第十三話 本音と建前の乖離率 5.72%
前回の翌日のお話です。
翌日の土曜。鏡には、腫れぼったい瞼をした冴えない女の顔が映っていた。相変わらず、目の下の隈はくっきりとしている。顔の血色もお世辞にも良いとは言い難い。
鏡に映った女の口元が自嘲気味に歪む。
―――――――いい年をして情けない。
昨日が金曜日であったことが救いであった。昨日の今日で、あの長身を目にして、あの鋭いきらいのある瞳にじっと見下ろされたら、私は自分が何を口走ってしまうか全く想像が付かなかった。
眦に僅かに残る涙の跡を熱めのシャワーで洗い流す。
昨日のことが切掛けで、私は気が付いてしまったのだ。
自分の心の内に。
これまで幾度となく見ない振りをして、目を背けて来た真実。感情が理性を裏切る時は、いつもそうだ。
切掛けは、本当に些細なことだった。莫迦らしい程に。
あの長身の隣に、同じような制服姿の女の子が並んでいたのを見かけただけ。実に他愛の無いことだ。
私は、既に【恋】をしていたのだろう。
いや、違う。【落ちていた】と言う方が正しいかもしれない。
恋とは【する】ものでは無くて、【落ちる】もの。
その昔、英語の表現を知った時に、成程と感じ入った時のように、私もきっとその迷宮に落ちていた。
恋愛なんて面倒。感情で先走ることの苦手な理論派の私には、異性を好きになることは、かなり勇気のいることでもあった。よりによって相手は、高校生。自分の予想を裏切る感情のブレ幅が怖くて仕方がない。
私は、急に現実を前にして尻ごみをしてしまった。
耳の奥にこだまするのは、昨晩の最後のフレーズだ。
私の心の平衡は、ジェットコースターのように乱降下を繰り返した。日本海の冬空を乱気流に巻き込まれた飛行機のようだ。
あの言葉を言わせてしまったのは、私の所為なのだろうか。
私はどうしたいのだろう。
その日の午後、一本の電話が入った。
掛けて来た相手を見ずに電話に出てしまったことを、この時の私は、ほんの一瞬、後悔したのだが、後から考えてみれば、それは思わぬ僥倖でもあったのだろう。
「――――はい」
『真帆櫓さん?』
薄い携帯の画面越しに響いた声に、私は、無意識に息を詰めていた。
「……信思……くん?」
『ん』
躊躇いがちな少し低めの艶のある声。機械越しの声は、いつもより半音低く聞こえた。
私は、緩く息を吐き出しだ。
昨夜の言葉が、引き金になった記憶に作用して頭の中をリフレインしていた。
それに心の内で蓋をし、感情のスイッチを切り替えた。
「どうしたの? 急に」
動揺は一瞬で、思いの外、冷静な声が出ていた。
『ああ。この間さ、真帆櫓さん、見たいドラマ、録りそびれたって言ってただろ?』
いつもと変わらない軽やかな空気。軽薄ですらある柔らかな調子に、私もこの所忘れていた元々の空気感を思い出していた。
「CSIシリーズ?」
それは、私がここ数年嵌っているアメリカのTVドラマシリーズだった。
CSI――――Crime Scene Investigation ……邦訳をすれば、【科学捜査班】といったところだろうか。元々刑事ドラマが大好きで、その流れから偶々、休日の昼間にやっているのを見て以来、その面白さに嵌ってしまったのだ。
今、とあるテレビ局で、週一で放送されている。昼間の放送なので、いつも予約録画をしたものを夜に見ているのだが、つい先週の回を録画し忘れてしまったのだ。
その事に気が付いたのは、翌日の朝、それも通勤電車の中で。混み合う車内、思わず上げてしまった私の間抜けな声を、隣に立っていた信思君が聞き咎めたのだった。そして、私は簡単に毎回欠かさずに見ているTVドラマがあることを打ち明けたのだった。
