第3話 倉庫の奥に、古王朝地図
古地図は、思った以上に重かった。紙の重さではなく、線の向こう側に積もった年月の重さだ。
羊皮紙の端は欠け、ところどころに虫喰いの穴。けれど、川筋の細線は芯が強く、丘陵の陰影は迷いなく置かれている。昔の書き手は、どれほどの風と靴擦れを、この一枚に詰めたのだろう。
「写しを作ります」
私はぱん、と両手を合わせた。
「掲示板に原本は貼れません。劣化します。写しを三部——村、城門、教会へ」
「書写担当は?」フーゴが問う。
「書庫番のギデオンと、学校の年長生を二人。……あとは私もやります」
午後の広間に机を並べ、窓を大きく開けた。
インクは——と悩む間もなく、リィナが私の胸で、ちらと暖炉の煤壺に“ここ”。
「なるほど」ミランダが笑う。「煤、干物の煮凝り、蜂蝋で、滲みにくいインクができますよ」
台所は瞬く間に小さな錬金工房になり、鍋に静かに熱が入る。
匂いは香ばしい。煤が油で滑らされ、膠がつやを与える。
私はリィナの指を汚さぬよう気をつけながら、筆を運んだ。
線を一本、なぞる。
震えそうになったら、深呼吸。
丘の陰の線は薄墨で。川筋は一段濃く。地名は崩しすぎないよう、活字に寄せる。
「奥様、筆致が綺麗だ」ギデオンが感嘆する。
「婚期を逃すと、書見と帳簿に強くなるのです」
「ご冗談を」
笑っていると、外から少年の声がした。
「指さし泉の水、流れが少し速くなってます!」
「分水栓、開度を一段落とせ」エルンストが即座に返す。「湿地へ逃がす側を広げろ。——セシリア、君の写しが上がり次第、古道の線に杭を打つ」
「はい。……その前に、地図の“余白”も見ておきたいの」
私は古地図の左下に指を置く。欠けた縁。そこに、かすれた薄色の線が潜んでいた。
文字……ではない。数拍置いて目を凝らすと、それは小さな印の連なりだった。
四角い枠で囲まれた点々。羊皮紙の裏に、別の紙を当てて透かすと——
「里程標だ」エルンストが低く言う。「距離と水場、夜営地の印。軍用地図で見たものに似ている」
「古道は交易路だけじゃない。避難路でもあったわけですね」
「だから塞がれた。誰かの都合で」
言葉が落ちた瞬間、室内の温度が少しだけ変わった。
ギデオンは咳払いし、筆を置く。「余計な詮索は致しません。ただ……印が示す『夜営地』なら、今も安全でしょう。小休止に良い場所です」
「写しに赤い点で残しておこう」私は頷いた。「誰かが帰るとき、迷子を迎えるとき、灯りになるように」
夕刻、写し三部が上がった。端を薄い板で補強し、角に紐を通す。
フーゴがそれを抱えて外に出ると、待ち構えていた子どもたちが歓声を上げた。
「線だ!」「道だ!」
「勝手に触らない」ミランダが柔らかく叱る。「見るのはいいけれど、指でたどるときは息を止めて」
「どうして?」
「息で紙が湿るからです」
「はーい」
掲示板の前で、私は写しの横に紙をもう一枚貼った。
《祝福の発見物 分け前規約》
一、発見は皆のもの。
二、使用と利益は開かれた場で決める。
三、独占禁止。
四、子と病の者を優先する。
五、祝福は命令で使わない。
六、迷ったら、お母さんに相談する。
「最後の条項は新しいですね」フーゴが目だけで笑う。
「文句が来たら、『お母さん』を『評議』に直します」
「文句は来るでしょうね」背後から声。尖った靴音。
振り返ると、よく油の染みた外套の男が立っていた。町の情報屋——噂を集め、噂を売る、そういう商売の顔だ。
「規約は立派。だが、祝福ってのは、見せ物にしてこそ金になる」
