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第9話 薬草の丘、鉱の唸り、二十日の灯り

 二十日まで、ときは速いのに、段取りは不思議と滑らかだった。

 掲示板の「危険告知板」は市場でも評判になり、子ども用の絵札を真似る家が増えた。評議では“母子控室・常設基準”を板に彫り、宰相府の使者が来ても一目で通じるようにした。


 私は午前、丘へ。リィナは抱っこ。風はやわらかく、湧水は相変わらず拍を刻んでいる。

 古い筒から出てきた薬草の種——睡香草、銀苔、鶯の薬葉。段々畑の一面に薄く筋を引き、子どもたちと一緒に播く。

「“見つけたら皆で分ける”。収穫も皆で、ね」

 リィナが小さく「うん」と言った気がして、私の胸の奥が勝手に笑った。


 昼、巡回診療。ミランダの救急箱に、今日から“甘いビスケット”が正式採用。転んだ膝には清潔布、泣く心には砂糖。

 ルドは新しい“光の文字盤”を持ち歩き、危険箇所の通報を受けては、絵と字で板に移していく。

「暗号は卒業ですね」

「はい。——灯りの下にいるの、慣れてきました」


 午後、岩場へ。材木組合と森番、そして王都の土木役から来た若い技師まで混じって、橋脚の足元を固める。

 その途中、リィナが拳をぎゅっと握って、岩肌の一点を“ここ”。

 鉄の匂い。小さくて質のいい脈。

「独占はしない。共同出資の鉱組合案、今ここで合意しましょう」

 私が言うと、若い技師が目を丸くし、やがて頷いた。「王都でも、こういう決め方は増やすべきです」


 夕方、準備の総仕上げ。

 屋敷の大広間は、舞踏会ではなく“灯りいち”の配置に換装した。

 入口に“母子控室”——椅子・水・清潔布・縫い針・絵札。

 中央に“寄付箱(封緘は蜂蜜色)”と出納板。

 壁際に“危険告知板の作り方・講習コーナー”。

 そして、壇は——“断罪のため”ではなく、“説明のため”。

「寄付は匿名可。物資歓迎。使用は公開。……噂は暗がりが好き。だから、灯りを増やす」


 夜更け、門の上に二羽の鴉。

 向かい合って無言。

 私は窓辺で一礼する。「二十日、どうぞ。脚本があるなら、灯りの下へ」


――――

今日の義娘:種をまく手をじっと見て、土に「ここ」。芽は、拍を知っている。


第10話 二十日、“灯り市”と黒鴉


 当日。朝から人の流れが生まれ、屋敷は市場みたいな温度になった。

 宰相府の書記官が到着し、出納板の前で頷く。「見やすい。異議なし」

 私は抱っこのリィナの額に口づけを落とし、壇の中央へ。


「本日は“母子控室・常設化”の試行と、寄付の公開説明です。寄付は匿名可、物資も歓迎。出納は掲示。——暗がりを減らせば、噂は痩せます」


 ざわめきが温かいほうへ傾く。

 そこへ、黒い羽根飾りの帽子。ルクス。背後に社交界の面々。

「すばらしい催しですな。まずは我々から“寄付披露”を」

 来た。

 彼らの手には、昨夜と同じ“寄付状の束”。

 官印を模した粗悪な印章。

 書記官が一歩、前に出る。「それは——」


 その瞬間、リィナの指がぴん、と跳ねた。

 壇の端ではない。

 床板の継ぎ目——“ここ”。

 私は膝をつき、継ぎ目に薄刃を差し込む。

 板が持ち上がり、埃と一緒に小さな袋が出た。

 中は、丸めた薄紙。

 《本番は“控室”。泣きを誘え。混乱の中で“寄付状”を読ませろ》

 書記官の眉間が動く。「……内規違反どころではない」


 ルクスは笑みを崩さない。「偶然の紙切れで、何を」

「偶然ではありません」私は静かに掲げた。「“ここ”です。——控室は泣きを鎮める場所。泣き声を“使う”台本は、入場禁止」


 控室の戸口、布商の若い女が立っていた。

 “目が遠い”女。今日は目が近い。

 彼女は一歩、前へ出て、小さく会釈した。

「紙……私が、拾いました。洗濯場へ落とされたのを。返す相手が分からなくて、祠に預けようとしたら……“ここ”に」

 声は震えない。

「——私は“母”です。赤子を産んだ“母”。奪われたと噂されている“母”。……でも、奪ったのはこの家じゃない。金と噂で、私から“名”を奪った人たちです」

 会場の空気が大きく動いた。

 ルクスの顎がわずかに跳ねる。「証は?」

 女は胸元から布袋を出した。

 古い助産の印、日付、受領印。官印ではない、村の印。

「侯爵は夜に来て、静かに布を置いていった。歌って。——私は見た」

 彼女の目は遠くなく、まっすぐにこちらを見ていた。

 リィナが胸の中で、ゆっくりと指を上げ、女の胸の真ん中を“ここ”。

 女は笑って泣いた。


 書記官が手を上げる。「本件、官印偽造と寄付状の偽造、並びに誘導混乱の企て——審問へ回す。二刻後、仮審問をここで行う。証拠は灯りの下に」


