第三話
笛が鳴った。
朝の空気を割る、短い音。
訓練場の生徒たちが、当たり前みたいに動き出す。
教師は少ない。
声を張るのは、腕章を付けた上級生だ。
「集合――! 列、崩すな!
そこ!芋を食うな!!」
誰かが笑いそうになって、飲み込む。
列が整う。
走る。止まる。構える。走る。
息が重なって、砂が舞う。
シュウも列の中にいる。
同じ動きをしているのに、シュウだけが細い。
肩も腕も、浮いて見える。
それでも、ついていける。
息は上がる。
汗は早い。
けれど遅れない。
遅れたくない。
「次、障害物――!」
木の柵を越える。
砂袋を避ける。
低い網を潜る。
足音が増えて、訓練場の音が濃くなる。
その時だった。
前の方で、誰かがつまずいた。
「――っ」
小さな声。
下級生だ。
倒れる。
転ぶ。
位置が悪い。
流れが止まれない。
踏まれる。
息が止まる。
声が引っ込む。
――シュウが動いた。
声より先に手が出る。
倒れた子の襟を掴んで、引っ張る。
砂の上をずる、と引きずる形になる。
でも、踏まれるよりずっといい。
列がギリギリで止まる。
靴底が砂を削る音が、やけにうるさい。
倒れた子が震えながら、シュウを見る。
「ご、ごめんなさい……!」
「……大丈夫」
小さな声だった。
それから、へにゃっと笑う。
「大丈夫? 首ついてる?」
倒れた子が、目を丸くする。
「つ、ついてます……!」
「よかった」
シュウの膝がわずかに沈む。
腕の奥が痛む。
でも離さない。
上から落ちた声が、訓練場を切った。
「隊列、崩さない。続行」
ハルだ。
姫巫女の声。
いつも通りの冷たさ――のはずだった。
けれど、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。
聞き間違いみたいな揺れ。
次の瞬間には、もう揺れていない。
上級生がすぐに動く。
「確認! 負傷なし! 続けるぞ!
そこの二人!肉を食うな!!」
「食ってねぇよ!!」
誰かの声が、勝手に滑り込む。
笑いがひとつ落ちて、空気が戻る。
流れも戻る。
事故は事故として、片づけられていく。
戦時下の訓練場は、立ち止まれない。
シュウは倒れた子に手を伸ばす。
「立てる?」
「……はい」
手を取って、起こす。
倒れた子は一度だけ大きく息を吐いて、列に戻った。
たった一回。
それだけで、今日は十分だ。
シュウも列に戻る。
何事もなかったように。
訓練は続く。
走って、止まって、また走る。
息が乱れて、視界が少しだけ揺れる。
シュウは弱い。
でも、折れない。
笛が鳴る。
終了。
解散。
その瞬間、空気がゆるんだ。
誰かが座り込む。
誰かが笑う。
「死んだー……」
「死ぬなら放課後にしろ」
「縁起でもねぇ」
笑いが戻る。
戻るから、次が回る。
――そこで。
「シュウウウウウうううう!!!!!」
姫の声じゃない。
訓練場が止まった。
視線が集まる。
耳が動きかけて、止まる。
尻尾が揺れかけて、止まる。
その中を、ハルが走ってくる。
姫とは思えない勢いで。
一直線に。
「シュウ!!
いまの!!いまの!!だめ!!
だめやった!!ほんとだめ!!
なんで出ると!?なんで出たと!?
踏まれたら終わりやろ!?
終わりったい!!終わり!!」
言葉が速い。
息が切れている。
そして、抱きついた。
ぎゅっ、と。
逃げ道がない。
「……ハル」
シュウが困って笑う。
「大丈夫だったよ。……たぶん」
「たぶんじゃなか!!
たぶんで動くやつがおるか!!
なんで出ると!?
考えとらんやろ!?
考えとらんくせに手が出る!!
もー!!」
怒っているのに、声が震えている。
「……っ、……シュウ」
急に声が小さくなる。
「いまの、だめ。
だめやった。耐えとったのに。
耐えとったのに、顔見たら……むり」
額を押しつけて、息を吸う。
「……え、えへぇ……えへへぇ〜……」
笑ってしまうみたいに、漏れる。
「……よかろーもん!!今だけ!!
ここを離れんでよかろーもん!!」
シュウは目を瞬かせて、周りを見る。
みんな、見ている。
誰も助けない。
助けられない。
姫がこんな姿になるのが、異常だから。
止めた方が、面倒だから。
シュウは小さく息を吐いて、手を上げた。
ハルの頭に、ぽん、と触れる。
ハルの耳が、ぴく、と跳ねた。
「……っ」
「……ハル、落ち着いて」
「落ち着けるわけなかろうもん!!」
抱きつく力が、さらに強くなる。
「……シュウ、あったかい……」
その一言だけが、やけに小さくて。
やけに本音だった。
シュウはそれ以上、何も言えなかった。
遠くで、ミコト先生の眉が、ほんの少しだけ動いた。
眠そうな目が。
ほんの少しだけ、開いた。




