きみの涙がはつるころ
きみの涙がはつるころ
ワタナベの章
第1話
なぜ彼女に恋したかは、はっきりしない。
容姿、声、しぐさ、それとも笑顔。
たぶん、そのすべてだと思う。つまり好みのタイプだった。
職場で声をかけられたとき、はじめて言葉を交わした。
「ワタナベさん」
「はい。どうかしました?」
「この方は、はじめての申請なので説明はしっかりと頼みますね」
ボクは彼女の顔を意識して見た。これまでは印象の薄いひとだなとしか思わなかったが、こうして見ると、肩より長いブロンドの髪。細い目尻。ぽっちゃりとした唇。とくに瞳はなにかを訴えかけるような悲しさをまとっている。つまり、守ってあげたくなるなにかをボクのために持っているような気がした。
彼女に「ワタナベさん」「ワタナベさん」「ワタナベさん」と呼ばれるたびにボクの胸は高鳴った。それから、ボクは彼女の名前を呼びたくなった。
そう思っていたときに、彼女と仕事をする事になった。
「ワタナベさんは、歳はいくつなんですか?」
「あぁ、僕は28ですよ。あなたは?」
「ワタシは、32よ。行き遅れていますね(笑)」
「そんなことないですよ。全然魅力ありますよ」
「そう?ありがとう」
そうやって10日間を彼女と過ごした。
「ねえ、ミドリさん。この仕事も一段落したし、今日軽く打ち上げしませんか?」
「・・・・・」
彼女は明らかにためらっていた。
迷うとミドリは右手の人差し指を噛む癖があることを後で知った。
その瞳がまたボクを彼女へと引き寄せた。
「ねっ、いきましょう」
「・・・わかった。軽く行きましょうか」
ありきたりの騒々しい居酒屋にした。刺し身の盛合せ、ホッケ、だし巻き、枝豆をオーダーしておいた。
「ミドリさん、10日間お疲れ様でした」
「ワタナベくんこそ。おつかれさま」
仕事のことを話すとき、ミドリは何も不平を言わなっかったし、誰のことも悪くは言わなかった。
反対にボクは、ありとあらゆる不平を言い、いろんな人の悪口を言った。
「あ、ちょっと喋りすぎましたね・・・ろくでもない話ばかりで。ごめんなさい」
「いいえ、すごく正直で素直でうらやましい。ワタシなんて、そんなこと思っても口にだせないもの。口下手だから。だからね、ワタナベくんのような人が羨ましい」
ミドリは細長い目をより細くし、顔を少し傾けて笑みを浮かべた。
「ミドリさん、実家はどこです?」
「ここ、金沢よ。ワタナベくんは?」
「ボクは東京ですよ。今じゃあすっかり金沢弁やけど(笑)」
「そうなんや。ワタシ、東京の大学なのよ」
「そうなんや!逆やね」
「大昔のことやけどね(笑)」
ミドリは日本酒が好きだった。
第2話
「ねえ、ノボル。ビールどこ?」
「ゴメン。切らしちゃったよ」
「もう!頼むわよね」
「酎ハイならあるだろ。今日は、それで勘弁して」
「酎ハイ?アタシが嫌いだって知っているでしょうに。なによ」
「明日にでも、必ず買っておくよ」
「そう言えば、あなたの誕生日近いわね。なに食べたい?」
「そうだね。寿司かな、回っているやつで十分だよ」
「ふーん、ホントにお寿司好きね。じゃあ決まりね。どこがいい?」
「キミが選んだ店なら、どこでもいいよ」
「もう!人任せにして」
と、言いながらも嬉しそうにスマホをいじり始めた。こういうことは彼女に任せるとよい。
「はい。ぽんた。ご飯ね。今日はカツオ味だよー」
ぽんたは、一年前に近所に捨てられていたのを、かわいそうだからとアタシが拾ってきたメスの黒猫だ。「みゃあーみゃあー」とよく鳴き、夜は決まっクミの布団に潜り込む。遊び盛りで、なんにでも興味を持つ、ノボルの足に食らいついて蹴ることもある。最近は爪とぎ段ボールを覚えたようだ。
「じゃあさ、プレゼントはなにがいい?」
「キミが選んだものなら、なんでもいいよ」
「もう!」
第3話
「ワタナベくん、ワタシね、誕生日はステーキが食べたい。ステーキと言ってもね、お肉は少しでいいの。その代わり思っきり美味しいやつ。コースでね。いきなりステーキは嫌よ(笑)」
「あいあい、さー」
さっそく店を選ぶことにするが、郊外には見当たらない。そこで駅近で探して見ると、数件見つかった。
