第十話 慣性と反動の乖離率 9.64%
ささやかな日常に入り込んだ小さな変化。それは静かに、だが、確実に、紛れもない形で私の生活に影響を及ぼすようになっていた。
例えば、ほら。仕事帰り、辿りついた最寄り駅で、紺色のブレザーを見かけるとついつい目で追ってしまう、とか。そこにある筈のない影を無意識に探している。それに誰を重ねているのか、それが何による変化なのかは、余りにも明白だ。目も当てられないほどに。
網膜に反射する残像は、私の記憶の中で幾重にも重なり、一定の造形を作り上げるまでになっていた。 すらりと伸びた背中だとか、骨ばった長い指先だとか。
どうしてなのかは分からなくとも、心惹かれる事象はそこかしこに存在していて、私を惑わせる。意図せずともしなくとも、私は確実に自らその距離を縮めているのだ。
それを認めたい自分と認めたくない自分。相反する感情は、私の中で天秤を形作っていて、些細なことでその均衡が崩れる。
ガタン、タタン。
揺れる車両の振動に合わせて、視界がリズムを刻む。すでにお馴染みになった光景。いつもと違うのは、窓から覗く景色が茜色に染まっていることだろうか。
いつになく仕事が早く切り上がって、偶には早く帰ろうと会社を後にした。そんな、日常が少しだけ脇へ軸をずらした瞬間に、ちょっとしたおまけが付いてきた。
予期せぬ誤算。心躍るサプライズか。
最寄駅のプラットホームで、見覚えのある背中を目にした。意識が吸い寄せられるように一点に集まっているのが分かる。オートフォーカスの機械音が耳の奥に響く。そして、ある点で止まった。カメラの照準が合ったみたいだ。幾度となく繰り返された反復感情は、すでに私の内部にプラスの回路を作りだしていて、そこにまた小さな派線が繋がった。
行き着く先は同じなのにそこに至るまでの工程は千差万別。単純であって複雑な仕組み。人間の世界は、かくも混沌に満ちている。
偶然の邂逅。それを『ウレシイ』と認識している自分。
私は自然と緩んだ口元を隠すこともせずに、足を速めていた。
「信思くん」
声を掛ければ、ゆっくりと振り返る長身の影。心なしか気だるげなのは一日の終わりだからだろうか。 朝とは違う空気に不思議な高揚感を覚えた。
声を掛けたのが私だと分かると、少し目を見開いて、直ぐに小さな笑みを浮かべた。
それだけで硬質な空気が、ほんの少しだけ緩む。
「真帆櫓さん」
「今、帰りなの? 随分と遅いのね」
からかい半分、隣に並んだ。
これまで帰りの時間に信思君を見かけたことは殆ど無かった。学生と社会人。普通に考えて、その生活リズムは、一日の後半部分ではかなり異なる。
プラットホームは、仕事帰りのサラリーマンやOL、学生たちでごった返していた。共通するのは、解放感に溢れたやや軽薄な空気。そして、漏れなく私もその感染者だ。
「体育祭が近いから。練習があって」
「体育祭?」
体育祭といえば秋。そんな定型を裏切るように、最近はその行事を秋ではなくて、新緑眩しいこの時期に持ってくる学校が多いと聞く。信思君の学校も多聞に漏れずと言うところなのだろう。私の中で生じている違和感はどうにも仕方がないが。
新しい学年が始まって、何もそんなに慌てなくてもいいだろうに、と思ったものだが、そうしなければ学内の行事をカリキュラムの中に組み込むのが難しいのかもしれない。また、どこか余所余所しさの残る教室内の浮ついた空気を、体育祭を通じて一気に団結力のあるものに変えようという教師側の配慮、または魂胆かもしれない。
「キミのところはこの時期なのね。で、本番はいつなの?」
「今度の日曜」
「もうすぐじゃない」
ならば、追い込み、最終調整ということなのだろう。練習に力が入るのも頷ける。
「凄い気合が入っているのね」
放課後まで練習とは恐れ入る。自分の高校時代を記憶の中に探って、そんなことはしなかったと直ぐに思い至った。
