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第4話 おんぶで巡る古道再生

 朝、空気は澄み、土は昨日より柔らかかった。

 湧水のせせらぎが、屋敷の裏庭で“拍”を刻む。指さし泉は夜のあいだも細く歌い続け、畑の端の色を一段明るくしてくれたらしい。

 私はおんぶ紐を締め、リィナを背に乗せる。頬に当たる息が温かい。眠気の余韻のまま小さな手が私の襟元をつまみ、安心の輪をつくる。


「古道の調査、第一班——奥様、家令、護衛二、道具持ち四、仔山羊一」

 フーゴが板札を掲げ、いつもの事務的な声で読み上げた。

「仔山羊は班に数えなくてよい」エルンストがぼそりと差し込む。

 ピピが“めえ”と抗議した。

「……一・五で計上しておきます」フーゴは譲らない。「安全宣言。目的は『塞がれた古道の現況確認と安全な迂回路の設定』。発見物があれば規約に従い記録・共有」


 門扉の影、昨日の情報屋が腕を組んで見ていた。目は相変わらず油っぽいが、声は幾分やわらいでいる。

「今日の噂の種、拾わせてもらうぜ」

「転ばないように。噂も足も」私は笑って返す。


 古道の入口は、東の生け垣を抜けた先にあった。昨日、リィナが眠りながら指した方角だ。

 近づくと、確かに“人の手”の匂いがする。枝が同じ高さでそろって裂かれ、棘の茂みが編まれている。獣避けではない。通行拒否の意志を持った網だ。


「手慣れている」護衛の一人が低く言った。「森を知った人間の仕事だ」

「森番か、あるいは……」エルンストは言葉を曖昧に切る。「確かめよう」


 私は背中越しに囁いた。「リィナ、危ないものがあったら、教えてね」

 その言い方が気に入ったのか、首元に回っていた小さな手が、ゆっくりほどけ、私の肩の上でぷらりと揺れた。

 次の瞬間、森の匂いが一段深まる。湿った土、樹皮の渋い香り、苔の冷気——それらの上に、小さな声が落ちた。


「……ここ」


 指したのは、足元の草むらだ。

 覗き込むと、苔に覆われた低い石。斜めに倒れ、半分土に沈んでいる。泥を払うと、彫りが浮かぶ。

「里程標だ。『三里・水場・小祠しょうし』」

 フーゴが読み上げる。「夜営地の目印。——塞ぐ理由は、ますますない」


 倒れた石を起こし、周囲を掃除する。石が元の位置に戻ると、不思議に空気の流れが通り、冷たい影が薄くなった。

 ピピが嬉しそうに跳ね、細い獣道を鼻で示す。

 だが、獣道は十歩で行き止まりだ。枝が折られ、蔓が巻かれ、わざと迷わせるようにパズルが組まれている。


「ここは無理にこじ開けない」エルンストが首を振る。「森を壊すと、道はすぐ駄目になる。——迂回路を」

 私は背中のリィナをそっと揺らす。

「ねえ、別の“ここ”で、進める場所はある?」


 彼女は小さく息を吸い、肩越しに森を眺める。

 視線は枝の上を渡り、梢の隙間で止まった。

「ここ」


 見上げた先、太い枝が二本、ちょうど手を組むように重なっている。人が渡れるほどの幅が、自然に出来ている。

 護衛が目を細めた。「樹上通路……?」

「昔、巡回の兵が使っていたのかもしれない」エルンストが頷く。「下を塞がれても、上があれば道は生きる」


 枝から枝へ。私とリィナの体重では危ない。

「私が先に探ります」護衛の若者が木登りの手際で身を滑らせ、二本の枝に試しに重みをかける。「いけます。ただし一度に一人、間隔を保って」

 フーゴが即席の安全索を括り、ピピは不満げに下から見上げる。

「仔山羊は下だ。君の仕事は“鳴くときに鳴く”こと」

 “めえ”——了解の声。少し頼もしい。


 最初の一本を越えると、樹上は意外に歩きやすかった。苔が少なく、風が通る。枝の間に、小さな祠が見えた。屋根は苔で緑、木箱のような本体は半ば朽ちている。

 私は背からリィナを降ろし、布の上に座らせる。

「おじゃまします」

 祠の前で小さく手を合わせる。

 中には、一片の黒い石。触れると、さらりと冷たい。

 裏に浅い刻みがあり、指で追うと文字になった。

 ——道は、母と子のために。

 ——旅は、戻るために。

 ——塞ぐ者は、己の家の戸を塞ぐ。


「昔の……誓いの文ですね」ミランダが息を呑む。

