に掛かるカーテンは、ベージュを基調にしたもので上の方にリーフ柄が描かれている。ソファーは白いファブリックの小振りのもの。全体的にベージュを基本色としたナチュラルテイストだ。
良く言えばシンプル。悪く言えば色気がない。素朴で面白みのない部屋だろう。
女の子(という柄ではないが)の部屋というものを想起させるようなピンク色のものや可愛らしい小物、ぬいぐるみの類も一切無い。
本棚の斜交い、もう一方の壁には低いローチェストの上に子供の頃に作った大きなパズル画が額縁に入っている。二千ピースだったか。緑の濃いジャングルを模した風景の中に脈絡なく様々な動物たちが描かれている。それが、唯一、色が付いたインテリアと言えるかもしれない。
「ピンク色のひらひらしたものとか、ぬいぐるみみたいなものがあると思った?」
からかうように口にすれば、
「いや」
曖昧に肩を竦める。
「もっと明るい赤とかオレンジ系のものがあるかなとは思った。でも、こういう方が、落ち着くかな」
そう言って、信思君はカップに口を付けると小さく微笑んだ。
個人的には暖色系より青や緑といった寒色系が好みであった。一時期はカーテンもブルーやグリーンで統一したこともあったが、冬になって寒々しい気がしたので、取り払って以来、今は止めてしまっている。
「ん、ウマい」
どうやら牛乳と砂糖の甘さ加減もちょうど良かったようだ。
私は、ソファーには座らずに、対角の床に腰を落ち着けた。
テーブルに肘を着いて身体を預ける。
手を伸ばせば届く所に信思君の膝があった。すらりとした発育の良い長い脚を包むジーンズの膝。男性特有の骨ばった骨格だ。
「真帆櫓さん」
「ん?」
掛けられた声に隣を見れば、ソファーの隣の空いた空間をぽんぽんと叩く大きな手が目に入った。
「なぁに?」
「こっち」
隣に座れというのだろうか。
「いいわよ」
否定の意味合いを込めて、小さく笑う。
「なんで?」
「だって、狭いじゃない」
二人掛けのコンパクトな所謂ラブソファーだ。標準的な体型の私とまだ身幅は細いが、標準よりは大分上背がある信思君。
何も好き好んで狭い所に行かなくても――――――というのは建前で。必要以上の身体的接触は、今の私にはかなり危険だった。玄関先で不意に抱きしめられて、急激な上昇をみせた心拍数が漸く落ち着いたところなのだ。その余韻は、まだ体内に燻るように残っていて、いつ暴発するとも限らない。
それを知ってか知らずか、相手は巧妙な誘いの言葉を口にする。
「狭い方がいいじゃん」
「キミ、隅っことか、落ち着くタイプ?」
防衛本能の表れとしての人間の一面を指摘することで、態と飄々と流して。
「そういうことじゃなくてさ」
だが、敵もさるもの。
ついと伸びて来た長い腕に引き寄せられて、私の身体は瞬く間にソファーの上のそのまた上に乗っていた。
「え?」
私の身体は、あろうことか相手の膝の上に横抱きになる形で乗っていた。
意外な程の腕の力に驚く。硬めの筋肉質な感触が直ぐ私の下にあった。
「………信思…くん」
私は情けない声を出して、思いも寄らない行動に出た相手を見上げた。
不意に近づいた距離に私の鼓動はまたもや駆け出しそうになっていた。
「重いでしょう?」
「いや?」
何だか、いつにもまして上機嫌な気がする。
小さく上がった口角に私は面食らった。
その時、私の脳裏には、昔読んだフランスの笑い話が浮かんでいた。
とても太った貴婦人と一時を過ごした貴族の若い青年が、情事の後の別れ際、ベッドの上でその女性のふくよかな手を取り、何食わぬ顔をして告げるのだ。
『貴方は羽のように軽やかだった』
パトロネスと若いツバメ。フランス流のエスプリが効いた返しとしての話題で。それを伝え聞いた他の貴族の男たちは、その絵図らを想像して笑い転げる。確か、そんな話だった。
この実に正統派の日本的顔立ちをした青年は、そんなフランス貴族のエスプリの切れ端のようなものを持ち合わせていたりするのだろうか。
脈絡もなくそんな下らないことを考えてしまうのは、果たして現実逃避の一種だろうか。
「…………キミねぇ」
私は、呆れたように直ぐ傍にある切れ長の目を見上げた。
だが、そんなこちらの反応は気に留めずに、
「はい。これ」
するりと流れが変わる。
目の前に差し出されたのは、半透明のプラスチックケース。中には白い円盤が収まっていた。
「DVD?」
「そ」
「ありがとう。キミのお父さんに感謝しなくちゃね」
「親父に?」
声音に少し不服そうな色が滲んだ。
「そう。同じ趣味を持っていたことに」
「俺は?」
「勿論、感謝しているわよ。キミが覚えていてくれたお陰だもの。ありがとう」
感謝を込めて微笑めば、一見、硬質で近寄り難いきらいのある面が、ずいと鼻先を寄せてきた。
