第7話 密告の出所
王都から戻った夜の紙束。社交欄の隅に押し潰された走り書きは、夢の端のように私の視界に残っていた。
《“黒鴉”は舞台の上手。幕の継ぎ目に注意》
継ぎ目は、いつも弱い。紙でも、布でも、脚本でも。ならば——家の継ぎ目を見直す番だ。
朝いちばん、私は帳場に机を三台並べた。
一台は出納簿、一台は倉の在庫、一台は人の出入り記録。
フーゴは湯気の上がる茶を置き、ミランダは書見台を用意し、ギデオンは虫眼鏡を三つ並べた。
「筆跡の比べ、やりますか」
「やります。王都の“官印偽造”は向こうが追ってくれる。こちらは、こちらの継ぎ目」
帳面をめくり、私はまず数字に目を通した。
“7”の横棒が長い癖。“1”の頭に小さな返し。
赤インクの在庫が月末にだけ減る周期。
乾いた紙の匂いに混じって、リィナの甘い匂いがする。抱っこ紐の中で、彼女は朝のひと眠りに落ちかけていた。
「旦那様」フーゴが古王朝地図の写しを机の隅へ置く。「地図の左下、里程標の並びの脇に、薄い線が——」
「見えます」私は顔を近づけた。「走り書き。『Eは子を奪わず』」
「E……エルンストの頭文字でしょうか」
「そう読ませたい誰か、かもしれない。筆圧が浅く、人に見せる気のない書き方です」
筆跡は、人の癖と恐れを隠し切れない。
私は“E”の横棒の角度を測り、出納簿の“受領印”の署名欄と重ねた。
似ていない。
次に、領収書の端に走る小さな覚え書き。“釘 一束”“布 白小”。
似ている。
覚え書きを書けるのは、買い付けに出る者。書けるだけの字を持つ者。
私の視線が、自然に一人に止まる。
——“屋敷の外に出る用事が多いのに、指の先が墨で黒くなっている”若い男。
運送係のエディ。
名は“E”で始まる。
私はすぐに頷きを飲み込んだ。決めつけるには早すぎる。
「フーゴ、暖炉の灰掃除の記録を」
「こちらに」
暖炉周りの“掃除表”は、毎週末に更新される。
そこに、妙な交代がある。十週前から、灰掻き担当が“エディ→私用で交代→補助の書記小姓ルドへ”と続いていた。
私用——王都へのお遣いの日付と一致する。
灰は情報の墓場であり、格好の投函口でもある。
ルド。
文字は書ける。外へ出ない。中と外の継ぎ目に立てる位置。
「呼びましょうか」ミランダの声は、いつもの柔らかさのまま張りがある。
「いいえ。まず、“ここ”に訊きます」
私は抱っこのリィナの頬に口を寄せ、囁いた。
「暖炉の周りに“ここ”は、ある?」
彼女は眠気の膜を一枚破って、瞬きを二度。
次の瞬間、小さな指がぴん、と伸びる。
——暖炉の左、足元のタイル。
模様の角が一枚だけ、わずかに歪んでいる。
タイルを外すのは、音を立てずに。
ギデオンが薄い刃を滑らせ、フーゴが木片で支え、私は布で受ける。
“こつ”。
中から、細い筒が転がり出た。
蝋は安物。封は粗い。
中身は薄い紙。洗濯場で使う布目のように細かい升目が印刷されている。
そこに、数字と小さな点が並んでいた。
——洗濯物のチェック表に見せかけた“文字盤”。
商人が使う簡易暗号だ。
“点”の位置で字を示す。
エルンストが刃を借り、慎重に開く。
私は点を拾い、指で辿った。
『水は北。道は上。子は——護れ。Eは奪わず。鴉は舞台の上手』
『次の投函は、古道の里程標 三里の祠へ』
『賃は受け取った。証文は要らぬ。名は要らぬ』
走り書きは震えていない。恐れではなく、急ぎの筆だ。
“Eは奪わず”。
エルンストに対する免罪符のような一節。