感想を述べれば、信思君は何とも言えないような少し複雑な顔を作ってから、控え目に苦笑して見せた。少し踏み込み過ぎただろうか。
それから電車が来るまでの間、話題は自然と体育祭の話になった。
私は話を聞きながら、自分の高校時代を振り返っていた。時間軸を逆行して、無理やりその部分だけ抜き出して持って来て、目の前に並べてみる。自分の頭の中だけで出来る荒技だ。
私が通っていたのは県立の女子高だった。体育祭は学年別クラス対抗、其々にクラスカラーのTシャツを着て、女の子達だけでもかなりの盛り上がりを見せたものだった。進学校ではあったが、いいところのお嬢様校という訳でもなく、まぁ、常識を弁えた、真面目でどこか品のある女の子が多かったのは事実だが、運動もそれなりに盛んだった。振り返れば楽しい思い出だ。
変わって、信思君の所は共学校だ。同じ年頃の男の子がいるというのは随分と校内の空気が違うものなのだろう。恋や恥じらいや甘ったるい衝突のある空間。ぎすぎすした嫉妬の鞘当だとか。嬌声に似た歓声。それに男くさい荒々しさや唸るような咆哮が混じりあう。何とも混沌とした社会の縮図。賑やかなことこの上ないだろう。
それは私の知らない世界だ。高校生という年代の男の子達がどんな感じなのか。生憎、私のメモリーには情報が全くなかった。女子高時代の三年間というのは、そういう点では思いの外、外界からの隔離が大きいものなのだ。
私の隣に立つ人物が身を置いているのは、まさに私にとっては未知の空白の時間なのだ。私自身、女子高時代の過去を後悔したことは無いけれど、当時、空想の恋に恋焦がれた時期があったのは本当の事で。夢見がちな少女にありがちな一抹の寂しさみたいなようなものをずっと引きずってしまっているのかも知れなかった。だから、今、ぽっかりと空いたその穴を埋めようとしているのかもしれない。一旦は塞いだ筈の部分であったというのに。私自身ですら忘れていた微かな綻びを今になって露わにされた。そんな気分だった。
懐かしさを感じている隙に、話は思いもよらない方向へ進んでいた。
「真帆櫓さんは、その……暇?」
「日曜日?」
躊躇いがちに窺う目。期待が入り混じったような眼差しはある意味、雄弁だ。
「そ。見に来ない?」
私にとっては、その申し出は少し意外で、目を瞬かせた。
「お弁当持参で?」
「え、作ってくれんの? だったらすげぇ嬉しいけど」
急に食いついてきた箇所に、私は苦笑を洩らした。
目当てはそっちか。まぁ、それでもいいのだけれど。
「でも、……私みたいなのが行って邪魔にならない?」
心配なのはそこだった。当日、一般公開をしているのだろうか。私の時は、まだまだ時代的にも呑気なものだったが、最近の学校はセキュリティーが厳しいと聞く。ネックといえばネックだ。それに、大抵、ああいうものは内輪で楽しむものだ。部外者が入って水を差すような真似だけはしたくない。それこそ場違いでもあるだろうに。
そんなことを訊けば、訳が分からないと言った顔をされてしまった。その隣で私も頭上に疑問符を並べている。
「大丈夫。普通に出入り自由だし。来賓も結構来るから」
信思君は、私の心配を可笑しそうに笑い飛ばした。
「来賓……て、まさか、保護者とか?」
その想像に少しぞっとした。まさか、小学校の運動会ではあるまいし。親が見に行くとでも言うのだろうか。それはあんまりだろう。
だが、私の心配は杞憂に終わった。
「んー、近所の人とか、見学の中学生とかが親子で、かな。あとOBとかも。親は流石にないだろ」
成程。外からの観客もそれなりにいるのということなのか。割とオープンだ。
それならば、大丈夫だろうか。なんて半ば乗り気な自分に苦笑いをする。でも、高々そのようなことで喜んでもらえるなら安いものだ。年端の行かない子供を相手にしているようで、なんだか微笑ましい。