信思君は、その辺りのジャンルには興味がないようで、いつもより興奮気味に話す私の話を曖昧な合槌を打ちながら聞いていたのだ。ドラマは吹き替えだが、副音声の方で聞けば、英語の勉強にもなると言った私に、少しだけ嫌そうな顔をして眉を下げたのは、まだ記憶に新しかった。
『そ。親父がさ、偶々、録ってたみたいであったんだ。家に』
それは思いも寄らない報せだった。
「え? そうなの?」
ソファーの上で思わず身を乗り出した私に、電話の向こうで信思君が笑ったのが感じ取れた。
喰いついた。そんな風に思われたかもしれない。
『そ。親父はもう見たからいいみたいでさ。真帆櫓さん………見たい?』
「見たい!」
『だろうと思った』
「お父さんも好きなんだ」
『そ。なんか、昨日の夜に偶々見ててさ。あれ、コレって真帆櫓さんが言ってたやつかなって思ったわけ』
「良く分かったわね」
興味がないと言っていたので、まさか、そのことを覚えていてくれているとは思っても見なかった。私の中で、言い知れぬ嬉しさのようなものが込上げて来ていた。
『―――――でさ』
そこで、一端区切って、信思君が咳払いをした。
『お願いっていうか………提案?……があるんだけど』
「ん? なぁに?」
『今さ。そのディスク持って、外にいるんだよね』
よくよく耳を澄ませてみれば、薄い機械越しに街の雑踏が微かにだが、聞こえてきていた。
話が思わぬ方向へ進み出したのに、私は気が付かない訳にはいかなかった。
『でさ。ぶっちゃけ、真帆櫓さん家の近くまで来てる』
――――――――はい?
『真帆櫓さん、ベランダから外、見てみ』
その言葉に私は慌てて、窓を開けるとベランダに出ていた。
私が暮らしているマンションは、築年数二十年というかなり年季の入った古いタイプの賃貸物件で、三階建て。その三階の隅の部屋を借りていた。間取りは2DK。それを1LDKのような感じで使っている。独り暮らしを始めて二年。二年前、家を出た当初は、実家の有難みと母の苦労を改めて思い知るいい機会だったが、今ではそれなりに生活リズムも確立されて、毎日を過ごしている。駅から徒歩十五分という程良い距離も気にいっていた。
以前、偶々帰り道が一緒になった時、信思君の家は、大きな幹線道路を挟んで向こう側、隣の町内にあることが分かった。その時は、途中まで一緒で。信号の所で私は左に、そして信思君は、右に進路を取った。
自分が住んでいる場所のことを詳しく話した積りはなかった。だから、当然、信思君がこの場所を知っているとは思えなかったのだが…………。
洗濯ものを掻きわけて、ベランダから顔を覗かせれば、少し先の道路に見覚えのある長身の影が見えた。
こちらに気が付くとひらひらと手を振る。その手には、薄いプラスチックケースに入った丸い円盤が太陽の光に反射していた。
私は余りのことに言葉を失った。
『見つけた』
耳元で、悪戯の成功を喜ぶような子供染みた声が聞こえた気がした。
「え? なんで分かったの? 私、どこに住んでるかって言ってたっけ?」
『いや。三階建てで、赤茶っぽい外観の古いマンションってだけ』
それだけの情報で、この場所に辿りついたというのだろうか。
それは偶然というには余りにも出来過ぎているように思えた。
私の鼓動が急に早鐘を打ち出した。それは驚きから来るものなのか、それとも別の感情から由来するものなのか、判別が付かなかった。
『ねぇ、真帆櫓さん。そっち行っていい?』
「……ん」
どこか強請るような響きに、私は無意識に頷いていた。
自分の部屋がある三階に続く階段を軽やかに駆け上がる足音を聞いた時、私は今更ながら自分が『すっぴん』であることに気が付いた。
そして、愕然とする。
普段からメークは薄い方だとは思っているが、化粧をしているのとしていないのでは、それなりに印象が違うだろう。
