第十一話 深層と表層の乖離率 8.26%
いつもとは違うイレギュラーな展開。主人公の揺れる心。ブレーキがかかりました。
3番線。8時7分発、○○線。△△行き。各駅停車。10両編成。
定刻通り、ホームに滑り込んできた車両に乗り込む。
いつもと同じ7番目の車両、進行方向2番目の扉から入って奥、端の吊革。
いつも同じ変わらない定位置を確保して。
だが、その日、私はふとした違和感に、一人、首を傾げた。
私の朝を形成する筈の要素が、一つ、欠けていたのだ。
それは、私の左隣の空間だ。
視界の隅に入るのは、見慣れた紺色のブレザーではなく、グレーのピンストライプのスーツだった。ストライプを作るラインはオレンジで、余り、見ない色の組み合わせだ。
鼻先を掠めるのは、ウッド系のフレグランス。少し甘めの人工的な香りは、短時間なら良いが、長時間晒されていると悪酔いを起こしてしまいそうだ。
不意に私の心に漣が立っていた。当て所なく車内を見渡してみる。乱立するスーツの林の中に、在るべき造形を探して。
だが、網膜に焼き付いている映像に重なる肖像は、一向に現れなかった。
ある筈のものがないというのは、こんなにも違和感を生じさせるものであっただろうか。急に襲われた喪失感に近い空虚な気分に私は愕然とした。
何を期待していたというのだろう。
偶々、乗り込む電車が同じであっただけ。約束を交わしていた訳ではない。私は、保守的なまでに自分の生活リズムとその時間配分に拘っていただけで、その本質は揺るがない筈だ。
ただ、見慣れた景色が無いだけ。いや、ささやかなマイナーチェンジといったところか。窓から見える景色に起こり得るような、なんてことは無い、予想の範囲内の変化である。
そう、例えば。古いビルが取り壊されたとか。建設途中のマンションが竣工して、新しい住人が生活を始めたとか。そういった類の。
まるで言い訳のように、そんなことを考えている自分が、なんだか虚しかった。
それから、私はまんじりともしない気分で、混み合う車内、電車の揺れに身を任せた。
人混みに揉まれながら、駅を一つ通り過ぎた所で、鞄のポケットから振動が伝わってきた。携帯のバイブレーションだ。取手をずらして鞄の隙間を覗き込めば、メールの到着を示すランプが点滅を繰り返していた。
狭い車内、吊革に摑まりながら、空いている左手で点滅を繰り返している携帯を取り出す。左右に陣取るスーツ姿の疑似同志たちに、ほんの少しの遠慮をしつつ、フリップを開いた。
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From: 坂井信思
Subject:
Main: 隣の車両
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書かれていたのは、暗号のような一文。それが意味するところは……………。
私の顔には、人知れず、小さな微笑みが浮かんでいた。
―――――――態々、こんなことを連絡してこなくてもいいのに。
そんなことを思いながらも、心の内では満更でもない気分になっているのだから、現金なものだ。
停車駅に着いて、私は軽やかにプラットホームに降り立った。
そして、流れ出す人混みを尻目に後方を振り返る。吐き出された車両の扉から、癖の無い黒い頭髪が見えた。その瞬間、トクリと鼓動が一つ、意味不明な信号を放つ。
だが、次の瞬間、微笑んでいた筈の表情が固まった。
上げかけた腕が、中途半端な位置で所在無げに止まる。
黒い頭髪の隣には、茶色の頭髪が並んでいたからだ。紺色のブレザーの肩先で揺れるふわふわの柔らかそうな髪。同じ紺色のブレザーが包むその肩は、とても華奢だ。
仲睦まじそうに、あの紺色のブレザーの隣に立つプリーツスカート。同じ制服に身を包んだ女の子が、にこやかな笑みを浮かべていた。
嬉しい。楽しい。溢れんばかりの気持ちが込められた表情だ。かくも雄弁なメッセージ。