そこには、普段、あまり感情の乗らない澄ました表情が崩れて、満面の笑みが湛えられていた。
吊り上がり気味の眦が下がる。
やがて、『にやり』とも取れるようなニヒルな感じの笑みに変わる。
「な……………なに?」
私は、その変化に一人、狼狽えた。
だが、それも束の間。
「真帆櫓さん」
不意に真面目な顔付きをして、信思君は私の名前を呼んだ。
無意識に身を引こうとするが、それはソファーと私を囲う大きな身体に阻まれてしまう。さらりと癖の無い髪が揺れる。
柚子の香りに似た柑橘系の匂いが私を包んだ。
それを契機に、私は肩の力を抜いていた。
「……ねぇ、信思くん」
「ん?」
辺りには、穏やかな空気が満ちていた。
静かな住宅街。商店街のどん詰まりにあるマンションであるのに、立地条件もあるのだろうが、この部屋は驚くほど、雑音が入ってこない。
いつの間にか、私の身体は、少し低めのもう一つの体温に包まれていた。胸元から首元に擦り寄ってくる鼻先。甘えた子供のような仕草は少しくすぐったい。
抱き込んだ胸元にある頭部をそっと撫でてみる。さらさらとした指通りを暫し、楽しんだ。
きっと向こうには駆け足気味の私の心音が筒抜けで伝わっていることだろう。
「前から思ってたんだけど。香水か何か、付けてる? 柚子みたいな香り」
以前から不思議に思っていたことを口にしてみる。
そして、その匂いの道筋を辿るように身体を起こして、先程までの信思君の真似をするように鼻先でその男らしい首筋を辿った。
くすぐったいのか、肩先が振動する。
「あー、多分、部屋に置いてるやつかも」
お香。若しくは芳香剤の類なのだろうか。それともルームフレグランスか。
「直接つけているんじゃないんだ?」
「ああ。コロンとかじゃない」
「なら移り香かしらね。ふふふ。いい匂い」
小憎らしい使い方だ。それが、信思君本来の匂いに混じって変化している。本人は、それを意図してはいなかったのかもしれないが。
「マジ?」
驚いたような、それでも満更でもないような声の抑揚。
「うん」
こうしていると、なんだか昨日まであんなに悩んでいたことが、馬鹿らしく思えてくるから不思議だ。 当人を目の前にしてしまえば、あれだけ渦を巻いていたもやもやが晴れてしまうのだから、やはり、私は現金なのだろうか。
「俺には、真帆櫓さんの方がいい匂いがするけど?」
「そうなの? 何もつけてないわよ?」
昔から香水の類の人工的な匂いは苦手だった。唯一、好きだと思えたのは、昔、お土産で貰ったとあるフランス製のとあるブランドの銘柄。鏡台の中には、まだ小さな瓶が残っている。これまで使ったのは、ここぞという特別な時のみだった。
「でも、なんかいい匂いがする」
「そう? じゃぁ、キミと私は遺伝子的に随分と離れているのかもね」
そんなことを思い付いて小さく笑った私に、信思君は鼻先で怪訝そうな顔をした。
「何それ?」
「ああ。あのね。異性を好ましく思うことの裏には何が働いているのかっていうのを遺伝子の分野から紐解いてみようというお話で。異性の体臭を嗅いで、それをいい匂いと感じるか、嫌な匂いと感じるかという実験をした結果のことなんだけれど」
「体臭?」
「そう。汗の匂い。簡単に言えばフェロモンね」
確か10人位の被験者が一日着たシャツを瓶の中に入れて、それを別の同等数の異性が、匂いを嗅いで、甲乙を付ける。その時は、一番いい匂いだと思った瓶を選んで貰うというものだった。
何を想像したのか、眉を顰めた相手の顔を内心、可笑しく思いながら、私は言葉を継いだ。
「それで。男性、女性共に実験をして。いい匂いだと感じた相手は、遺伝子的に見て、とても離れていることが分かったの」
「ふーん?」
信思君からは、分かったのか分かっていないのか、曖昧な合槌が漏れた。
私は、そのままもう少し踏み込んだ説明をする。
「遺伝子としては、子孫を残すのにバリエーションに富んでいた方が、都合がいいの。色々な型があった方が、不測の事態が起こった時に適応することが出来る個体が増えるからなの。ほら、近親相姦はタブーとされているでしょう? それに余りに血が近過ぎると奇形が生まれたりするって、昔から、言われているじゃなない? 濃すぎる血は良くないとか。遺伝子云々ということを出さなくても、私たちはそれを昔の人たちの慣習から受け継いで知っているのね。人は、その匂いから遺伝子の距離を測れるようになっていて、それに基づいて、好みの異性を認識するっていうお話なの」
「詰まり、俺も真帆櫓さんも遺伝子レベルで見ても惹かれあっているってこと?」
不意に流れが変わった矛先に、私は余り考えずに口を開いていた。
「そういうことになるかしら?」
「真帆櫓さんさ。……俺、都合良く解釈するよ?