「道を塞いだ者は、自分の入口もふさがれる、か」エルンストは静かに言った。「つまり、こういう言葉が広く知られていた。塞いだのは、それを嫌がる誰か」


 木々の間を抜ける風が一度強まり、遠くで枝が鳴った。

 見下ろすと、塞がれた茂みの向こう側に、ぼんやり明るい空間。古道の続きが、そこにある。

 樹上通路は三つの枝渡りで地上の開けた場所へ降りられた。

 安全な梯子を降ろし、全員が着地する。ピピは誇らしげに跳ねて先に駆け、茂みの隙間で立ち止まった。


 茂みの向こう側は、やはり作為の跡が濃い。

 太い杭が地面に突き立ち、縄で棘蔓が編まれている。端には、乾いた黒い染み——油だ。

 フーゴが指先で嗅ぎ、顔をしかめた。「松脂と獣脂。火をかければ一気に燃える。……つまり、塞ぐだけでなく、追う者を焼くつもりだった」

 護衛が周囲を警戒する。「誰が、何のために」


「この位置、木材搬出路の分岐だ」エルンストは地図の写しを広げる。「森を切り出す者が、古道の通行を嫌う理由は、利権の独占以外にない」

 私は喉の奥で苦いものを飲み込んだ。

「木こりの誰もが悪いわけではないでしょう。でも、誰かが命じてる」

「命じた者は——」エルンストの目が細くなる。「森を知らぬ者だ。森番なら、火で塞ぐ発想は避ける。広域に被害が出るから」


 風が一瞬止み、森が息をひそめる。

 背中のリィナが、私の肩に顎をのせた。眠気はもうない。目が真剣に細まり、茂みの奥をじっと見つめている。

「ここ」

 彼女が指したのは、茂みの右端。針のような棘が続く中に、一か所だけ、密度が違う部分。


 護衛が棘の向きに沿って刃を入れ、蔓の“目”をほどく。ほどくたびに、絡みは嘘のように緩んだ。

「これ、結い方が下手だ」

「塞いだ者は森の素人、で確定だな」エルンストが頷く。「……通すぞ」


 通り抜けると、空気が一気に広がった。

 古道の続き。かつての石畳の名残が、草に埋もれながらもリズムよく地面に並ぶ。

 少し歩けば、左手に小さな窪地。石を積んだ水場が現れ、湧き口にコケの髪が揺れている。

「三里の水場。地図どおり」

 私は背のリィナを前に抱き直し、湧き水を掌で汲む。

「冷たいね。おいしいね」

 リィナの舌がちょん、と出て、笑う。

 その笑いが、周りの空気に灯りを点けたみたいに明るかった。


 水場の縁に、古い木箱が置かれていた。釘は錆び、蓋は半ば外れている。

 中には、布切れ、割れた土器、そして、巻かれた一本の縄。

 縄の端に、赤い染み。乾いて黒い。

 私は息を呑み、視線でエルンストに渡す。

「……人を縛った痕跡がある」彼は短く言う。「ここで誰かを捕え、道を使わせまいとした。——最近ではない。数年は経っている」

 私の腕の中で、リィナが眉を寄せ、小さく「や」と言った。

 怒っている。

「大丈夫。もう二度とさせない。ね」


 フーゴが板札に記録を書き込む。

《発見:水場・小祠・塞ぐ網・油痕・縄(旧)/危険:火攻めの意図》

《対応:樹上迂回路に安全索、地上の棘網は“緊急時の脱出用”に一部だけ残し、目印を設置。——使用許可は評議》

「塞がれた場所には、赤白の布を巻いた杭を。夜間は祠の手前で泊まるよう標識を作る。——ミランダ、救急具の簡易箱を置こう」

「はい。包帯と清潔布と薬草。あと、子ども向けの甘いビスケットを少し」

「なぜビスケット」フーゴが首を傾げる。

「泣いている子を落ち着かせる時は、砂糖が一番効くのです」


 昼を過ぎたころ、森の影から三人の男が姿を見せた。粗い服、斧の柄、腰にはのこぎり。

 木こりだ。ただし、目が揃いすぎている。

「ここは、俺らの道だ。通行は通行税」

 ひとりが顎をしゃくる。「侯爵さまの紙(規約)なんざ、森では効かねえ」


 フーゴが一歩、前に出た。だが、私はその腕を軽く押さえる。

 背のリィナが、私の肩の上で、男たちをじっと見ている。

「こんにちは」私は微笑んだ。「道は皆のものです。——母と子のために、と昔から決まっています」

「知るかよ」

「知ることになりますよ。あなた方が木を切り出して暮らしていること、私たちは否定しません。むしろ、お願いがある」

「お願い?」

「“安全な搬出の路”を、私たちと一緒に引きませんか。迂回路を。あなた方の荷車が泥に沈まないよう、橋を補修し、危険地帯に標識を建てます。見返りは、冬の薪の優先分配と、森番の常雇い四名分」

