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第8話 指差しは“人”にも届く

 市場は、午前の光をよく飲む。

 八百屋の緑、魚屋の銀、布商の色見本、香辛料の赤茶。音は重ならず、匂いはけんかせず、路地の石畳まで賑やかに見える。

 私はリィナを胸に抱き、ミランダとフーゴ、そして小走りのピピを連れて歩いた。掲示板に貼る「危険告知板」の見本と、控室常設の備品調達のためだ。


「奥様、針は太さ違いで三種。糸は丈夫な麻と、絹の応急用。それから石鹸」

「ありがとう。——あと、子どもが退屈しないように、木の指人形を少し」


 露天の陰に、楽師が座っていた。笛の音は水のように細く、リィナのまぶたが重たくなる。

 私は抱っこを少し高くし、耳元を撫でる。

「眠くなったら、いつでも“ここ”、してね」


 角を曲がった先で、ざわ、と空気が変わった。

 路地の奥から、泣き声。小さくて高い、迷子の声。

 親らしき女が二人、反対側から駆け込み、名前を呼び合っている。

「ソラ! ソラ!」

「ミレ! ミレはどこ!」


 人垣ができ、音が渦を巻き、子どもの泣き声は方向を失って反射する。

 私は抱っこを少し締め直し、リィナの頬に指を当てた。

「リィナ、助ける“ここ”はある?」


 彼女は、ぐ、と私の服を握り、眠気をゆっくりどこかへ仕舞う。

 瞳が光を拾い、群衆の上を滑る。

 ひとり、ふたり、みっつ、よっつ——

 「……ここ」

 小さな声。指は、雑踏の向こうに立つ糸巻き屋の台の下を、まっすぐ刺した。


 フーゴが人垣に声をかけ、道を作る。

 台の下には、小さな靴。抱え込むように膝を抱えた女の子が、糸巻きと糸巻きの影に隠れていた。

 ミランダがしゃがみ、目の高さを合わせ、掌を見せる。

「びっくりしたね。大丈夫。お母さん、すぐ来るよ」

 路地の向こうから、名を呼ぶ声が、足音を伴って近づく。

「ソラ!」

「お母さん!」

 抱擁は一瞬で形になる。

 泣き声が笑い声に溶ける瞬間、周囲の空気も、ほっと息を吐いた。


 もう一方の母は、まだ名を探している。

「ミレ! ミレ!」

 リィナが二度、瞬いて、別の方向へ指を伸ばした。

「ここ」

 果物売りの屋台の裏。布袋の影に、小さな手が見える。

 私は腰を落とし、布袋の横からそっと声をかけた。

「ミレちゃん?」

 空気が張って、やがて、丸い顔がのぞいた。

 ひと呼吸遅れて、母の声が追いつく。

「ミレ!」

 こちらも、抱擁。

 果物売りが安堵して頭を掻き、木箱の角を指で叩く。

「そこ、隙間ができてたか。塞いでおこう」


 群衆が散り始め、誰かが小さな声で言う。

「“噂の赤ちゃん”だ」

「“ここ”って言うんだろ」

「ほんとに、人も見えるのか」


 私は否定も肯定もせず、抱っこを軽く揺らした。

 祝福は見せ物にしない。でも、働きは隠さない。

 母子は、互いの涙を指で拭い、礼を言う言葉を探していた。

「ありがとうございます。——どうして、ここだって」

「子どもは、音と匂いで隠れ場所を選びます。糸の匂い、果物の甘い匂い。泣き声が跳ね返りやすい隙間」

 ミランダが静かに説明し、私は付け加えた。

「それと、“ここ”。」


 リィナは、抱っこの中で、まだ市場を見ていた。

 指が、今度は、向こう側の屋台に立つ女に止まる。

 洗濯場でルドが言っていた——“目が遠い”女の目に似ている。

 若いのに、瞳の焦点がいつも少し過去を見ている。

 女は、私の視線に気づくと、ほんのわずかに肩をすくめ、手に持っていた布の端をきゅっと握った。

 逃げるのではない。隠すでもない。

 ただ、胸の前で、自分を抱きしめる姿勢に近い。


「こんにちは」私は屋台の前に立った。「布は丈夫?」

「……丈夫です。水にも強い」

 声は、よく使い慣らされた糸車のように、一定だ。

「うちの控室に、布がたくさん要るの。清潔布、包帯、産着の端切れ。頼める?」

 女は、少しだけ目を見開く。

「……頼めます」

「代金は正価で。仕事の報告は掲示板に。——名前は要らないけれど、手の跡は残る」

 『名は要らぬ』。祠の木札の裏書が脳裏を過ぎる。

 女は、ほとんど imperceptible(気づかれぬ)ほど微かに頷いた。

 リィナは、その頷きに合わせるように、女の胸の真ん中へ、ふっと指を伸ばした。

 「……ここ」

 女は自分の胸を見下ろし、顔を上げる。

 遠い目の焦点が、今だけ近くに寄った。

「ごめんなさい」

 彼女は、誰に言うでもなく、誰にでも届く声で言った。

「ありがとう、でも、——ごめんなさい」

 謝罪の粒が空気に落ち、すぐには意味を結ばない。

 私は頷き、余計な言葉を挟まないで、布の注文だけを置いて去った。

 継ぎ目は、急いで縫わない。糸は、引きすぎると切れる。


 市場の角で、あの情報屋が手を振った。

 油の匂いは少し薄くなり、目に余計な光が増えている。

「見たぜ。迷子ふたりと、布の女。——“噂”の材には、十分だ」