「ん? 何が?」
「分かってる?」
―――――――俺が、男だって。
囁く様に耳元に低い声が吹き込まれた・
「分かってるわよ。十分」
そうでなければ、こんなにも私の心臓は早鐘を打ったりはしない。
少し体勢を変えて、それでも狭いソファーの上にある二つの身体。
「ホント?」
「疑ってるの?」
「ふーん。じゃぁ、遠慮なく」
そう言って意味あり気に笑うと、信思君は、私の方に身を乗り出してきた。
付加された重みに伴い身体が傾ぐ。
狭いソファーの上、完全に水平になった私の下に降りて来たのは、柔らかい、触れるだけのキスが一つ。軽く啄んで戯れのように離れて行く。
「昨日の返事」
そして交わされる意味深な目配せ。
「な…」
私は、急に昨晩自分がやったことを思い出して恥ずかしくなった。
受話器越しのリップ音。映画のワンシーンではあるまいし。体中の血液が沸騰しそうになる。
私は、居たたまれなさを誤魔化すように目を逸らした。
「真っ赤」
クスクスと小さく喉を鳴らす音。それに伴い緩く上下する髪の先端が私の肌を刷毛のように撫でる。
「ねぇ、真帆櫓さん、いい加減、認めたら?」
『何を』とは問われなくても分かっていた。自分の態度は、余りにもあからさま過ぎるだろう。
――――――楽になっちゃいなよ。
悪魔のような囁きに、私は緩く息を吐き出すと徐に目を閉じた。
そして、目の前にある首を引き寄せる。
「キス……しよ」
それから、狭いソファーの上で折り重なるようにして、長い間、キスをした。
吐息を交換するみたいに互いの熱を吹き込む。じれったく持て余しそうになる熱を水面下で誤魔化しながら。束の間の一時を往生際悪く長引かせるみたいに。
そうして、漸く、最後まで取って置いた言葉を吐き出した。
―――――――スキ。
単純な一言。それでも、私が自ら発するには重みがあり過ぎた一言。
きっと掠れたような小さな声だった。
それでも、信思君は、どこか嬉しそうな顔をして、私の身体を思いっ切り抱き締めていた。
骨が軋むような息苦しさを感じながらも、私は、正解を誉められた生徒みたいに小さく微笑んでいた。
そして、明くる月曜日。
三番線のプラットホーム。8時7分発。○○線、△△行き。普通列車。十両編成。7番目の車両。進行方向、2番目のドアから入って奥の直ぐ端。
いつもと同じ、指定位置の吊革に掴まって。
「おはよ」
「おはよう」
何気ない、ありふれた朝の挨拶を交わして、私の左側に紺色のブレザーが立つ。
私にとっては少し特別な紺色のブレザー。
変化を見せた距離に先週とは少しだけ異なる空気が、私を包み込む。それが、なんだか面映ゆくて仕方が無かった。
やがて、通勤客で込み合う車両は、定刻通りに駅を発車する。
お馴染みの振動に揺られて。
鞄を右に担いでその手で吊革を掴む。所在無げに、それでもどこか期待するように下げられた空いたままの左手は、やがて、大きな手に包まれた。
躊躇いがちに差し伸べられた、骨ばった大きな手。少し高めの体温。
私は、合わさった左手に小さく力を込めた。
そして、ガラス越しに反射するもう一つの影に微笑んでみた。
それに応えるように、ガラスに映る硬質な面が穏やかに微笑む。
こうして、【私】だけの10分間は、【私たち】の10分間へと変わったのだった。
~ fin ~
ここまでお付き合い下さりありがとうございます。
次回番外編を挿んだ後、坂井信思くんサイドのお話になります。