だいたい予算は一万五千円〜となっているが、少し奮発して2万円のコースを予約しておいた。
問題はプレゼントだ。これはステーキ店を選ぶよりも悩んだ。
いろいろ悩んだが、腕時計に決めた。あまり高価でないけれども、ピンクのスマートウォッチにした。ミドリはそういうものは苦手なので使いこなせないだろうけれど、ディスプレイをいろいろ選択できるので、それだけでも楽しめるだろうと思った。
その日は初雪が舞った。
お互いの手の温もりを感じながら、歩いた。
第4話
「寒いね。でもこのマフラーとても温かいよ。気に入った」
「でしょ?奮発したんだから。ユニクロで(笑)アタシのセレクトに間違いはないのよ」
「お寿司も美味しかった」
「そうね。ぽんたのお土産にしたかったね」
「ねえ」
「なに?」
「誕生日おめでとう!で、いくつになったんだっけ?」
「忘れた」
「ひとはある頃から自分の年齢が思い出せなくなるのよ。それは、自分に関心がなくなった証拠。そう思わない?」
「そうだね。自分の年齢がいくつなのか、すぐ思い出せるくらいに生きていきたいな」
「じゃあ、いくつになったの?」
「忘れた」
「もう!」
「あなたは28、じゃあ、あたしは?」
「26」
「もう!しっかりしてよ。24でしょ!」
もう長いつきあいで、そうなることも仕方ないか。
「ねえ、手、つなごう」
「落ち葉で滑るよ」
「滑ってもいいのよ!」
第5話
「はい、バレンタインチョコ」
「ありがとう」
今日、用意してきたとびっきりな言葉をミドリに伝えた。
「ミドリ、一緒に暮らさん?」
「え!?でもワタシ、いま実家暮らしよ?ムリよ」
「そうでなくて、結婚しよう」
「・・・・・」
「嫌なん?」
「・・・・・」
「嬉しいけど、だってワタシは33よ。あなたは28よ。あなたが33でワタシが28ならともかく・・・釣り合いが取れないでしょう」
「そういうこと、考えんと付き合ってきたん?」
「それは、もちろん「そうなったらいいな」って思ってたけど・・・」
ミドリは迷っている時は、いつも右手の人差し指を噛むくせがある。
「じゃあ、決まりやぞ!決定!」
「ありがとう」
「泣かんでもいいやろ」
冬にもかかわらず、風の音が小さな徳光海浜公園だった。
第6話
「はい、バレンタインチョコよ。ノボル」
「あぁサンキュー」
「バレンタインデーついでに、というよりもチョコよりもだけど・・、ねぇ、アタシと結婚しない?」
「そうかぁ、長い付き合いだもんな。そんなこと必要ないと思ってたよ」
正直、彼女の口からそういう言葉が出ることに驚いた。
「じゃあ、オレからの返事」
悪くはない、彼女となら悪くない。
「結婚しましよう!」
「うん」
第7話
ボク達は一年の交際期間を経て、式を挙げた。
「ねえ、そんなに泣くことはないって」
「でも・・・ワタナベくん、ありがとう」
彼女の涙は一片の曇もなく、流れ続ける。ボクも嬉しかった。一緒に泣きたいくらいだった。
「ねぇ、大事なことを教えてあげる」
「なに?」
「ミドリも今日からワタナベくんだよ」
第8話
「ミク、喪服ちゃんと着れた?」
「大丈夫よ」
「それじゃあ、行くわよ。お父さんも、ほら」
「早いものですね。あれから2年になります。ミクさんには本当に申し訳なく思います」
ノボルの父の言葉だ。声だけでやさしい人物だと分かる。
アタシたちはノボル家の墓前にいる。桜が鬱陶しいほどに咲き乱れている。
ノボルは咲き乱れている桜が好きだった。もっと、もっと、咲き誇れと叫びたかった。
「いえ、そちら様のお気持ちはよくわかっております。こうして、三回忌の墓参りにお招き頂きましてありがとうございます」
アタシの父だ。「結婚式はいらない」というアタシたちに「そういうわけにはいかないよ。けじめはキチンとつけないと」と言い張って、アタシたちは押し切られたのである。
そして誰よりも楽しみにしていたのがアタシの父だった。ノボルとも気が合っていた。
ノボルは、挙式の一月前にいなくなった。亡くなった。
アタシは手を合わせながら、何をノボルに言っていいのか分からずにいた。アタシにはまだ何一つ消化できていないのだ。ノボルはまだアタシのまわりで生きているのだ。
