第6話 空振り指さし
翌日。王都から戻った私たちは、いつもの掲示板の前に立った。
夜のうちにフーゴが貼ってくれた紙は二枚。ひとつは舞踏会の収支報告(控室の消耗品に充当)。もうひとつは、宰相府書記官の署名入りで“官印偽造疑義につき精査中”とある短い告知だ。
人々の視線は、紙よりもこちらの顔に集まってくる。
「大丈夫だった?」
「シャンデリア、落ちなかった?」
私は笑って頷き、抱っこのリィナの頬をそっと押す。
「落ちませんでした。落ちる前に“ここ”がありましたから」
午前の仕事をひと区切りつけ、昼前に屋敷へ戻ると、応接間に見覚えのない男がいた。
黒い羽根飾りの帽子。靴は必要以上に光っている。
「王都材木組合頭の代理、ルクスと申します」
肩書に必要な分だけ頭を下げる礼。
エルンストが座するのを待たず、男はすでに笑っていた。
「昨晩は華々しかったそうで。こちらも“祝福”にあやかりたく参りました」
ああ、来た。
私は内心で小さく息を吐き、笑顔を整える。
「祝福は、あやかるのではなく、働かせるものです」
「でしたら——」ルクスは掌を返し、用意していた言葉を滑らせた。「“実演”をお願いできますかな。赤子が指をお伸ばしになる、あの“ここ”。材木路の新規開削に最適な場所を、一指し、いただければ」
フーゴが、ほぼ聞こえないほどの深い息を吐いた。
エルンストは微笑のまま、眼差しだけが冷たい。
「祝福は命令で使わない。それが規約の第五条です」
「承知。ですが“お願い”ですから」
言葉の布を一枚だけ薄く替えて、意味は同じ。
「代わりに、冬の無料配材をお約束しましょう。橋の補修材も——」
「お引き取りを」エルンストの声は穏やかで、刃の背を見せるように固い。「祝福の“使い方”は、家族と領民のあいだで決める。商いは、そのあとだ」
男は肩を竦め、視線を私にすべらせる。
「奥様。母君のご判断は柔らかいと伺う。——赤子のためでもありますぞ」
赤子。
その二音に、雑な油が混じっている。
「では、母として申し上げます」私は微笑んだ。「昼寝前の子は、見世物にいたしません」
それでも男は引かない。
足音が一つ、ふたつ——応接の外に、取り巻きが増えている。
“拒めば噂”。
この手は、舞踏会の寄付披露と同じ脚本家だ。
「わかりました」私は静かに立ち上がった。「——庭へどうぞ」
「奥様」ミランダが目で問い、私は目で返す(大丈夫。やるのは“実演”ではなく、規約の証明)。
裏庭。指さし泉の流れは今日も軽やかで、風は昼寝を誘う。
私はリィナを抱いたまま、ひらりと布を敷き、小さな木の椅子を出した。
「ここが“母子の場所”です。日陰、風通し、水、座る場所——これが整わない場では、祝福は働きません」
「なるほど。では整った場で、ひとつ“ここ”を」
ルクスの視線が、泉の下流、まだ手をつけていない草地へ流れる。切り出し道にしたいのだろう。
「リィナ」私は赤子に口を寄せ、いつものように囁く。「見つけたら、皆で分けようね」
彼女の瞳は澄んでいる。
ゆっくりと首を巡らせ——私の胸に顔を埋めた。
指は、上がらない。
風が、ほんの少し止まる。
ルクスが笑い、肩をすくめる。「ご機嫌斜め、というやつですかな」
「いえ」私は首を振った。「“使い方”が違うだけです」
私は広場の端、掲示板へ歩み、紙を一枚貼った。
《規約補遺 第五条解説》
——祝福は命令で使わない。お願いであっても、祝福の本旨(皆の善/安全/再生)から外れれば“不発”です。
——“皆の善”の判断は母(保護者)と評議で行い、取引材料にしません。
——祝福を“実演”させること自体が目的化したとき、不発です。
——赤子の休息・水・安全が最優先。環境が整っていない場では“不発”です。
——祝福が不発でも、恥ではありません。基準が守られた証です。
字を読み終えないうちに、リィナが小さく体を起こした。
私の肩越しに、視線が庭の向こうへ滑る。
家の外塀。そこに一枚の板が立てかけられている。
指が、ぴ、と動く。
——上がらない。
彼女は少し考えるみたいに瞬きをして、今度は私の胸を、軽く二度、叩いた。
“ここじゃない”。
“今じゃない”。
私は笑った。
