第四話
笛の音が、もう遠い。
訓練場の砂は踏み荒らされ、足跡だらけだ。
生徒たちは散っていく。座り込む者も、肩で息をする者もいる。
「今日の訓練、死ぬかと思ったわ」
「死んでないだけ勝ち」
「勝ち基準が低すぎる」
笑ってる。
笑えてるだけで、今日を生き延びた証拠みたいだった。
シュウは、立っていた。
立っていられるだけだ。
足の裏が熱い。
太腿が、じわじわと重い。
腕の奥に、さっき引っ張った感触が残っている。
――まだ震える。
でも、見せない。
顔を作る。
呼吸を整える。
息を吐く速さだけを、周りに合わせる。
誰かが横を通り過ぎて、ちらりとシュウを見た。
すぐに視線を逸らす。
慣れている。
シュウは視線を落とし、制服の袖を指でつまんだ。
ぎゅ、と握って、ほどく。
それだけで手の震えが少しだけ紛れる。
「……シュウ」
声が近い。
振り向く前に、もう距離が詰められていた。
ハルがいる。
いつもなら遠い場所にいるはずの姫が、今は目の前だ。
銀の気配が、ぴたりと張り付くみたいにそこにある。
「……歩く。こっち。ハウス」
短い。
命令みたいで、でも命令じゃない。
ハルの手が、シュウの袖を掴んだ。
強くはない。逃げられないだけの力だ。
シュウは、笑えなかった。
「……うん。歩いてる」
自分で言っておいて、変な気分になった。
会話したくないのに、返事だけは出る。
ハルは顔を上げない。
姫の仮面を保ったまま、ただ歩幅を合わせてくる。
横に並ぶ。
並べてしまう。
周りがざわつく。
――姫が、シュウと一緒に歩いている。
視線が刺さる。
でもシュウは、呼吸のリズムだけを崩さないようにした。
喋られない空気がある。
だから余計に、残る。
•近寄らない
•目を合わせない
•見てないことにする
関わらないのが正解。
巻き込まれないのが正解。
その正解が、妙に痛い。
「……離れんで」
ハルが小さく言った。
声は低い。
芯が震えている。
シュウはそれを聞こえないふりはできなかった。
「……うん」
ハルの指が、袖を離さない。
熱い。
指先が熱い。
それだけが、今のシュウには救いみたいだった。
⸻
校舎へ向かう廊下は、風が抜けて少し冷える。
汗が冷えて、身体が余計に重くなる。
シュウが一瞬だけ足を止めかけた。
ほんの一瞬。
沈むみたいな間。
でもハルの指が、すぐに引いた。
「……止まるな」
シュウは頷く。
頷いた瞬間、自分の首の後ろが熱いことに気づく。
見られているからじゃない。
――ハルが、見ている。
足音が、もうひとつ混じった。
ハルの背後。
いつの間にか、そこに立っている。
スレンダーな兎族の少女。
長い髪を束ねている。
姿勢が良く、視線が鋭い。
ヒカリだ。
存在が静かすぎて、逆に目立つ。
姫の側にいるのが当たり前みたいな距離。
「姫」
呼び方が、迷いなく“姫”だった。
「移動します。こちらへ」
言い方が冷たいわけじゃない。
ただ、現場の声だ。
ハルは歩みを止めずに言う。
「いま」
ヒカリは、わずかに頷いた。
「……承知しました。“今だけ”ですね」
言い方が丁寧なのに、現実を差し出すみたいだった。
ヒカリは一度だけ、ハルの袖の先――シュウを掴んでいる指を見る。
すぐに視線を戻す。
表情は動かない。
「……あなたが」
言葉がそこで切れた。
続けない。
続けないのに、続きだけ残る。
シュウは、目を伏せた。
⸻
廊下の途中、前の方で誰かがよろけた。
下級生の女の子だ。
膝が笑っている。訓練の疲労が遅れて来た。
「……っ」
声にならない音。
足がもつれて、壁に肩をぶつけかける。
周りが一瞬だけ止まる。
声をかけるべきか。
放っておくべきか。
迷う間がある。
――シュウが動いた。
言葉より先に。
身体が前に出た。
女の子の肩を支える。