優しい声でお義父さんは言った。
「ミクちゃん、早くノボルのことは忘れなさい。あいつもそう思っていると思う」
涙が音もなくとめどなしに流れゆく。
第9話
アタシは今、金沢にいる。
イオンモールの総合案内で、迷子の案内やイベントのお知らせなどをしているが、割と暇なところだ。何よりも大切なのは「声」で、アタシは声で採用されたのだ。自分の声が綺麗なんだと発見した。
最初のうちは人目が気になって緊張していたけども、慣れてみると「自分は自分が思うほど、誰も注目されていない、ちっぽけな存在である」と自覚した」
そういうことを教えてくれたのは、先輩のミドリさんで、「無になる」という域まで達しているという。
彼女には年下の旦那様がいるという。子供はまだいないけれども、それなりに幸せな日々を送っていると聞いた。
アタシたちは暇な時間には、おしゃべりしている。誰も気に留めないし(そう思っている)、上司も何も言ってこない。注意しなければならないのは、マイクをオフにすることくらいで、勤務時間の三分の一はそうして過ごしている。
「クミちゃんは彼氏はいないの?」
「そうですねぇ。いるような?」
「なにそれ(笑)」
第10話
「ねえ、ビールはないん?」
「ゴメン。切らしてて。明日買っておくね。焼酎で我慢して」
「オレが焼酎が嫌いなこと知っとるやろ」
「ゴメン、ゴメン(笑)」
「ねえ、金沢の冬ってどう?住んでいるとどれほど寒いのかわからんもんや」
「そうだねぇ・・・ただ単純に寒いというよりもじっとと寒い!みたいな。凍てつくとかそういうのじゃないよね、たしかに」
「ふーん。一回東京の冬を感じてみたいかな」
「アナタにはムリね。耐えられない(笑)」
アタシにとって2度目の金沢の冬だ。
「そう言えば、アナタの誕生日だね、そろそろ。何が食べたい」
「んーーーーーーキミのグラタンといいワイン?」
「可愛らしいこと言うね♪OK」
彼はアタシの料理を好んで食べてくれる。というか、食べることが好きなんだろう。
「プレゼントは?」
「なんでもいい。べつに困っているものモノもないし。とりたてほしいモノもないな」
第11話
ボクの誕生日が近づいてきた。彼女は「何が食べたい?プレゼントは’なにがいい?」と聞いてくるが、返事は決まって「あの居酒屋」「スマホ」と言っている。あの居酒屋は特別な思い出の店で、あの時の胸の高鳴りを思い出させてくれる。スマホは一年に一度、たいして詳しくもないくせに、買い替えている。
「また?居酒屋はわかるけど、スマホは使いこなせないじゃない(笑)」
「ミドリの誕生日も近くなって来たやん。何がほしい?」
「ワタシ?ワタシは・・・赤ちゃん」
「そうか、そろそろいいかもね」
「そろそろってどいね(笑)ワタシはず〜っっとそう思ってたんやよ」
「よし!そうしようか!」
第12話
ワタシは35になった。夫と幸せに日々を過ごしている。特別、なにがほしいとか、夫にどうしてほしいとか思うこともないではないが、それが幸福の中にいることだと思う。子供はほしいけど、授からないならば、それはそれでいいと思う。夫さえいれば、他に望むものはない。言い換えれば、夫がいなければ生きていけないのだ。本当にそう思っている。
土日のほとんどが勤務日なので夫とは休みが合わないことが多いけれども、それは自由な時間が取れて良いことだと思っているし、夫との間をリフレッシュできる時間だとも思う。
ワタシの休日は主にスポーツジムに通っている。ワタシのルーティンは、ストレッチ15分。ウェイトが20分、その後有酸素運動としてサイクル40分、ランニングマシーンを40分である。特にエアロビクスやヨガはしない。ただ黙々とこなすだけだ。なので、ジムに知り合いはほとんどいない。あとは日々の買い物をしておく。そんなところだ。もともと広くなかったが、転職してから交友関係が更に狭くなった。それでも、夫がいればそれでよかった。
第13話
彼がアタシのところに来るのは、たまの土日にくらいだ。頻繁には来ない。きっと家庭があるのだろうと、確かめてはいないけれども、そう思っている。そうする必要も感じない。それでいいと。アタシもアタシであまり彼を必要としない。ただ気の合う友人みたいな感じだ。だからこれ以上は望まない。