「いいわよ」
「マジ?」
快諾をすれば、言いだした本人が少し驚いた表情を眉毛の端に滲ませる始末。
おや、もしかしなくともしくじったのだろうか。
『偶に空気読まないよね』という友人達の評を思い出した。もう少し自覚をしなさいと言われた忠告の言葉が頭の隅を過った。
でも、斜め上にある顔は、心なしか嬉しそうでほっとした。
「弁当は?」
「もちろん、作ってあげる」
矢継ぎ早の問いに、苦笑を返した。
恐らく、半分以上はそれが目当てなのだろうから。お昼調達係。そんな意味合いでも構わない。口実、いや、免罪符にはなるだろう。つまり、自分の行動に対する動機づけみたいなものだ。イレギュラーな事をしている自覚はあって、そんな自分自身に、納得できるような言い訳が欲しかったのかもしれない。
「リクエストはある? 好き嫌いとか。アレルギーとかは? 絶対無理なものとかがあったら教えて頂戴ね」
それならば、と早速事情聴取に取りかかる。これまで食べ物の好みの話はしたことが無かった。というよりは、寧ろ、殆ど会話らしい会話をしていないのではないかと思う。
重なった時間は朝の通勤時間の約十分。満員の車内でお喋りに興じるのはやはり躊躇われて、ほとんどが無言であったように思う。
「基本的に何でも大丈夫」
返されたのは、魔法のようで困った言葉だった。
「じゃぁ、例外は?」
こういう時に限って詰めておかないと外れのど真ん中を引き当ててしまったりすることになるのだ。
念には念を入れて。
すると、咄嗟には出てこなかったらしく、信思君は暫し考える素振りを見せた。
そして、何か思い当たるものでも見つかったのか、此方をちらりと見てから、何処か気まり悪げに呟いた。
「………人参の甘いヤツ」
それは、小さな子供みたいな言い方だった。普段大人びて見える分、そのギャップは何だか年相応で、思わずくすりと小さな笑みが漏れるくらいには可愛らしかった。
微笑ましさに目を細めた。高い位置にある後頭部を無性に撫で回したい気分だ。
「グラッセみたいなものかしら」
確かに。あれは、かく言う自分も余り好きではない。食べられないことはないが、自ら進んで箸を伸ばそうとはしない類のものだ。そういうものは誰にでもあるものだろう。別段恥ずかしがることでもないのだが。
甘い小さな人参を前に口をへの字に曲げている信思君の姿が目裏に浮かんで、私は更に緩みそうになる表情筋を慌てて引き締めた。
おっと危ない。唯でさえポーカーフェイスとは無縁なのだ。隠し事なんて出来ないのだから、相手に余計なことが伝わって気分を害されてしまわないように気をつけなければ。
「じゃぁ、それは、除くわね。他に何か思い出したら教えて? 朝でもいいし、メールでもいいから」
出来るだけ早くこの話題から離れようと、そう切り出したのだが、
「……別に、笑いたかったら、笑えば?」
穏便に事を運んだ積りであっても、やはり向こうには筒抜けだったらしい。隣から拗ねたように恨みがましい視線を向けられて、私は密かに堪えていたはずの笑いを小出しに吐き出すようにして、暫し肩を震わせた。
「小さなハンバーグにしようか」
謝罪を兼ねて、ご機嫌取りをしてみる。
「……唐揚げがいい」
「いいわよ。おにぎり? サンドイッチ?」
「……おにぎり」
「了解」
気分はピクニック。いや、遠足か。
途端に今週の日曜日が楽しみになったのだった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。体育祭の話題はここで一旦終了です。エピソードとしては続きを書いてはいたのですが、内容的に本編とそぐわなくなってしまったので。書き直しができたら番外編にしようかと思っています。次回に続きます。