間話 ハル
下町は、湿った光に満ちていた。
露店の布が風を受けて揺れるたび、通りの色が変わる。
油の匂いと、古紙の匂いと、干した魚の匂いが混ざる。
視察の列が進む。
その先頭に、ハル。凛とした佇まい。
足取りは一定。
視線は高い。
誰も触れない空気をまとっている。
ヒカリが何かを説明している。
数字。予定。報告。
その最中だった。
子供の笑い声が、横から転がり込む。
乾いた石を蹴るような、弾む声。
視線がわずかに流れる。
路地の奥で、シュウが走っていた。
袋を抱えたまま、子供三人に囲まれている。
追われているのか、追っているのか、どちらともつかない。
「待てって!」
「鬼だろー!」
「違うって!」
やけに本気だ。
ハルの歩幅が、ほんの少しだけ狂う。
「姫?」
ヒカリが気づく。
ハルは、視線を戻さないまま言った。
「……確認する」
それだけ。
布の隙間に身体を滑らせる。
視察の列は、音もなく後ろへ流れていく。
喧騒が一段濃くなる。
通りを抜ける。
肩が触れる。
屋台の煙が目に染みる。
シュウの背中を、確かに見ていたはずなのに、
いつの間にか人波に溶ける。
足を止めることはしない。
角を曲がる。
光が細くなる。
もう一つ曲がる。
足音が自分のものだけになる。
呼び声が、遠くなる。
振り返る。
元の通りは、どこにもない。
細い路地が、絡み合うように続いている。
干された洗濯物が、空を切り取っている。
石壁に刻まれた傷が、妙に生々しい。
「……」
ほんのわずかに、眉が動く。
背後で、砂を踏む音。
「おねーちゃん」
振り向くと、子供が三人。
さっきの顔だ。
覗き込むように、笑っている。
「迷子?」
「違う」
即答。
「じゃあ、なんでこっち来たの?」
ハルは答えない。
子供が、顔を見合わせる。
「ねえ、かくれんぼしよ」
「今さ、鬼いるんだよ」
「めっちゃ探すの上手い人」
「さっきのおにーちゃん」
ハルの視線が、少しだけ深くなる。
「……鬼は誰だ」
「シュウ!」
笑い声。
ハルは一度だけ目を閉じる。
「参加する」
子供たちが散る。
「数えるから隠れて!」
「早く!」
ハルは、古い木箱の陰へ入る。
石壁に背を預ける。
呼吸を浅くする。
外の音が、やけに大きい。
遠くで、誰かの名を呼ぶ声がかすかに混じる。
聞き慣れた響き。
だが、今は拾わない。
足音が近づく。
迷いのない足取り。
「……そこ」
声が落ちる。
視線を上げる。
シュウが立っている。
腕を組み、呆れ顔。
「なにやってんの、ハル」
「……状況確認だ」
「嘘つけ」
「違わない」
「迷ってただろ」
「迷っていない」
子供たちが背後で笑う。
「逆走してたー!」
シュウは額を押さえた。
「公務中だろ、お前」
「……少しだ」
「少しで抜けるなよ」
ハルは立ち上がる。
服の裾を払う。
「鬼の統率が甘い」
「鬼ごっこに統率いらねえよ」
沈黙が一拍落ちる。
シュウが周囲を見回す。
「ヒカリ、探してるぞ」
遠くで、確かに声が揺れる。
怒気を含んだ、よく通る声。
ハルは視線を逸らす。
「……聞こえない」
「聞こえてる」
一瞬、目が合う。
子供が割って入る。
「もう一回やろ!」
「次ハル鬼!」
「逃げろー!」
シュウが小さく息を吐く。
「どうすんだよ」
ハルは答えない。
ただ、わずかに口元が緩む。
その表情を見て、シュウが肩を落とす。
「……はぁ。ほんと、なにやってんだよ」
⸻
商店街の角で、子供が振り返る。
「こっち!」
「だから迷うって」
「迷ってない!」
押し合いながら細い通りに入っていく。
ハルは少し後ろ。
人の流れに合わせて歩きながら、きょろきょろしている。
見慣れていない顔。
見慣れていない距離。
それでも離れない。
⸻
肉屋の前で、全員止まる。
鉄板の上で串が並ぶ。
脂が落ちて、じゅっと鳴る。
煙が揺れる。
ハル、動かない。
目が、きらきらしている。
普段絶対に見せない、無防備な顔。
「……たべたい……」
小さく言ったあと、すぐに咳払い。
「……い、いや、別に」
子供「食おう!」
シュウ「一本な」