アタシはまだあの人のことを忘れてはいないから。
第14話
ボクは何をしようとしているのだろうか。
第15話
「ここは涼しくて快適ね」
「そうですねぇ。しかも電気料金は払わなくてもいいですし」
「ミドリさんちの夏の電気料金って、毎月どのくらいなんですか」
「うちはねぇ、二人世帯だから、一万円いくかいかないかくらいかな」
「そうなんだ。うちとそんなに変わらないな」
カーゴパンツにTシャツの男性がこの中央受付に向かってくる。
あれは、夫だ。
どうしたのだろう
「お疲れ様。ちょっとユニクロに来たついでにね」
「そうなんだ」
「制服、似合っとるよ」
「ありがとう。来てくれて嬉しい」
「ははは、一度制服姿をみたかった」
ワタシの制服姿を見に来たくせに、逆に照れているらしい。
「それじゃ邪魔だろうから行くよ。家で待ってる」
第16話
ミドリに背を向けていた同じ制服の女性が’、こちらに振り向いた。
ミクに間違いなかった。フリーのアナウンサーみたいな仕事と聞いていたが、ここで働いていたのだ。
ミクがこちらを見ている。特別驚いた様子は感じられない。そしてまたミドリに背を向けた。
第17話
「いまのひとはお知り合いなんですか?」
「あぁ、あれね。ワタシの旦那様よ」
「へぇ~。よい感じな方ですね。今日は土曜日だからお休みなんですね」
第18話
世間て狭いのね。まさかのまさかよ、ミドリさんが奥さんだったんだ。
ミクが言ったのは、それだけだった。
第19話
ツクツクボウシが鳴いている。夏の終わりを告げているが、ボクとミクとの関係は終わりの兆候もなく、彼女が休みでみどりが出勤のときには、いつも彼女のマンションにいりびったっている。ミドリのことがいつ彼女の口から出て、この関係が終わりになることがないか、彼女とボクとの関係をミドリに告げるようなことを言い出すことはないかヒヤヒヤしていた。
「ねぇ、海に連れてってよ。夕陽が見たいの」
「行こうか」
彼女はずっと無言で窓の外を見ていた。
内灘海岸にボクらは着いたが、夕陽まではまだ時間がある。
「波打ち際まで!」
「よし」
ボクらは競い合うように波打ち際まで、足元に伝わってくる砂の熱に負けないで笑いながら小走りした。
行っては返すぬるく透明な波に裸足で浸かって、夕陽を待った。
「まだ時間がありそうだよ」
「いいの、ここで待ちたいの」
しだいに、まわりも静かになってゆく。皆、夕陽を待っている。
太陽が西へ沈んでゆき、空が茜色になってゆく。ミクのことがだんだんと愛おしく思ってきた。自然と彼女の手を握った。そうすると彼女はボクの腕に自分の腕を絡ませてきて、口づけをせがんできた。
太陽は沈んだ。
今日もイベントは無事終了したようだ。皆、それぞれのクルマへ帰ってゆく。
「アタシ、ミドリさんにはアタシたちのことは言わないから。安心して。アタシね、あなたよりも好きだったひとがいるの、そのひとを忘れるためにあなたとこうしているの。ゴメン。でももちろんあなたのことも大好きよ。だって優しいもん、優しすぎるのよ、あなたは」
「泣く必要なんてないよ。それでいいよ。そのひとを忘れる代わりにボクと付き合っても。十分だよ」
第20話
「海に行こうか」
「うん」
今度はミドリと海へ行きたくなった。あのときの高まった気持ちをもう一度感じることができるのか、試したかった。
「ワタシ、水着で行ってもいい?少し泳ぎたいし」
「よしておいたほうがいいぞ。もうクラゲの時期やし。刺されるし」
「そう。もう夏も終わりなんやね」
こないだ来た時よりも日差しは弱まっており、あのとき足の裏を焼き付けた砂浜も慌てることはなくなっていた。
ふたりで波打ち際に足首まで浸かzながら、夕陽を待った。太陽がゆっくりゆっくり沈んでゆく。そして空が茜色に染まってゆく。
ボクは無意識に彼女の肩を抱き、彼女はそれを優しくほどき、腕を組んできた。そして口づけを交わした。
彼女を愛おしく思った。付き合いはじめから今日までの思い出がそこら中に広がり落ちていた。とても拾い集めるなんてことはできそうになかった。ミドリとふたりでならできるはずだ。