誰かが、誰かを救おうとしている。
けれど、その“賃”はどこから。
「ルドを」と、私は言いかけて、首を振った。
「……いいえ。今は呼ばない。祠へ行きましょう。古道の“三里”へ」
エルンストが頷く。「樹上通路を通れば、昼前に着く」
出発の支度をしていると、裏門で小さな囁き声がした。
のぞくと、荷車の影に、少年が一人すくんでいる。
書記小姓のルド。
目が合った瞬間、逃げるでも、媚びるでもなく、ただ深く頭を下げた。
「……すみません」
声は震えていなかった。
「今は、ここでは話せません。祠へ行くんでしょう。……僕も、行っていいですか」
森は、前より明るく見えた。
昨日の迂回路は村人の足で踏み固められ、赤白の杭は遠くからでもよく見えた。
樹上通路に昇る前、私はルドの腰紐を確かめた。
「落ちません。落ちませんとも」彼は苦笑を浮かべた。「僕、怖がりなんです。怖がりだから、ずっと見てきた」
三里の祠は、昨日より風が通っていた。
湧き口の水は冷たく、苔は指の熱でしっとりした。
祠の前に座り、ルドは両手を膝に置いた。
「僕が、投函してました」
言葉はまっすぐだった。
「でも、密告じゃない。……密告は、向こうの方です」
向こう。
王都。
黒い鴉。
「最初は、洗濯場の真似ごとだったんです」
ルドの目は地面の一点を見ているが、声は私たちに届く。
「僕は字が書ける。でも、屋敷の外には出られない。だから、出入りの商人に頼んで、紙を回してもらって、領内の“危ない箇所”を——井戸の崩れとか、橋の傷みとか——こっそり『ここ』って知らせてた。名前はいらない、賃はいらない、ただ早く直ってほしくて」
私は頷く。ミランダも、静かな目で見守っている。
「それで、いつから“向こう”と混ざった?」
「舞踏会の三週間前。……洗濯場で一度も会ったことのない女の人が、洗濯物のそばで僕の“文字盤”を見て、言ったんです。“あなたの『ここ』は、仕事が早いね”って。怖かった。けど、仕事が早いのは嬉しくて、少し舞い上がった」
彼は唇を噛み、吐き出すように続けた。
「それから、邸の人じゃない“使い”が来るようになった。『道の塞ぎの目印を教えろ』『侯爵がいつ出るか』『赤子はどこに』……。僕は全部、断った。断ったのに、ある日、暖炉の灰受けに紙が入っていて」
彼は祠の黒い石を見た。
「《Eは子を奪わず》。——あれは、僕が書きました。初めて、文字盤じゃなくて、僕の字で」
彼は両手を開いた。掌は墨で黒い。
「侯爵様は子を奪ってない。……僕、知ってます。僕が夜勤のとき、旦那様が赤子に歌ってたから。誰も見てない場所で、ぎこちない声で。——誰かが奪おうとしてるのは、こっちです。『黒鴉』の人たち」
エルンストの横顔が、風の影で一瞬、硬くなる。
「ルド。きみの“ここ”は、たぶん私たちの“ここ”と同じだ」
「はい。でも、僕が暗がりでやった“親切”は、暗がりのやつらに都合よく使われかけてた。……すみません」
謝罪の形は要らない。
必要なのは、継ぎ目を縫い直す針だ。
私はリィナを膝に寝かせ、祠の前の薄砂に小さな図を描いた。
「見て。これは、洗濯の“板目”」
升目を四つ描き、点を置く。
「これは、評議の“掲示板”。これは、橋。これは、暖炉。……情報を、暗の線から、光の升目へ移す」
私は顔を上げた。
「ルド。あなたの文字盤、評議に出しませんか。暗号は綺麗にして、分かりやすい“危険告知板”にするの。『ここ』を匿名で載せられる掲示。子どもでも絵で伝えられるやつ」
