「読んだ母、読まなかった母」
一人の母は書店の新刊コーナーでその本を見つけた。
『彼女の計画』。
著者の名は、娘と同じだった。
彼女は迷わず手に取り、レジへ向かった。
家に帰り、夕食の片付けを終えてから、ゆっくりとページを開いた。
読み進めるうちに、彼女の手が止まった。
これを書いている人は、自分が知っている娘なのだろうか。
冷たく、アリを観察するように人を見つめ、価値を測り、距離を置く——少女。
彼女の知ってる娘とはかけ離れているように思えた。
書かれている話には、胸が締めつけられる思いがした。
彼女は何度も本を閉じかけた。
でも、読まずにはいられなかった。
娘が書いたのだから。
読み終えた夜、彼女は日記に書いた。
「娘の小説を読んだ。難しい話だったけど、私たちのこと少し書いてあったのかな。少しだけ、うれしかった」
もう一人の母もまたその本の存在を知っていた。
書店で平積みになっている。
話題にもなっていた。
あらすじを読めば、娘を思わせる設定がある。
娘と同じ境遇の女性。
彼女はその本を一瞬、手に取った。
しかし開かなかった。
(そんなはずない)
彼女はそう思った。
娘は特別な子だ。
自分がそう育ててきた。
あの子は、そんな選択をするはずがない。
あの子は、特別な道を歩むはずだ。
彼女は本を棚に戻した。
そして、二度と手に取らなかった。
読まなくてもいい。
読んだら、自分がこれまで信じてきた「娘」が壊れてしまう気がしたから。
二人の母はカフェ「あおい」の噂を聞いた。
娘が書いた物語の重要な舞台になった場所だと。
一人の母は店の前に立った。
ガラス越しに窓際の席を見た。
娘が何度も書いた場所。
彼女にはその意味がわからなかった。
でも、それでよかった。
娘がそこで何を見て、何を考えていたのか、全部理解できなくてもいいと思った。
ただ、自分の知らない場所で、自分の知らない時間を生きていたのだと知っただけで十分だった。
もう一人の母もまた、同じ店の前に立っていた。
看板を見上げ、ガラス越しに店内を覗き、窓際の席を見た。
そして視線を逸らした。
本当は知りたい。
娘がどんな人間だったのか。
でも知った瞬間、「自分の娘」がいなくなってしまう気がした。
だから店には入らない。
本も読まない。
知らないままでいることが、娘を守ることだと信じた。
二人の母親は出会わなかった。
名前も知らない。
互いの存在すら知らない。
ただ同じ店の前に立ち、
全く違う選択をした。
一人は読んだ。
理解できなくても。
一人は読まなかった。
理解したくなかったから。
どちらも母親だった。
どちらも、娘を愛していた。
だからこそ、選んだ道が違った。
そして娘たちは最後まで知らない。
母親が何を読んだのか。
何を読まなかったのか。
どんな気持ちでページをめくったのか。
どんな気持ちで本を棚に戻したのか。
でも、その選択は残った。
誰にも知られず。
誰にも語られず。
娘たちですら知らないまま。
それでも小さな痕跡として。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/
また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。