「ワタナベくん」
彼女は、久しぶりにボクのことをそう呼んだ。
「ワタナベくん、最後はわたしのところに帰ってきてや。怒らないから」
ボクも涙した。
帰るべきところに帰らなければ。
第2章 ミクの章
第21話
彼女は近所のコンビニの店員で、お気に入りである。
自分のことを「アタシ、アタシ」と店内に響くようなはっきりとした声で話している。「あ、アタシがやりました」「アタシが行きます」年齢は20代半ばかな?どうだろう。気がついたときには彼女はせかせかとこの店で働いていた。どんなに列が長くてもいつも彼女のレジに並ぶことにしている。いまでは、いつ彼女がレジのシフトにいるのかが、だいたい分かるようなってきたし、今日も彼女の列に並ぶことができた。
「ありがとうございます」から最近は「あ、いつもありがとうございます」と少し他の客に優越感を抱くようになった。
なにかに誘いたいくらいなんだけれども、どうやって、なににを誘えばいいのかが全然浮かばない。
職場の先輩に相談してみると「そんなの、簡単だろ。彼女がひとりのシフトのときに手紙をわたすんだよ!」
なんだそれ!?そんな中学生みたいなことで済むのか。
でも、まあ、直球ストレートを投げ込むのがいいこともあるんだろうと思うことにした。
あと心配だったのは、彼女からノーの返事がきたときに、その後はその店に行かなくするか、しぶとく通い続けるのかだったけど、「そんなんお前次第だな。もしかしたら、それをきっかけにして仲良くなるかもしれないぜ」
しかし、さすがのボクでもいきなり手紙を渡すことができるほどの度胸はないので、とりあえずあいさつからはじめる作戦にしようと決めた。
第22話
アタシはまた東京にいる。金沢にいるときには彼氏らしきひとがいたが、結局喜んで解き放してあげた。それが大好きな彼と、大好きな彼女への贈物
のつもりだ。
いまは山の手線駅2つ先にあるコンビニで働いている。仕事は忙しくてたまらないが、いろいろ忘れることができて案外楽しかったりする。アタシは女なので深夜のシフトには入っていない。休みはその月によって違うので、かならず週末に勤務することもなく、案外皆自由に休日を取っている。
郊外にあるコンビニなので、固定客が多く軽く挨拶を交わしたり一言、二言会話することも珍しくはない。
第23話
「こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは」
「忙しそうですね」
「忙しそうですね」
「暑いですね」
「暑いですね」
ここまで来た。彼女はちゃんと笑顔で返事を返してくれる。顔なじみになったつもりだ。
このあとは、どうする?
どうすればいいのか考えているうちに、店内にいるけれど、頭は真っ白だ。
緊張する。彼女がこっちに来る。棚だしの時間だろう。
「あ、」
と、彼女がつぶやいたと思ったら、彼女のまわりに惣菜パンがいくつも落ちていた。
彼女がパンを拾い上げているのを、ただ見ているのは薄情な気がして、ボクもいくつか拾ってあげた。
「スミマセン。ホントにスミマセン」
「いえ、気にしないで」
これ以来、ボクと彼女の仲はただの常連さんから、一歩前、二歩前と昇進していった。。
彼女の列に並ぶと、笑顔で「今日はお客さんの好きなパンが入ってますよ。分かりましたか?」とか「もう、忙しいんですよね。アタシ参っちゃいます。お客さんは景気はいいですか?」などと彼女の方から話しかけてくれるときもあるようになった。
第24話
休日と言っても、とくにすることもない・・・
スマホで映画とかを見るくらい・・・
友人も連絡が遠のいて以来、会ってもいない。
当然、恋人もいない。
何もないのがアタシだ。
「この大東京で何もない女」、それがアタシだ。
寂しい。
第25話
「あの、勤務は何時までですか?」
「はい?」
「勤務時間はいつまでですか?」
「あ、はい。今日は10時までですけど」
「そしたら、向こうにある喫茶店で待っています。お暇でしたら、来てください。お願いします」
来てくれるか?もうここまでくれば、開き直りしかあるまい。来い、来い、来い。
来た。来てくれた!