私は、にっこり笑った。
「祝福は、見世物にしないほどよく働きます」
「……は?」
「見てください。今日一日で、水が歌って、土が笑って、人の顔色が明るくなった。数字も欲しいでしょう? 明日、湧水のおかげで“桶を運ぶ労力が何人分浮いたか”を掲示します。そちらの方が、あなたの商いにも役に立つはず」
男はしばし口を開けたまま、肩をすくめた。
「……変わった侯爵家だ。面白い」
その瞬間、抱っこの中でリィナがむずむず動いた。
指が、ゆっくりと、掲示板の左下を——“ここ”。
そこは木の節。打ち込まれた釘の頭が、ほんの少し浮いている。
私は反射で手を伸ばし、釘を押さえた。
同時に、掲示板の上部で、縄がぎし、と嫌な音を立てる。
フーゴが一歩で飛び、杭を押さえ、ギデオンが縄を巻き直した。
「……危なかった」
「“ここ”がなかったら、倒れてましたね」ミランダが小声で言う。
情報屋の男は目を丸くした。「赤子が……今のを?」
「ええ」私は肩を竦める。「家族の安全も、祝福の対象です」
日が落ちきる前に、第一の杭打ちを始めた。
古道は、畑の縁から緩い弧で丘を巻き、森の手前で一度、途切れている。
先頭はフーゴ、私はおんぶ紐でリィナを背に、後ろから杭の数を数える。仔山羊ピピは、好き勝手に先を走り、危ないところでは必ず立ち止まって鳴いた。
「ここで一旦休みましょう。『夜営地』の印がある」
開けた場所。背の低い野花が、風に揺れる。
私は背からリィナを降ろし、布を敷いた。
彼女は草の匂いを吸い込み、くすぐったそうに笑ってから——森の縁、暗く沈んだ茂みを、じっと見つめた。
「……“ここ”」
小さな声。指は、茂みの奥の、さらに奥。
ちょうど古道が途切れるあたり。枝が絡み、獣道も消える。
「塞いだのは、人の手だな」エルンストが枝を折り、目線を通す。「獣ではこうはならない。意図的に、道を隠している」
「誰が?」
「明日、確かめる」
彼はそう言ってから、ふと私を見た。
「……怖くはないか」
「怖いですよ」私は笑って言う。「でも、“ここ”があるでしょう」
背中の小さな体温が、言葉より先に答えた。
夕陽が森の端を黄金に燃やし、茂みの向こうへ、細い風が吸い込まれていく。
古道の続きは、まだ見えない。けれど、杭は一本、また一本と、確かに地面に立っていく。
脚本は、また書き換えの準備に入った。
夜。屋敷に戻ると、玄関前に小包が置かれていた。
差出人は不明。中には、薄い紙束。——社交界の掲示。
ざっと目を通して、私は息を止める。
《王都にて来月、断罪の儀を開く》
《証人の名:ヴァルナ侯……》
紙の端に、押し潰されたような小さな文字が混じっていた。
誰かの走り書き。
読み解けない。けれど、直感だけは告げていた。これは、断罪の脚本の、粗だ。
「明日は森だ。明後日は書状だ」エルンストが低く言った。「順番を崩さない。道を開けば、人が動く。人が動けば、噂の脚本が破れる」
「ええ。私たちは、今日と同じことをするだけ。“ここ”を抱いて、分け前を決めて、道に杭を打つ」
私はリィナの額に口づけを落とし、寝台に寝かせた。
目を閉じる直前、小さな指が、最弱の力で空を撫でる。
“ここ”。
天井の梁——。
私は勢いよく腕を伸ばし、梁から外れかけた飾り鉤を押し戻した。
間に合った。
祝福は、今日も、私たちの上に落ちてくるものを、ひとつ防いだ。
――――
今日の義娘:筆の音に合わせて、舌で「た、た」と拍を刻む。地図の線は、子守歌のメロディ。