第5話 社交界、お披露目は赤子中心で
王都からの招待状は、紙の重さで人を試してくる。
表は花模様、裏は棘だ。差出人はヴァルナ侯の縁者、すなわち“噂の脚本”側の舞台監督。
目的は分かっている。——侯爵家を見世物にし、醜聞を固める。
「行きましょう」私は迷わず言った。「ただし、こちらの脚本で」
ミランダとフーゴを連れて、まずやったのは“育児動線”の設計だ。
舞踏会場の見取り図を取り寄せ、入口から避難口、控室、水の位置、椅子の高さ、床の滑りやすさをチェック。
「授乳・おむつ替えの控室をください。鍵は内側から施錠でき、窓があり、椅子は肘掛けつき。水差しと清潔布を常備。——これは母子の権利として提出します」
同席していた宰相府の書記が目を白黒させ、やがて頷いた。「異議は……ない。前例は……ないが」
「前例は今日作ります」
当日。
会場は光の湖だった。天井からは巨大なシャンデリアが幾重もぶら下がり、鏡が光を倍にし、噂話はそのさらに倍だ。
私はおんぶ紐ではなく、抱っこを選んだ。胸の正面でリィナの呼吸が数えられる姿勢は、言葉より早く社会と交渉する。
入場と同時に、軽いざわめき。
「見なさい、あれが“契約妻”」「赤子を盾に同情を買う気かしら」
盾ではない。家族だ。
私は微笑んで、そのざわめきのど真ん中に“母のペース”を置いた。
まず、水。次に椅子。最後に挨拶。順番は変えない。
フーゴは事前に段取りを回し、ミランダは周囲の侍女たちへ“母子の優先動線”を説明してくれている。
ヴァルナ侯の遠縁にあたる夫人が、絹の笑顔で近づいてきた。
「まあ可愛らしい。お目にかかれて光栄ですわ。——侯爵夫人、噂には、ねえ……」
“ねえ”の皺に、悪意が挟まる。
「噂はお腹を空かせた子と似ています。与えるほど欲しがる」私は柔らかく返す。「ですが、うちはもう水と道と種の用意があります。——分け前規約、ご覧になりました?」
「まあ、掲示板に“規約”なんて、素敵なごっこ遊び」
「ごっこ遊びが領地を動かします。子どもたちは『順番板』を守ってくれますから」
そのときだ。
リィナの体が、ふっと硬くなる。
小さな指が、胸の前から伸びる。
「……ここ」
示した先は、頭上の海——一番手前のシャンデリアの鎖。
私は顔色を変えず、フーゴにだけ目で合図を送った。
彼は滑るように係員へ近づき、鎖の根元を点検させる。次の瞬間、係員の顔色が変わった。
留め金が半分、外れていたのだ。
音楽が途切れないうちに、係員たちは鮮やかに脚立を立て、金具を換えた。
宴の表情は崩さない。裏の手だけが、早い。
私は胸のリィナに小さく囁く。「ありがとう。——みんなの頭上の“ここ”だったね」
夫人の笑顔が一瞬、紙のように乾いた。
「偶然だわ。鎖なんて、よく見るものではなくてよ?」
「そうですね」私は静かに頷く。「だからこそ、見える人が必要です」
音楽が一段上がり、主催の挨拶が始まる。
壇上に上がったのは、ヴァルナ侯の姪。薄いヴェール。薄い言葉。
「ええと……本日は、“家”を祝う会。家は血でつながり、血が純粋であるほど——」
私は軽く首を傾げる。
“血”。
言葉が意図的に選ばれている。赤子を“他人の血”として端に追いやる脚本。
ならば、こちらは別の語彙を置く番だ。
挨拶が終わり、最初の舞曲が鳴る。
夫人や令嬢たちが視線だけで近づき、言葉を交わす隙間を探ってくる。
私は抱っこを少しだけ高くし、声を通した。
「皆さま、少々だけお時間をいただけますか。“母子の控室”を本日、私たちで整えました。迷子や体調不良、衣装の緊急修繕にも使えます。——これは、どこの家の子でも使えます」
ざわめきが変質する。
誰かが耳打ちする。「控室?」「そんな配慮、前からあった?」
ミランダがすかさず、入り口の位置を示した。
「右奥です。お水と清潔布、縫い針と糸、においの穏やかな油。音が大きすぎたら、少し休めます」