「ルクスさん。祝福は“皆の善”に従います。あなたの願いは、森を焼かず、道を守り、荷車が安全に通るためのものに見えるでしょうか?」
「……通行の効率化は皆の利益だ」
「ではまず、火で塞いだ場所の撤去と、安全標識の設置から“あなた方の手で”始めましょう。評価はその後。——順序が逆です」
男は一拍、言葉を失い、すぐに肩で笑った。
「順序、ね。侯爵家のやり方だ。覚えておきましょう」
退きは早い。だが、足音は軽くない。
去り際、彼は視線だけで塀の板を一瞥した。
気づいたな。
板の陰、釘が二本、半分浮いている。倒れれば通りに出る子の頭の高さ。
私は布をたたみ、リィナを抱いたまま駆け寄る。
釘を押さえ、フーゴが外側から補強板を打った。
「ありがとう」
胸の中で、リィナがようやく指を上げる。
「ここ」
遅い合図は、合図を“させられない”という意思表示のあとにある、ご褒美のように優しく響いた。
午後。
評議の集まりが開かれた。
“補遺”を正式規約へ編み込み、条文に“母子の優先動線”の概念を追加する。
さらにフーゴが滑らかに読み上げた。
「第七条:祝福に類するものを、金銭・名誉・圧力によって引き出そうとする行為の禁止。違反者は共同からの一定期間の排除」
「罰則は重いと思いますか?」私は問う。
老女が頷いた。「重い顔に効く罰は、重い罰だよ。軽い顔には、みんなの目が効く」
軽い笑いが部屋に広がる。
規約は、ただの紙ではない。日々の“使い方”で、徐々に重さを持ち始める。
評議の終盤、外で子どもの泣き声が上がった。
走り出ると、塀の角で小さな転び。膝を擦り、泣き止まない。
ミランダが救急箱を抱えて飛び、私は抱っこを低くして目線を合わせる。
「痛かったね。——ここ、冷たい布」
リィナが小さく身を乗り出し、涙の跡を指でちょい、と触れる。
「ここ」
子どもは不思議そうに瞬き、泣き声が、吸い込まれるように小さくなった。
砂糖のビスケットを半分に割り、笑い声が戻る。
どこにも“宝”は湧かなかった。
湧いたのは、息の仕方を取り戻すための、ほんの短い拍子。
それで十分だと思えた。
夕方。
材木組合の若い者が二人、肩身狭げに現れた。
「さっきの代理の言うこと、勝手に決めたわけじゃない。俺たちも、急がされてるんだ」
言い訳の形をしたSOS。
「急がされて、火を使ったの?」
「……ああ。火は効率がいい。——でも、森番の爺さんが言ってた。“火は一度だけ楽をさせて、ずっと苦労させる”って」
私は頷く。
「明日、森番さんを評議に呼んで。橋の補修計画、あなたたちの知恵を借りたい。冬の漂着木も拾えるように、川の目印を整えよう」
若者の顔色が、少しだけ明るくなる。
「……“皆の善”って、めんどいな」
「めんどうが、だんだん楽しくなるまでが仕事」
言いながら、私は自分に向けても頷いていた。
祝福は万能ではない。万能ではないことを、条文にして守る。
“空振り”が、砦の石になる。
夜。
屋敷の窓に灯をともす。
机に向かい、私は一本の手紙を書いた。
宰相府の書記官宛。
件名は“母子控室の常設化に関する提案”。
——社交の場における休息室の基準/費用の按分/運用記録の掲示方式。
最後に一行、短い付記。
《噂は薄闇を好みます。灯りの数を増やせば、弱ります》
手紙を封じ、蝋を落とす。
封蝋が冷える間、背後で小さな寝息が重なる。
リィナは寝台の上で、両手を上に、安心の形にして眠っている。
灯を落とす直前、窓の外で羽音。
黒い影がひらり。
カラスが塀の上に止まり、光の欠片のように目を光らせた。
私は窓枠に肘を置き、静かに見る。
カラスは一声も鳴かず、空へ戻った。
黒い鴉。
舞台の上手。
幕の継ぎ目。
胸の奥の拍が整う。
“空振り”は、的を外したのではない。狙って外したのだ。
“当てるべき時”のために、腕を温めておく。
断罪の舞台で、必要な場所に、必要な一撃を。
寝台に戻る。
リィナが寝返りを打ち、私の方へ、ずるりと寄ってきた。
小さな手が、眠ったまま、私の胸を“こつん”。
「ここ」
囁くような息。
私は笑い、窓の外の闇に向かって、ひとつ頷いた。
大丈夫。順番は、崩さない。
――――
今日の義娘:昼寝前、指は上げずに胸を“とん”。“今じゃない”も、立派な“ここ”。