私は、その光景を見て、すぐさま回れ右をした。大きなスライドで足早にプラットホームを階段へと急いだ。改札へと流れる人ごみに素早く合流する。
頭の芯が急速に冷えてゆくのが分かった。浮かれていた気分は一転、急降下。口元には、堪え切れない自虐的な笑みが滲み始めていた。
何を莫迦なことをしているのだろう。
目裏にちらつくのは、高校生の男女の仲睦まじい姿だ。客観的に見ても、実にお似合いで、違和感を生じさせない、ごくごく普通なありふれた光景。
あれが、正当。本来のあるべき姿だ。
思い上がり、いや、勘違いも甚だしい。下らない感情に一喜一憂して、振り回されている。そんな自分がどうしようもなくやるせなくて、莫迦らしくて、愚かしく思えた。
網膜を通じて入ったこの光景に対して脳は拒絶反応を起こしていた。
アレルギーのような一時的ショック。本来、自分を守る為にある免疫機能の過剰防衛だ。
私は、この一秒を無かったことにして、改札への道のりを急いだ。
あの女の子の隣にいたであろう信思君の顔は見られなかった。
改札を抜けた直後、不意に腕を掴まれて、私の身体はバランスを崩した。突然の外部からの衝撃に振り返る。
「真帆櫓さん!」
きつく掴まれた左腕。上腕部分には大きな手があった。白いワイシャツの袖、紺色のブレザーから伸びる長いしなやかな男の腕。
そして、直ぐ傍には、普段目にする澄ました表情からは想像も付かないような焦りの色を濃く浮かべた信思君がいた。
私は咄嗟に当たり障りのない微笑みを浮かべていた。営業用のスマイル。大人の仮面だ。
「同じ電車だったのね」
「………ああ、うん」
内心のざわめきを無視して、私は何食わぬ顔を繕って自分を引き留めた相手を見上げた。
「どうしたの?」
掴まれたままの左腕にそっと触れる。
「……あ、………いや。…………ゴメン」
信思君はハッとして、掴んでいた手を離した。それを少し寂しく思う矛盾した気持ち。
上手く笑えているだろうか。
急に駆けだした信思君を追ってか、茶色の髪を緩く束ねた女の子がこちらにやってくるのが見えた。
――――――タイムリミットだ。
邪魔をする訳にはいかないだろう。
「じゃぁ、私は行くわね」
こちらを怪訝そうな顔をして見ている制服姿の女の子に苦笑に似た小さな微笑みを送って、私は傍にある紺色のブレザーを仰ぎ見た。
そこにあったのは、途方に暮れたような表情を浮かべた信思君の顔だった。
そんな顔をさせてしまっているのは、もしかしなくても、自分の所為なのだろうか。
表面上は穏やかに微笑みを湛えながら、私の心は大きく揺れていた。
「真帆櫓さん」
踵を返した背中に低い囁きが掛かる。
私は首だけでちらりと後方を振り返った。全く気にも留めていないことをアピールするかの如く、微笑みを口元に湛えたまま。
――――――ああ、なんて嫌な女だろう。
「メールするから」
内心の自己嫌悪には気が付かない振りをして、小さく手を振る。
私は、酷く混乱していた。
自分でも何がしたいのか分からなかった。燻るようにして蠢くこの【気持ち】は何なのか。
その答えを自分で導き出すことが、怖くて仕方がない。そんな迷いを振り切るように、私は足早に会社への道のりを急いだ。
オフィスに着いたのは、いつもよりも若干、早い時間だった。
会社に着いて、同僚と普段通りの挨拶を交わす。
鞄をロッカールームに入れた時、タイミングを見計らったかのようにメールの到着を示す携帯のバイブレーションが鳴った。
言い知れぬ【感情】に私の背中は粟立った。
私は鳴り響く低い振動をロッカーに閉じ込めた。緩く頭を振る。
そのまま、今日一日自分の戦場となるであろう仕事場に戻ろうとして、だが、私の脚は一歩、踏み出した所で止まった。
大きく息を吐き出して、再びロッカーの中にある鞄から、携帯を取り出した。
点滅を繰り返す物体をスーツのポケットの中に押し込んだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。今回は、主人公の心に少しブレーキがかかる感じです。漸く、自覚をするきっかけになりました。