第一話
廊下は、朝からよく回っていた。
走る足音はある。
医療箱も見える。
腕章を巻いた上級生が、書類を抱えて小走りで抜けていく。
でも、殺伐とはしていない。
「今日も回ってんなー」
そんな軽口が、どこかで聞こえるくらいには。
教師が足りない。
人手が足りない。
それを嘆く時間があるなら、動く。
学園都市。
四つの学園が寄り集まって作られた円形の街で、守ることと学ぶことが、もう同じになっている。
その廊下の中心に、一人だけ立ち姿が違う存在がいた。
銀の髪。
白い耳。
長い尻尾。
白虎の血を引く姫巫女――ハル。
彼女は歩いているだけで空気を整える。
怒鳴らない。焦らない。
けれど、誰も逆らわない。
それが“格”だった。
「搬送はそっち。詰まったら、あちらへ流しなさい」
柔らかい声。
なのに指示は、命令に近い。
「医療科。軽いのから先に回して」
「巡回班。交代を前倒し。無理はするな」
折れないように現場を回すための、正確な冷静さだ。
横には姫付の少女がぴたりと並んでいる。
ヒカリ。
ハルが全体を切り分け、ヒカリがそれを繋ぎ、回す。
「伝令」
呼ぶとすぐに、小柄な犬族の生徒が滑り込んできた。
黒寄りの色。軽い顔。速い足。
コタロウだ。
「姫、今のところ問題なしっしょ。医療科、軽傷は流れてる。搬送も詰まってないっす」
軽い口調。
でも要点だけ抜いてくる。
ハルは短く頷いた。
「いい。続けて」
「警備班、南側の点呼が遅れてるっす。人員、一人回した方がいいっしょ」
「了解。――ヒカリ」
「はい。巡回班から一人回します」
ヒカリが即座に動く。
周囲の上級生たちも自然に流れに乗る。
ハルはもう一度だけ、廊下全体を見渡した。
回っている。
なんとかなってるだけだ。
――そのはずだった。
視界の端に、廊下の“端”を歩いている影が、ほんの一瞬だけ映った。
華奢な背中。
邪魔にならない距離感。
床の何かを拾い、すっと誰かに渡す手。
ただの生徒だ。
ただの、掃き溜めの学園にいる、弱そうな――
瞬間。
ハルの耳が、ぴく、と動いた。
ほんの、一瞬。
息が一拍だけ途切れて――
「……ふぇ……?」
姫の口から、ありえない音が漏れた。
ハル自身が、一番驚いた顔をする。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように表情を貼り直す。
「……搬送の記録。後でこちらへ」
完璧な声。
完璧な姫の顔。
崩れていない。
崩れていない“はず”だった。
次の瞬間、廊下の奥が割れるように騒めいた。
ドタドタドタドタドタドタ。
走る音。
勢いが違う。
音が違う。
「シュウウウウウうううう!!!!!」
――姫の声じゃない。
「おったあぁぁぁぁぁ!!」
廊下の中心を、銀の影が突っ切ってくる。
距離感などない。品格など、どこかへ置いてきた。
「え? ちょ、姫!?」
「待っ……!」
「やば、誰相手……?」
「て、てぇてぇ……」
誰も止めない。止められない。
ハルは一直線に――廊下の端にいた少年に、突っ込んで。
「シュウ!!」
ぎゅっ。
「おった! おったぁ〜!」
シュウは一瞬だけ揺れた。
華奢だから、普通に押される。
「わっ……ハル……」
ハルの顔が、すぐ真下にあった。
泣いてはいない。でも目が濡れている気がする。
「どこ行っとったと!? もー!」
「え、えっと……教室から……」
「ちがう! それは知っとる! そうじゃないと!」
「朝から! 朝からずっと! 見えんかった!
どこ行ったかと思った!
……ほんとに!」
そこまで言って、ハルはまたぎゅっと抱きつく。
息がぶつかる距離。
「……あったかい……」
「……おはよぉ」
シュウは少し困ったようにへにゃっと笑って、手を上げた。
ぽん。
軽く、頭を撫でる。
それだけで――
「……えへへぇ〜……」
ハルが笑った。
幸福が漏れる音だった。
その場の空気が、ほんの少しだけ緩む。
誰かが思わず息を吐く。
そして――
「ちょ、姫! 報告っす!」
コタロウが、抱きついている姫を見て一瞬だけ固まって、すぐに仕事を通しに来た。
「医療科から。軽傷の列、伸びてきてるっす。搬送、そっち側が詰まり始めてる」
ハルは抱きついたまま、顔だけ上げる。
幼い顔。
なのに目だけは、姫のそれだった。
「了解。搬送は、あちらへ流しなさい。医療科は軽いのから先に捌く」
声は幼いまま。
指示は、命令のまま。
コタロウの口が半開きになる。
「……その状態で捌くっすか」
「捌く。次」
即答だった。
コタロウは一瞬だけ肩をすくめて、すぐ走り出す。
「了解っす! 次、回すっしょ!」
廊下の端を、また現場が回り始める。
そのとき、背後から低い声がした。
「……姫。通路、塞がれております。移動願います」
言い方は丁寧。
でもそれは、お願いではない。
ハルは、ぴたり、と動きを止めた。
その瞬間。
耳が止まる。
尻尾が止まる。
表情が戻る。
まるで仮面を貼り直すみたいに。
「……失礼」
声も戻る。
女王の声。姫巫女の声。
「すぐに移動します」
周囲の生徒がざわめく。
今の切り替えを見て、逆に怖くなる。
でも。
シュウの手を握る力だけは、解けなかった。
女王の顔をしているのに。
握る手は幼女のまま。
「シュウぅ」
「……離れたら、だめ」
「え?」
「だめ」
シュウは困って笑うしかなかった。
「うん……分かった」
その返事を聞いた瞬間。
「離れんでよかろーもん!!」
ハルが叫んだ。
廊下の空気が、また固まる。
「……今の、聞こえた?」
「うそだろ……」
「尊……」
ハルは一瞬だけ――本当に一瞬だけ、顔を赤くした。
でも、すぐ消えた。
「……行く」
そしてハルはシュウの腕を引く。
引く力は強い。王の強さ。
シュウはよろけながら、でもついていく。
廊下の端を二人で歩きながら。
シュウはさっき拾った小さな部品を思い出して、通りがかりの上級生に差し出した。
「これ、落ちてた……」
「……ああ。助かる」
上級生の目が一瞬だけ柔らかくなる。
すぐに戻る。
ハルはシュウの腕をぎゅっと握り直して、ぼそっと言った。
「……そういうとこ、だめ」
「え?」
「……すき」
「え?」
「えへへぇ〜……」
そして、また。
取り繕うように、でも取り繕えていない声で言う。
「……離れたら、だめ」
シュウは答えた。
「うん」
たったそれだけの会話。
それだけなのに。
世界が、少しだけ怖くなくなる。
君がいるから。




