第十二話 実像と虚像の乖離率 6.87%
前回の続きで、短めです。
―――――夜、電話してもいいですか?
携帯に入っていたメールは、簡素な一文だった。
――――――OK。仕事が終わって、家に着いたら連絡入れます。
それに返すメッセージも事務的で必要最低限のもので。
その夜。早めに仕事を切り上げて、自宅に戻ると真っ先にシャワーを浴びた。
今日一日、私の思考を取り巻く、もやもやとした蟠りを洗い流してしまいたかった。
風呂上がり、少し乱暴に肩に掛けたバスタオルで洗った髪を拭う。気持ちを静めるように。
そして、片手に携帯を握りしめながら、リビングのソファに座った。
ボタンを操作して、電話帳に登録されたとある名前の所で指が止まった。そのまま、画面を眺めること数十秒。
それから、躊躇いを払拭するように通話ボタンを押した。
『はい』
ワンコールの後、耳元でこだましたのは、くぐもった少し聞き慣れない音域だった。
感情の乗らない素っ気ない声。
相手の顔が見えない分、声の調子だけで向こうの感情を判断しなければならない。何処にいても、どんな時でもボタンを押せば、瞬時に相手に繋がるのは便利ではあると認める反面、昔から電話には変に苦手意識があった。
「もしもし………信思…くん?」
私の第一声は、心なしか震えていた。
『真帆櫓さん!』
電話の向こうで、凄く吃驚した声が聞こえた。
「なぁに? そんなに驚いた?」
思わずこちらが笑いを零してしまうくらいには、だ。
『あ、いや、まさか、そっちから掛かってくるとは思わなかったから。それにもっと遅いかと思ってたし………』
声の調子が自分が良く知る音域に戻った。
部屋に掛かっている時計の針は、午後7時半を過ぎた辺りだった。いつもならば、会社を出る時間だろう。
「ふふふ。今日は仕事が早く終わったから」
それは自分の中での言い訳だった。
スピーカーの向こうで、ガタン、バタンと何やら物音がする。
もしかして、タイミングが悪かったのだろうか。
「今、大丈夫?」
『もちろん』
間を置かずに返ってきた返答に、私は、益々、間が悪かったことを知った。
「ホントに? 無理しなくていいのよ? 掛け直すから」
『いや。オッケー。全然、オッケーだから。問題なんてないし』
声の後ろには相変わらずがさごそとした物音がしていた。
だが、まぁ、本人がそう主張するのならば、そうなのだろう。
私は、これ以上、気に留めることはせずに、話を進めることにした。
「ふふふ。じゃぁ、そういうことにしておきましょうか」
小さな笑いを引っ込めると私はゆっくりと空気を改めた。
「それで。何か……気になることでもあった?」
思えば、電話で話をするのは、初めてのことだった。これまでのコミュニケーションの手段としては、朝の会話と簡単なメールの遣り取りくらいだった。
電話は不思議だ。耳元で直ぐに相手の声が聞こえる。近いのに遠い。遠いのに近い。視覚からの情報が無い分、聴覚に判断を委ねることになる。
『ああ。今朝のことだけど』
【今朝】というフレーズに無意識に心の奥が軋みを立てた。
「うん?」
『………あ~、その』
暫く、言い淀んだ後、
『………………ゴメン』
何故か、信思君の口から出たのは、謝罪の言葉だった。
一瞬、言われた意味が分からなくて、意識の空白が出来た。
私は、その脈絡の無さを笑った。
「どうして謝るの?」
『いや、だって。真帆櫓さん、なんかさ、気にしたっぽかったから? ……今朝のこと』
私は、その言葉に目を瞬かせた。
――――――私が、気にした? 若しくは、そう見えた?
――――――何に対して?
核心に迫ってしまいそうな符号に、何故か、臓腑がひやりとした。
「今朝って、メールのこと?」
私は、はぐらかすように問いを発していた。
『そうじゃなくて』
「ん?」
『今朝、話せなかったから』
それは同じ車両に乗れなかったということだろうか。
「私と?」
『そう』
私は、自分で考えている以上に、信思くんが隣にいる朝の十分間を大事だと認識していることを認めない訳にはいかなかった。
私を取り捲いていた筈のもやもやは、いつの間にか、消えていた。
「今日は、寝坊したの?」
『いや、いつも通り。でも駅で学校の奴に捕まった』
「あの……女の子?」
『そ』
「同じクラスなの? 可愛らしい感じだったわね」
私の脳裏には、今朝方の柔らかそうな茶色の髪をした女子高生の姿が浮かんでいた。こちらがむず痒くなってしまいそうなくらいの眩しい笑顔だった。
『いや、今は違うけど。去年一緒だった』
「良かったじゃない」
『なにそれ』
耳元で少しムッとしたような声が聞こえたような気がした。それは、都合のいい解釈だろうか。
「満員電車の中、可愛い女の子との朝の一時」
軽さの中にもほんの少しだけ真実を潜めて。
「モテモテね。キミも隅に置けないじゃない」
だが、一センチにも満たない薄いパネルの向こうからは、態とらしい位の大きな溜息が聞こえて来た。
自分でも意地悪な言い方をしていると分かっている。それでも、そう口にせずにはいられなかった。
『真帆櫓さんさ。それって、本気で言ってる?』
「何が?」
敢えて分からない振りをする度に感じるのは、ほんの少しの罪悪感。
『からかってんの?』
「どうして?」
認めてしまえばいい筈の一言が、喉に閊えて出てこない。
『あのさ………』
それから、長い沈黙が下りた。
『…………俺の気持ち、届いてる?』
その一言に、何故か泣きそうになった。
携帯を握る指が震えた。今すぐにでも、フリップを閉じて、通信を遮断してしまいたい衝動に駆られたのを寸での所で堪えた。
余りにも大人げない仕打ち。私の本質は、昔も今も臆病なまま、変わっていない。
私は、その問い掛けに返すことが出来なかった。
「キミはこれから宿題?」
少し鼻に掛かった声を誤魔化すように口早に告げる。
『…………』
「明日も早いものね」
『…………』
「それじゃ、また明日」
『真帆櫓さん』
「お休みなさい」
『好きです』
耳元で鳴った真剣な声に私は目を閉じていた。
“Целую”(あなたにキスを)
心の中で、密かにおまじないに似た言葉を紡ぐ。
無言のままのリップ音が、その日、私に出来た最大限の譲歩であり、ささやかな意思表示でもあった。
それが、相手に伝わっているかは、未知数だ。
その夜、私は、祈るような気持ちで、ベッドに入った。
素直になれない女心。なんだか当初の構想とは違った流れになってきました。ここに来て少しトーンダウンですが、次回からはきっと明るくなるはずです。