 男たちの目が、少しだけ揺れた。

「それと——」私は静かに続ける。「火で塞ぐやり方は、今日で終わりにしましょう。森は、焼けたら戻るのに何十年もかかる。あなた方の仕事も失われる。……それとも、火を使えと命じた人が、他にいますか?」


 三人は目配せをし、口をつぐんだ。

 負けた、という顔ではない。逃げの顔でもない。

 迷っている顔。

 先頭格の男が、頭をがしがしかいた。

「……俺らに命じたのは、町の材木組合頭の代理だ。王都の貴族の“親切な助言”ってやつに乗せられてたかもしれねえ」

「名は」エルンストが短く問う。

「直接の名は知らねえ。ただ、そいつの馬車に刻まれてた紋は——黒い鴉だ」

 黒い鴉。

 エルンストとフーゴの視線が、瞬間だけ重なった。

 私は胸の奥で静かに、ひとつ、糸が繋がる音を聞いた。

 王都の断罪に名を連ねるあの家。噂の脚本家。鴉は彼らの印の一つだ。


「話してくれてありがとう」私は頭を下げる。「森のために手を貸してください。——一緒に、道を直しましょう」


 午後は作業になった。

 塞がれた部分の脇に、細い迂回路を切り開く。

 倒木はレバーの原理で転がし、ぬかるみは小枝と石の層で補強し、危険地帯には赤白の布を巻いた杭を立てる。

 祠の前には、救急箱。水場の脇には、子どもの背丈でも読めるよう、絵の標識——指さす手と、家の絵。

「戻るための道」

 ミランダが小さく言う。

 私は頷く。「戻るための道」


 夕暮れ、最初の荷車が迂回路を試した。

 車輪は沈まず、枝橋は軋みながらも耐え、角を曲がるたびに赤白の杭が進路を教える。

 荷車の男が振り返って叫んだ。「いける!」

 歓声が起こる。ピピが高く鳴いた。リィナが私の肩でぱちぱちと手を打つ。

 古道の石の下で、眠っていた拍子木が、久しぶりに音を取り戻したみたいだった。


 帰り道、樹上の通路をもう一度渡る。

 祠に一礼し、倒れていた里程標の脇に、子どもでも読めるよう、簡単な文を添える。

《ここで休んで、息をととのえよう。暗くなったら、無理をしないで戻ろう》

 そして、小さな一文。

《“ここ”は、皆で使うためにある》


 屋敷に戻ると、門前にまた紙が届いていた。

 差出人不明。封はない。

 広げると、王都の社交欄の下に、走り書き。

 今度は読めた。

 《“黒鴉”は舞台の上手かみて。幕の継ぎ目に注意》

 指が、自然に文字の余白をなぞる。

 継ぎ目——脚本のつなぎの甘さ。

 そこから破れる。


「セシリア」エルンストの声。

「はい」

「森の迂回路、よくやった。ありがとう」

「こちらこそ。——明日は橋ですね」

「明日は橋だ。明後日は王都からの使者への応対。その次は……断罪の脚本の継ぎ目を、一本ずつ外していく」


 背から降ろしたリィナが、私の頬に触れ、小さく「ここ」と言った。

 その指は、私の胸の真ん中——心臓の少し上で止まる。

 そこは、いつもより穏やかに打っていた。

 家族で歩いた一日の拍のせいだろう。


 夜、窓を閉める前、森の方角を振り返る。

 赤白の杭が夕闇に吸い込まれ、祠の前に置いた救急箱の白がかすかに光る。

 戻るための道。

 塞いだ者の家の戸が塞がれる前に、私たちが先に戸を開けておく。

 噂の脚本家が、次にどんな継ぎ目を用意していても——こちらには、小さな“ここ”がある。


――――

今日の義娘:樹上の風に目を細め、枝の上で小さく手拍子。高い道でも、拍はぶれない。

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