彼女の方から手を挙げて。
「スミマセン。お待たせしました?」
「いえ、スマホをいじってましたから」
「それならよかったです。それでアタシに何か?」
「あの、とっても言いにくいんですが・・・」
コーヒーを持つ手が震えていることが、恥ずかしく思う。
「あの、よろしければ、今度の休日にでもドライブに行きませんか?」
第26話
「んっ?」
「あれ?お誘い?」
・・・・・・・・・・・・・
なんか、コーヒーを持つ手が震えてるな。恥ずかしいな。
んーーーーーーどうせ暇だし、このお客さんはいい人だしね。
「はい。アタシでよければ」
第26話
彼女はクミさんと言った。コンビニの名札で苗字は知っていたので、新鮮な響きだった。
「へえ、この東京で今どきクルマを持ってるなんて、すごいじゃないですか!」
「クルマ好きなんで。維持費がものすごいんですよね(笑)」
「このクルマ、何ていうクルマです?ふたり乗りのオープンカーってかっこいいです!」
「マツダのロードスターっていいます」
「今日は来てくれてありがとうございます。とっても嬉しいです」
「アタシの方こそありがとうございます。だってアタシって、「東京にいてなにもない女」なんです」
「ボクもそうです。休みがあってもクルマに乗っているくらいしか、しない暇人ですよ」
「じやあ、おたがい寂しいもの同士です(笑)」
彼女は、水色のブラウスに同系色の帽子を被ってボクの隣にちょこんと座っている。
「きょうは、ですね。レインボウブリッジにいきませんか?」
「アタシ、行ったことありません!お願いします」
レインボウブリッジでいろいろ話ししながら歩いて回り、そして帰り道に迷ってしまった。
「ごめんなさい。時間くっちゃって・・・」
「いいえ。気にしないでください。楽しかったですよぉ。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
せめてラインの交換したかったな・・・・・
「あ!!ライン!ぜひ友達になってください」
「あ、はい!ありがとう」
第27話
その後、彼とはアタシの仕事終わりに向かいの喫茶店でちょくちょく話すようになってきた。はじめは、ちょっと頼りないかなぁと思っていたけれども、いまはアタシがしっかりモノ?なんで、いいコンビかなぁと。すこしだけ「大東京でなんにもない女」から抜け出せそうな気分でいる。
つまり、彼を好きになりそう、いや、好きになっちゃった。彼にラインしなきゃ!
第28話
きょうは、鎌倉までドライブしてきた。
目的は浜からの夕陽だった。
太陽が沈む頃、彼女の表情が変わって見えた。どこか寂しげな気がした。なにか思うことがあるんだなぁ。
そしてまた道に迷ってしまった。
第29話
ふたりで鎌倉に夕陽を見に行った。
夕陽を眺めていると、あの時の内灘海岸でのことを思い出す。優しいあのひとのことを。
そして、アタシはまだ亡くなったあのひとのことを忘れないでいる。忘れよう、忘れようとすると、返って鮮明に思い出すのだ。
ふと、横を見ると彼が静かに何も言わないで夕陽を見ていた。なにを考えているのだろうか。
手を握りたくなった・・・人恋しい。
第30話
「あのね、アタシ忘れられない人がいるの」
「え?誰。付き合っているの?」
「ううん、もうとっくに死んじゃったの。いないのよ。とっくに。式の一月前にいなくなった。まだそのひとのことが忘れられないから・・・だからこれ以上は・・あなたと・・・」
「そうなんだ」
「いままで黙っていてゴメン。でもあなたのことも」
彼女の瞳は潤んでいて、そして涙が関を崩して、こらえきれずにあふれ流れ出していた。
「このまま、あなたをますます好きなっていったら、あのひとのことを忘れてしまいそうで、すべてが嘘になりそうで怖いの。ごめんなさい」
ボクは黙っていることしかできなかった。
第31話
アタシはまた「大東京でなにもない女」に帰ってきたらしい。
コンビニ向かいのいつもの喫茶店の窓側席を確認し、店の出入り口を見ながらレジをしている、自分がいる。だけど、彼は来ない。もう来ないだろう。
第32話
紅葉がはじまり、終わり。そしてクリスマスを迎え、そして去り、本格的な冬を迎えた。彼女は自分のことを「大東京でなにもない女」と言っていた。ボクもそうだ「なにもない」。
彼女は「忘れられないひとがいる。死んでもういない」と言った。「ボクといると、彼のことを忘れてしまいそうで、彼とのことがすべて嘘になりそうで怖い」とも言った。「だからこれ以上ボクとは付き合えない」と。
ボクに彼女のためにできうることは何だろうと、ずっと考えている。考えて考えて、出た答えは「好きだと伝え続ける」ことだ。
