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第二話

「ついこの前まで――」


そう言ってしまえば簡単なのに、シュウの中では遠い。


学園都市の外れにある七年制学園。

表向きは共学共存。

裏は差別・嫉妬・格差・弱肉強食。


強い者が正しい。

弱い者は静かに、目を逸らして生きる。


それが当たり前みたいに、空気に溶けていた。



シュウは教科書を抱えて、廊下の端を歩く。

邪魔にならないように。

ぶつからないように。


「……おはよぉ〜」


誰に向けたわけでもない。

返事はない。


返事がないことに慣れている自分が、少しだけ怖い。


シュウはへにゃっと笑って、そのまま教室へ向かった。



教室に入る。


視線が一斉に集まる。

空気が変わる。


「来たぞ、人間」


「……うわ、今日もいる」


「欠陥っていうかバグじゃね?」


「……うん」


返す声は小さい。

でも逃げない。


机に向かう途中で、足が出た。


ガンッ。


腕から教科書が落ちる。

床に散らばる。


「おいおい、落とすなよ」


「ごめん」


「床が可哀想だろ」


笑い声が上がる。

軽い。


シュウはしゃがむ。

ひとつずつ拾う。


手が、少しだけ震える。


怖い。

痛いのも嫌だ。

殴られるのも嫌だ。


でも――ここでこじれたら、もっと面倒になる。


だから早く。

邪魔にならないように。

終わらせるために。


「チンタラすんな。終わったら消えろ」


「……うん、消える」


「……消える宣言。じゃあ今消えろよ」


シュウは“返した”ことにして終わらせた。

言葉を増やすと、増えた分だけ壊れる。


教科書を抱えて立ち上がる。


近づいてくる足音。


「なぁ、聞いていい?」


「……なに」


「なんで笑ってんの?」


「笑ってた?」


「気持ち悪いんだよ。お前のそれ」


シュウの口元が、ぎこちなく止まる。

笑い方を忘れたみたいな顔になる。


でも次の瞬間、またへにゃっと戻る。


「……ごめん」


声だけ先に出る。


「ごめんで済むと思ってんの?」


「済まないなら……どうしたらいい?」


教室がざわついた。


「は?」


「何それ。むかつく」


「バグ増えてて草」


「……怒らせたなら、ごめん」


「ムカつくなぁ。殴っていい?」


拳が上がる。


強者の拳は軽い。

軽く見えて、簡単に人を壊す。


教室の誰も止めない。


止めたら次は自分だから――

じゃない。

•巻き込むなよ

•見てない見てない

•空気壊すな


後ろの席。

非覚醒者に近い女子生徒が息を詰める。


怖い。

見ているだけで怖い。


でも、目を逸らしたら。

次は自分だと分かっている。


シュウの視線が、その子の方向を一瞬だけ掠める。

助けを求めるでもなく、責めるでもなく。


へにゃっと笑った。


「……へーきへーき。慣れてる」


誰に言ったのか分からない声だった。



拳が振り下ろされる寸前。


廊下が、静かになった。


「……姫、来た」


一拍。


「お、解散解散」


「廊下側やめろ。面倒」


拳が下がる。

空気だけが、何事もなかったみたいに戻った。


「……チッ。今日は運が良かったな、人間」


「……うん」


それを“運”と言うしかないのが、悔しい。

でもシュウは、へにゃっと笑ってしまう。



廊下の窓越しに、ハルが見えた。


完璧な立ち姿。

冷たい視線。

世界が違う。


シュウは思わず呟いた。


「……すごいなぁ……あそこだけ空気が違う……」


独り言のつもりだった。


でも――ハルがこちらを見た。

ほんの一瞬だけ、目が合う。


その瞬間、シュウは言ってしまう。


「……お、おはよぉ〜」


教室が凍った。


窓の向こうのハルが足を止める。

背後に、ヒカリが控えている。


ハルは窓越しにシュウを見る。

表情は冷たいまま。


「……あなた、誰」


「お、おはよ……」


「……は?」


シュウは首を傾げた。


「……そっか、ルールある?」


空気が、もう一段だけ固まった。


ハルの目が、わずかに動く。


「……あなた、人間よね」


「うん」


「そう」


顎が少し上がる。

姫としての高さ。


「……随分、余裕なのね」