 “灯り市”は、そのまま“公開準備室”に変わった。

 出納板はそのまま、控室は泣きを鎮め、危険告知板コーナーは“証拠掲示”に。

 ルドは“光の文字盤”で時刻と段取りを絵に描き、子どもにも分かるように貼っていく。

 情報屋は筆を走らせ、見出しを塗り替えた。「《灯り市、審問へ》。……いい見出しだ」


 二刻。

 仮審問。

 書記官が手短に経緯を述べ、私たちは順に出す。

 床の継ぎ目の紙、偽の寄付状、官印の粗、洗濯場への投函。

 材木路の火の仕掛けの記録、祠の木札、黒鴉の紋。

 そして——“母”の証言。

 エルンストは、ただ一度だけ口を開いた。

「私は奪っていない。奪おうとした者がいる。奪われた者がいる。——これだけです」

 静かな言葉は、灯りの下でよく届いた。


 審問の結論は、翌日の正式発表に回された。

 けれど、その場で十分だった。

 “噂の脚本”は、灯りで紙に戻った。

 紙なら、破れる。


 散会。

 控室の戸口で、私は布商の女に向き直る。

「あなたの“名”を、どうしますか」

 彼女は少し考え、首を振った。

「今は、名は要りません。布の手の跡だけ残す。——子の前では、嘘は長持ちしないから」

 リィナが笑い、私の胸の真ん中を“ここ”。

 家は、抱っこの真ん中にある。

 灯りの外には、もう戻らない。


――――

今日の義娘:床の継ぎ目を“ここ”。泣き声は使わない。灯りの下で、拍だけ合わせる。


第11話 “ここ!”は家(最終話)


 翌朝。

 宰相府からの正式文書は、蜂蜜色の封蝋で届いた。

 《官印偽造の一味、捜査開始。寄付状偽造は証拠十分。材木路の火攻めは禁制違反。ヴァルナ侯の縁者、聴取》

 箱書きの末尾に一行。

 《侯爵エルンストにかけられた“子を奪う”の噂、根拠なし。撤回を公示》

 紙は軽いのに、重さはあった。

 私たちは広場の掲示板に張り、読み上げた。

 歓声は上がらない。代わりに、拍手が粒になって広がった。

 長く乾いていた土が、静かに水を飲む音に似ている。


 その足で、評議。

 “鉱組合の設立”“薬草の共同育苗”“危険告知板・市場版の常設”“母子控室の巡回運用”。

 紙にしたものは、板に彫り、板に彫ったものは、人の癖に混ぜる。

 ルドは“光の文字盤”を村の子に教え、情報屋は“灯り記事”で笑いを混ぜる。

 森の若い衆は橋を直し、森番は火の痕を埋め、材木組合は“禁止手順”を自分たちの板に彫った。

 噂は、痩せた。


 夕刻、王都からもう一通。

 《控室・常設化、王命として各会場に試行。基準は“侯爵家式”に準拠》

 ミランダが静かに微笑む。「——前例、作りましたね」

「前例は、今日になっただけです」


 夜。

 屋敷の大広間。

 “灯り市”の名残がまだ温かい。

 私は壇を片づけ、抱っこのリィナを真ん中にして、エルンストと向かい合った。

 言葉は少なくていい。

 彼は、噂の温度ではなく、家の温度の声で言った。

「ありがとう」

「こちらこそ。——歌、また歌ってください。ぎこちなくて、好きです」

 彼が照れた顔をして、私も同じ顔になった。


 そのとき、リィナが両手を高く上げた。

 これまでで一番、真っ直ぐで、迷いのないゆび

 「——ここ!」

 小さな声が、広間の梁を揺らし、月の光をひと筋、床へ落とす。

 指は、私とエルンストの胸の間、抱っこのど真ん中で止まった。

 笑い声が、拍と同じ速さで重なる。

 私は腕を少しほどいて、エルンストの手を引き、三人で輪をつくる。

 古王朝の地図も、薬草の芽も、鉱の唸りも、危険告知板も、灯り市も、控室も、全部、ここに集まる。

 “ここ”は家だ。

 家は、灯りがある場所だ。

 灯りは、誰のものでもない。皆のものだ。


 翌朝からは、また日常。

 畑へ、橋へ、市場へ、祠へ。

 噂が痩せても、やることは無限に太い。

 けれど、順番は崩さない。

 “見つけたら皆で分ける”。

 “使い方を先に決める”。

 “暗がりには灯りを増やす”。

 そして——“抱っこの真ん中に家を置く”。


 門の上に、鴉が一羽。

 今日は鳴いた。

 からすなりの礼なのか、単なる気まぐれなのかは、もうどうでもいい。

 光の下では、羽根の青が綺麗だと分かれば、それで十分だ。


 私は掲示板に、最後の紙を貼った。

《祝福の分け前規約・最終条》

 七、祝福の“ここ”は、家から始め、家で終える。

 ——家の拍が整えば、道の拍も整う。


 紙は風で揺れ、板は風に揺れず、三人の影はひとつに重なった。


――――

今日の義娘:両手で、高く。「ここ!」。家は、指一本で決まる。

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