それから、私は自分の格好を見下ろした。ストレートのジーンズにシンプルなカットソー。ボーダー柄は休日ののんびりモードの定番だ。
全くの【素】である姿に動揺をする間もなく、玄関先に見慣れた長身が現れた。
全身を視界に入れた時、私はそのいつもとは違う空気に思考が止まった。正直に言えば、見惚れたということだ。
シンプルなブルージーンズにTシャツとパーカーを重ねて。どこにでもあるようなアイテム。それでも、その長身は、私の中では少し特別に見えた。
考えてみれば、制服以外の服装を見るのは初めてのことだった。
ワイシャツとネクタイで区切られていない剥き出しの首とそこから覗く喉仏が目に入る。男らしいラインを描くその場所から紡がれる低い声を私は殊の外、気に入っていた。
目が合うと信思君は控え目に微笑んで、小さく片手を上げた。そこには、【通行手形】となる白いDVDの円盤が半透明のプラスチックケースに入っていた。
その少し得意げな仕草に、私は知らず苦笑を漏らしていた。
「いらっしゃい」
「びっくりした?」
「ええ。まさか、ここが分かるとは思わなかったし」
私は目の前にある長身を見上げた。
ドアを開けて身体をずらす。
「散らかってるわよ」
釘を刺すことも忘れない。
日頃からもう少し片付けをしておけばよかった。そんなことを後悔してみたとて、既に遅し。
テーブルの上には読み掛けの新聞。飲み掛けのコーヒー。ベッドの上のパジャマは洗濯機に入れた筈だから大丈夫。シンクの洗い物はさっき済ませたばかりだし………。
素早く頭の中で部屋の中を確かめて行く。
―――――――どうぞ。
招き入れれば、玄関先で私の身体は爽やかな柑橘系の香りに包まれていた。
「…………よかった」
ぽつりと漏れた小さな呟きは、何を意味したものだったのか。何に向けられたものだったのか。
陽光が遮断され、影になった薄暗い玄関先で、私の身体は、柔らかな枷で拘束されていた。弾力のある強い枷。温かな楔。
剥き出しになった首筋に癖の無い髪が触れる。
「信思……くん?」
鼻先を押し当てて、相手の確認を匂いで判別する犬のような仕草だ。
私は、くすぐったさに身を震わせた。
「真帆櫓さん、………………すげぇドキドキしてる」
沸騰したように行き場を失った熱が、全身を駆け抜け始めていた。
それを真正面から指摘されて、私は、力を抜こうとするが上手くいかない。
「………もう…………、キミは何をしたいの?」
――――――――こんな玄関先で。
サンダルを突っ掛けただけの素足の先に、少し草臥れたスニーカーの爪先が覗いた。
回された腕を軽く叩けば、拘束は直ぐに外れた。
「どうぞ、中に入って」
短い廊下をリビングへ向えば、後ろから声が掛かった。
「真帆櫓さん、すっぴんでしょ」
どこかからかうような軽い調子に私も飄々と返していた。
「そうよ。呆れた? とんだオバサンだって」
「いや、何で? 想定の範囲内。でも、あんまり変わんないね」
それは、どう捉えたらいいのだろうか。
「それって誉めてるの? 貶してるの?」
思わず振り返って腰に手を当てる。ほんの少し目を吊り上げてポーズを作れば、何が可笑しいのか、信思君は喉の奥を鳴らした。
「勿論、誉めてるんだけど?」
笑いを堪えるようにして言われても、胡散臭いことこの上ない。
だが、次の瞬間、私も軽薄な空気に感染するように小さな笑いを零していた。
「もう。ほら、こっちへどうぞ。散らかってるわよ。覚悟なさい」
「それはさっき聞いた」
再び繰り返される軽口の応酬。
その間合いは、自分が考えている以上に心地の良いものだと改めて思った。
自覚をして、少しずつ歩み寄りを見せた距離。信思君、意外に積極的でした。一歩間違えば、危ういラインです。次回辺りで、真帆櫓視点のお話を終えられればと考えています。ここまで読んでくださってありがとうございました。