「余裕って? 挨拶だよ?」


「……は?」


「忙しそうだったから。無理しないでね」


言ってから、シュウ自身が少し困った顔をした。


「……変だった?」


ハルは答えない。


姫に向かって、そんなことを言う者はいない。

言えない。

言ったら終わる。


なのにこの人間は、へにゃっと笑っている。


「……くだらない」


姫の声でそう言って、ハルは踵を返した。


ヒカリは何も言わない。

ただ静かに歩幅を合わせる。


教室に残された空気だけが、うるさい。


「おい……お前……」


「ん?」


「死にたいのか?」


「死にたくないよ。……挨拶しただけ」


へにゃっと笑う。

怖いのは本当だ。


でも、言ったのも本当だった。



午後。

治癒科の簡易処置室。


ここは静かだ。

静かすぎる。


担架の上に横たわるのは、下位の女子生徒。

命に危険があるほどじゃない。


でも顔色が悪い。

呼吸が浅い。

瞳が揺れている。


怖さが抜けない。

心が追いついていない。


ハルが立っている。

巫女として。姫として。


その後ろ――椅子に腰掛けて、静かに見守る人物がいる。


ミコト先生。

治癒科教師。

猫族の“大婆”。


「……やってみな」


「当然よ」


ハルは一拍だけ置いて、言い直す。


「……当然よ。……当然でしょ…」


手を翳す。

淡い光が生まれる。


「落ち着きなさい」


女子生徒の肩が小さく震える。

呼吸が整わない。


「大丈夫よ」


「……怖い……」


「怖くないわ」


「怖い……っ……!」


言葉が届かない。

光だけが上滑りする。


ハルは焦らない。

焦らない顔をしている。

姫だから。


でもその静けさは、正しすぎて――少し冷たい。


その時、入口から小さな声。


「……こんにちは」


「……っ」


シュウは状況を見て、ゆっくり近づいた。

担架の横にしゃがむ。


何気なく、横に座るみたいな距離で。


「……息、できる?」


女子生徒の喉が、小さく鳴った。

息が、ほんの一息ぶんだけ入る。


そこへ。

ハルの治癒が滑り込む。


今度は途切れない。


女子生徒の肩から力が抜ける。


「……ありがとう……」


「……」


ハルは一拍だけ黙って、すぐに視線を戻す。


「……当然よ」


その場の誰も、何も言わない。

言えない。


ミコト先生の眉が、ほんの少しだけ動いた。


シュウは立ち上がる。


「よかった」


「……下がっていいわ」


「うん」


シュウは素直に一歩引く。


「……あなた」


「ん?」


「……何なの」


「人間だよ?」


ハルの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「……分かってるわよ」


「そっか」


「笑うな」


「ごめん」


「謝るな」


短い言葉の応酬。

周囲は凍りつく。


姫が人間と会話している。

しかも、変な空気で。


「……もういいわ。戻りなさい」


「うん」


シュウは頷いて、処置室を出ていった。


廊下に出た瞬間、すれ違った下級生が目を丸くする。

口は動かない。

でも“え?”が顔に出る。


ハルはそれを見ない。


姫のまま前を見る。


ミコト先生は何も言わない。

ただ静かに、ページを一枚めくった。



処置室を出たあと、ハルは廊下を歩く。

足音は姫のまま。


「……くだらないわ」


「姫」


「何」


「先ほどの人間は――」


「言わなくていい」


「……はい」


ハルは前を向いたまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。


怒っているわけじゃない。

困っているわけでもない。


ただ胸の奥に残ったものを、どう扱えばいいのか分からない。


ハルは足を止めずに歩き続ける。

姫のまま。


でも、その視線は一度だけ廊下の端へ流れた。


そこに、あの人間がいる気がして。


もちろんいない。


ハルは何事もなかったように歩き出す。



こんなもの、分類できない。

そんなの、ありえない。


「……くだらない」


もう一度だけ言って、ハルは歩き続けた。

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