番外編 春のはじまり、控室は列車に乗る
春は、芽吹きの音が聞こえる季節だ。
畑の端で睡香草が薄い紫をほどき、銀苔は朝露を抱いてきらりと震える。丘の上では仔山羊ピピが“巡回主任”の顔で歩き回り、赤白の杭を鼻で確認しては得意げに鳴く。
噂は痩せたまま戻らず、かわりに“やり方”が太っていく。
掲示板には「危険告知板・春版」、評議室の壁には「橋の流水量と通学路」の地図。
そして——王都から届いた新しい文書。
《母子控室・常設化、各都市の駅(停車場)にも試行》
人が最も行き交い、最も不安が生まれやすい場所。そこに、椅子と水と清潔布と針と絵札を。
「行きましょう」
私は抱っこのリィナと、ミランダ、フーゴ、ルド、それからピピを連れて、春一番の列車へ乗り込んだ。
王都と領地を往復する“灯りの使節団”。車輪は規則的に拍を刻み、車内は期待と不安が混ざる匂い。
停車場は、音の海だ。呼び声、汽笛、靴音、別れの泣き、再会の笑い。
私は深呼吸し、いつもの順番を置く。
——水、椅子、布、針、絵札。
掲示板の位置、危険告知板のひな型、寄付箱の封緘色(蜂蜜)。
係員の目が「初めて」を脱ぎ、手が「いつもどおり」を覚えていく。
そこで、最初の泣き声。
幼い男の子が、ホームの端で耳をふさぎ、しゃがみこんでいる。汽笛が怖い。
母親は荷物で両手が塞がり、どうしていいか分からず真っ青。
私は抱っこを少し下げ、リィナに囁く。「助ける“ここ”はある?」
彼女は汽笛の余韻を一度、胸の中で丸めるみたいに瞬きをして——
「……ここ」
指は、柱の陰の“静けさの窪み”を示した。
私は親子をその窪みに誘導し、耳当て用の柔らかい布と、ゆっくり数える絵札を渡す。
「拍を合わせましょう。一、二、三——」
男の子は絵札に合わせて指を動かし、泣きが呼吸に変わる。
汽笛は汽笛のまま、怖さだけが薄くなる。
控室の扉には新しい標識を掛ける。
《泣いてもいい部屋》
字の下に、笑った顔と泣いた顔の絵を並べる。
泣きは失敗じゃない。拍を失っただけ。拍は見つかる。ここで。
午後、停車場の下見を終えた頃、黒い影が梁に止まった。
鴉だ。
あいかわらず無言で、ただ光を吸って青く光る。
私は窓枠に手を置き、囁く。「灯りは増えたよ」
鴉は一度だけ翼を震わせ、空気の継ぎ目を確かめるように飛び去った。
帰りの列車。
車窓の外で、畑の緑が線になって流れていく。
エルンストは資料の端を整え、ルドは“光の文字盤・駅版”を描き、ミランダは控室の在庫表を更新し、フーゴは次の橋の工程表に赤鉛筆を入れる。
私は、抱っこの重みを心地よく受け取りながら、窓に映る三人と一匹と一人分の影を数えた。
家は車内にも出現する。拍がそろえば、どこでも。
そのとき、車輪の音がわずかに乱れた。
乗客がざわめき、車掌が走る。
リィナがぱち、と目を開け、窓枠の下を“ここ”。
私は立ち上がり、連結部の足元にしゃがむ。
緩んだピン。金具の磨耗。
フーゴが工具を取り、車掌と息を合わせる。
嵌め直し、固定。
揺れはすぐ平らになった。
「ありがとう」車掌が汗を拭い、ほっと笑う。「この拍で、遠くまで行ける」
「拍が崩れたときの“ここ”は、だいたい足元です」
私は冗談めかして返し、抱っこの額に口づけを落とす。
リィナは満足げに目を細め、窓の外の夕焼けを“ここ”。
夕焼けは、全員のもの。分け前の配り方を決めなくていい唯一の資源だ。
領地に戻ると、掲示板の前に新しい紙が増えていた。
情報屋の見出し《灯り、駅へ》。
材木組合の掲示《火の禁止手順・改訂》。
森番の絵札《クマに会ったら、目を逸らして、ゆっくり下がる》。
そして、ルドが貼った“光の文字盤・子ども版”。
字が読めなくても伝わる板は、春の陽に温められて、手のひらに木の匂いを移した。
夜。
湧水はいつもより少し高い音で鳴り、薬草の丘からはかすかに甘い香り。
私は掲示板に一枚、紙を足した。
《前例という名の今日——駅版控室の基準》
——椅子は肘掛けつき、数は最低四。
——耳当て布と、ゆっくり数える絵札。
——泣いてもいい部屋の札。
——寄付箱(蜂蜜色の封)と出納板。
——危険告知板のひな型(子ども絵つき)。
下に小さく書き添える。
《噂は暗がりが好き。列車は拍が好き。——灯りと拍を増やせば、遠くへ行ける》
リィナは眠りながら、天井ではなく、私とエルンストの肩のあいだを指した。
「……ここ」
両手で、いつもより確かに。
最終話のあとも、家は更新され続ける。
物語は“終わり”で閉じず、“今日”で続く。
灯りは、増えるたびに誰のものでもなくなって、みんなのものになる。
――――
今日の義娘:駅の喧噪で“静けさの窪み”をここ。泣いていい部屋の札に、指で小さな笑い皺。