「噂にするなら、“使い方”まで書いて」私は釘を刺す。「控室の場所、危険告知板の仕組み、寄付箱の封緘の色。……『灯りの数が増えれば噂は痩せる』って見出しにして」

 男は笑った。「任せな。灯り商売も嫌いじゃない」


 そこで、再び騒ぎ。

 今度は、荷車が石畳の継ぎ目で傾き、麻袋が崩れ落ちた。

 ざば。

 中身は乾燥した薬草。細かく砕け、石の隙間に散る。

 荷車の主は顔を歪め、「弁償だ!」と怒鳴る。

 ぶつかった若者は蒼くなって震える。

 市場は正義に敏感だ。敏感すぎて、ときどき荒い。


「待って。——順番どおりにしましょう」

 私は抱っこを片腕に移し、崩れた袋の口を縛り、こぼれた分を拾えるだけ拾った。

 フーゴがさっと石畳の隙間の寸法を測り、ギデオンが板にメモする。

「ここの継ぎ目、次の“危険告知板”に載せます。費用は共同基金から。——荷車の主さん、弁償の前に、重さを測りましょう。崩れた分の“実損”だけ、共同で補填します」

 若者の手がわななき、目から水が落ちかける。

 私はビスケットを半分に割って渡した。

「深呼吸。甘いのを一口。——失敗は、灯りが多い場所でやると安全です」

 市場が、すこし笑う。

 緊張の糸は、笑いの油でほどける。


 そのとき、リィナの指がすっと伸び、荷車の軸を“ここ”。

 フーゴが覗き込み、工具袋から釘と楔を取り出す。

「留め具が甘い。次で折れる」

 荷車の主が顔色を変え、うなずいた。「すまねえ。——助かった」


 市場の中央、古い井戸の前で私は立ち止まった。

 石囲いの角に、紙を一枚貼る。

《危険告知板:市場版(試行)》

 ——迷子の出やすい隙間(果物屋裏/糸巻き台の下)

 ——荷車注意地点(石畳の継ぎ目/坂の起点)

 ——控室の場所(右手奥)

 ——救急箱:井戸脇/祠前

 ——“見つけたら皆で分ける”の窓口:今日この場


 読む人より、見て分かる人が多い場所だ。

 私は子ども向けの絵も添えた。小さな手の絵、ビスケットの絵、涙に布を当てる絵。

 絵のほうが早いときがある。

 ルドの文字盤が、光の升目に載った瞬間だ。


 午後、品物をまとめ、帰路につく。

 門前で、材木組合の若者が待っていた。朝の二人とは別の顔。

「橋の補修、着手した。——火で塞いだ網の撤去も」

「ありがとう。掲示板に“作業中”の札を出して。子どもが近づかないように」

 若者は頷き、視線を落とす。

「……さっき、迷子の母ちゃんが泣いて礼言いに来た。俺のかみさん、もうすぐで、だから……なんか、効いた」

 効いた。

 言葉に、木の温度があった。

 私は肩の力を抜いて笑い、短く頷いた。


 屋敷へ戻ると、宰相府の使いが玄関にいた。

 書記官の印。封書。

 開くと、“母子控室常設化基金”の申請に対し、準備会議の招集と、試行の場として「二十日、侯爵家にて」の正式認可。

 同じ紙に、もう一枚。

 《官印偽造の件、証左を受領。二十日、審問手続きの公示を予定》

 舞台の上手。幕の継ぎ目。

 こちらが灯りを増やす間に、向こうも幕を重ねている。

 いい。重ねるほど、継ぎ目は増える。


 夕方、掲示板に新しい紙を貼る。

《二十日:寄付披露および控室常設化の試行 於侯爵家》

 ——出納の公開/寄付匿名可/物資寄付も歓迎

 ——控室の基準展示(椅子/水/布/縫い針/絵札)

 ——“危険告知板”の作り方講習(子どもOK)


 人だかりの向こうで、あの情報屋が親指を立てた。

「見出しは決まった。“灯り市、開催”。——黒鴉が来たら、光るぜ」

「光ったら、羽根の形が分かるね」

「形が分かれば、仕立ても分かる」


 夜。

 リィナは今日、いつもより深く眠っていた。

 迷子を二人、指で返したからだろう。

 寝息は規則的で、子守歌をいらないほど整っている。

 私は机に向かい、今日の“市場版・危険告知板”の写しを作り、掲示への感想を集計する表を作る。

 最後に、小さな一文を添えた。

《人の“ここ”は、物よりむずかしい。だから、きれいに、ゆっくり、灯りの下で》


 灯を落とす前、窓の外で羽音。

 塀の上のカラスが、今夜は二羽。

 向かい合って、動かない。

 私は窓枠に肘を置き、囁くように言った。

「二十日、来るなら来て。——灯りは増やしておく」


 寝台に戻ると、眠っていたリィナが、夢の底から浮かぶみたいに指を上げた。

 空ではなく、私の胸でもなく、部屋の入り口。

「……ここ」

 私は扉に目をやり、蝶番を撫でる。

 油が要る。

 きい、と鳴る音は、夜の迷子を増やす。

 私は油を差し、音を消し、戻って、眠る子の額を撫でた。


 家の継ぎ目、町の継ぎ目、国の継ぎ目。

 糸は、いまのところ、切れていない。


――――

今日の義娘:雑踏の上で迷子の“ここ”を二度。人の場所も見える指は、灯りの真下で一番やさしい。

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