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正当防衛だったはずの暴言で、なぜか俺だけが追い詰められている件について

作者: ぷちこ
掲載日:2026/08/19


執務室の重厚な扉を抜けた瞬間、ジークハルトはこめかみを強く押さえた。

頭が痛い。それだけではなく、胃の辺りまでじくじくと痛む。


『朗報だぞ、ジークハルト。エリカ嬢の見事な尽力と配慮により、お前たちを縛っていた王命の撤回手続きが、いよいよ最終段階に入った』


王太子の晴れやかな声が、頭の中で何度も反芻されていた。 王太子に悪気は一切ない。彼はただ、公正な裁定者として、ただ真っ当に事務処理を進めただけだ。


――ジークハルトの過去の態度は、何一つ間違っていなかった。

かつてのエリカは、度を越した我が儘と陰湿な嫌がらせで周囲を苛ませる、まさに悪徳を絵に描いたような令嬢だった。王命で婚約者に据えられたジークハルトが彼女を毛嫌いし、「お前のような下品な女は俺の視界に入るな」と冷酷に吐き捨てたのは、彼女の数々の悪事を目の当たりにしてきた彼にとって当然の拒絶であり、正当な怒りだった。 当時の己の言動に、何の一点の曇りもない。エリカが周囲から嫌われ、冷遇されたのは、すべて彼女自身の自業自得だった。


……問題は、今目の前にいるエリカだ。


「ジーク様、お顔の色が優れませんわ。王太子殿下とのご接見、お疲れになられたのではありませんか?」


振り返ると、そこには寸分の隙もない美しい姿勢で佇むエリカがいた。 柔らかな笑みをたたえ、洗練された動作で温かいハーブティーが差し出される。

何一つ落ち度のない、完璧な配慮。自分を縛る王命を白紙に戻すため、彼女がどれほどの努力をしたかが痛いほど伝わってくる。

だからこそ――その純粋な誠意と圧倒的な仕事振りが、ジークハルトの胃をじくじくと押し潰していた。


(……何故だ?)


ジークハルトは眩暈を覚えた。

かつて嫌悪感を抱いていたのが嘘のように、今の彼女は完璧な淑女だった。それもただ作法が美しいだけではない。過去の己の不徳を深く省み、ジークハルトに与えた苦痛を真摯に申し訳なく思っている。


「ジーク様。過去の私の浅はかな振る舞いにより、長らくあなた様に本来ならば必要のない過酷な忍耐を強いてしまいました事、どれほど謝罪しても足りません」


エリカは慈愛に満ちた目でジークハルトを見つめ、静かに、しかし力強く告げる。


「ですが、どうぞご安心ください。貴方様を縛るこの理不尽な王命は、間もなく白紙に戻されます。王家へ差し出す代替の利権も、領地改革案も、すべて私が責任を持って整えました。これ以上、貴方様のお手を煩わせる事はございません」


ジークハルトの手が微かに震えた。


「エリカ。俺は……」

「お優しいジーク様ですもの。私の勝手な振る舞いにも嫌な顔一つせず、最後まで優しく付き合って下さるのですね。……ですが、良いのです。当時のジーク様のお言葉は、至極正論でございました。『存在すら不快だ』と仰られた通り、私は貴方様の人生に存在するべきではなかったのですから」


――完璧な正論だった。

エリカは怒っている訳ではないし、復讐を企てているわけでもない。

「ジークハルトの過去の怒りは100%正しい」と心から納得し、己の過去の罪を受け入れた上で、被害者であるジークハルトを助ける為に、完璧な根回しで婚約破棄を進めているのだ。

嫌がらせなら、一喝できた。 未練や執着なら、突っぱねる事もできた。

だが、彼女が差し出しているのは、純度100%の『誠意と配慮』だった。


(俺の怒りは正しかったはずだ! 当時の言動に、何一つ間違いはなかったはずなのに……!)


過去の自分が吐き捨てた正当な拒絶の言葉の一つ一つが、今や逃げ場のない刃となって、ジークハルト自身の首元に深く突き刺さっている。 己の正論に、殺されそうになっているのだ。

部屋を出ようと、優雅に一礼するエリカ。 その背中が遠ざかって行くのを見た瞬間、ジークハルトの中で何かが弾けた。


「待てっ!」


なりふり構わず伸ばした手が、エリカの細い手首を掴む。 強い力で引き留められ、エリカは驚いたように目を丸くした。


「ジーク様?」

「頼む、待ってくれ、エリカ……!」

「まあ、お顔が真っ白ですわ。やはり体調が――」

「違う! 破棄など……婚約の破棄などしなくていい!いや、したくない! 俺が悪かった! 俺が、俺が間違っていたんだ……っ!」


かつての威厳も正当性もかなぐり捨て、絞り出すように悲鳴をあげるジークハルト。 手首を握る手は、情けなく震えていた。

しかし、エリカは追いつめられた彼の手を、心底愛おしそうに両手で優しく包み込んだ。

「まあ、ジーク様……。どこまでも本当にお優しいのですね」


エリカの瞳には、深く澄んだ感銘の色が浮かんでいた。


「かつてあれほど私に苦しめられたというのに、私を哀れんで、そこまでお優しい嘘をついてくださるなんて。……でも、もうご自身を偽らなくてよろしいのですよ」

「ち、違う……俺は……!」

「どうぞご安心くださいませ。貴方様をこれ以上苦しませぬよう、王命撤回の手続き、私が責任を持って最後まで進めて参りますから」


花が綻ぶような、あまりにも完璧で気高い微笑み。 エリカは慈愛に満ちた目を向けたまま、ジークハルトの震える指を一本一本、優しく押し返すようにしてその手を離した。


「……行かないでくれ……っ!」


絶望に染まるジークハルトの懇願を聞き届けることなく、エリカは「やっと彼を解放できる」という晴れやかな満足感を胸に、一度も振り返る事なく去っていった。


(おわり)

お読み頂きありがとうございました

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