壁にぶつからないように、腕で受け止める。
細い身体が、軽い。
軽すぎて怖い。
シュウの口が先に動いた。
「……大丈夫? 生理?」
空気が一瞬、凍った。
誰かが顔を逸らした。
誰かが笑いそうになって、飲み込んだ。
誰かが「関わるな」の顔をした。
シュウは自分の言葉に一拍遅れて気づいて、少しだけ青ざめた。
「……あ、違っ……」
言い直せなかった。
女の子の呼吸は浅い。
目が焦点を結ばない。
「……息」
シュウは自分の胸を指で叩いた。
ゆっくり。ゆっくり。
「……吸って。吐いて」
女の子の肩が小さく震えて、息がひとつ入る。
周りの空気が、少しだけほどけた。
「水……ある?」
誰かが慌てて水筒を差し出す。
シュウは受け取って、蓋を開けた。
唇にそっと当てる。飲めるだけの間を作る。
女の子が小さく飲み込んだ。
「……ありがとう」
声が戻る。
シュウは頷いた。
「……歩ける?」
女の子が頷こうとして、頷けない。
首が震える。
シュウは迷わず、しゃがんだ。
「……背中」
背負うつもりだった。
その瞬間。
「――待て」
声が落ちた。
ヒカリだ。
鋭い。
怒りじゃない。処理だ。
シュウの動きが止まる。
ヒカリは一歩で詰め、女の子の反対側から肩を支えた。
手つきが慣れている。現場の手だ。
「あなたが背負う必要はありません」
シュウは、言い返せなかった。
「……でも」
ヒカリはシュウの顔を見た。
「大丈夫の顔ではありません」
一言だけ。
その一言が胸の奥まで刺さった。
シュウは目を逸らした。
「……大丈夫、です……たぶん……」
嘘だった。
でも言うしかない。
背後で空気がわずかに変わった。
ハルの息が、一拍だけ乱れる。
次の瞬間には、姫の声に戻っている。
「……こちらへ。治癒科に運ぶ」
命令。判断。正しい。
ヒカリは女の子を支え、歩かせる。
周囲が動く。
流れるように片づいていく。
シュウはその横に残り、足を止めた。
止めたくない。
でも止まった。
その一拍の間に、ハルがシュウの袖をまた掴んだ。
さっきより強い。
「……こっち来い」
拗ねたみたいな声だった。
シュウは、一歩戻る。
戻った瞬間、ハルが小さく息を吸った。
「……言うこと聞くっちゃ」
姫の声じゃない。
隠す気もない。
でも次の瞬間には、姫の顔に戻っている。
シュウは、何も言えなかった。
⸻
治癒科の廊下に入ると、空気が変わる。
薬の匂い。
静かな足音。
息を殺す気配。
ヒカリが動く。
周囲が動く。
段取りで片づいていく。
シュウは、端に立った。
邪魔にならない位置。視線が届く位置。
そこが、いつもの場所だった。
廊下の奥で、声がした。
「姫、さっき……」
「やめとけ」
「……例の、だろ」
「弱いのに変なやつ」
言い切らない。
だから余計に残る。
噂は言葉じゃなく、空気で広がっていく。
ハルが振り返る。
「……シュウ」
シュウは顔を上げる。
ハルの目が揺れている。
揺れているのに、姫の顔をしている。
耐えている。
「……さっき」
言いかけて、止めた。
深呼吸ひとつ。
「……次は」
短い言葉で、押さえつける。
「次は、呼べ。わかった?」
命令みたいで、命令じゃない。
シュウは頷く。
「……うん」
ハルの指が、袖を離さない。
熱い。
熱いだけで、苦しい。
嬉しいだけで、怖い。
その時、ヒカリが一歩、ハルの隣に立った。
姫付の位置。
ヒカリはハルにだけ聞こえる声で言う。
「姫。あれは止まりません」
ハルは視線を逸らさずに言う。
「……わかっとる」
ヒカリの眉が、ほんの少しだけ動いた。
それだけだった。
⸻
シュウは、気づかないふりをした。
気づいたら、怖いから。
ハルの熱だけを、袖越しに感じていた。
それで十分だと思ってしまう自分が、少し怖い。
でも――今は、それでいい。