第33話
店にはバレンタインデー商品が並ぶようになってきた。チョコレートにチョコスイーツ、チョコのマカロン、ワインなどが世間に出回っている。
アタシはそれらについて何も思わない・・・ただなにも考えずに店のなかに閉じこもっている。
「ね、クミちゃんはバレンタインしないの?」
「相手がいないから、パス!」
「ふーん、寂しいのね。はやく彼氏ができるといいね」
「ありがとう」
本当はチョコを渡したい自分がいるのに、渡したいひとがいるのに。アタシは、ますます「大東京でなにもない女」にハマっている。
クリスマスはかきいれ時であり、この店には3つレジがあるけど、どのレジにもたくさんのひとが列をつくる。
うつむいて仕事をしていると、背の高いがっちりした男性がアタシの前に来た。
「こんばんは」と優しい声をかけられた。
この声は彼のものだ。アタシは「こんばんは」ということも、顔を上げることもしなかった。
アタシは瞳に涙をたっぷりと潤ませながら、ただ機械のように動くだけだった。
「いつもの席で待っています」
第34話
店内には控えめにバレンタインジャズが流れている。客もカップルが多くて、ひそひそ話でおしゃべりに花を咲かせている。そんな雰囲気のなか、ボクは彼女ひとりを待ち続けている。
でも、彼女は来なかった。
第35話
アタシは行かなかった。行けなかった。
今更、彼になにを言えばいいのか分からなかった。
第36話
しつこいと嫌われそうでも、ボクはこの席で待ち続けている。バレンタインデーはおわり、今日は春一番が吹いたそうだ。もうどれだけ彼女を待ち続けているのか。彼女はこの気持ちに応えてくれないのか。もう止めようか。きっと、それが彼女の応えなのだろう。
第37話
いつも彼がいつもの席でアタシを待っていることが見える。
きのう、一昨日も3日前も、そして明日も明後日も。
なんでアタシなんかに・・・
彼のことを考えながら、モップ掛けをしている。
第38話
もうよそう。今日までだ。
桜が三分咲きになっているそうだ。
第39話
火曜日から彼の姿がいつもの席に見えなくなった。
なんでだろう。
なんでだろうって、当然だ。アタシが彼を振ったんだ。なにを虫の良いことを考えているのか、アタシは。
いつもの席に行っても、あたりまえに誰も座っていなかった。次の日はべつのカップルが座っていた。
そして、仕事帰りに毎日今度はアタシが待つ番になったらしい。
第40話
もうどうしようもない。彼女はなにも応えてくれない。例の亡くなった彼のことを忘れられない気持ちにボクは勝てなかった。半年以上待ち続けても、さすがに疲れている。
第41話
それからアタシは、いつもの喫茶店で毎日彼のことを待った。桜は見頃をすぎて、つつじが沿道のあちこちに鮮やかに咲いている。思い切ってラインをしようかと思ったこともあったけれど、友達から外されてしまっていたり、無視されることが怖くてできない。そっとこの席で待ち続けてみるしか選択はできないのが自分だ。
第42話
なんども、ラインを彼女へ送ろうとしたけれども、そんな度胸はない。もし、友達から外されていたり、無視されたりされることが怖くてできないでいる。
第43話
「大東京でなにもない女」のアタシは心を震わせてくれる何かに出会うこともなく、日々店内にこもっている。ときどき無意識にいつもの席を覗いたり、店の出入り口をぼーっと見ることがある。
彼とのドライブは楽しかった。いつも道に迷うけれど一生懸命にナビとにらめっこする彼を見ているのが楽しかった。
きっと彼とアタシは相性がよいと絶対に思う。
優しくおっとりした話方の彼と、声の大きなアタシは結構いい相棒関係にちがいない。
でも、彼が待っているときにはアタシが行かないで、アタシが待っているときは彼が行かない。やっぱり縁が無いのかな。純粋に彼とどうでもふいいことをおしゃべりしたい。今度のドライブの計画をつくりたいし、クルマのことを教えてほしい。アタシ、影響されてクルマのこと、少し勉強したのよ。買うならこんなやつがいいなぁとか思ったりして・・・そしたら次はあなたを助手席に座らせて、アタシが軽やかに運転する、それで道に迷うのよ。
住宅街にあるアタシの隠れ屋からは、家の庭や玄関先に紫陽花があちこちに見られるようになっていた。
第44話
もうボクと彼女はすれ違ったままで、交わることは金輪際ないのだろう。会っていたのは、数年前のように感じてしまう。
ボクは「好きだと言い続けること」を途中で止めてしまった。彼女からでなくて、ボクのほうからあきらめたのでは?
このまま自分のほうからあきらめてしまったままでよい?