“家は血でつながる”という脚本に、“会場は母子でつながる”という現実を差し込む。
舞踏会の空気が、わずかにこちらに寄るのを感じた。
そこへ、青年が一人、わざとらしいほどの礼で近づく。
柄の悪い笑顔。ヴァルナ侯の側近筋に見える。
「侯爵夫人、ここは社交の場。規約だの控室だの、田舎の祭りではありませんよ」
「社交は、互いの不安を減らす技術です」私は即答した。
「不安?」
「はい。靴擦れ、喉の渇き、照明の熱、噂の過剰。——控室は、そのすべてを下げる小さな仕掛けです。あなたもぜひ、踵の釘が緩んだらお越しください」
青年の口角が、わずかに引きつる。
「……では逆に、こちらから小さな仕掛けを。——この後、親善のための“寄付”披露がありまして」
嫌な予感が、胸の底で指を立てる。
「寄付?」
「ええ。侯爵家にまつわる“赤子のための基金”。発起人は当家。無論、最初の寄付者には——」
彼は目だけ笑って言った。「侯爵夫人がふさわしい」
舞台袖で、誰かが微笑む気配。
“人前で財布を出させる”。
断罪の予行演習だ。
私は息を一度、浅く吐き、リィナの頬を指でなぞる。
彼女は私の視線を受け取り、ぱち、と瞬きを返した。
小さな手が、今度は会場の隅、壁掛けの大きな鏡の下を——“ここ”。
私は笑った。
「素敵なお申し出。喜んで」
青年の眉が一瞬、勝ち誇る形になる。
「ただし、条件を。寄付は“母子控室の常設化”のために。用途は公開、出納は掲示。最初の寄付は——ここに」
私は鏡の下へ歩き、壁の金具を軽く叩いた。
乾いた音。
装飾金具の裏から、紙片が滑り落ちる。
掴む。広げる。
そこには、宰相府の印を模した粗悪な刻印と、複数の社交界名士の名——偽の寄付状——が束ねられていた。
裏に鉛筆の跡。
“寄付披露で醜聞を固める”ための台本。
会場の空気が、ひと呼吸で反転する。
青年の顔色が落ちる。「それを、どこで」
「“ここ”にありました」私は穏やかに答える。「控室は、皆のため。寄付は、明るい場所で。——暗がりに台本を隠すのは、舞台の作法としても下の下ですわ」
主催者席の奥で、誰かの扇が止まる音がした。
宰相府の書記官が慌てて駆け寄り、紙片を受け取り、顔を青くする。「これは……官印の偽造……!」
音楽が一瞬、足を踏み外す。
私は微笑んだまま、抱っこのリィナを軽く揺らす。
「大丈夫。——子どもの前では、嘘は長持ちしません」
この場を大混乱にするつもりはない。
私は受け取った疑義の紙を、書記官へ返し、声を張らずに届く程度で告げた。
「続きは、正式な場で。今日は、皆で踊りに来たのですから」
主催者は表情を塗り替え、音楽は立て直った。
けれど、空気は変わった。
“噂を固める会”は、“安全と誠実を比べる会”に化けた。
控室の戸口には、早くも二人の若い母親が座っており、ミランダが水を渡している。
人々は初めて気づく。“家”は血だけでは組み上がらない。気遣いと段取りで維持される。
その夜の終盤、私はエルンストとわずかに踊った。
抱っこ紐の上から腕を回し、半拍遅れのワルツ。
「見事だ」彼が小さく言う。「鎖も、紙も」
「リィナの“ここ”が、全部、見せてくれました」
「きみも、よく見た」
「家族だから。——家族は、互いの視界を広げます」
天井のシャンデリアは、さっきよりも静かに光っていた。
金具は締め直され、鎖は鳴らず、鏡は余計なものを映さない。
控室の灯りだけが柔らかく、帰り道の目印になっていた。
帰路、馬車の中で、リィナが私の胸の真ん中を指す。
「ここ」
「うん、ここが家だね」
私は笑って、盲目的に頷いた。
舞踏会の脚本は、半分ほど、書き換えが済んだ。
残りは、王都の正式な場で——きちんと、明るい場所で。
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今日の義娘:きらきらの天井に目を丸くして、私の胸を“ここ”。家は、抱っこの真ん中にある。