第一話 現実と妄想の乖離率 127.10%
性懲りもなく始めてしまいました。Slow Spiral に続く、年の差もの第二弾です。今回は、朝の通勤電車という限定された時間と空間を起点に始めてみました。舞台としてはごくありふれたもので、けっして目新しくはありませんが、もし、ご興味を持たれましたら、お付き合いいただけたら幸いです。それでは、どうぞ。
毎日、同じ時刻、同じ電車に揺られて。
変わり映えのない日常。それでも時間が経つにつれて認識することのできる顔が増えて行く。
この空間を形作る一要素として、私は徐々に、自分が望む、望まないとに関わらず、この場所に馴染んで行く気がしていた。
欠かすことのできない、とまではいかないが、土台穴に敷き詰める小石の一粒位。
何らかの割合できっと紛れている賑やかしのその他大勢。
多分にもそのような所だ。
1日24時間、1440分の中の10分間―――1/144日。
それは、短いようで長い不思議な時間だった。
理想と現実は紙一重。
正気と狂気の境目もきっと其れ位の薄さなのだろう。
その一線を越えるか越えないかは、運の善し悪しで。
私がそちら側に転げ落ちてしまわないのも偶然の悪戯が積み重なっただけであるに違いない。
すっかり体に馴染んでしまった振動に同調しながら、私は現実の狭間で妄想を繰り広げる。
その日は、朝から非常に眠たくて仕方がなかった。
連日の残業。昨日会社を後にしたのは終電ぎりぎりの時刻で。最終電車のラッシュに揉まれ、家に帰ると日付が変わっていた。
取り敢えずシャワーで一日の汚れを流す。このまま蓄積されて行く疲労も一緒に流されてしまえばよいのにと詮方無きことを望みながら、髪を乾かす間も惜しんでベッドに倒れ込んだ。
そして朝は非情にもやってくる。誰にでも平等に。
そして、また、同じ一日が始まるのだ。
予告なしに襲いかかる睡魔に抗いながらも、私は無意識に取り出したパスケースを手に改札を潜り抜けた。
同じ電車、同じ車両、そして同じ吊革。すっかり自分的には指定箇所になっている立ち位置に体を納めることに成功した。
ここまでくれば一安心だ。ここから自分が下車する駅までの十分間。この狭いスペースが一時仮眠ブースに早変わりする。
周囲を囲んでいるのは乱立するスーツ姿の砦。適度に込みあった車内。あからさまにならないように他人に自分の重力を分け与えて、私は電車の振動に同調するのだ。
ガクン。
一際大きな揺れに、吊革を握っていた手に無意識に力が入る。体が斜め三十五度の傾斜を伴って進行方向に傾ぐ。こういう時は重力に抗わない方がいい。経験から導き出された法則である。
周囲に立ち並ぶスーツの林も一斉になぎ倒されるように揺れた。少し可笑しな光景である。
そして再び、ブレーキの反動で真逆の方向へGが掛かる。
肩にかけていた重みのある鞄が反動でずり下がり、それにつられて吊革を掴んでいたはずの手が、するりとプラスチックとゴムの間の輪をすり抜けてしまった。
いつもならばなんて言うことはない揺れ。
だが、日頃の睡眠不足がピークに達していた所為か、緊急的反応が遅れてしまった。
手が宙を彷徨う。
スローモーションのように自分の体が傾ぐのが分かった。犠牲者となるのは隣に立った人だろう。
あああ、ごめんなさい。すいません。でも大目に見てください。我々は同志ではありませんか。
予期していた衝撃は、思いの外に小さかった。
視界に映るのは、白いワイシャツと紺色のネクタイの結び目。地味に見えた紺色には、全体的に柄が織り込まれている。そして同じ紺色の上着。
「すいません」
私は慌てて体を起こした。
覚えのある柑橘類の懐かしい香りが鼻先を掠めた。
再度、吊革を掴み直そうと上を見上げると、目の前には新たに別の手が伸びていた。
むむむ。してやられたり。
離した隙に他の同志に手綱を奪われてしまったらしい。混み合う車内ではよくあることだ。
伸ばしかけた手を邪魔にならないように元の位置に戻す。
私は、頭上に伸ばされた見知らぬ手を恨めしげに見やった。
骨ばった大きな手。丸い銀色の時計が、嘲笑うかのように針を進めている。
むむむ。小癪な。心のうちでそっと悪態を吐く。
さて、これからが問題だ。
体の平衡感覚を鍛える修行を余儀なくされる。しかも、かなりの習熟度を要求されるケースだ。
今日の運転手の腕にはあまり期待が持てない。
足を肩幅に開いて、つま先とヒールの二点に重心が収まるように調整する。だが、いかんせん肩に掛けた鞄の中身が重すぎて、どうにもバランスがうまくいかない。
まだまだ修行が足りぬようじゃの。
師匠が見ていたら、ふさふさとした細い眉毛を吊り上げて、そう口にすることだろう。
そして、再び試練はやって来た。
唐突に強い揺れが足もとを揺さぶった。体のバランスを保とうにも右肩にのった鞄の重みが振り子の如く揺れを倍増しにさせる。
追突する。
そう思った瞬間、腕を掴まれていた。左腕に強固な枷が嵌められたようだ。そのお陰か、体のブレは最小限に済んでいた。
左腕を見る。
長い指がジャケットに食い込んでいた。
