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短編A-① 5『無名の痕跡』「読んだ母、読まなかった母」  作者: Taku


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「読んだ母、読まなかった母」

一人の母は書店の新刊コーナーでその本を見つけた。


『彼女の計画』。


著者の名は、娘と同じだった。

彼女は迷わず手に取り、レジへ向かった。

家に帰り、夕食の片付けを終えてから、ゆっくりとページを開いた。


読み進めるうちに、彼女の手が止まった。


これを書いている人は、自分が知っている娘なのだろうか。


冷たく、アリを観察するように人を見つめ、価値を測り、距離を置く——少女。


彼女の知ってる娘とはかけ離れているように思えた。


書かれている話には、胸が締めつけられる思いがした。

彼女は何度も本を閉じかけた。

でも、読まずにはいられなかった。

娘が書いたのだから。


読み終えた夜、彼女は日記に書いた。


「娘の小説を読んだ。難しい話だったけど、私たちのこと少し書いてあったのかな。少しだけ、うれしかった」


もう一人の母もまたその本の存在を知っていた。


書店で平積みになっている。

話題にもなっていた。

あらすじを読めば、娘を思わせる設定がある。

娘と同じ境遇の女性。

彼女はその本を一瞬、手に取った。

しかし開かなかった。


(そんなはずない)


彼女はそう思った。

娘は特別な子だ。

自分がそう育ててきた。

あの子は、そんな選択をするはずがない。

あの子は、特別な道を歩むはずだ。


彼女は本を棚に戻した。

そして、二度と手に取らなかった。

読まなくてもいい。

読んだら、自分がこれまで信じてきた「娘」が壊れてしまう気がしたから。


二人の母はカフェ「あおい」の噂を聞いた。

娘が書いた物語の重要な舞台になった場所だと。


一人の母は店の前に立った。

ガラス越しに窓際の席を見た。

娘が何度も書いた場所。

彼女にはその意味がわからなかった。

でも、それでよかった。

娘がそこで何を見て、何を考えていたのか、全部理解できなくてもいいと思った。

ただ、自分の知らない場所で、自分の知らない時間を生きていたのだと知っただけで十分だった。



もう一人の母もまた、同じ店の前に立っていた。

看板を見上げ、ガラス越しに店内を覗き、窓際の席を見た。

そして視線を逸らした。

本当は知りたい。

娘がどんな人間だったのか。

でも知った瞬間、「自分の娘」がいなくなってしまう気がした。

だから店には入らない。

本も読まない。

知らないままでいることが、娘を守ることだと信じた。



二人の母親は出会わなかった。

名前も知らない。

互いの存在すら知らない。

ただ同じ店の前に立ち、

全く違う選択をした。


一人は読んだ。

理解できなくても。

一人は読まなかった。

理解したくなかったから。

どちらも母親だった。

どちらも、娘を愛していた。

だからこそ、選んだ道が違った。


そして娘たちは最後まで知らない。

母親が何を読んだのか。

何を読まなかったのか。

どんな気持ちでページをめくったのか。

どんな気持ちで本を棚に戻したのか。


でも、その選択は残った。

誰にも知られず。

誰にも語られず。

娘たちですら知らないまま。

それでも小さな痕跡として。

――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――


短編A-➁第1話「見ていただけの人」

https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/

短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」

https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/

短編A-➁第3話「匿名の通報者」

https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/

短編A-➁第4話「好意の裏返し」

https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/

短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」

短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」

https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/

また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。

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