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第2話 最初の宝は水脈でした

 翌朝。起き抜けの屋敷は、パンの匂いより先に、水の音で満ちていた。

 窓を開けると、昨日掘り当てた泉から延びる仮設の水路が、朝日を割って細く光っている。畑をかすめ、納屋の脇を通り、共同水瓶の輪へ——音はささやき、匂いは清らか、空気は目に見えない薄い青色になった気がした。


「奥様、臨時の“分け前掲示板”を立てました」

 家令フーゴが木札を抱えて現れる。

「本日の割当——飲用、調理、洗濯、畑の潅水。順位は幼子と病人を優先。持ち出しは桶二つまで。記録は私が」

「ありがとう。……不公平だと思う人が出ないように、順番板も用意しましょう」


 侍女長ミランダは、赤子用の天幕を水路脇に張ってくれていた。日差しは柔らかい。私は抱っこの帯を整え、リィナを胸に固定する。

「さあ、“開通式”を見に行きましょう」


 村人たちが集まり始める。子どもたちが一番に駆けてきて、水面をのぞき込んでは歓声を上げた。

「“リィナの指さし泉”、ほんとうに名前になったんだ!」

「字は難しいから、絵の看板も作ろうね」と私は笑う。「指の絵と、しずく」


 水は、見ているだけで土地の音を整える。

 ここ数年、畑に増えていた灰色の病草が、途端に勢いを失い、代わりに薄い緑の“元気な草”が広がっていくのが分かる。土は、乾ききった心のように、最初の一口の水を飲んで、ほっと息を吐いた。


「流量、安定。落差を稼げるよう、堤と溝を交互に——」

 フーゴが手早く杭を打ち、若者たちに指示を飛ばす。

「旦那様、古い河道の線が拾えます」

「見せてくれ」


 エルンストは、いつもの冷静な顔で、しかし目だけは少年のように輝いて、広げた地図に身をかがめた。

「この丘の背を巻くように昔の流れがある。昨夜の雨量記録と照らして……よし、ここに分水栓。ここを越えると湿地になる。排水を別に逃がす」

「侯爵様は、本当に“噂の人”なんですか」

 思わず口をついた。

 彼は肩越しに、苦笑をひとつだけ返す。

「噂は、誰かが都合よく作る脚本だ」

「脚本は、書き換えられますよ。昨日、私たちが見せたみたいに」


 そこへ、町はずれの商人が鼻を鳴らして歩み寄ってきた。

「へえ、いい水じゃないか。侯爵さま、うちの樽で独占契約——」

「——いたしません」私はきっぱり遮った。

「“祝福の発見物は、皆のもの”。掲示板をご覧ください。権利の先取りは、祝福を曇らせます」

「奥様のご判断に従ってください」エルンストも淡々と続ける。「利益は共同基金に入れ、最初は灌漑に投じる。商いは、その後だ」


 商人は舌打ちを飲み込み、退いた。周りの空気が少しだけ、こちらへ傾く。

 私は胸のリィナをそっと撫でる。「ね、“ここ”は皆のものだよ」


 午前が深まるほど、水は領地の脈を目覚めさせていった。

 洗濯女たちが歌い、粉屋が石臼を点検し、鍛冶場の bellowsふいごが軽やかに鳴る。水音と仕事の拍が重なって、村はひとつの曲になった。


 正午の少し前、リィナがあくびをして、私の胸に顔を埋めた。

「今日は、ここまでにしましょう」

 ミランダが毛布を差し出す。

「奥様、お食事は軽く召し上がって。午後は屋内で休まれても」

「……少しだけ、倉に寄ってもいい?」

 ふと、胸の奥に浮かんだ地図の余白。昨日見た、古い道の痕。水が通れば、人も通う。人が通えば、次に必要なのは……。


「倉庫の在庫確認ですね」フーゴが頷く。「水路工事に使える材が残っているか」

「それと、古い紙類。地図や、種の袋。水と道が戻れば、次は“何を育てるか”です」


 侯爵邸の西倉は、埃と歴史の匂いがした。

 私はリィナを天幕ベッドに寝かせ、そばで仔山羊ピピに見張り番を頼む。ピピは生意気に頷いた(ように見えた)。

 棚を一本ずつ開ける。錆びた釘、縄、割れかけの桶。

「紙類は——」

 ミランダが箱を引き出しかけて、苦い顔をする。「湿気でだいぶ」

「乾かせるものは乾かして。読めるだけ読もう」


 埃が舞って、午後の光が斜めに切れる。

 そのとき、天幕から、寝入りばな特有の小さな声が落ちた。


「……ここ」


 私は反射で振り向く。

 リィナの指先が、眠ったまま、ぴくりと持ち上がっている。

 指す先は、倉の最奥。鍵の壊れた棚。板が一枚、歪んでいて、隙間に布が覗いている。


「フーゴ」

「承知」


 板を外すと、薄布に包まれた筒が出てきた。

 開く。古い羊皮紙。色の抜けかけた線が、しかし驚くほど精密に、丘と谷と川筋を記している。左下には、王朝初期の印。

「古王朝の地図……!」思わず息が漏れた。

 しかも、筒の底から、もうひと包み。

 開けると、乾いた小さな音がした。茶色い粒。種だ。封蝋に、薬草師の刻印が残っている。


 エルンストが黙ってそれを受け取り、光にかざす。

「品種は……睡香草すいこうそうと、銀苔ぎんごけ、そして鶯の薬葉。干魃かんばつに強い組み合わせだ」

「水が戻り、道が見え、種が揃った。順番が美しいですね」

「順番を整えてくれるのは——」エルンストは眠るリィナを見た。「あの小さな指だ」


 私は胸の前で両手を重ねた。

「“見つけたら、皆で分ける”。約束、今日も守りましょう。地図は写しを作って掲示板へ。種は分割して育苗。最初の収穫は共同の薬箱へ」

「記録に残します」


 倉を出ると、外の風は朝よりも優しく、村の空気は一段明るくなっていた。

 水が土地の魔素を整えたのだろう。人の顔色まで良い。

 私は天幕からリィナを抱き上げ、頬をそっと寄せる。

「ありがとう。“ここ”のおかげで、みんなの一日が軽くなったよ」


 リィナは、眠ったまま、口角を上げる。

 指は、まだ少しだけ、倉の奥の気配を指していた。

 ——祝福は、眠っていても、働いているのかもしれない。


 夕方、掲示板の前に人が集まる。写した古地図を囲んで、道具の貸し借り、明日の持ち回り、歌の練習まで決まっていく。

 噂が、別の噂に塗り替わる音がする。「侯爵家の赤ちゃんが、“ここ”って言うたびにな——」

 脚本は、確かに書き換わりつつあった。


――――

今日の義娘:胸の中でうとうとしながら、夢の“ここ”を指さし。寝ても働く、えらい指。

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