大きな手だ。白にベージュのラインが入ったセーターが、紺色のブレザーの下に覗いている。紺色の折柄の入ったネクタイ。白いワイシャツ。喉仏。
そしてその先には、まだ年若い男の顔があった。
高校生らしい学生だった。
「す、すいません」
またまたこの御仁を煩わせてしまった。再びのことに慌てて謝る。
傾いだ体を立て直すと、
「捕まってて下さい」
これ以上フラフラするなとばかりに腕を回された。
強制的な外部からの拘束。突然のことに面食らう。
「あの……」
「どこで降りるんですか」
此方の問いかけを無視して、その男が訊いた。
抑揚の乏しい低い声。だが、それは鼓膜を揺さぶるような心地よい響きを私の中に植え付けていた。
「…藤之宮です」
目的地の駅の名を告げると、
「じゃぁ、それまでは我慢してて下さい」
黒い髪の間から切れ長の目がついと見下ろし、じろりと私を睨みつけたように思えた。
「すみません。重ね重ね。お言葉に甘えます」
妙な威圧感に恐縮して体を縮こまらせた。
不可抗力とは言え、度重なる無礼に憤慨しているのか。ここは素直に従った方が良いだろう。
見ず知らずの学生らしき青年に体の一部を支えられながら、これ以上迷惑は掛けまいと私は細心の注意を払った。
掴まれたままの腕が少し痛んだ。だが、支えてもらっている手前、緩めてくれとは口に出せなかった。
目線をやや左上に向けるとすらりと伸びた腕が目に入った。
紺色のブレザーの袖口から白いセーターに入るベージュのラインとワイシャツの端が覗いている。
骨ばった手頸。そこを一重する時計は、近未来的でシンプルなメタルフレームとレザーのコンビだった。
隣の青年は、左手で吊革に掴まっていた。左の肩に学生鞄らしいスポーツバッグを担いでいる。
奇妙なことになったと思いつつも、それでも一応、体の安定が保証されたことに妙な安心感を覚えていた。
『―――次の停車駅は藤之宮です』
昨日よりも若干、しわがれた声が車内スピーカーから流れ、次の停車駅の名を告げた。
今日の車掌は、風邪でも引いたのだろうか。
ガラス越しに映る乗客の中には、まだまだマスクの手放せない人たちがちらほらと見受けられる。いち早く花粉症から解放された身としては、彼らの辛さがよく分かる。籠り始めた熱気に此方までも鼻の奥がむず痒くなるような気分になった。
降車に備えて体制を整えるべく隣を見上げた。
一に笑顔、二に笑顔、三四がなくて五に笑顔。
何はともあれ、人生を円滑に過ごすための処世術として、感謝の意を表すことは大切だ。微笑みは欠かすことのできない最大の付属物。
「どうも有難うございます。お蔭で助かりました」
「いえ」
微笑んで礼を述べると、隣の学生は、言葉少なに首を軽く縦に振ってから視線を少し横へ流した。
表情は能面のように余り変化しない。
だが、悪い人ではない。いや、寧ろ、その若さで紳士的な気持ちを持てるところは見上げたものだ。
きっと心根の優しい青年なのだろう。独断と偏見でそう解釈する。
軽く会釈をして、折よく開いたドア、降り立つ人々の流れに乗る。
ホームに降り立つと、開放感に大きく息を吸い込んだ。
そのまま、自分が今しがたまで乗っていた電車を見送ろうと振り返った。例の学生の姿を探して。
しかしながら、すぐ後ろ、視界一杯に広がったのは、電車の窓でもドアでもなく、紺色のネクタイと白にベージュのラインが入ったセーターだった。
そのまま目線を上に挙げると、件の高校生の顔があった。
形の良い眉がひょいと跳ねあがった。
「どうかしたんですか?」
「ああ、いえ。同じ駅だったんですね」
「そう…ですね」
当てが外れた戸惑いを誤魔化すように微笑んで、人の流れに乗って階段を下る。
改札に向かう行列は一方通行だ。ただ方向が同じだから。なんとなく肩を並べて、これまで何百回と繰り返されてきた道筋を辿る。
「学校はここから近いんですか?」
沈黙も悪くはなかったのだが、不意に気になって聞いてみた。
「歩いて二十分くらいです」
実に単純で明確な答えだ。
言語習得学習のドリルにあるような模範的練習問題。
改札を出て、私は会社へ向かうべく進路を右に取る。
スーツ姿のサラリーマンやOL達に紛れて、成程、同じ紺色の学生服に身を包んだ若者が続々と左へと歩いてゆくのを目にした。今まで気にしたことはなかったが、新たな発見である。
「それじゃ、私はこっちなので」
もう一度、先程はありがとうと礼を重ねて、微笑んで別れを告げた。
すらりとした紺色の背中が、同じような紺色の中に埋もれてゆく。
それを遠くに見やって、私は軽くなった体と共に踵を返した。
アスファルトの上、ステップを踏むように爪先を蹴りだす。強烈にあったはずの眠気は、いつの間にか吹き飛んでいた。
今時の高校生も捨てたものではない。
そんな年寄り染みた感慨に浸りそうになった自分を軽く笑い飛ばす。
ありふれた日常に小さな変化が訪れる。
そうやって毎日は積み重なって。
この時の私は、このささやかな変化が、この後にもたらすであろう影響など予想だにしていなかった。