あのとき、彼女は、彼のことを忘れられないけども、ボクのことも好きだと言っていた。
はっきりと拒絶されるまで「好きだと言い続ける」こと、いまさらだけど、ボクがやらなければならないのは、傷つくことになっても、それだろう。
第45話
隠れ屋にこもるのも度が過ぎると息苦しくなる。仕事終わりに例の喫茶店でいつもの席に座ってみて外の様子をなにげなくみつめていた。店内はJAZZが静かに流れている。これは「君の住む街へ」だ。ピアノで演奏されているものだ。テンポよくこころによく店内に響いている。
そういえば、彼はどこに住んでいるのだろう。アタシがどこに住んでいるのかも教えてあげなかった。
まだ話していない、話したいことはたくさんあった。
また、もう一度だけでも彼に会いたい。
いつの間にかうとうとしていたらしい。時間を確かめると午後二時になっていた。
ぼーっとしながら、店内に静かに流れる「ムーンライトジャズ」に耳を傾けていると、誰かがアタシの席の向かいに立っていた。
「こんにちは。ここいいですか?」
「はい?」
彼だった。間違いない。アタシは戸惑った。どうせすればいいのか、あわててパニックになっていた。
「やっと会えた。ミクちゃんはずっとコンビニにひきこもっていて、なかなかタイミングがなかった」と言った。
「ボク、クルマだから、もし時間あるなら海にいかない?」
「い、行きます」
即答した。
第46話
湘南へ向かっているクルマの中では、ボクたちは何も話さなかった。でも、以前に感じた心地よさがどこからともなく漂ってきた。ロードスターを運転するボクと、ちょこんと助手席に座るミク。しっくりとする。
途中のコンビニで休憩したけれども、ミクはトイレだけで、なにも買わずにロードスターに戻ってきた。ボクはずっと運転席にいた。
それからは、またボク達はなにも話すことななかった。一時間半で湘南まで到着した。
もうしばらくすると夕焼け空の時間になる。
太陽は西に地平線へと傾き始めていた。
第47話
「湘南の浜って案外狭いのね。金沢のはもっともっと広かったよ」
「そうなんだ・・・ね。ミクちゃんのいた金沢に行ってみたいよ」
「・・・波打ち際まで行こうよ」
アタシはナイキのシューズとソックスを脱ぎ、ジーパンの裾をまくった。彼は、ビーサンに短パンだったので楽そうだ。
「うわーひさしぶりの海だぁ。気持ちいい!ねぇ、もうちょとこっちまで来てみて。最高だよ」
ボクはかなり深い彼女のところまで、ゆっくりゆっくり進んでいった。
「濡れる」
「大丈夫よ、ここがいいの」
太陽はその半分を地平線に沈め、あたりはオレンジに染まっている。
「ねえ、手をつないで」
彼はアタシの右手を左手でそっとつかんだ。
「空、綺麗だね」
「そうだね」
「ねえ、肩を抱いて」
彼は繋いだ手をゆっくり離して、そしてアタシの左肩にそっと置いた。
「ねえ、つぎはアタシと腕組しよ」
彼とあたしの腕はしっかりとからんで、組まれた。
第48話
「ミクちゃん、ボクはキミが好きだ。会えない間、ずっミクちゃんのことを考えていた。なんどもコンビニに行こうとしたし、ラインしようとも思った。もう自分の臆病さにあきあきした。だから今日、勇気を振り絞ってミクちゃんに会いに来た。もしまだその亡くなったひとのことが忘れられないなら、それだってかまわない。ボクはそのひともミクちゃんの一部として受け入れる。必ず。だから、だからボクとふたりでこれから一緒に歩いていってください」
第49話
「大丈夫、ちゃーんと大好きだから」
「アタシ、この9ヶ月の間、どれだけあなたのことが好きなのかを、身にしめて感じた。ロードスターを運転するあなた。カーナビとにらめっこするあなた。いつもの喫茶店のいつもの席で楽しいおしゃべりをしてくれるあなた。コンビニで声をかけてくれたあなた。そんなことをずっと考えるうちに、アタシの中で何かが変わった。あのひとのことをこころの一部屋にしまっておくことができるようになった。あなたとの時間、会えなかった時間も含めて、それがあってできたの。乗り越えるんじゃない。しまっておくんだって。いつでもその扉を開いてそして閉めることができるの」
太陽はその姿を完全に隠してしまって、オレンジ色の帯が地平線を彩っていた。
「大丈夫。あなたのことちゃーんと好きだから、大好きだから!」
彼女の瞳から涙がはつることなく、流れてゆく。
完