ルドの目が、掌から離れ、私と——私の背で空を見ているリィナに移った。
「……僕、共同の針になれますか」
「なれます。針は、弱い布ほど、やさしく通る」
風が一度、祠の上を撫でた。
そのとき、リィナがゆっくりと指を上げた。
「ここ」
祠の台座の右下。薄い土で塞がれた隙間。
掘ると、出てきたのは細い木札。
縁に黒い羽根の絵。
裏に、短い文。
《次の“寄付披露”は二十日。侯爵家にて。控室を使え》
裏書は、王都の女中言葉。
ミランダが息を呑んだ。「……控室を“使え”。あの場で私たちが作った“光”を、逆手に取る気だったのね」
「今は“控室”が灯りだと知られた。灯りの下でしか動けなくなることを、向こうは分かっていない」
私は木札を掲げるように持ち、エルンストの方へ向けた。
「二十日。舞台の上手。幕の継ぎ目。——ここで待ち合わせを仕掛けられる。『寄付披露』をこちらから正式に提案しましょう。“母子控室常設化基金”として。出納は公開。寄付は匿名可。でも、官印偽造はその場で潰す」
エルンストは、短く笑った。笑うときの目は、噂の温度よりずっと暖かい。
「脚本を書き換えるのは、きみが一番上手い」
「違います。リィナが上手い。私は、写すだけ」
リィナは誇らしげでも何でもなく、ただ眠そうにあくびをした。
祠の黒い石に指を置き、ひんやりした手触りを楽しむように目を細める。
“ここ”。
指は、台座の下をもう一度撫でた。
もう一枚、薄い紙。
《“E”の字を借りました。ごめんなさい。——母より》
筆跡は、小さな揺れの多い、でも丁寧な字だった。
「誰の“母”?」
問いは空に投げ、風が返す。
ルドがゆっくりと首を振った。「……洗濯場に、最近入った女の人。若いけど、目がずっと“遠い”んです。赤子の泣き声を聞くと、手が止まる」
それは、遠い記憶の上に立つ者の目だ。
産んで、離れた者の。
“母”。
貶められる噂の陰で、誰かが自分の字を隠している。
“E”の字を借りた。
その一行が、乾いた紙の上で、しずくのように重く見えた。
「まずは、二十日だ」エルンストが言う。「控室の常設化を王命にする。出納は公開。寄付披露は“灯りの下”限定。黒鴉は暗がりを好む。灯りに出れば、羽が光る」
「ルド、あなたは評議に文字盤を。ギデオン、掲示の版下を。フーゴは寄付箱と封緘の手当て。ミランダ、控室の備品の標準表。——子ども向けの絵も、忘れずに」
「ピピは?」
いつの間にか祠の影にいた仔山羊が、誇らしげに鳴いた。
「ピピは……入口に立って、鳴く時に鳴く」
“めえ”。了解だ。
帰り道、樹上の通路に一羽のカラスが止まっていた。
黒い羽根は、光の下で青かった。
近づくと、カラスは一声も発せず、枝を渡って消えた。
追い払う必要はない。
灯りの数が増えれば、暗がりは縮む。
暗がりが縮めば、噂は痩せる。
屋敷に戻るなり、私は宰相府の書記官へ使いを出し、“母子控室常設化基金”の申請書を添えた。
申請書の末尾に、短い一文。
《寄付披露は、暗がりではなく、灯りの下で》
封をする蝋の色は、蜂蜜色。
柔らかい光が、封面に広がった。
夜、寝台でリィナが寝返りを打ち、私の肩に顎をのせる。
小さな指が、夢の底から上がってきて、空を撫でる。
「ここ」
声はほとんど風だ。
私はその指をそっと握り、囁いた。
「うん。ここから、書き換えるよ」
――――
今日の義娘:祠の石の冷たさに、ほっぺをちょん。灯りの下で「ここ」。暗号より、明るい一指し。