ハル、袋を出す。
金貨。
店主の眉が上がる。
「釣りは出ねぇぞ」
「いらない」
即答。
シュウが横を見る。
子供が固まる。
「……足りなかったら、足す」
「足りない分は?」
「ハルちゃんの奢り」
どこか誇らしげ。
「今日は特別」
「何がだ」
「……気分」
串を受け取る。
一口。
皮が弾ける。
甘辛い汁が広がる。
煙の匂いが、やけに残る。
「……これ……」
目がまた光る。
無言で二本目に手を伸ばす。
「おい」
「……これは予備」
「何のだ」
子供が笑う。
ハル、もう一本差し出す。
「ほら、ハルちゃんの奢り」
満足そう。
⸻
古書店。
棚ぎっしり。
紙の匂い。
「これなに?」
黄ばんだ本を渡される。
ハル、受け取る。
三秒。
閉じる。
「……だめ」
「なんで?」
「獣人語の助詞、位置おかしい」
静まる店内。
店主、咳払い。
ハル、少しむくれる。
「……ちゃんとしてるフリしてるのに」
「ひどい」
「言うな」
「言ってない! 半分しか!」
「十分だ」
ぶー、と頬を膨らませる。
「……直せばいいのに」
「余計なこと言うな」
⸻
文具屋。
瓶と羽ペン。
光が当たる。
「かわいい!」
声が跳ねる。
瓶を持つ。
戻す。
また持つ。
三つ抱える。
「一個」
「全部必要」
「どこが」
「全部」
渋々戻す。
最後まで迷う。
外に出る。
腕を組む。
「……シュウのけちんぼ」
「俺の金じゃない」
「でも止めた」
「止める」
「だからけち」
完全に勘違い彼女ムーブ。
満足げ。
⸻
路地。
子供が石を蹴る。
ハルも蹴る。
失敗。
もう一回。
窓に当たる。
音。
全員止まる。
ハル、一拍。
「……シュウがやった」
「やってない」
「やった」
「やってない」
「……つい?」
「ついじゃない」
「……じゃあ半分」
「分けるな」
石を拾って、ポケットに入れる。
何事もなかった顔。
⸻
袋が増えている。
誰のか分からない袋も混ざっている。
「これ、誰の?」
「知らん」
「じゃあ私の」
全部持つ。
重い。
持ち替える。
でも離さない。
少し歩いて。
ハルが言う。
「ね」
「なんだ」
「今日さ」
一拍。
「完全にデートだったよね?」
子供が吹き出す。
「違う」
「え、違うの?」
「違う」
「……そっか」
少し考える。
子供はにやっと笑って、
「じゃあ次は正式にね」
勝手に決めて、前を歩く。
ハルは一瞬止まる。
「せ、正式って何よ……」
耳がぴく、と動く。
尾が、ぶわっと膨らむ。
「違うって言ってるだろ」
「でも今の、どう見ても」
「違う」
「じゃあさっきの焼き串、半分こしてたのは?」
「熱かったからだ」
「同じとこ持ってたよ?」
「うるさい」
子供は爆笑。
ハルは顔を真っ赤にして、
そっとシュウの袖を掴む。
「……あれは、合理的判断だっちゃ」
「はいはい」
その瞬間。
背後から、凍る声。
「——合理的判断、ですか?」
二人同時に固まる。
振り向かなくてもわかる。
腕を組み、
完璧な笑顔で、
目だけ笑っていない。
「本日の公務は?」
視線を逸らす。
「……散策っち」
「護衛を振り切って?」
「視察よ」
「視察で屋台三軒はしごですか?」
沈黙。
子供、小声。
「怒られてる」
無言。
一歩、近づく。
「あなたもです」
「……はい」
「迷子報告、二件。市場での軽い騒ぎ、一件。無断外出。説明は?」
口を開くが、
言葉が出ない。
前に出る。
「私が——」
「黙ってください」
即斬。
しゅん……
耳が下がる。
尾も下がる。
子供がぽそっと言う。
「さっきまで威張ってたのに」
「聞こえてます」
即答。
「本日はこれで終了です。お二人とも、戻ります」
くるり。
歩き出す。
とぼとぼ、ついていく。
途中で小声。
「……楽しかったっちゃ」
小声。
「うん」
止まらずに言う。
「聞こえています」
二人、黙る。
子供が手を振る。
「正式デート楽しみにしてるー!」
「違う」
「ち、違ういうとろーもん!」
ため息。
夕暮れの下町に、
怒号と否定が響く。
——完全にデートだった。
完。




